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神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.9

色んな定義の神が、概念として想像され、存在していると私は思います。 ブラジュロンヌさんの神も、仮定の元に存在しているのではなかったでしょうか? 仮に神を全知全能の存在として、空想する。その空想の中では神は全知全能である。しかし実際にその神を物理的に顕現させることはできない。その神は概念のみで構成される存在だから。 人間が作り出したというのは語弊があって、人間が、概念として、永遠とか、全知全能とか言うことを朧に見出した、とか言う方がいいのではないでしょうか。 朧故に、個人個人によって神のイメージや定義がマチマチであることは避けられないのが現状だと思います。永遠とか、全知全能という概念を、具象として経験することは出来ないと考えられるからです。そして、これが出来ない故に、神は概念上の存在であり、完全にメタフィジカルなものであると言えるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  例によって質問者の考えを歯に衣着せずにぶつけてまいります。  ★ 色んな定義の神が、概念として想像され、存在していると私は思います。  ☆ 《存在している》には 物言いがつかざるを得ません。  定義があり概念として持たれ それをめぐっていろんな想像もが成されて行きます。ここまでは 大方の共有する認識でしょう。  そして まづ《言葉としてまたその想像として その観念が存在する》と言えば あたまの中に《存在》しています。そういう言い方も成り立ちます。  問題は その《存在》とは どういうことか? にあります。    けっきょく結論は 《観念》です。じっさいの経験事物とは――神は――対応していません。(対応するか否か それは人間には決して分かるものではありません)。  つまり 観念として存在することは 経験事物としては存在していない。となります。  すなわち:  ★ 仮に神を全知全能の存在として、空想する。その空想の中では神は全知全能である。しかし実際にその神を物理的に顕現させることはできない。その神は概念のみで構成される存在だから。  ☆ ですね!!  ★ 人間が、概念として、永遠とか、全知全能とか言うことを朧に見出した、とか言う方がいいのではないでしょうか。  ☆ いえ。《おぼろに見出した》というのは 《観念としての存在〔のみ〕》のことを言いますから。  次は あいまいですね。つまり両義性を持ちます。ふたつの解釈が出来ます。:  ★ 朧故に、個人個人によって神のイメージや定義がマチマチであることは避けられないのが現状だと思います。永遠とか、全知全能という概念を、具象として経験することは出来ないと考えられるからです。そして、これが出来ない故に、神は概念上の存在であり、完全にメタフィジカルなものであると言えるのではないでしょうか。  ☆ (あ) ゆえに 神は――集団としてであるにせよ個人個人がまちまちにであるにせよ――持たれたなら その神は人間がつくったのだと説く立ち場。  (い) いやいや ひとはただ すでに神としてどこかに存在する〔と想定してある〕そのナゾを イメージや定義として規定したに過ぎないのであって 人間がつくったのではなく それは人間の存在の以前に〔想定じょう〕存在していたと言わなければならないという立ち場。  したがって(あ)の立ち場であるなら その自分がつくった神を――けっきょくただ観念じょうのアソビとしてにしかならないでしょうが―― 好きなように操作し利用すればよいではないか。というのが この質問です。  つまり そんなことをしても意味を成さないのですから この(あ)としての神の・人間による創造説は 成り立たないのではないかと言っています。

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