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神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

 一口メモによる情報交換です。  1. 神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだというクレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?  4. 神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだというあやまちに落ち入っているのではないか?   5. いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?

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  • Nakay702
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回答No.18

「お礼コメント」を拝受いたしました。 >>神は、つくられた途端に一人歩きをし始めるから、製作者の思いのままにはならなくなります。 >神の場合は つくっているとき・あるいはつくったあとで それをやめればいいし 削除してしまえばよい。とは思うのです。どうでしょう。 ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。 「神は、つくられた途端に一人歩きをし始める」とは、すなわち、「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。これを称して、ちょっと舌足らずでしたが、「一人歩き」と表現し、それに込めたつもりでした。 >>人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の一つである、と考える次第です。 >それは 哲学においてにしろ・ふつうの生活の中で必要に応じてにしろ神をつくる場合でなくても つまり信仰の場合にあっても 当てはまる。ことでしょう。 ⇒まあ、そうでしょうね。ただ、信仰の場合はおもに「自分にとっての要不要」の基準を重視し、哲学の場合は「人類にとっての正不正」の基準に依拠してそういう考えを抱く、という色合いの違いがあるかも知れませんが。 >>不可知論に陥って探求を放棄してしまうようなことのないように、「(神への)>不可知とは 《知り得ないと知ったこと》ですよ。数学などでそういう定理か何かがあるみたいです。 ⇒数学の世界ではそういうことも可能かも知れません。しかし、現実世界は全然違うでしょう。どうやって「知り得ないと知った」のですか。それこそ、「早すぎるあきらめ、思考停止、考え違い、独善、背徳、宇宙の理法や哲理への背信…」ではありませんか? しかも、現象の世界だけが分かるように思っているけど、実はその現象世界は、不可知と決めつけられた本体的存在から由来しているわけでしょう。根元を「知り得ないと知った」と決めつけ、切り捨てておきながら、「それに由来する末節は知り得る、とか知った」と言うのは、軽率であり、短絡的に過ぎませんか? >   ○ 神は《非知》である。~~~~~~~~~ >   経験事象 >     可知 >      既知 >      未知 >     不可知 (知り得ないと知り得たことがら) >   非経験の場 (として想定するもの) >     非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ) ⇒何度か目にした記憶のある語句です。 しかし将棋の駒は、箱の中では、パラダイムとしての、可能性のみの意味しか持たない駒の集合体(=連合体)に過ぎません。それは盤上に並べて初めてシンタグマティックな、有機的な意味を持つ機能体(=統合体)となりますね。 我々は、おそらく多くの部分を共有しているとは思いますが、このような語句の羅列は、少なくとも私にはよく理解できず、統合体としての意味がいまいち把握しきれません。一言も触れなかったのは、というか触れることができなかったのは、そういう理由からでした。 >神は もともと《探究》をしても 人間の能力と努力とだけによっては ついぞその成就はかなわない。それが 《非知》である。 ⇒お互いに解釈上の行き違いがあると思います。「神を探究する」という意味ではなく、「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。 >もし《「神がなくなれば全てのことは許される」》というのなら その神こそは 《人間のつくった観念の神》です。 >道徳の神がなくなれば 不道徳がはびこる。ということでしょう。 ⇒というより、「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。 共存と規範の共有とは切り離し難くついて回ります。共存する者の遵守すべきことの一つは、「共通の規範に服すること」、と言えます。このことを別言して、小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」を持たない証拠で、「私が法律だ」というのと似た振る舞いだと思います。 >不道徳行為について ほかの人たちも 法律による措置のほかは何も出来ないとすれば その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界である。と考えられるのです。 ⇒社会現象としては、おっしゃるように、「その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界」である、ということでしょう。そのとおりでしょう。 しかし、この場合は「個々人の道徳観」の問題です。ドストエフスキーは、アリョーシャをして、“「神が死んだ」ので、空席になったのを幸いに「神の鋳型に自分をはめ込む」(サルトル)なんて愚行をしないように、「自己神格化」をしないように”という自戒の念を語らせたのです。 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。 >見えざる神の存在(非在)ゆえにこそ 人間は 相対性なる見方を持つことができます。よって人びとは 自由な共生という命題を自由に持ち得ます。 >《契約》は 仮りのシルシでしょう。補助線でしょう。 ⇒ここ、異論ありません。少なくとも、このくだりに関しては「議論がかみあっている」と思います。他にも「かみあっている」ところはあるに違いないでしょうね。けれども(有名なフロイトとユングの間ほどではないとしても)、特に語句の定義などについては、「大いなる行き違い」があるように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 なかい702さん こんにちは。 ご回答をありがとうございます。  さて どういう流れになりますやら。  人間が考えてつくった観念の神なら:  ★ ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。  ☆ これは たぶん出来ないのではなく 削除したくないのです。想像力のおもむくままに拵え上げた神は たとえその観念によって自分が振り回されたとしても かまわないし むしろ そうなって欲しいとすら人は願っているのではないでしょうか。  なぜなら ほんとうの神を見失ってしまったと思っているからです。信じる=無条件に受け容れる。義無きを以って義とする。聖なる甘え。きよらかなおそれ。これらを知らない心的身体的状態になってしまった。・・・  ★ 「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。  ☆ これは そのように欲し実際に画策し奔走する人間たちがいるからです。これを 公民志向のアマテラス族と言います。つまり要するに 社会を二階建てにしようとする動きです。またそれを保守する動きです。対内的な帝国主義的運動です。これを 個人に即して捉えるとアマアガリと言います。(アマクダリの逆ですから 分かりやすい)。  要するに このアマアガリ・シンドロームに罹ると あそこの島は もともとわれらが所有になるものなり。行って アマテラシテ( l'amatérasité; das Amaterasität; amaterasity; lo amaterasitad )なる徳の下に人びとを言向けやわせと勅(みことのり)します。すべては この神勅から始まる物語のもとに推移することになります。  《神》をつくり その神を体した人間が現われ そのミコト(御言)が宣せられたなら ことはすべてそのように運ばれる。《要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる》。クウキのことです。  むろん そういう《観念の神の独り歩き》が アマアガリ――ひとつの社会勢力が他の勢力や人びとを飲み込むという単独分立を経て 全体的に徳による感化をつうじての独裁制を敷くこと――のために大いに欲せられ望まれるものであり じっさいにその神操作を行なうものではあっても これを中止するとか削除する気遣いはなくなります。  ですから ちなみにこのような観念の帝国主義を基礎として成り立った社会は じつは もろい。なぜなら 別の同じような武力と嘘の帝国主義とどっこいどっこいだからです。あそこの島は 悠久の昔からわが国の領土なりと宣せられたなら アマテラス帝国のほうは 抗弁する理由がなくなります。(現行の実効支配も もとはと言えば かの神勅より発しているものだからです)。  すなわち これらはまさに観念の神によるオママゴトであります。千五百年もあるいはあちらでは何千年もつづいているようです。  第二段の相互全面破壊を避ける考えがあることについては もうそのままとします。    第三段。不可知が要らないとしても こちらは構いません。手間が省けます。問題は 非知ですから。  第四段。  《非経験の場 (として想定するもの)》であるとか《非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ)》という説明が 理解できないというのは おかしいと思います。  《観念の神》ではない神が想定され人びとは 自由にその神をいだくことができるという意味です。すなわち 良心・信教の自由という公理です。――これが 理解できないというのは おかしいです。  第五段。  ★ 「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。  ☆ それですと そういう問題として受け取られるでしょうが この質問における《神は人間がつくった》説の検討とは別ですね。    《神に「一時預かり」》と言っても 探究の過程でエポケーしたということと同じであるはずですから 神の問題ではないと思われるのです。  第六段。  ★ 「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。  ☆ これは 分かりづらいですね。《道徳原器》というのは 人間の自然本性にそなわった――潜在性としてでもの――人間性(人間関係性)でしょう。《共通規範》は 言ってみれば たとえ法律が敷かれていても つねに一部の人びとのあいだで失われています。  ★ 前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。  ☆ ですから その神は 観念の神として《判断基準の原器》だと仮りに見なされているだけのものです。《原器》は ひとの身と心すなわち自然本性に――潜在性としてでも――あるというのが やはり公理なのではないですか?   信仰としては アートマン(霊我)・ブッダター(仏性)・ルーアハ(神の霊)等々という《原器》を立てますが 同じことでしょう。  つまり この場合は 人間が観念の神をこしらえる前から《非在》として存在していたと想定する神ですから その霊は うつろいゆくことのない原器です。想定としてですが。  観念の神は 消えてもかまいません。作成のときにすでに削除しても いいわけです。何ら問題は生じません。むしろそれを作成することのほうが 問題です。インチキの神を持つに過ぎないからです。  ★ 小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。  ☆ そんな大げさなことはないですよ。ムラが出来て人びとが共同生活を始めたなら その社会は 経済的にも心の問題としても 共同自治が成り立って行きます。そして確かに その人間関係ないし社会関係における問題の処理は 人びとそれぞれの心のあり方をとおして ナラハシとなってまたオキテとされて むしろ自然過程として行なわれて行くと言ってもよいくらいだと考えます。  そこへ 七面倒な《観念の神》を 守るべき倫理規範として持ち出すのは アマアガリ症候群に罹った人間たちです。しかも この観念の神が消えたら おまえたち庶民は 人間的な倫理ということすら知らないぢゃないかとさえ嘯こうとします。王化の徳をおぼえなさいとしきりにほざきます。いまも そうでしょう。本を書けばよいってなものではないでしょう。本に書けば それが 世界認識として妥当であるとは限りません。  ★ 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。  ☆ そういう人もいますが そのとき第三のグループもいると知らねばなりません。アマアガリの大将たちは 人びとの自由を奪うために自分の主義主張をうったえこれを実現しようとするのではなく あくまで お節介であろうとも 人びとの自由と安寧を守るためだと見てあげなければならないとし このことは百も承知な人びとが 第三グループであり さらにはそのお山の大将たちは やはりアマアガリ・シンドロームに罹っているとは見ています。  すなわち アマテラス志向の人間というのは 自分がこしらえた自分の神が これこれこう言っているからには おれはその神に従わざるを得ないのだと その神は自分がつくったということを忘れて 叫び続けるというものです。ほとんどビョーキです。自分に催眠術をかけているわけです。そんな神は インチキの神だと言ってやっても 聞く耳を持たないというのが アマアガリ症候群です。ビョーキです。  ですから アマテラス公民たちお二階さんは 一階の市民社会にいづれ大政奉還をしなければなりません。  ★ 自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」〔は 生まれつきそなわった自然本性であると知らず または知っても自分をごまかし 忘れてしまい この原器〕を持たない〔という思想に立ち〕[・・・]「私が法律だ」――あるいは わたしが神だ――と〔言ってお節介をすると〕いう[・・・]振る舞いだと思います。    第七段  アリョーシャについて:  ★ 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。  ☆ これは 《神にいてもらう》画策をしているわけです。政治的運動をおこなって その思想を普及させようとしています。あたかもそれをする《われは 神なり》と言わんばかりになって。アマアガリ・・・。  ★ 「自己神格化」をしないように”という自戒の念  ☆ を語る者は ただしく神聖なる人間だと言わんばかりに。そういうアマアガリ政治運動であると見ざるを得ません。なぜなら 観念の神は ただちにポイと捨てれば済むことなのですから。  さて  ★ 「大いなる行き違い」  ☆ は どこまで埋めることが出来たでしょうか。

