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神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

 一口メモによる情報交換です。  1. 神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだというクレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?  4. 神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだというあやまちに落ち入っているのではないか?   5. いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?

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  • Nakay702
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回答No.18

「お礼コメント」を拝受いたしました。 >>神は、つくられた途端に一人歩きをし始めるから、製作者の思いのままにはならなくなります。 >神の場合は つくっているとき・あるいはつくったあとで それをやめればいいし 削除してしまえばよい。とは思うのです。どうでしょう。 ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。 「神は、つくられた途端に一人歩きをし始める」とは、すなわち、「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。これを称して、ちょっと舌足らずでしたが、「一人歩き」と表現し、それに込めたつもりでした。 >>人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の一つである、と考える次第です。 >それは 哲学においてにしろ・ふつうの生活の中で必要に応じてにしろ神をつくる場合でなくても つまり信仰の場合にあっても 当てはまる。ことでしょう。 ⇒まあ、そうでしょうね。ただ、信仰の場合はおもに「自分にとっての要不要」の基準を重視し、哲学の場合は「人類にとっての正不正」の基準に依拠してそういう考えを抱く、という色合いの違いがあるかも知れませんが。 >>不可知論に陥って探求を放棄してしまうようなことのないように、「(神への)>不可知とは 《知り得ないと知ったこと》ですよ。数学などでそういう定理か何かがあるみたいです。 ⇒数学の世界ではそういうことも可能かも知れません。しかし、現実世界は全然違うでしょう。どうやって「知り得ないと知った」のですか。それこそ、「早すぎるあきらめ、思考停止、考え違い、独善、背徳、宇宙の理法や哲理への背信…」ではありませんか? しかも、現象の世界だけが分かるように思っているけど、実はその現象世界は、不可知と決めつけられた本体的存在から由来しているわけでしょう。根元を「知り得ないと知った」と決めつけ、切り捨てておきながら、「それに由来する末節は知り得る、とか知った」と言うのは、軽率であり、短絡的に過ぎませんか? >   ○ 神は《非知》である。~~~~~~~~~ >   経験事象 >     可知 >      既知 >      未知 >     不可知 (知り得ないと知り得たことがら) >   非経験の場 (として想定するもの) >     非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ) ⇒何度か目にした記憶のある語句です。 しかし将棋の駒は、箱の中では、パラダイムとしての、可能性のみの意味しか持たない駒の集合体(=連合体)に過ぎません。それは盤上に並べて初めてシンタグマティックな、有機的な意味を持つ機能体(=統合体)となりますね。 我々は、おそらく多くの部分を共有しているとは思いますが、このような語句の羅列は、少なくとも私にはよく理解できず、統合体としての意味がいまいち把握しきれません。一言も触れなかったのは、というか触れることができなかったのは、そういう理由からでした。 >神は もともと《探究》をしても 人間の能力と努力とだけによっては ついぞその成就はかなわない。それが 《非知》である。 ⇒お互いに解釈上の行き違いがあると思います。「神を探究する」という意味ではなく、「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。 >もし《「神がなくなれば全てのことは許される」》というのなら その神こそは 《人間のつくった観念の神》です。 >道徳の神がなくなれば 不道徳がはびこる。ということでしょう。 ⇒というより、「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。 共存と規範の共有とは切り離し難くついて回ります。共存する者の遵守すべきことの一つは、「共通の規範に服すること」、と言えます。このことを別言して、小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」を持たない証拠で、「私が法律だ」というのと似た振る舞いだと思います。 >不道徳行為について ほかの人たちも 法律による措置のほかは何も出来ないとすれば その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界である。と考えられるのです。 ⇒社会現象としては、おっしゃるように、「その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界」である、ということでしょう。そのとおりでしょう。 しかし、この場合は「個々人の道徳観」の問題です。ドストエフスキーは、アリョーシャをして、“「神が死んだ」ので、空席になったのを幸いに「神の鋳型に自分をはめ込む」(サルトル)なんて愚行をしないように、「自己神格化」をしないように”という自戒の念を語らせたのです。 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。 >見えざる神の存在(非在)ゆえにこそ 人間は 相対性なる見方を持つことができます。よって人びとは 自由な共生という命題を自由に持ち得ます。 >《契約》は 仮りのシルシでしょう。補助線でしょう。 ⇒ここ、異論ありません。少なくとも、このくだりに関しては「議論がかみあっている」と思います。他にも「かみあっている」ところはあるに違いないでしょうね。けれども(有名なフロイトとユングの間ほどではないとしても)、特に語句の定義などについては、「大いなる行き違い」があるように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 なかい702さん こんにちは。 ご回答をありがとうございます。  さて どういう流れになりますやら。  人間が考えてつくった観念の神なら:  ★ ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。  ☆ これは たぶん出来ないのではなく 削除したくないのです。想像力のおもむくままに拵え上げた神は たとえその観念によって自分が振り回されたとしても かまわないし むしろ そうなって欲しいとすら人は願っているのではないでしょうか。  なぜなら ほんとうの神を見失ってしまったと思っているからです。信じる=無条件に受け容れる。義無きを以って義とする。聖なる甘え。きよらかなおそれ。これらを知らない心的身体的状態になってしまった。・・・  ★ 「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。  ☆ これは そのように欲し実際に画策し奔走する人間たちがいるからです。これを 公民志向のアマテラス族と言います。つまり要するに 社会を二階建てにしようとする動きです。またそれを保守する動きです。対内的な帝国主義的運動です。これを 個人に即して捉えるとアマアガリと言います。(アマクダリの逆ですから 分かりやすい)。  要するに このアマアガリ・シンドロームに罹ると あそこの島は もともとわれらが所有になるものなり。行って アマテラシテ( l'amatérasité; das Amaterasität; amaterasity; lo amaterasitad )なる徳の下に人びとを言向けやわせと勅(みことのり)します。すべては この神勅から始まる物語のもとに推移することになります。  《神》をつくり その神を体した人間が現われ そのミコト(御言)が宣せられたなら ことはすべてそのように運ばれる。《要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる》。クウキのことです。  むろん そういう《観念の神の独り歩き》が アマアガリ――ひとつの社会勢力が他の勢力や人びとを飲み込むという単独分立を経て 全体的に徳による感化をつうじての独裁制を敷くこと――のために大いに欲せられ望まれるものであり じっさいにその神操作を行なうものではあっても これを中止するとか削除する気遣いはなくなります。  ですから ちなみにこのような観念の帝国主義を基礎として成り立った社会は じつは もろい。なぜなら 別の同じような武力と嘘の帝国主義とどっこいどっこいだからです。あそこの島は 悠久の昔からわが国の領土なりと宣せられたなら アマテラス帝国のほうは 抗弁する理由がなくなります。(現行の実効支配も もとはと言えば かの神勅より発しているものだからです)。  すなわち これらはまさに観念の神によるオママゴトであります。千五百年もあるいはあちらでは何千年もつづいているようです。  第二段の相互全面破壊を避ける考えがあることについては もうそのままとします。    第三段。不可知が要らないとしても こちらは構いません。手間が省けます。問題は 非知ですから。  第四段。  《非経験の場 (として想定するもの)》であるとか《非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ)》という説明が 理解できないというのは おかしいと思います。  《観念の神》ではない神が想定され人びとは 自由にその神をいだくことができるという意味です。すなわち 良心・信教の自由という公理です。――これが 理解できないというのは おかしいです。  第五段。  ★ 「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。  ☆ それですと そういう問題として受け取られるでしょうが この質問における《神は人間がつくった》説の検討とは別ですね。    《神に「一時預かり」》と言っても 探究の過程でエポケーしたということと同じであるはずですから 神の問題ではないと思われるのです。  第六段。  ★ 「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。  ☆ これは 分かりづらいですね。《道徳原器》というのは 人間の自然本性にそなわった――潜在性としてでもの――人間性(人間関係性)でしょう。《共通規範》は 言ってみれば たとえ法律が敷かれていても つねに一部の人びとのあいだで失われています。  ★ 前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。  ☆ ですから その神は 観念の神として《判断基準の原器》だと仮りに見なされているだけのものです。《原器》は ひとの身と心すなわち自然本性に――潜在性としてでも――あるというのが やはり公理なのではないですか?   信仰としては アートマン(霊我)・ブッダター(仏性)・ルーアハ(神の霊)等々という《原器》を立てますが 同じことでしょう。  つまり この場合は 人間が観念の神をこしらえる前から《非在》として存在していたと想定する神ですから その霊は うつろいゆくことのない原器です。想定としてですが。  観念の神は 消えてもかまいません。作成のときにすでに削除しても いいわけです。何ら問題は生じません。むしろそれを作成することのほうが 問題です。インチキの神を持つに過ぎないからです。  ★ 小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。  ☆ そんな大げさなことはないですよ。ムラが出来て人びとが共同生活を始めたなら その社会は 経済的にも心の問題としても 共同自治が成り立って行きます。そして確かに その人間関係ないし社会関係における問題の処理は 人びとそれぞれの心のあり方をとおして ナラハシとなってまたオキテとされて むしろ自然過程として行なわれて行くと言ってもよいくらいだと考えます。  そこへ 七面倒な《観念の神》を 守るべき倫理規範として持ち出すのは アマアガリ症候群に罹った人間たちです。しかも この観念の神が消えたら おまえたち庶民は 人間的な倫理ということすら知らないぢゃないかとさえ嘯こうとします。王化の徳をおぼえなさいとしきりにほざきます。いまも そうでしょう。本を書けばよいってなものではないでしょう。本に書けば それが 世界認識として妥当であるとは限りません。  ★ 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。  ☆ そういう人もいますが そのとき第三のグループもいると知らねばなりません。アマアガリの大将たちは 人びとの自由を奪うために自分の主義主張をうったえこれを実現しようとするのではなく あくまで お節介であろうとも 人びとの自由と安寧を守るためだと見てあげなければならないとし このことは百も承知な人びとが 第三グループであり さらにはそのお山の大将たちは やはりアマアガリ・シンドロームに罹っているとは見ています。  すなわち アマテラス志向の人間というのは 自分がこしらえた自分の神が これこれこう言っているからには おれはその神に従わざるを得ないのだと その神は自分がつくったということを忘れて 叫び続けるというものです。ほとんどビョーキです。自分に催眠術をかけているわけです。そんな神は インチキの神だと言ってやっても 聞く耳を持たないというのが アマアガリ症候群です。ビョーキです。  ですから アマテラス公民たちお二階さんは 一階の市民社会にいづれ大政奉還をしなければなりません。  ★ 自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」〔は 生まれつきそなわった自然本性であると知らず または知っても自分をごまかし 忘れてしまい この原器〕を持たない〔という思想に立ち〕[・・・]「私が法律だ」――あるいは わたしが神だ――と〔言ってお節介をすると〕いう[・・・]振る舞いだと思います。    第七段  アリョーシャについて:  ★ 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。  ☆ これは 《神にいてもらう》画策をしているわけです。政治的運動をおこなって その思想を普及させようとしています。あたかもそれをする《われは 神なり》と言わんばかりになって。アマアガリ・・・。  ★ 「自己神格化」をしないように”という自戒の念  ☆ を語る者は ただしく神聖なる人間だと言わんばかりに。そういうアマアガリ政治運動であると見ざるを得ません。なぜなら 観念の神は ただちにポイと捨てれば済むことなのですから。  さて  ★ 「大いなる行き違い」  ☆ は どこまで埋めることが出来たでしょうか。

