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神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

bardfishの回答

  • bardfish
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回答No.2

情報交換? 妄想の晒し合いにしか見えませんがww 大昔、科学や理論とは程遠かった時代に人間社会は自然の脅威にさらされていた。 人間ごときでは太刀打ち出来ない自然災害に対して「見えざる恐怖」というものは支配者にとっては都合のいいものではなかった。 そこで「全知全能の存在」を作り上げ「すべての厄災は我々への試練であり、試練を乗り越えてこそ繁栄がある」と恐怖に立ち向かう勇気を奮い立たせるために「神」というものをでっち上げた。でっち上げではないかもしれないが曖昧なから人知の及ばない存在というものは感じていたのかもしれない。 天災を乗り越えたら「神の奇跡」とか「神の御業」にし、甚大な被害が出たら「神の試練」のせいにして責任の所在をあいまいにしたり、原因解明を始めとする「考える事」を放棄させて支配者たちは自分たちの地位や権力が民衆に簒奪されないように神という架空の存在を利用した。 それがやがて宗教の形を得始めると組織的に支配力を強めていき絶対的存在になり、民衆の生活に無くてはならないものに発展していった。 組織が大きくなっていくとすべての構成員に戒律を守らせることができなくなるのは必然だから権力の略奪が発生する。そのために分裂して諍いを始め、果てには宗教戦争などという愚かな行為であっても「神の名のもとに」を免罪符にして正当化してしまう。 人間は往々にして理解不能な事象を「神」にからめて思考停止することがある。 理解不能な対象が人間だと「悪魔憑き」にしてしまい、自然現象だと「神の御業」にしてしまう。なんとも都合のいい思考ではないか。 「神」と言うのは大勢の民衆を統率するための管理システムの一部である。 と、考えることもできるのではないか?

bragelonne
質問者

お礼

 ばーどふぃしゅさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  初めに余計なことが書かれていますが ないがしろにします。  ★ 「全知全能の存在」を作り上げ  ☆ これが 仕様であるなら そのようにつくり上げた仕様のとおりに人間がその存在をあやつり使えばよいのではないのですか?  それを何故:  ★ 「すべての厄災は我々への試練であり、試練を乗り越えてこそ繁栄がある」と恐怖に立ち向かう勇気を奮い立たせる  ☆ というふうに別のかたちで用いるのですか? 全知全能で《自然の恐怖》をすでに予防して取り除けばよいのでは?  つまり 人間が神をつくったなどという見方は ただのお医者さんごっこだということが明らかです。  つまり  ★ 天災を乗り越えたら「神の奇跡」とか「神の御業」にし、甚大な被害が出たら「神の試練」のせいにして  ☆ だと言うのなら 全知全能だという仕様がインチキだったという話です。それ以外にはなりません。だから オママゴトだと言っています。  いつ:  ★ 原因解明を始めとする「考える事」を放棄させて支配者たちは自分たちの地位や権力が民衆に簒奪されないように神という架空の存在を利用した。  ☆ なんてことがありましたか? 利用しようにも そんな仕様では何にも成らなかったに過ぎません。ふざけてはいけません。寝ぼけていてはダメですよ。  仕様を変えて用いていても それはありだと成るのですか? そのつど内容をいいように規定してその神を用いればよいのだという意味で おっしゃっていますか?  そのインチキにも気づかないあなたたち一般の人びとは 阿呆ばかりだという意味ですか?     つづく箇所では 同じ批判をこちらから繰り出すだけになりますので ひかえます。  最後のところ:  ★ 「神」と言うのは大勢の民衆を統率するための管理システムの一部である。  ☆ ですから そういう事態になるのは 《神は人間がつくった》なる神学=人間学を説く人びとの所為ではないのですか? そういう神観を持つに過ぎない人びとが多いからこそ ヘンテコリンな統治や管理の仕組みが出来上がってしまっているのではないですか?  権力の側も ほかの人びとの側も 同じ穴のムジナではないのですか? 神にかんしてあやまった捉え方をするそのオママゴトを繰り返しているから いつまで経ってもいやな世の中なる部分が多いのではないですか?  

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