その他の回答 (21)

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.22

stmimです。質問したいことが2つあるのですがよろしいでしょうか? >(け) 《神は存在しない》と言い表わす場合というのは 《無い神を受け容れている》というひとつの信仰形態を言います。いわゆる無神論としての信仰です。 《無い神を受け容れている》というのが私はひっかかるのです。 私は神は存在しないと思っていますが《無い神を受け容れている》という気がしないからです。 1つ目の質問は以下のものです。 まず仮想実験を考えてみました。 私が空の弁当箱を手にもっていたとします。そして「この弁当箱の中に神はいない」と言ったとします。 この時の解釈は「弁当箱の中の無い神を受け入れている」ではないですよね。 ただ、単純に「その弁当箱の中に神はいない」と私が思っているのだとbragelonneさんは解釈しますよね。 もし箱が地球全体が入る大きさで地球を入れたものだったとします。 私が同じように「この箱の中に神はいない」と言ったら、どのような解釈をしますか? さらに、箱が宇宙が入る大きさでその中に宇宙全体が入っているとしたら、「この箱の中に神はいない」という私の言葉に対して、それは「箱の中の無い神を受け入れている」という解釈になるわけですよね。 自分としては3つの箱に対して同じ意味で「神はいない」といっているのに、箱の大きさによってbragelonneの解釈が変化するのが不思議な気がするのです。 もう1つの質問は、もし私は「妖精はいない」「ドラゴンはいない」といった場合にそれは「無い妖精を受け入れている」「ないドラゴンを受け入れている」という風に解釈されるのかどうかという点です。私にとっては、存在しないという意味では、神とドラゴン、妖精は区別できないのですが、そこに区別があるのかどうか知りたいです。そして区別があるとしたら、どういった点で区別ができるのか知りたいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ご趣旨を受け取ったところについてこちらの考えを述べてまいります。  ★ 私は神は存在しないと思っていますが《無い神を受け容れている》という気がしないからです。  ☆ これは なぜそうなるか――わざわざ何故そんな七面倒な言いかえをするか――ですが 簡単です。   (し) 神は存在するとも存在しないとも 人間が証明することはかなわない。  からです。《存在する》の場合もその論証も実証も 人間には出来ません。おのれの主観真実として 存在する――あるいは存在しないという場合もけっきょく同じことになるわけですが――と思うことは まったく自由でありしかも現実であり得ます。  すなわち それも証明は出来ないので証明抜きにおいてなのですが人類のあいだでは    (す) 良心・信教の自由という公理  として そのように主観真実は まったく自由でその内容は現実であり得ます。  つまり 神は存在しないと思っているその主観真実は 神は存在すると思っている主観真実とまったく同等に自由かつ現実性が保証されています。  だったらこのことは 哲学として交通整理をするなら――それが哲学の役目のひとつですから――   (せ) 神は 人間にとって 存在すると思う場合と存在しないと思う場合とがある。   (そ) 存在派(すなわち 有神論)と不存在派(無神論)とが 神とわれとの関係にかんしては 自由に無理なく必然的に正当にも みちびかれて来る。   (た) これを交通整理して 神は 《有る神》をいだく場合と《無い神》をいだく場合とに分かれる となる。  もっとかんたん・単純に言うなら 《無い神を受け容れいだいている》というのは 《神は存在しないと思うから 受け容れていない》という意味になっています。  受け容れていないのに 詭弁を弄するように《無い神を受け容れている》と言いかえるのか?  《神は存在しない》という命題は 《神は存在する》という命題(この場合は 言葉どおりに《受け容れている》と言うことに違和感がない)と同じく 証明しようがないからです。  言いかえると    (ち) 神について人間は その信仰(われと神との関係過程)を 証明抜きで持つことになる。   (つ) その内 神は存在しないと思っている場合には その言葉にしたがって《神とわれとの関係》は そのように不存在派=無神論を採用したあとでは もはや無いと〔その人は 主観真実として〕承知している。   (て) 主観真実が存在派=有神論を採用している場合は 《神とわれとの関係》が発生し存続していると その主観真実の内において承知している。   (と) ですから どちらも《神とわれとの関係》は われが実存として生きるにあたって それぞれ出発点と成っており 出発点で神を採らない・もともと捨てている場合にもそういうかたちの《信じる》を基礎としている。なぜなら そう《思う・考える》であることに間違いはないが その《神は無い》という思いや考えは 証明できないのだから これを《信じる》と言うことになる。   (な) 《神を受け容れない》は その主観真実を意志においてえらんだのであるが その内容の〔唯一性としての〕妥当性を証明し得ないからには 《考える》だけではなく《信じる――無条件に受け容れる――》ことをやはりおこなっている。  ここに出しておられる次の事例とは違うはずです:  ★ ただ、単純に「その弁当箱の中に神はいない」と私が思っているのだとbragelonneさんは解釈しますよね。  ☆ なぜなら《弁当箱》の問題は その中に何が有るか無いかは 人間の視覚が間違わないとする限りで いづれかにはっきりするからです。中にものが有る・無いは 見て分かるということになっているからです。  ただし 神の場合は 弁当箱という場には限らずこの世界において目で見たとき 視覚に関する限りでは《無い》となります。  心の目で見ても 一般に《無い》です。  ただし 《有る》と思うこともじつは 自由です。  つまり 神については 視力やその他の知覚能力によっては無いということになるのだが 心の問題になると 有ると思う場合があり得ます。有るというのは 証明することが出来ないのですが 心の問題となると 無いという証明も出来なくなります。  このことは つづいての議論で出されている《箱の大きさ》にかかわらず当てはまるものと思いますよ。  ★ もう1つの質問は、もし私は「妖精はいない」「ドラゴンはいない」といった場合にそれは「無い妖精を受け入れている」「ないドラゴンを受け入れている」という風に解釈されるのかどうかという点です。  ☆ これは 《妖精》や《ドラゴン》を 神として思っているかどうかで違って来るはずです。  神として思っているかどうかを問題にするのでなければ 《無い妖精を受け容れている》かどうかは――つまりそういう言いかえをして交通整理をするかどうかは―― どうでもよいことである。となっているはずだからです。  このような:  ★ 区別があるとしたら、どういった点で区別ができるのか知りたいです。  ☆ 《神とわれとの関係》が 一度は自分の思いと同時にさらには《信じる(受け容れる)》という意志行為をおこなうことになる言わば決断の問題になっているからです。  妖精という名の神であれば その問題に入りますし そうでなければ単なる想像の世界での趣味にとどまります。  神とわれとの関係が どうしてそんなに重要であって問題となるのか?  《かみ》という言葉を どこの民族=言語でも持って使っているからです。  使っていても死語同然であれば もはや《信じる》は問題になりません。過去の人類にとってだけの問題になります。《考える・思う》だけで片がつきます。  あるいは 神と言ったって 妖精やドラゴンの場合と同じだという見解が 広く人間にとって普遍的な命題として受け容れられるのなら やはり問題にはもう成りません。過去の遺物です。  どうでしょう?  ここでは 無神論の立ち場に立って考えてみましょうか。  とすると こうなります。世の中には《ともかく神という言葉に反応して その神を心に受け容れておりそのようなわれと神との関係を保ちつづける》場合がある。この事態に対して どう対応するか?  そんな《信仰》などというものは 意味が無い。過去の遺物だ。   と言ったあと ( a ) 相手がその信仰派だったら やめるように説得するか ( b ) 何もせずに放っておくかになるはずです。  ( b )の場合にも 信仰派とこの世界にあって共存し共生することが じつは課題である。なら どうするか?  つまりは 普遍的な理論として《神》論を哲学して交通整理する必要がある。のではないでしょうか?  信仰派が ドラゴンと神とを区別しているかぎりで 区別したうえで神論を築かなければならないのではないでしょうか? それとも 区別する必要はないという理論を建てますか? 建てられますか?  たぶん そのときには 《心は無い》という議論として間接的に《神とドラゴンとの区別は無い》を論証することになるのかも知れません。  ★ さらに、箱が宇宙が入る大きさでその中に宇宙全体が入っているとしたら、「この箱の中に神はいない」という私の言葉に対して、それは「箱の中の無い神を受け入れている」という解釈になるわけですよね。  ☆ つまり 信仰派――心は大事だ派――から見れば 宇宙大も微塵大(微塵小)も同じだとなるのだと思われます。そこをクリアしていただかないと 納得しないでしょうね。  とりあえず ここまででしょうか。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9720/12091)
回答No.21

