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神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

 一口メモによる情報交換です。  1. 神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだというクレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?  4. 神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだというあやまちに落ち入っているのではないか?   5. いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?

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  • Nakay702
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回答No.18

「お礼コメント」を拝受いたしました。 >>神は、つくられた途端に一人歩きをし始めるから、製作者の思いのままにはならなくなります。 >神の場合は つくっているとき・あるいはつくったあとで それをやめればいいし 削除してしまえばよい。とは思うのです。どうでしょう。 ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。 「神は、つくられた途端に一人歩きをし始める」とは、すなわち、「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。これを称して、ちょっと舌足らずでしたが、「一人歩き」と表現し、それに込めたつもりでした。 >>人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の一つである、と考える次第です。 >それは 哲学においてにしろ・ふつうの生活の中で必要に応じてにしろ神をつくる場合でなくても つまり信仰の場合にあっても 当てはまる。ことでしょう。 ⇒まあ、そうでしょうね。ただ、信仰の場合はおもに「自分にとっての要不要」の基準を重視し、哲学の場合は「人類にとっての正不正」の基準に依拠してそういう考えを抱く、という色合いの違いがあるかも知れませんが。 >>不可知論に陥って探求を放棄してしまうようなことのないように、「(神への)>不可知とは 《知り得ないと知ったこと》ですよ。数学などでそういう定理か何かがあるみたいです。 ⇒数学の世界ではそういうことも可能かも知れません。しかし、現実世界は全然違うでしょう。どうやって「知り得ないと知った」のですか。それこそ、「早すぎるあきらめ、思考停止、考え違い、独善、背徳、宇宙の理法や哲理への背信…」ではありませんか? しかも、現象の世界だけが分かるように思っているけど、実はその現象世界は、不可知と決めつけられた本体的存在から由来しているわけでしょう。根元を「知り得ないと知った」と決めつけ、切り捨てておきながら、「それに由来する末節は知り得る、とか知った」と言うのは、軽率であり、短絡的に過ぎませんか? >   ○ 神は《非知》である。~~~~~~~~~ >   経験事象 >     可知 >      既知 >      未知 >     不可知 (知り得ないと知り得たことがら) >   非経験の場 (として想定するもの) >     非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ) ⇒何度か目にした記憶のある語句です。 しかし将棋の駒は、箱の中では、パラダイムとしての、可能性のみの意味しか持たない駒の集合体(=連合体)に過ぎません。それは盤上に並べて初めてシンタグマティックな、有機的な意味を持つ機能体(=統合体)となりますね。 我々は、おそらく多くの部分を共有しているとは思いますが、このような語句の羅列は、少なくとも私にはよく理解できず、統合体としての意味がいまいち把握しきれません。一言も触れなかったのは、というか触れることができなかったのは、そういう理由からでした。 >神は もともと《探究》をしても 人間の能力と努力とだけによっては ついぞその成就はかなわない。それが 《非知》である。 ⇒お互いに解釈上の行き違いがあると思います。「神を探究する」という意味ではなく、「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。 >もし《「神がなくなれば全てのことは許される」》というのなら その神こそは 《人間のつくった観念の神》です。 >道徳の神がなくなれば 不道徳がはびこる。ということでしょう。 ⇒というより、「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。 共存と規範の共有とは切り離し難くついて回ります。共存する者の遵守すべきことの一つは、「共通の規範に服すること」、と言えます。このことを別言して、小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」を持たない証拠で、「私が法律だ」というのと似た振る舞いだと思います。 >不道徳行為について ほかの人たちも 法律による措置のほかは何も出来ないとすれば その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界である。と考えられるのです。 ⇒社会現象としては、おっしゃるように、「その《観念の神》がいてもいなくても けっきょく同じような世界」である、ということでしょう。そのとおりでしょう。 しかし、この場合は「個々人の道徳観」の問題です。ドストエフスキーは、アリョーシャをして、“「神が死んだ」ので、空席になったのを幸いに「神の鋳型に自分をはめ込む」(サルトル)なんて愚行をしないように、「自己神格化」をしないように”という自戒の念を語らせたのです。 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。 >見えざる神の存在(非在)ゆえにこそ 人間は 相対性なる見方を持つことができます。よって人びとは 自由な共生という命題を自由に持ち得ます。 >《契約》は 仮りのシルシでしょう。補助線でしょう。 ⇒ここ、異論ありません。少なくとも、このくだりに関しては「議論がかみあっている」と思います。他にも「かみあっている」ところはあるに違いないでしょうね。けれども(有名なフロイトとユングの間ほどではないとしても)、特に語句の定義などについては、「大いなる行き違い」があるように思えます。

