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スサノヲだけがなぜ自由か

 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

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  • mmky
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回答No.2

「スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。」 と書かれているのでしょうが、明らかに違和感がありますね、何故なら黄泉の国(死の世界)を統治するのは神話上イザナギではなくイザナミだからですね。「スサノヲが母のイザナミに命ぜられてウナハラの統治を任せられた。」であれば話が合いますね。イザナギとイザナミは離婚していますから、勢力や思想的、宗教的な違いがあったと見るほうが自然だと思いますね。アマテラスは父側に付き、スサノウは母側に残ったが、母のイザナミに反抗し、追放された。その結果として自由を得た。と読んだほうが矛盾がないように思います。神話とはいえ、その当時を考えれば豪族の政略結婚だったでしょうから内部抗争はあったと見るべきですね。歴史の常で滅んだ側の歴史は勝ち残った側に断片的にのみ残りますので、話として主人が入れ替わって残ったのではないかと考えます。 というような見方もできるということだけです。参考程度に。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ この質問の性格についてですが:  端的に言って 古事記ないし記紀神話をあつかっていますが 文学カテでもなければ歴史カテでもなく 哲学カテで問うています。そこのところをくみ取っていただきたいと考えます。  つまりすでに一人ひとりの独自の読み・誰のでなくみづからの評価といった内容をあつかっています。  それゆえ  ★ 書かれている〔* ことからすれば〕 明らかに違和感がありますね  ☆ といった受け留めになるのは まづとっかかりとして 仕方がない。と考えています。  ただし 記事についての事実認識をめぐっても しっかりと共通の前提に立ちたいとは思います。  ★ 何故なら黄泉の国(死の世界)を統治するのは神話上イザナギではなくイザナミだからですね。  ☆ スサノヲに任されたのは 《ウナハラ・根のカタス国》などであったはずです。これを 死者の世界あるいは黄泉の国として読み替えた。こういう事情です。  イザナミは すでに死んで黄泉の国に逝った。そこへイザナキがおとづれた。というような文脈で出て来ますね。  スサノヲのウナハラは けっきょく人もいないのですから 死の国ではないでしょうか。あるいはつまり けっきょくつまらない場所をあたかも祭司となってつかさどる。――ゆえに 死の国として受け留めたものです。  ★ イザナギとイザナミは離婚しています  ☆ これは明らかに違うはずです。カグツチを産んだときイザナミは亡くなっています。夫のイザナキは その黄泉の国にまで出向いてイザナミに会いに行ったのですから 離婚の問題ではないはずです。  ★ アマテラスは父側に付き  ☆ 父イザナキからは スサノヲやツクヨミへの指令とともに アマテラスには 高天原を主宰せよという使命がさづけられました。以来 最高権力者です。  ・・・  こんなところでしょうか。    

回答No.1

こんにちは。 アマテラス・和魂(にぎみたま) VS スサノヲ・荒魂(あらみたま) だからじゃないですか。 スサノヲが高天原に登ってくるとき、 アマテラスはコワモテ(荒魂)の部分をみせますが、この立場をすぐに放棄します。 和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。 対して、スサノヲは、混沌を内に秘めている。 混沌だから、生も死もない、そこには善悪の区別も存在しない。破壊と創造の区別も存在しないし、これは同じこと。 すべてを飲み込み、包み込む。 イザナギ・イザナミがアメノヌボコでかき混ぜる前のより原初的な存在と言った方がいいのかもしれないですね。 神が「光、あれ!!」という前の存在。 最初から自由な存在。 神さまとしては、スサノヲの方が上手なんですよ、きっと。 そして、  「日本の神」 = 「和魂」+「荒魂」 であって、アマテラスとスサノヲのセットで語られるべきもんじゃないんですかね。 分けて議論しちゃ~、いけないんじゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。  ☆☆ スサノヲだけがなぜ自由か  ◇ アマテラス・和魂(にぎみたま) VS スサノヲ・荒魂(あらみたま) / だからじゃないですか。  ☆ ん? なんで? おとなしくやさしい魂は 自由ではないのですか? 自由にはなれないのですか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  スサノヲが高天原に登ってくるとき、  アマテラスはコワモテ(荒魂)の部分をみせますが、この立場をすぐに放棄します。  和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《コワモテ(荒魂)の部分をみせますが》というより ただただスサノヲの心をうたがい 疑いに疑いつづけ 自分の国を奪おうとしてやってくるに違いないと思って 自分も――女だてらに――武装した。だけではないのですか?  つまり 猜疑心の問題であり 人間不信のもんだいではありませんか?  ◇ この立場をすぐに放棄します。  ☆ 《立場》の中身が いま上に検討したように違って来ますが そのスサノヲをふつうに受け容れることのない極端な猜疑心・人間不信の《立場》は 最後までなくなりません。  どちらが間違っていないかを決める例のウケヒのときでも スサノヲが勝ったということであっても 決して その疑いを解いたりしていません。  だから スサノヲは その無関心という――ひとどうしの方向性を消してしまって愛関係を無くし無関心となった――態度と思想を批判して アマツ罪と呼ばれた不法行為をしたい放題にしまくりました。  なるほど それをアマテラスは とがめることもしなかった。むしろ 人びとがその罪をうったえても スサノヲを擁護した。  ただし けっきょくは 最後まで 不信を解くことはなかった。  人びとが スサノヲを高天原からカムヤラヒに追放したときにも 何も言わなかった。押し黙って 《人間として死んで》いた。  それを どうして  ◇ 和魂だから、アマテラスは、もともと、争わない神なんですよ。  ☆ と言えるのでしょう?  金持ち けんかしない に少しは似ていますが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~   対して、スサノヲは、混沌を内に秘めている。  混沌だから、生も死もない、そこには善悪の区別も存在しない。破壊と創造の区別も存在しないし、これは同じこと。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしそうだとしたら ウケヒをやる意味がありません。むしろ《計算づくの混沌》をよそおうのは アマテラス姉さんのほうではないですか。  おそらく――その判定は分かりにくいのですが―― ウケヒに姉さんは負けたんですよ!  それなのに 依然として精神は高ぶったまま高止まりしている。  《混沌》というより けっきょく人間以後で人間以上の過剰アマアガリした精神状態であったろうと考えられます。    スサノヲは ふつうですよ。大風を起こすというだけのことです。  ◇ 神さまとしては、スサノヲの方が上手なんですよ、きっと。  ☆ いえ。スサノヲは ふつうの人間なんです。    アマテラスが 異常なんです。くるっています。人間を飛び出てしまっています。  これが 現代の現在時まで 尾を引いて来ています。  そうではありませんか?