再度「お礼コメント」をありがとうございました。 前便は締めくくりませんでしたので、たくさん書いてくださったのに対しては内容の薄い返信ですみませんが、再伸いたします。 >>「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。 >これは そのように欲し実際に画策し奔走する人間たちがいるからです。これを 公民志向のアマテラス族と言います。つまり要するに 社会を二階建て にしようとする動きです。またそれを保守する動きです。対内的な帝国主義的運動です。これを 個人に即して捉えるとアマアガリと言います。(アマクダリの 逆ですから 分かりやすい)。 ⇒アマクダリの逆の「アマアガリ」ですか、知りませんでした。このあたりのこと、私はとんと疎くて、申しあげる事柄も言葉もみつかりません。 >第三段。不可知が要らないとしても こちらは構いません。手間が省けます。問題は 非知ですから。 ⇒この段あたりは、blagelonne様にとっては、旗色悪いのと違いますか? >《観念の神》ではない神が想定され人びとは 自由にその神をいだくことができるという意味です。すなわち 良心・信教の自由という公理です。――これが 理解できないというのは おかしいです。 ⇒そういうことですか。文字的な意味は了解しました。ただ、自分の文脈の中にうまく位置づけることはできません。 >《神に「一時預かり」》と言っても 探究の過程でエポケーしたということと同じであるはずですから 神の問題ではないと思われるのです。 ⇒エポケーといっても、単なる思考停止ではありません。その段階では人知をもってしては解けないけど、放擲するのでなく、あとで再挑戦するときのためです。古代の懐疑論者たちのとったepokeも、これと通底する実践的態度だったでしょう。 >《道徳原器》というのは 人間の自然本性にそなわった――潜在性としてでもの――人間性(人間関係性)でしょう。 ⇒自然法と言ってもいいかもしれません。 >その神は 観念の神として《判断基準の原器》だと仮りに見なされているだけのものです。《原器》は ひとの身と心すなわち自然本性に――潜在性としてでも――あるというのが やはり公理なのではないですか?  ⇒「性善説を採れば」という条件つきで、認めます。 >《神にいてもらう》画策をしているわけです。政治的運動をおこなって その思想を普及させようとしています。あたかもそれをする《われは 神なり》と言わんばかりになって。アマアガリ・・・。 ⇒これは、ちょっと穿ちすぎ、という観なきにしもあらずかと…。 >>「大いなる行き違い」 >は どこまで埋めることが出来たでしょうか。 ⇒5,6合目あたりでしょうか。それでも、それなりに「楽しませていただいた」とは思います。(あと2~3合分上昇できれば、バンザーイ! てとこですね。) ま、ありがとうございました。 (<Q>) (←私製「アリガトマーク」です。)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  本論第一パラグラフ。  アマアガリやそれのシンドロームや何やかやのあたらしい哲学ばかりですみません。  第二パラグラフ=第三段。  不可知について 数学の定理などを知りません。それゆえ 防戦一方になる事態だということなのかも知れません。  問題が 非知であることには 変わりありません。  第三パラグラフ。  良心・信教の自由なる公理は 神が――人間のつくった観念の神ではなく そうではなく―― 《非知 すなわち 知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ》ゆえに成り立つものと考えます。  観念の神あるいは哲学の神が成り立つのは 思想の自由や表現の自由に立つ場合です。そちらの方面または次元だと見ます。  第四。  エポケーは 思考《停止》ではないですよ。または それでは あいまいだと思います。《中断》したという意味であるはずです。《停止》という表現をしたとしても そのあとまた思考を再開しますから。  第五。  《道徳原器》は  ★ 自然法と言ってもいいかもしれません。  ☆ ならば 人間がつくった想像の産物ではないでしょう。  第六。  ★ 「性善説を採れば」という条件つきで、認めます。  ☆ 前項で《自然法》が推し出されたのならば 性善説・性悪説は関係ないと思うのですが。  第七。  アリョーシャの神論が 政治的権力闘争のもとにあるという見方。  ★ これは、ちょっと穿ちすぎ、という観なきにしもあらずかと…。  ☆ そうだとしても 問題は 《神は人間がつくった》説を反駁するひとつの傍系の議論になっているかとは考えます。《政治的運動》よりほかにほとんど積極的な神学および哲学だと見る解釈は 見出しがたいとすれば。  末尾。  大いなる行き違い。・・・を埋めるひとつの説明です。  アマテラシテは――抽象名詞ゆえに―― 《象徴》であり じっさいには《天皇》だけではなく《国王》にも対応しています。  あるいはまた アメリカ大統領は 第一アマテラス(為政者)であると同時に アマテラシテをも兼ねています。  そういう大統領制はありますね。フランス。  ドイツは 第一アマテラスとアマテラシテとが 分離しています。  《スサノヲ市民 - アマテラス公民 + アマテラシテ元首》の分離・逆立する連関制です。  この逆立ちを逆立ちさせる動きが これからの民主制への動きではないでしょうか。  ★ (<Q>) (←私製「アリガトマーク」です。)  ☆ 《 Q 》の文字は なにゆえ?

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.20

神は人間がつくったものに過ぎないという人は、神は本当は存在しないと思っていますよね。 それとは別に神は存在すると信じている人もいますよね。 神を信じている人にとっては、信じていることによる効能があったりするわけです。 例えば、神様に愛されている気がして安心するとか、救われた気持ちがするとか。 神が存在しなくても、信じることによって、そうした効能がでるわけです。 (効能がない人もいるかもしれませんが。) だから、信じたい人は信じたい神を信じて、それでそれが何か役立てばいいのじゃないですか? 効能があるなら、本当は存在しないことなんて気にしなくていいと思うのです。 効能があるのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神は人間がつくったものに過ぎないという人は、神は本当は存在しないと思っていますよね。  ☆ だいたい そうでしょうね。少数の場合としては 《ほんとうの神》については どうでもよいと思っているか または 存在する・しないについて無記としている(答えるつもりはない)かだと考えられます。  ★ それとは別に神は存在すると信じている人もいますよね。  ☆ ここは 神についての哲学としてげんみつを期してまいります。  次のように言いかえたい。:    (あ) 神を信じている(無条件に受け容れている。何を? 神という言葉またはそのブラフマンならブラフマンという神の名を である)場合は 神は存在するという人間の言葉による表現形式をもって おのれの《信仰という動態――非思考の庭と言っていますが――》を説明する。    ★ 神を信じている人にとっては、信じていることによる効能があったりするわけです。  ☆ これは 次のようであることを意味します。:  (い) 信じることによって得られる結果については 本人の主観の内部にあって いろいろに捉えられる。そのような因果関係は 何もないと見る場合もある。    (う) 信仰の効用については――繰り返し述べますが―― あくまで主観の問題にとどまる。ほかの人たちとそれについて話し合ってもむろん自由であり構わないが その話し合いの結果を共通の・共同の主観とすることは 意味を成さない。検証しようがないからである。  (え) 《非思考の庭――信仰――》と《思考や感性の経験事象にかかわるよき・またあしき出来事》とを 因果関係で結ぶのは 基本的に言って 筋がちがう。  ★ 例えば、神様に愛されている気がして安心するとか、救われた気持ちがするとか。  ☆ これは あり得ます。主観の問題です。  (お) (え)の因果関係としての筋とは違って信仰の発進のあとにというだけのこととしては 心のやすらかさであるとか のぞましき境地の成就だとかその他その他の心的身体的また経済的現象が――主観の見方として―― 得られたという気持ちを持つことがあり得ます。  ★ 神が存在しなくても、信じることによって、そうした効能がでるわけです。 / (効能がない人もいるかもしれませんが。)  ☆  これはですね。  (か) 《信じることによって》というよりは(え)で見たように《単純に信じたあとのこととして》 よきことが起きているという気持ちになることがある。ということでしょうね。  (き) そのよきことを 《効能》と見るかは 人それぞれだと言うよりほかないと思われます。  (く) ですから (あ)の内容を次のように言いかえることが出来るはずです。  すなわち 神を信じる場合には 神が存在すると表現してその信仰の中身を説明する人もいれば そうではなく 神は存在しないと言い表わす人もいる。こうなります。  (け) 《神は存在しない》と言い表わす場合というのは 《無い神を受け容れている》というひとつの信仰形態を言います。いわゆる無神論としての信仰です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  だから、信じたい人は信じたい神を信じて、それでそれが何か役立てばいいのじゃないですか?  効能があるなら、本当は存在しないことなんて気にしなくていいと思うのです。  効能があるのですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ゆるい見方として・また結果として だいたいそう言っていいのではないでしょうか。  (こ) 経験事象としての効能が 非思考の庭と直接につながっていると言うのは 言い過ぎでしょうが それでもその見方は それぞれの主観としては 成り立ち得る。からです。  (さ) ですから 哲学としては:   ( a ) 神は想定されており 人によって《有る神》か《無い神》かで言い表わされて 受け容れられ信じられる。   ( b ) どちらの神にしろ神を受け容れたときには わが心に《非思考の庭》が成る。これが 《信仰の動態》であり 哲学としての定義となる。   ( c ) 非思考の庭における《動き(?)》が 思考や感性として成り立っている経験事象とどのようにつながっているかは 人間には分からない。わづかに主観の内部で そのつながり(つまり 信仰の効用)があると見る場合がある。  こういったひとつのまとめになるかとは考えています。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.19