bragelonne
質問者

お礼

 なかい702さん こんにちは。 ご回答をありがとうございます。  さて どういう流れになりますやら。  人間が考えてつくった観念の神なら:  ★ ⇒「削除してしまえばよい」…それができれば苦労はないのですが。  ☆ これは たぶん出来ないのではなく 削除したくないのです。想像力のおもむくままに拵え上げた神は たとえその観念によって自分が振り回されたとしても かまわないし むしろ そうなって欲しいとすら人は願っているのではないでしょうか。  なぜなら ほんとうの神を見失ってしまったと思っているからです。信じる=無条件に受け容れる。義無きを以って義とする。聖なる甘え。きよらかなおそれ。これらを知らない心的身体的状態になってしまった。・・・  ★ 「それは必ず社会化する、土着し変容する、慣習化し、権力と癒着し、拘束力を持つに至る…。要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる」。  ☆ これは そのように欲し実際に画策し奔走する人間たちがいるからです。これを 公民志向のアマテラス族と言います。つまり要するに 社会を二階建てにしようとする動きです。またそれを保守する動きです。対内的な帝国主義的運動です。これを 個人に即して捉えるとアマアガリと言います。(アマクダリの逆ですから 分かりやすい)。  要するに このアマアガリ・シンドロームに罹ると あそこの島は もともとわれらが所有になるものなり。行って アマテラシテ( l'amatérasité; das Amaterasität; amaterasity; lo amaterasitad )なる徳の下に人びとを言向けやわせと勅(みことのり)します。すべては この神勅から始まる物語のもとに推移することになります。  《神》をつくり その神を体した人間が現われ そのミコト(御言)が宣せられたなら ことはすべてそのように運ばれる。《要するに、非個人化し、個々人の意志では如何ともしがたい圧力となる》。クウキのことです。  むろん そういう《観念の神の独り歩き》が アマアガリ――ひとつの社会勢力が他の勢力や人びとを飲み込むという単独分立を経て 全体的に徳による感化をつうじての独裁制を敷くこと――のために大いに欲せられ望まれるものであり じっさいにその神操作を行なうものではあっても これを中止するとか削除する気遣いはなくなります。  ですから ちなみにこのような観念の帝国主義を基礎として成り立った社会は じつは もろい。なぜなら 別の同じような武力と嘘の帝国主義とどっこいどっこいだからです。あそこの島は 悠久の昔からわが国の領土なりと宣せられたなら アマテラス帝国のほうは 抗弁する理由がなくなります。(現行の実効支配も もとはと言えば かの神勅より発しているものだからです)。  すなわち これらはまさに観念の神によるオママゴトであります。千五百年もあるいはあちらでは何千年もつづいているようです。  第二段の相互全面破壊を避ける考えがあることについては もうそのままとします。    第三段。不可知が要らないとしても こちらは構いません。手間が省けます。問題は 非知ですから。  第四段。  《非経験の場 (として想定するもの)》であるとか《非知 (知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ)》という説明が 理解できないというのは おかしいと思います。  《観念の神》ではない神が想定され人びとは 自由にその神をいだくことができるという意味です。すなわち 良心・信教の自由という公理です。――これが 理解できないというのは おかしいです。  第五段。  ★ 「あらゆる科学・学問を、飽くことなく探求する姿勢を失わないでいる心性の維持」を、神に「一時預かり」してもらうという主旨を表現したつもりです。  ☆ それですと そういう問題として受け取られるでしょうが この質問における《神は人間がつくった》説の検討とは別ですね。    《神に「一時預かり」》と言っても 探究の過程でエポケーしたということと同じであるはずですから 神の問題ではないと思われるのです。  第六段。  ★ 「メートル原器」ならぬ「道徳原器」・「共通規範」を失う、ということです。  ☆ これは 分かりづらいですね。《道徳原器》というのは 人間の自然本性にそなわった――潜在性としてでもの――人間性(人間関係性)でしょう。《共通規範》は 言ってみれば たとえ法律が敷かれていても つねに一部の人びとのあいだで失われています。  ★ 前便にも書いたように、神が消えるなら、すなわち神という「判断基準の原器」がなくなれば、その神もろとも「当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅する」、ということです。  ☆ ですから その神は 観念の神として《判断基準の原器》だと仮りに見なされているだけのものです。《原器》は ひとの身と心すなわち自然本性に――潜在性としてでも――あるというのが やはり公理なのではないですか?   信仰としては アートマン(霊我)・ブッダター(仏性)・ルーアハ(神の霊)等々という《原器》を立てますが 同じことでしょう。  つまり この場合は 人間が観念の神をこしらえる前から《非在》として存在していたと想定する神ですから その霊は うつろいゆくことのない原器です。想定としてですが。  観念の神は 消えてもかまいません。作成のときにすでに削除しても いいわけです。何ら問題は生じません。むしろそれを作成することのほうが 問題です。インチキの神を持つに過ぎないからです。  ★ 小滝『神の世界史』は、「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」と表現したのでしょう。  ☆ そんな大げさなことはないですよ。ムラが出来て人びとが共同生活を始めたなら その社会は 経済的にも心の問題としても 共同自治が成り立って行きます。そして確かに その人間関係ないし社会関係における問題の処理は 人びとそれぞれの心のあり方をとおして ナラハシとなってまたオキテとされて むしろ自然過程として行なわれて行くと言ってもよいくらいだと考えます。  そこへ 七面倒な《観念の神》を 守るべき倫理規範として持ち出すのは アマアガリ症候群に罹った人間たちです。しかも この観念の神が消えたら おまえたち庶民は 人間的な倫理ということすら知らないぢゃないかとさえ嘯こうとします。王化の徳をおぼえなさいとしきりにほざきます。いまも そうでしょう。本を書けばよいってなものではないでしょう。本に書けば それが 世界認識として妥当であるとは限りません。  ★ 世間ではしばしば、「そんなことは私の勝手だ。私の自由を奪うのか!」などと言って、自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。  ☆ そういう人もいますが そのとき第三のグループもいると知らねばなりません。アマアガリの大将たちは 人びとの自由を奪うために自分の主義主張をうったえこれを実現しようとするのではなく あくまで お節介であろうとも 人びとの自由と安寧を守るためだと見てあげなければならないとし このことは百も承知な人びとが 第三グループであり さらにはそのお山の大将たちは やはりアマアガリ・シンドロームに罹っているとは見ています。  すなわち アマテラス志向の人間というのは 自分がこしらえた自分の神が これこれこう言っているからには おれはその神に従わざるを得ないのだと その神は自分がつくったということを忘れて 叫び続けるというものです。ほとんどビョーキです。自分に催眠術をかけているわけです。そんな神は インチキの神だと言ってやっても 聞く耳を持たないというのが アマアガリ症候群です。ビョーキです。  ですから アマテラス公民たちお二階さんは 一階の市民社会にいづれ大政奉還をしなければなりません。  ★ 自由の名の元にとんでもないことをする人がいます。それは、規範の基準に関する「原器」〔は 生まれつきそなわった自然本性であると知らず または知っても自分をごまかし 忘れてしまい この原器〕を持たない〔という思想に立ち〕[・・・]「私が法律だ」――あるいは わたしが神だ――と〔言ってお節介をすると〕いう[・・・]振る舞いだと思います。    第七段  アリョーシャについて:  ★ 要点はこうです。“「神にいてもらう」のは、「人間自身が勝手に神の台座に座らないようにする」ためでもある”わけです。  ☆ これは 《神にいてもらう》画策をしているわけです。政治的運動をおこなって その思想を普及させようとしています。あたかもそれをする《われは 神なり》と言わんばかりになって。アマアガリ・・・。  ★ 「自己神格化」をしないように”という自戒の念  ☆ を語る者は ただしく神聖なる人間だと言わんばかりに。そういうアマアガリ政治運動であると見ざるを得ません。なぜなら 観念の神は ただちにポイと捨てれば済むことなのですから。  さて  ★ 「大いなる行き違い」  ☆ は どこまで埋めることが出来たでしょうか。