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     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。      *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  わたしは 《和を乱すな》と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった。と言えるか?

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか。咎めず人に対するに取り合わないその人格にこそ欠陥があるのではないか?  古事記などの伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので:      ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそう     しなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。アマテラスの批判――その人格批判――にまで到りたいとさえ考えています。          *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。  かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに:      アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に     坐(ま)して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時      〔スサノヲが〕その服屋の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)     を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に      天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を     衝きて死にき。(古事記・神代記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような破廉恥な事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。  こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど:       王はその宮からわたしの声を聞かれ     王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは:     〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の     ように 道をかける巨人のように躍り出た。     (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。      アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)     その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテ     ラスの神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと:     しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく      ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が      汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま      た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し      (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。     と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まず     て転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。あるいは どうも弟スサノヲに対するに まったく取り合おうとすることはなかった。           *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  《わたしは 〈和を乱すな〉と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった》と言えるか?  言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?  ☆ なお得られたご回答につきましては 疑問点と思うところについて納得するまで問い求めてまいりますので よろしくお願いいたします。

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?

  • 【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の

    【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。 民衆は神を讃え、統治者より神が偉くなり、統治者が神を制御出来なくなり、神を頂点とする世界に統治者は不要となった。 エジプト文明が滅びたのは神の力に頼ったから滅びたのですが、なぜこの世は過去に世界統一に失敗した神の力を未だに頼っているのでしょう。 エジプト文明は国民が統治者より神が偉いと思ったから国を統治者が統制出来なくなり滅びた。 違いますか?

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなお共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか?

  • アマテラスによる神勅は 独り善がりである

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  補論 § 5‐d アマテラスによるアシハラ統治を宣べる神勅は 独り善がりである。  1. 父イザナキは 子のアマテラスにタカ〔ア〕マノハラをおさめよと宣べた。タカマノハラ(高天原)は おそらく空の上のどこかの場であろうから この統治の委任は まさしく神話の世界での話であると捉えられる。それにとどまる。  2. ところが タカマノハラを主宰するアマテラスは ふつうの地上の国であるアシハラ(葦原)を その孫であるホノニニギに治めなさいと宣べ伝えた。この統治委任は 無効である。または 独り善がりであって 部分的にしか有効ではない。  3. アシハラにはすでにスサノヲの系譜でもあるオホクニヌシが住んでいる。無主地ではない。先占の法理にかなわない。  4. いや だから よこせとは言ったが オホクニヌシらが 《くにゆづり》をしてくれたのだと言うのなら そのホノニニギの統治権は ゆづられたものである。アマテラスの統治せよという委任によって 有効となったのではない。民主的な話し合いによる。アシハラの人びとの善意によるものだ。いまもその恩恵の上にある。  5. けれどもしかし それは このアシハラの土地の中でも オホクニヌシらのほかの先住民であるアイヌの人びとのことが まだ問題である。けっきょく ゆづられていないので 征服した。ただそこはおれたちの土地だと言ってだだをこねつづけた頑固一徹の単なる帝国主義である。民主主義に悖った。無効である。  6. あの島々は 昔むかし大昔に 天命によってわれわれの天子がおさめることを任された土地だ。きさまらが何を言うか。返せ。出て行け。だまって言うことを聞け。うんぬんと言ってごり押しするのは 有効か?  7. 王権神授説は 有効ではない。ただの精神錯乱である。ローマ教会も 右に同じくだ。  行き届かず到らぬところを よろしく ご教授ください。

  • 記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後

    記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後世の人に知らしめる ことが第一であったとおもうのです。が、その神代記載の一部ですが アマテラスとスサノオの経緯の理解が出来てません。そこで お教え頂きたいのですが。 乱暴者のスサノオに対しアマテラスは身を隠したりまた出てきたりしますが 直接にはスサノオには手を下しません。高天原の神々の総意で 出雲に追放となり、そこではスサノオは どういうわけか 勇敢な善人となります。物語は 以後オオクニノヌシへと移ります。 私が思うにイズモのスサノオはアマテラスに徹底して前歴の悪行の数々を謝り アマテラスはスサノオを許す 物語があってよいとおもうのです。そこで皇祖アマテラスの心の広い正統性が示されるとおもうのですが どうも徹底してないように思えるのです。 アマテラスの正統性を示すことに関して なぜ スサノオの扱いが徹底してないのか 記紀成立当時の事情を含め どなたか説明頂ければと思います。私の勉強不足は ご容赦ください。