神というものは人間が作ったといっても その作ってきた期間は何千年だから 百代以上に渡って 練りに練ってきたものだから 精神に住み着いていて さあ使おうとしても人間の思う通りにはなってくれない 便宜的に分かり易く書けば 集団想像の賜物だから 一人の人がどうこう出来ないし 誰かが書いてたようにお金の様に 自分が全部使うわけにも行かない せいぜい苦労して ほんのお恵み程度を頂くという有様で 下手をすると逆にお金や神がもとで苦しめられたり殺され有りするような代物だから そうそう思う通りには使わせてくれない。 また火だって人間が点けたものかもしれないが(天然にもあるが)一度人間の手を離れると 火事になって人間の財産を焼き尽くす。火傷したり山火事になったり 思う通りには行かない。 あるいは原子力のように 恵みはデカいが 危険性も大きく 福島の様になると人間が使える代物じゃない ハッキリ言って神は恐ろしのである。かしこみかしこみ申さねばならない。 義人でなければ焼き殺されるが 義人は居ないと言うくらい 恐ろしい代物なのです。 使うどころか企業のように 人間が作ったと言いながら 人間が使われて こき使われて もうクタクタヨレヨレとか 法律だって人間が作ったが 法律を使おうったて 逆に従わなければならない 神は共有思想だが価値観の多様化でキリスト教の神でさえ今はもう100以上にバラバラに違ってきている その神を使うったてもうごちゃごちゃに混ざってるから こんがらがった糸のように動きが取れない まして況やキリスト教以外の神も入れると 世界に一万近く在ると聞くのでとてもじゃないが 思うように機能しない。エホバがOKしてもヤハヴェがOKしない。ヤハウェがOKしてもアッラーが黙ってない と言う様な具合で、モルモンだ文鮮明だイギリス国教会だローマンカトリックだと皆意地の突っ張り合いで 思うように操縦できない。 遊んでるのか遊ばれてるのか?神に聞いてくれ と言っても神はけして答えない。

bragelonne
質問者

お礼

 ゆにこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  人間がつくった観念の神というのは:  ★ 精神に住み着いていて さあ使おうとしても人間の思う通りにはなってくれない  ☆ ですから ポイと捨てればいいわけです。いますぐ誰にでも 出来ます。  ★ 便宜的に分かり易く書けば 集団想像の賜物だから 一人の人がどうこう出来ないし  ☆ あぁ そうなんですか。ぢゃぁ 無理かも。わたしは捨てていますが。  ★ 義人でなければ焼き殺されるが 義人は居ないと言うくらい 恐ろしい代物なのです。  ☆ ただのおとぎ話でしょう。ほんものの神を 道徳や倫理規範にすり替えているだけです。誰が得するでしょうか?  ★ 神は共有思想だが  ☆ そんなものは要らんと言えばよいぢゃん。だって 良心・信教のそして思想・表現の自由は 持って生まれた人間性です。  

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.17

>(あ) ゆえに 神は――集団としてであるにせよ個人個人がまちまちにであるにせよ――持たれたなら その神は人間がつくったのだと説く立ち場。< 概念は、作り出されたものか、それとも発見されたものか、意見の別れるところだと思います。私は発見されたものという立場を支持します。 > (い) いやいや ひとはただ すでに神としてどこかに存在する〔と想定してある〕そのナゾを イメージや定義として規定したに過ぎないのであって 人間がつくったのではなく それは人間の存在の以前に〔想定じょう〕存在していたと言わなければならないという立ち場。< 想定しているからには、それはまさしく形而上のものであります。神は形而上に存在している、と言えるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 概念は[・・・]発見されたものという立場  ☆ たぶん《神は人間がつくったもの》説によれば その《発見された概念》で神をつくったというのではないでしょうか?  ★ 想定しているからには、それはまさしく形而上のものであります。神は形而上に存在している、と言えるのではないでしょうか。  ☆ これは 失礼しました。舌足らずでしたし 《メタフィジカルなもの》を狭く解釈していました。  舌足らずだったことは 神の想定は 神にだけなされる特殊な定義であり想定であると考えていたからです。  《想定》というものがすべて 神にかかわるとは限りません。龍や天馬は 想像上の動物として想定されるものです。  ただしもっとも 不老不死や永遠は たしかに想定によるものであると同時に 神にかかわっています。そしてこの場合 永遠を想定してこれを神に当てたのだとしても それは定義の順序ではないと げんみつには 考えるからです。  《非知》として想定するのが 神です。知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾ。つまり 言ってみれば 人間は神を知り得ることもあり得ると言っています。そしてそれは おそらくそれぞれ《わたし》の主観としてなのだと考えます。――このようなナゾが 神です。  《メタフィジカルなもの=形而上のもの》 これは メタフィジク=形而上学とすれば おおよそ《神》のことを扱っているものと思います。  難は その形而上学にあっても 神を万物の根源として捉える見方においてそれは人知による探究がおよぶかも知れないという前提があるようにも思えることです。人知がおよぶとしても それぞれ一人のひとの主観内部にとどまるということを言う必要があるかと考えます。神の場合にはです。そうではなく モノの根源は 自然科学という人間の能力と努力とで究明されて行きます。  それですから メタフィジカルなもの=形而上のものと言う場合には 神を指して言っている場合もあれば 必ずしもそうではなく かんたんに感性や身体を超えた精神的なものといった意味でも使われるのではないか。こう危ぶんだものですから うまく応答しえなかったものと思います。  つまり《メタフィジカルなもの》を狭く解釈していたのでした。その点 おわびします。ごめんなさい。  まとめますと:  神は 形而上学において〔も〕問い求められる。  その意味で神は 形而上のものだと言ってマチガイではない。  では 神は形而上に存在しているか?  これは 形而上のものを神として規定しているのなら その限りで――言いかえですから――そのとおりだと思います。  ただしその《存在》は 誰もがそのまま《神の存在は証明された》とかだから《神は 存在する》だとかのような命題をかんたんに導けるものだとは限らない。  有る無しを超えているからには 神は《存在する》と言っても《存在しない》と言っても けっきょく同じことになる。という意味と前提において 神についての存在は互いに取り扱わなければならない。――つまり 神は 主観の内部にとどまるという〔派生的な〕規定に従うものと考えます。  〔すなわち 神という言葉は 音楽が世界中の人びとにとっての同じ共通のコミュニケーションの手段だというのに似て ゴッドと言おうがブラフマンなりアッラーフなりと名づけていようが 神という言葉としては 人間にとってまったく同じひとつの概念である。と言えるものと考えます。その中身が 主観ごとに異なっていてもなのです。存在しないと言おうが 神はみんなにとって同じひとつだとなります〕。  単純に形而上のものなり形而上学なりと言えば 神のことだとはならない。こうは思います。  そこには 《神は人間がつくった》説も入って来るのではないかとさえ おそれられます。  ▲(ヰキぺ:形而上学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6  § 1 概要  近代になるとデカルトはあらゆる存在を神の存在によって基礎付けてきた中世の哲学を抜本的に見直し、あらゆる存在証明の論拠を神の自明な存在から、思推している人間の精神に置き換えて従来の形而上学を基礎付け直そうとした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 中世ないし古代末期のアウグスティヌスが《神の自明な存在》を自明として来たわけではなく またデカルトがこのように単純に《思惟している人間の精神に置き換え》たというのは あやまった解釈であると――わたしにとってはつい最近――判明しております。  cf. 【Q:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8938723.html  こんなふうに考えています。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9720/12091)
回答No.16