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その他の回答 (21)

noname#206380
noname#206380
回答No.11

大川隆法だろーと 麻原 彰晃だろーと 師と仰げば良いのです・・・ 間違ってても ついて行く・・・その師弟関係は素晴らしい・・ 間違ってたら直せば良いだけ・・ あなたは 間違ってても直さないだけ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 だから 何とかいい俎板の上に載せる鯉をさがして 批判し切ってあげますから。  ご投稿をありがとう。

bragelonne
質問者

補足

 大川隆法は 話にならない。  発言や論文の資料がほとんどないのも問題だが 守護霊となっての話 これは 話にならない。何を言えばよいかって 何もない。  という答えになります。  肩すかしであるかも知れないが いい資料があったらおしえて欲しい。  

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.10

1神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら  その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  ↑ お金は人間がつくったものに過ぎないのに、そのお金を 人間は仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来て いるでしょうか。 お金に振り回される、政治、人生になっていませんか。 国家もしかりですね。 国家は人間の為に存在するのに、国家の為に犠牲になる ことがなんど多いことか、挙げ句の果てには戦争まで やります。 2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに  人間は神をあやつれるのではないか?       ↑ お金は万能ではありませんが、人間はそのお金を 自由にあやつれているでしょうか。 3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだという クレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。 それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?       ↑ 神にも良いところがあります。 神がいるから道徳が出来たのです。 金とという制度が出来たので、人間は豐になれたのです。 4神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだ  というあやまちに落ち入っているのではないか?        ↑ 神は人間の世を少しでも良くしようとして 人間が創造したのです。 5.いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?      ↑ 神は概念ですから、神を論じることこそ観念の 遊戯にすぎません。 ・神は全知全能である。 ・なら、どうしてこの世には矛盾ばかりがあるのか。  人間はどうして不幸になるのか。 ・神の御心は人間には理解できないのだ。 こういうのを観念の遊戯というのです。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ お金に振り回される、政治、人生になっていませんか。  ☆ けれども お金は 経験的な事物であり事象です。或る程度において経験的な法則すらをも得ることが出来ます。まったく神とは 違いますね。  ★ 国家もしかりですね。  ☆ これも――確かに制度であって 社会の仕組みであるからには 手に取ってどうにかするというわけには行きませんが それでも―― わたしたちは自分たちの社会的な・共同自治としての行動を採ることは出来ます。  これまでの歴史において 初めから全然変わっていないということはありません。国家は いつかの段階で誕生したのですし やがてさらにかたちを変えて行かないとも限りません。まったく神とは別です。  もし人間がつくったというのなら いやなら直ちに消してしまえばいいのではないのですか? 神の場合 それをおこなうのは まったく自由であり個人の意志行為として即座に可能です。  これで (2)のお答えについても返答しえたと考えます。    ★ 神がいるから道徳が出来たのです。  ☆ 倫理を考え それをナラハシとしてか またはオキテと言うべき規範としてか その倫理観をまとめることを人びとはおこないます。  この道徳をつくったときにその普及のために 神を――つまり観念の神をも――つくりあげ その遵守のためにも利用した。という順序ではないでしょうか?  たとえそうでなくても 神も道徳も 人間がつくったということですから 順序は同時でしょう。時間的歴史的にどうかというよりも 考え方として けっきょく同時につくったということになりませんか? もし神をも人間がつくったというのならです。  ★ 金とという制度が出来たので、人間は豐になれたのです。  ☆ 等価交換という仕組みにおいて 組織的あるいは社会全体的な分業を互いの協業としてのハタラキにおいて活用できたということでしょう。  神については 《いい仕様》がありましょうか?  ★ 神は人間の世を少しでも良くしようとして / 人間が創造したのです。  ☆ 動機がよければ 何もかも よいこととして認められますか? いい機能を持っていてこれを操作していい結果をもたらすような仕様があるか無いか だけではありませんか 問題は?  このいまの問いとしての反駁は 次の命題に対しても有効だと考えます。:  ★ 神は概念ですから、神を論じることこそ観念の / 遊戯にすぎません。  ☆ その遊戯の中からでも 《神の・人間による創造》説を無効であるとする有益な議論が出来ます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ・神は全知全能である。  ・なら、どうしてこの世には矛盾ばかりがあるのか。   人間はどうして不幸になるのか。  ・神の御心は人間には理解できないのだ。  こういうのを観念の遊戯というのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それは 《神》を知らないからです。人間が認識しうるもの(観念)として神を捉えることしか出来ないからです。《非知》であることを知らないからです。      