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その他の回答 (21)

noname#206380
noname#206380
回答No.1

それって哲学!?・・・共産国的思想にしか思えないが・・・ そもそも 神が人間を支配して無い事が解ってる訳だし 人間も 他の人に支配される事を嫌がる・・ なのに 何故 人間が神を支配しなきゃいけないの!?・・ 其処からして あなたの考えが間違ってるのです・・

bragelonne
質問者

お礼

 鮭2さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 共産国的思想  ☆ って言えば たとえば《能力に応じて働き、労働に応じて受け取る》という段階を経て さらには《能力に応じて働き、必要に応じて受け取る》といった社会的経済的な仕組みになるというのですが   まづこれが《おままごと》だと言うのであれば そういう仕様で神をつくったというのでしょうね。  オママゴトではないとすれば どうなりますか? 歴史はそう成るという意味で おっしゃっているのですか? もしそうなら その場合は いまの問題としている神は関係ないのではないですか?  ★ そもそも 神が人間を支配して無い事が解ってる訳だし  ☆ という仕様の神を あなたがいま作ったというだけのことではないのですか?  ★ 人間も 他の人に支配される事を嫌がる・・  ☆ これは いま問題には成っていません。  ★ なのに 何故 人間が神を支配しなきゃいけないの!?・・  ☆ そういう仕様で神をつくったという考え方は ただのオママゴトであるという批判です。この質問が そういう批判をして問うています。

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