このご質問に感謝し、以下のとおりお答えします。 1.人間はなぜ神をつくるか およそ宗教と名のつくものは神を持っています。そして、その神は、多かれ少なかれ、当の人間より優れた資質や能力が付与されています。「全知全能」はその最たるものです。なぜでしょう。それは、そもそも神をつくるとき、「人間の及ばぬことや、理想、絶対性など、人間が欲しいけれども叶わないもの」を仮託するからでしょう。 つまり、神をつくる人間は、自分の作った彫像ガラテアに惚れたという、あのキプロスの王ピグマリオンです。下町娘を教育して、変身した淑女イライザに恋するヒギンズです。ところが、ガラテアやイライザは、そして何より神は、つくられた途端に一人歩きをし始めるから、製作者の思いのままにはならなくなります。それでは、人間の思い通りにならなくなった神は、もう不要でしょうか。それに対する答えは、私見としては、否です。 2.いわゆる「神」が必要なわけ 哲学者が神の「存在を想定する」ことがありますね。それは、人間に分からないこと、人間の智恵を越えることを司る者として神を想定する、ということでしょう。つまり、哲学者にとっての神は、「人智を越えるものを統括する」存在です。キリスト教徒がを「絶対性」を神に仮託するように、哲学者「人智を越えること」を神に仮託するわけですね。 で、それは何のためでしょうか。(1)人間が持てる知力を尽しても分からない・できないことがあっても、不可知論に陥って探求を放棄してしまうようなことのないように、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と思います。(2)地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の一つである、と考える次第です。 3.蛇足:神の功罪・神と人間・異教対立 以前も触れたかも知れませんが、「神がなくなれば、全てのことは許される」(ドストエフスキー)と言います。「全てのことが許された世界」とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界でしょう。神が消えるなら、その神もろとも当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅してしまうからです。現代はまさにそれですね。「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と言う人もいます(小滝透『神の世界史』)。共存と規範の共有とは切り離し難くついて回るもののようです。 「神が人間を通して事物を見る・人間は神の視覚器官である」(オルテガ)と言う時、その「神」は祀る神や拝む神ではありません。それは絶対的真理の統覚者とでもいうべき「哲学神」です。つまり、ここで言う神とは「人知の及ばぬことを司る者」を表象する語で、主体はあくまでも人間です。「神は人間自身の本質である」、そして「歴史の転期は、人間の崇めている神が、結局は人間自身の姿に他ならぬことを自覚する時に始まる」(フォイエルバッハ)とも言われます。 「神が人間自身である」ということは、神はいかなる問題にも対処し得る能力と機能を有する人間の自己写像である、とも言えますね。ゆえにその神的機能は、信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものでしょう。 現段階では、科学的方法によって立証したり推進したりすることはほぼ不可能で、科学の範疇を越える命題とも言えますが、かといって、異教というだけで無差別に殺害されるような今日、放置しておくわけにもいかないでしょう。せめて、何とか「暫定的に合意する」ことなりと模索すべきではないでしょうか。それにしても、「自分でつくったものの違い」によって対立抗争し、殺し合いをするとは悲し過ぎませんかねえ! 「人間が最も怖れるものは、自分自身の想像である」(コンラッド)。 最後はついつい本題からそれましたが、以上ご回答まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  一口メモのかたちで質問すると あんがい回答を多く寄せてくれます。  1.人間はなぜ神をつくるか  ★ そもそも神をつくるとき、「人間の及ばぬことや、理想、絶対性など、人間が欲しいけれども叶わないもの」を仮託する  ☆ ということでしょうね。  ★ 彫像ガラテア  ☆ っていう名前があったんですかぁ。  ★ ところが、ガラテアやイライザは、そして何より神は、つくられた途端に一人歩きをし始めるから、製作者の思いのままにはならなくなります。  ☆ ん? えっ? たとえば虚構作品。これなどは すでに書いている傍から 作中の人物らが勝手に振る舞って行動を起こすとは言いますね。  ただ と続きます。ただですね 神の場合は つくっているとき・あるいはつくったあとで それをやめればいいし 削除してしまえばよい。とは思うのです。どうでしょう。  ★ それでは、人間の思い通りにならなくなった神は、もう不要でしょうか。それに対する答えは、私見としては、否です。  ☆ そうなんですか。つづく議論でしょうか。  2.いわゆる「神」が必要なわけ  ★ (2)地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の一つである、と考える次第です。  ☆ 聖なる甘え あるいはつまり きよらかなおそれ。これを持つのがよいと思っているということですね。  おそらくそれは 哲学においてにしろ・ふつうの生活の中で必要に応じてにしろ神をつくる場合でなくても つまり信仰の場合にあっても 当てはまる。ことでしょう。  ★ (1)人間が持てる知力を尽しても分からない・できないことがあっても、不可知論に陥って探求を放棄してしまうようなことのないように、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と思います。  ☆ これには 物言いがつくと思いますよ。  (あ) 不可知とは 《知り得ないと知ったこと》ですよ。数学などでそういう定理か何かがあるみたいです。  (い) つまり 知り得ないことでありつつ 知り得ないと知り得たというなら それは 経験事象です。つまり これは 神ではないのです ほんとうは。  (う) すなわち:    ○ 神は《非知》である。~~~~~~~~~    経験事象      可知       既知       未知      不可知 (知り得ないと知り得たことがら)      非経験の場 (として想定するもの)      非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (え) つまり神は もともと《探究》をしても 人間の能力と努力とだけによっては ついぞその成就はかなわない。それが 《非知》である。  (お) 不可知なら 知り得ないと知ったという結果が得られます。知り得たと分かったなら 未知であったものが既知になったというかたちです。  (か) ですが 非知は ついぞどこまでもナゾのままです。人間に分かったなら それは神ではありません。つまりは分かったなら 人間がつくった観念の神だということになります。これは ほんとうの神ではありません。せいぜいが 神を知ろうとして引いた補助線です。依り代です。代理です。神のシルシです。    (き) ★ 「(神への)一時預かり」という措置を講じる  ☆ のは 未知が既知になるであろうと推測している場合です。あるいは その結果 不可知なる事柄であったと分かる場合もあるかも知れません。  3.蛇足:神の功罪・神と人間・異教対立  ★ 以前も触れたかも知れませんが、「神がなくなれば、全てのことは許される」(ドストエフスキー)と言います。  ☆ ひじょうに残念なのですが この命題に対してはわたしは真っ向から対立します。  じつは そのご投稿に対して ただちにわたしは反論を寄せました。  【Q:世界の平和・調和の為に哲学に何が出来るか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8940708.html  ☆☆ (その回答No.8) ~~~~~~~~~~~~   [・・・]   ■ 「神がなくなれば全てのことは許される」(ドストエフスキー)   ☆ ちがいます。《神のもとでこそ すべてはゆるされている》のです。ドストくんは なあ~~んも知らない。個人の信仰をヒエラルキア組織宗教の中に置き シュウキョウをただの政治権力と見做し みづからは〔小説の中でとしても〕政治運動にいそしむという思想でしかありません。   ▼ (コリント前書 6:12-20) ~~~~~~~~~~~~~~~     すべてのことは、わたしに許されている。   しかし、すべてのことが益になるわけではない。   すべてのことは、わたしに許されている。   しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。   ・・・     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ゾシマ長老だかアリョーシャだかは 信仰からは程遠く シュウキョウに染まっていて そのシュウキョウというのは権力志向であり けっきょくみづからは〔職業としてでなくても〕政治家となることだと捉えられますまいか。  ★ 「全てのことが許された世界」とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界でしょう。  ☆ いいえ。違います。《神のもとでこそ 無法者もならず者も目をかがやかせて生き生きと悪事をはたらく》のです。ナチスのユダヤ人皆殺しは 神のみそなわす世界にあってこそ起きました。むろん神は 介入しません。デウス・アブスコンディトゥスたるにとどまります。いつまでも。  もし《「神がなくなれば全てのことは許される」》というのなら その神こそは 《人間のつくった観念の神》です。道徳の神がなくなれば 不道徳がはびこる。ということでしょう。  しかしながら その不道徳行為について ほかの人たちも 法律による措置のほかは何も出来ないとすれば その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界である。と考えられるのです。  ですが 神が 決して介入することなくしかも 見ているという情況であるなら わたしたちは すべてがゆるされています。ただ すべてが益になることではない。という信仰の徒となった人間の世界が繰り広げられます。  ★ 「神が人間を通して事物を見る・人間は神の視覚器官である」(オルテガ)と言う時、その「神」は祀る神や拝む神ではありません。それは絶対的真理の統覚者とでもいうべき「哲学神」です。  ☆ やはり人間の考えこしらえた観念の神であると考えます。窮屈ではありませんか?  神の徒らは そういった哲学の神にもとづく《義》を持たないのです。《義無きを以って義とす》なのです。これが わたしの言う《非思考の庭〔における信仰の動態〕》であると捉えています。   【Q:生活を微分したら 信仰のイメージがついて来る!?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8946851.html  神のもとにあるゆえにこそ  ★ 主体はあくまでも人間です。  ☆ なのですよ。そうでなければ 自分たちの社会を 相対性の世界であるとすら認識し得ないのだと思います。神の存在ゆえにこそ 相対性なる見方を持つことができます。よって人びとは 自由な共生という命題を自由に持ち得ます。  ★ いかなる問題にも対処し得る能力と機能を有する人間  ☆ は 全知全能なる理念の《仮託》ですよね? 果たしてそうでしょうか?  もしそうなら 《きよらかなおそれ》をいだくことは要らなくなります。へりくだることも つつしみを知ることも われわれには要らなくなります。  ★ その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものでしょう。  ☆☆ 見えざる神の存在(非在)ゆえにこそ 人間は 相対性なる見方を持つことができます。よって人びとは 自由な共生という命題を自由に持ち得ます。  ☆ 《契約》は 仮りのシルシでしょう。補助線でしょう。ですから 神の信徒には要りません。  議論がかみあっているとすれば この上なくさいわいです。    