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

色んな定義の神が、概念として想像され、存在していると私は思います。 ブラジュロンヌさんの神も、仮定の元に存在しているのではなかったでしょうか? 仮に神を全知全能の存在として、空想する。その空想の中では神は全知全能である。しかし実際にその神を物理的に顕現させることはできない。その神は概念のみで構成される存在だから。 人間が作り出したというのは語弊があって、人間が、概念として、永遠とか、全知全能とか言うことを朧に見出した、とか言う方がいいのではないでしょうか。 朧故に、個人個人によって神のイメージや定義がマチマチであることは避けられないのが現状だと思います。永遠とか、全知全能という概念を、具象として経験することは出来ないと考えられるからです。そして、これが出来ない故に、神は概念上の存在であり、完全にメタフィジカルなものであると言えるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  例によって質問者の考えを歯に衣着せずにぶつけてまいります。  ★ 色んな定義の神が、概念として想像され、存在していると私は思います。  ☆ 《存在している》には 物言いがつかざるを得ません。  定義があり概念として持たれ それをめぐっていろんな想像もが成されて行きます。ここまでは 大方の共有する認識でしょう。  そして まづ《言葉としてまたその想像として その観念が存在する》と言えば あたまの中に《存在》しています。そういう言い方も成り立ちます。  問題は その《存在》とは どういうことか? にあります。    けっきょく結論は 《観念》です。じっさいの経験事物とは――神は――対応していません。(対応するか否か それは人間には決して分かるものではありません)。  つまり 観念として存在することは 経験事物としては存在していない。となります。  すなわち:  ★ 仮に神を全知全能の存在として、空想する。その空想の中では神は全知全能である。しかし実際にその神を物理的に顕現させることはできない。その神は概念のみで構成される存在だから。  ☆ ですね!!  ★ 人間が、概念として、永遠とか、全知全能とか言うことを朧に見出した、とか言う方がいいのではないでしょうか。  ☆ いえ。《おぼろに見出した》というのは 《観念としての存在〔のみ〕》のことを言いますから。  次は あいまいですね。つまり両義性を持ちます。ふたつの解釈が出来ます。:  ★ 朧故に、個人個人によって神のイメージや定義がマチマチであることは避けられないのが現状だと思います。永遠とか、全知全能という概念を、具象として経験することは出来ないと考えられるからです。そして、これが出来ない故に、神は概念上の存在であり、完全にメタフィジカルなものであると言えるのではないでしょうか。  ☆ (あ) ゆえに 神は――集団としてであるにせよ個人個人がまちまちにであるにせよ――持たれたなら その神は人間がつくったのだと説く立ち場。  (い) いやいや ひとはただ すでに神としてどこかに存在する〔と想定してある〕そのナゾを イメージや定義として規定したに過ぎないのであって 人間がつくったのではなく それは人間の存在の以前に〔想定じょう〕存在していたと言わなければならないという立ち場。  したがって(あ)の立ち場であるなら その自分がつくった神を――けっきょくただ観念じょうのアソビとしてにしかならないでしょうが―― 好きなように操作し利用すればよいではないか。というのが この質問です。  つまり そんなことをしても意味を成さないのですから この(あ)としての神の・人間による創造説は 成り立たないのではないかと言っています。