回答No.15

いや、君自身こんなくだらない挑発をする事自体反省してもらいたいもんだ。 想像しただけなら想像力は無限大だと、おおむねそんなコメントをした証拠は上がっているがな。 間違いだ。 世界そのものを作る、また、現代においてはつくりかえようとする、観念世界で発揮する神の想像力と、それ自体が創造そのものである全知全能性には、人間の想像の自由など及ばない。 人間は自由に言いたい放題言っているつもりだろうが、おおむね過去の偉人の格言なりを本人も自覚できない理由でほざいているだけだ。 それには確認しようとする意思があり、信じたいという願いがある。 しかし人間の神について証言で、神を確認するつもりが無い。 人間を確認したいだけだ。 人間の信仰の足取りしか確認できないのだよ。 違うと言っても無駄だ。 人間だけしか確認できない。 その勘違いから絶望がはびこり、神をあきらめ、居ないとまで言うんだ。 私にとってはいるがね。 実在する妖精だ。 あんた~、死に挑戦して、ファイト一発死んでみてはどうかい? それからじゃないと、きやすく話せる君の対しても、どこか一方的な猿回しだ。

bragelonne
質問者

お礼

 観念は 死と関係しないよ。(観念の世界で 死を想像において取り上げることはあっても)。  ぎゃくに たやすく死を言い過ぎだよ。と思う。  ご回答をありがとう。

noname#206380
noname#206380
回答No.14

鯉ですか(笑)大名下ろしと言うのですよ・・ 普通の魚と下ろし方が違うのです・・(知ってましたぁ・・・!?) 俎板の鯉とは あまりアテにならない・・ 本物の鯉は 俎板に乗せても動くのです・・そして 大名下ろしした後も1時間くらいは平気でピクピクしてますよ・・ 「俎板の鯉」とは じっとしてると思ってたのも間違いなのです・・ そして あなたは 其処も間違ってる

bragelonne
質問者

お礼

 そんなに楽しみにしてますか?  まぁ サイトからよいものを適当にえらんでからにします。それとも これだというまとまった文章はありますか?  ご投稿をありがとう。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 大名下ろし  ☆ は知らなかった。

noname#221368
noname#221368
回答No.13

 こちら、   http://okwave.jp/qa/q8949531.html のコインの裏表については、自分には何とも返答のしようがないです。 >1. 神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  現在のISなどを見ていると、「その神を仕様の範囲内で自由に使いまくってる」気がします。 >2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  操ってるように見えます。 >3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだというクレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?  神という概念をつくったので、その概念を操ってるだけだと思う。 >4. 神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだというあやまちに落ち入っているのではないか?   微妙だなぁ~。現状で自分には回答できません。 >5. いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?  今日ドキュメンタリー映画「皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇(4/11公開)」のニュースを見たのですが、メキシコのティーンエイジャーは(20代も)かなりの割合で現実に本気で麻薬ギャングに憧れていると知り、けっこう度肝を抜かれました。ダブッたのはISに参加する義勇(?)戦闘員です。  生活環境を考えれば納得できない事もないのですが、「観念のおままごと」というには余りにも切ない。この2つを取り上げたのは、こんな事を言うとどちらかから殺されかねないが、どうも動機が似ている気がするからです。   http://okwave.jp/qa/q8935753.html の #13。  自分はそれなりに過不足ない生活をしているから、憧れも尊敬も冗談や夢物語で済ませられるが、もしぎりぎりの生活で将来に絶望していたら?、と考えると・・・。  1.は現実にいま行われていると思うんですよ。 

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  1.  ★ 現在のISなどを見ていると、「その神を仕様の範囲内で自由に使いまくってる」気がします。  ☆ いやぁ。いやらしいところから話を持って来ますねぇ。  そうかも知れませんねぇ。  まぁ それを誰も信じていないでしょうが。つまり それが神であるとは 誰れも思っていないでしょうが。  2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  ★ 操ってるように見えます。  ☆ これは どうですかねぇ。《全知全能》ですよ? どこか一部が欠けてもすでにアウトですから。  3.  ★ 神という概念をつくったので、その概念を操ってるだけだと思う。  ☆ 出来る範囲でということでしょうか。つまり 仕様の全内容ではなく 一部分は出来ているかも知れないというところでしょうね。  4.――これは ぢゃあ 保留しましょう。  ★ 1.は現実にいま行われていると思うんですよ。   ☆ その人なりの仕様でつくった観念としての神ですね。オマジナイ付きでしょうか。  自分が欲していることを 欲しているかぎりで・自分の根気がつづくかぎりで 一部分だけでも実行しようとはするでしょうね。    ★ 「観念のおままごと」というには余りにも切ない。  ☆ ううーむ。たとえば 《観念のお医者さんごっこ および オママゴト》だときちんと規定したあと 現実の人間一人ひとりに当たって 考え何らかの対処策を実行して行く。ことになると思うんですよ。  最初には 言い切ってよいし 言い切るべきだと思うんです。そういう問題ではないでしょうか。  

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.12

神は人間がつくったというのは、正確には神の概念を人間がつくったという意味です。 概念が存在して実体が存在するかどうかはまた別の話です。 同じような例として、ドラゴンや妖精を考えることができます。 ドラゴンや妖精の概念を人間はつくりましたが、これらは架空の存在で実体はないですよね。 ドラゴンや妖精は物語の中では自由にできますが、実際には存在しないのであやつることはできません。 神もあやつることができないのは、概念しか存在していないからです。

bragelonne
質問者

お礼

 すとみむさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 神は人間がつくったというのは、正確には神の概念を人間がつくったという意味です。 / 概念が存在して実体が存在するかどうかはまた別の話です。  ☆ ええ。おっしゃるとおりです。  (《実体》と先に言ってしまうと それは無条件にすでに《存在する》と決定されますけれども)。  (あぁ 現実のもの・経験的な事物といった意味でしたか ここでは。ドラゴンのお話で分かりました)。  ★ 神もあやつることができないのは、概念しか存在していないからです。  ☆ ふたつツッコミが出来ると考えます。  《概念として・観念として・その想像の世界いっぱいに 絵をえがくことは出来るのですから その意味で あやつればよい》のではないか。  概念をあやつっても それは想像の世界の中だけの話です。すでに指摘したように たとえあやつることが出来てもそれは どこまで行ってもオママゴトになります。つまり 初めの前提である《神は人間がつくった》なる命題がマチガイであるとなる。  というところまで議論をすすめて欲しいわけなのです。  

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    「神」について思うことを教えてください。 私は、人間の願いを都合良く聞いてくれる全知全能の神は到底信じられませんが この世の全てを統べる法則がもしあるのなら、それを「神」と呼ぶことに異存はありません。

  • 質問は、神が人間を創造したのか、いや、人間が神を捏

    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?

  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • 全知全能の神が・・・なぜ

    全知全能の神が なぜ 生まれながらに罪を持った人間を創造したのですか? また、それを悔い改めよとおっしゃるのはなぜですか? 罪があるのは人間の責任ですか?

  • 神は存在しないのか?

    苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。 その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明 したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから) 完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。 しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも 人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた 完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか? つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか? まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか? 私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。 肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも 教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

  • 神になった?

    加藤元浩の漫画『アクトレイザー』では主人公のダーツは人間でありながら全知全能の神になった事がありましたが、あれは架空の話ですか?

  • 神様の存在について

    ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。 神様の存在についてです。 私は特に信仰している宗教はありませんが、ギリシャ正教会に属する方との交流が過去にあり、そこから沸いた疑問になります。 私は無宗教といえど、物心ついたころから神様という言葉を耳にし、ああ、もしかしたらいるのかもしれないなと思いながら育ち、今に至ります。 ただ、そういう認識に至るまでには言語習得であったり、教育であったり、何かのきっかけや、条件があったように感じられます。またそれらは神様を認識するにあたり必要不可欠なのではと思うようになりました。 そこで、です。 例えば特殊な環境で育った赤ん坊がいたとします。両親どころか、まったく人の手で育てられておらず、言葉も話せません。(例えなのでこういう環境で人間が生き延びることができるかは、問題にしません) そういった特殊な人間も、いずれは神様の存在について意識が芽生えるのでしょうか。ぼんやりとした概念のようなものが頭に浮かぶのでしょうか。 神様というのは、全知全能で普遍的だと聞いたことがあります。 ですが、もしその存在を私たちがある一定の条件のもとでしか認識できないのであれば、これは全知全能で普遍的といえるのでしょうか。 考えれば考えるほど、神様の存在は限定的に思えてしまいます。 神様の存在と、こちらからの認識や観測を結びつけてしまうのは、そもそも間違いでしょうか。

  • 天皇が人間宣言を行うまで国民は真に天皇を神様だと思っていたのでしょうか

    天皇が人間宣言を行うまで国民は真に天皇を神様だと思っていたのでしょうか? 人間とは仮の姿で本当は全知全能の神なのだと。 もしそうであれば人間宣言は国民にとって青天の霹靂で、それこそズガーンと いかづちを落とされるようなショッキングな出来事だったんじゃないかと思うんです。 しかし教科書ではこの辺サラッと流されてしまい、国民のショックが全く伝わってきません・・・。 子供の頃このことを祖父に何度か訊いたことがあるのですが、いつも有耶無耶な感じで 返されてしまい、結局納得できる回答を得ることは出来ませんでした。 今思えばはっきりと口にしたくなかったのかな・・・。 当時の国民は人間宣言を行うまで天皇を真に全知全能の神だと思っていたのか、 また国民は人間宣言をどう受け取ったのか、ご存知の方いらっしゃいましたらよろしくお願いします。