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noname#206380
noname#206380
回答No.8

だってさぁ(笑) 「堕落性本性」を取り除けば良い‥なんて言っても あなたが どうすれば堕落性本性を取る事が出来るのかも 知らない訳なので・・・(笑) そして 知ったとしても あなたには 未だ無理・・

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ 大川隆法の思想を論駁してしまえばいいのですね。  まぁ 待っててください。  ご回答をありがとうございます。  時間を取り決めていないので その点 申しわけないけれど。(一度すでにやったのだけど)。

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noname#206380
noname#206380
回答No.7

日本のルネサンス・・・ですか(笑) もう 復活してるのに(笑)・・・復帰歴史は終わりに近づいています・・ それを知らない人が多いだけ・・ だって 中心から遠い場所に居れば 知るのは後になるのは当たり前の事・・ 知りたければ  その中心に向かって進めば良いものを あなたはドンドン離れて行ってる・・

bragelonne
質問者

お礼

 その史観は まだ――まだ―― 独りよがりです。  人びとに対してきちんと説明し受け容れられつつあるときに そういうデカイ口をたたくのが 人間です。  《中心》というのは 人ひとりいればその人が それになります。ふざけた世界観や歴史観を勝手に口に出してみても話になっていません。  復興が課題であり 万葉集 いや億葉集のルネサンスとして一人ひとりの生活の問題です。  あなたのようにもったいぶるのは 話にならない。と知るべきでしょう。  ご回答をありがとうございます。

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  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1120/8896)
回答No.6

自由意志というのが錯覚では。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  錯覚でも仮象でも 機能していればいいんぢゃないですか?  かいたら1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

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noname#206380
noname#206380
回答No.5

あのさぁ 質問者は回答を批判するのでは無く あなたが知らない事を質問しなさい・・ あなたの頭で 既に答えが出来てるのなら 質問自体必要無いのです・・ 何故 質問と称して同意回答を求めるの!?・・

bragelonne
質問者

お礼

 あのさぁ この神についての見方が 間違っているあいだは 何にも質問できないと来ています。ジョウシキがいけないのです。  これぢゃぁ 何にも話が始まらない。と来ています。  だから 大いに・そしてこれが先決問題として 必要なのですよ。  同意回答や賛成票がたとえば過半数を占めるようになれば つぎの新しい質問へすすみます。  だいたい こういう事態であり情況の内実でありましょう。    でもね。鮭2さんのようにこうやって 何で知っていることを訊くのかと突っ込んでくれると すっきりとしますね。  ご回答をありがとうございます。  すべては 日本のルネサンスのためです。

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  • take-on3
  • ベストアンサー率14% (176/1183)
回答No.4

新興宗教を見ても分かるように 神は利権者の自由に操られていますが…。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですか。利用価値があるし じっさい効いている。ということでしょうか?  ていく-おん3さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうしますと 或る時には 全知全能なる神として そして或る時には 全知全能でなくても慈悲深い神であるとして 使い分けしつつ利用されていて それはじゅうぶん効果がある。――こういうご見解でしょうか?  しかし それほどいいようにあやつられるような馬鹿で阿呆なのでしょうか われわれは?

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  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.3

観念のおままごと? 自己紹介お疲れ様。

bragelonne
質問者

お礼

 という自己紹介でしょうか。  それでも そういう人間という存在なのでしょうね。ご同情申し上げます。  ご投稿をありがとうございます。

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  • bardfish
  • ベストアンサー率28% (5029/17765)
回答No.2

情報交換? 妄想の晒し合いにしか見えませんがww 大昔、科学や理論とは程遠かった時代に人間社会は自然の脅威にさらされていた。 人間ごときでは太刀打ち出来ない自然災害に対して「見えざる恐怖」というものは支配者にとっては都合のいいものではなかった。 そこで「全知全能の存在」を作り上げ「すべての厄災は我々への試練であり、試練を乗り越えてこそ繁栄がある」と恐怖に立ち向かう勇気を奮い立たせるために「神」というものをでっち上げた。でっち上げではないかもしれないが曖昧なから人知の及ばない存在というものは感じていたのかもしれない。 天災を乗り越えたら「神の奇跡」とか「神の御業」にし、甚大な被害が出たら「神の試練」のせいにして責任の所在をあいまいにしたり、原因解明を始めとする「考える事」を放棄させて支配者たちは自分たちの地位や権力が民衆に簒奪されないように神という架空の存在を利用した。 それがやがて宗教の形を得始めると組織的に支配力を強めていき絶対的存在になり、民衆の生活に無くてはならないものに発展していった。 組織が大きくなっていくとすべての構成員に戒律を守らせることができなくなるのは必然だから権力の略奪が発生する。そのために分裂して諍いを始め、果てには宗教戦争などという愚かな行為であっても「神の名のもとに」を免罪符にして正当化してしまう。 人間は往々にして理解不能な事象を「神」にからめて思考停止することがある。 理解不能な対象が人間だと「悪魔憑き」にしてしまい、自然現象だと「神の御業」にしてしまう。なんとも都合のいい思考ではないか。 「神」と言うのは大勢の民衆を統率するための管理システムの一部である。 と、考えることもできるのではないか?

bragelonne
質問者

お礼

 ばーどふぃしゅさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  初めに余計なことが書かれていますが ないがしろにします。  ★ 「全知全能の存在」を作り上げ  ☆ これが 仕様であるなら そのようにつくり上げた仕様のとおりに人間がその存在をあやつり使えばよいのではないのですか?  それを何故:  ★ 「すべての厄災は我々への試練であり、試練を乗り越えてこそ繁栄がある」と恐怖に立ち向かう勇気を奮い立たせる  ☆ というふうに別のかたちで用いるのですか? 全知全能で《自然の恐怖》をすでに予防して取り除けばよいのでは?  つまり 人間が神をつくったなどという見方は ただのお医者さんごっこだということが明らかです。  つまり  ★ 天災を乗り越えたら「神の奇跡」とか「神の御業」にし、甚大な被害が出たら「神の試練」のせいにして  ☆ だと言うのなら 全知全能だという仕様がインチキだったという話です。それ以外にはなりません。だから オママゴトだと言っています。  いつ:  ★ 原因解明を始めとする「考える事」を放棄させて支配者たちは自分たちの地位や権力が民衆に簒奪されないように神という架空の存在を利用した。  ☆ なんてことがありましたか? 利用しようにも そんな仕様では何にも成らなかったに過ぎません。ふざけてはいけません。寝ぼけていてはダメですよ。  仕様を変えて用いていても それはありだと成るのですか? そのつど内容をいいように規定してその神を用いればよいのだという意味で おっしゃっていますか?  そのインチキにも気づかないあなたたち一般の人びとは 阿呆ばかりだという意味ですか?     つづく箇所では 同じ批判をこちらから繰り出すだけになりますので ひかえます。  最後のところ:  ★ 「神」と言うのは大勢の民衆を統率するための管理システムの一部である。  ☆ ですから そういう事態になるのは 《神は人間がつくった》なる神学=人間学を説く人びとの所為ではないのですか? そういう神観を持つに過ぎない人びとが多いからこそ ヘンテコリンな統治や管理の仕組みが出来上がってしまっているのではないですか?  権力の側も ほかの人びとの側も 同じ穴のムジナではないのですか? 神にかんしてあやまった捉え方をするそのオママゴトを繰り返しているから いつまで経ってもいやな世の中なる部分が多いのではないですか?  

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  • 貴方が全知全能の神だったら どういう世界を創るか?

    全知全能の神は居ない様ですねえ もしあなたが全知全能の神だったら「この現実」ではなく どの様な世界を作りますか? 人間を作るか否か 作るならどういう風に作るか。 もしあなたの自由になるとしたら・・・どの様な世界を?創りますか

  • 神は人間の投影だと言う。では 全知全能もそうか?

     神は 人間の投影だと言う。 では 全知全能もそうか?

  • 「神」について。

    「神」について思うことを教えてください。 私は、人間の願いを都合良く聞いてくれる全知全能の神は到底信じられませんが この世の全てを統べる法則がもしあるのなら、それを「神」と呼ぶことに異存はありません。

  • 質問は、神が人間を創造したのか、いや、人間が神を捏

    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?

  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • 全知全能の神が・・・なぜ

    全知全能の神が なぜ 生まれながらに罪を持った人間を創造したのですか? また、それを悔い改めよとおっしゃるのはなぜですか? 罪があるのは人間の責任ですか?

  • 神は存在しないのか?

    苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。 その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明 したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから) 完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。 しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも 人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた 完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか? つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか? まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか? 私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。 肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも 教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

  • 神になった?

    加藤元浩の漫画『アクトレイザー』では主人公のダーツは人間でありながら全知全能の神になった事がありましたが、あれは架空の話ですか?

  • 神様の存在について

    ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。 神様の存在についてです。 私は特に信仰している宗教はありませんが、ギリシャ正教会に属する方との交流が過去にあり、そこから沸いた疑問になります。 私は無宗教といえど、物心ついたころから神様という言葉を耳にし、ああ、もしかしたらいるのかもしれないなと思いながら育ち、今に至ります。 ただ、そういう認識に至るまでには言語習得であったり、教育であったり、何かのきっかけや、条件があったように感じられます。またそれらは神様を認識するにあたり必要不可欠なのではと思うようになりました。 そこで、です。 例えば特殊な環境で育った赤ん坊がいたとします。両親どころか、まったく人の手で育てられておらず、言葉も話せません。(例えなのでこういう環境で人間が生き延びることができるかは、問題にしません) そういった特殊な人間も、いずれは神様の存在について意識が芽生えるのでしょうか。ぼんやりとした概念のようなものが頭に浮かぶのでしょうか。 神様というのは、全知全能で普遍的だと聞いたことがあります。 ですが、もしその存在を私たちがある一定の条件のもとでしか認識できないのであれば、これは全知全能で普遍的といえるのでしょうか。 考えれば考えるほど、神様の存在は限定的に思えてしまいます。 神様の存在と、こちらからの認識や観測を結びつけてしまうのは、そもそも間違いでしょうか。

  • 天皇が人間宣言を行うまで国民は真に天皇を神様だと思っていたのでしょうか

    天皇が人間宣言を行うまで国民は真に天皇を神様だと思っていたのでしょうか? 人間とは仮の姿で本当は全知全能の神なのだと。 もしそうであれば人間宣言は国民にとって青天の霹靂で、それこそズガーンと いかづちを落とされるようなショッキングな出来事だったんじゃないかと思うんです。 しかし教科書ではこの辺サラッと流されてしまい、国民のショックが全く伝わってきません・・・。 子供の頃このことを祖父に何度か訊いたことがあるのですが、いつも有耶無耶な感じで 返されてしまい、結局納得できる回答を得ることは出来ませんでした。 今思えばはっきりと口にしたくなかったのかな・・・。 当時の国民は人間宣言を行うまで天皇を真に全知全能の神だと思っていたのか、 また国民は人間宣言をどう受け取ったのか、ご存知の方いらっしゃいましたらよろしくお願いします。