試行錯誤上などでの意思決定

このQ&Aのポイント
  • 試行錯誤を通じた意思決定の重要性
  • ハイエクの設計的合理主義と進化論的合理主義の意思決定の違い
  • 経験と参考に基づく意思決定のアプローチ
回答を見る
  • ベストアンサー

試行錯誤上などでの意思決定

ハイエクの言う設計的合理主義の意思決定と進化論的合理主義の意思決定があると思います。 フランスなどの合理論は演繹法などで論理学などでは、結論を早くわかるというのは有利さがあると思います。けれどハイエクの批判通り人の解決はどちらかいえば破壊的ですし、理性も知っている範囲にすぎません。 この意思決定は明晰にして、設計すれば答えがとりあえずでます。 結論を急いでいる状態ですね。 実際、長くしないとわかってこないことなんて多いですね。それで理系などの科学はともかく、世の中のことは試行錯誤などで現在はこれが正しいとかしか言えないことっておおいと思います。 意思決定って経験など参考にしながらする場合、どうすればいいのでしょう? 部分的に明晰に進めるとか? 言い切ったりできない状態ではあるかと思います。 意思決定ってどうするべきでしょう?

noname#209756
noname#209756

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

倫理学的には、ゲーデルの不完全性定理において、「公理系は 不完全である場合にのみ、無矛盾であり得る」という証明が なされています。 還元的手法で、階層現象(認識体(脳)>細胞>分子>原子> 素粒子>クォーク>超弦(量子))を遡って確定しようとすると、 無限不確定性(=無)に発散するものを、経験的に階層現象 表面的に(いい加減に)捉える事で、有限な存在性は可能に なる=宇宙は生じているのだ。 1.自我成立の必要として、環境性は相補分化している。 2.“何かあるんじゃないの”という疑問として世界は生じ、   “本当は何も無い”=無の射影として存在(量子)はある。 3.それを“経験”的に有限化する=異なるプランク定数hの   時系列化(hの収束=物体の収縮=宇宙の膨張)によって、   時間の流れ(経験=過去=超光速)となり、空間の広がり   (予測=未来=光速下)との相補分化は可能となる。 4.その非光速性は、本質的に光速に還元するもの(物質=   超弦=量子定常波=光速、認識=感受表面での量子相互   作用=光速)を、階層的な現象を表面的に捉える事で   派生している虚像である。 5.そうした仮説的時空の広がりへの無の射影としての存在   において、自我仮説性=潜在的認識可能性の時系列化の   残りの認識可能性=自我の射影が他人である。 6.人は認識の深まりにおいて、自己の必要としての環境や   自我の射影としての他人を、他我化する=愛によって   肉体としての自己を超えて宇宙としての自己(愛)に   至る事で、有限の苦しみから解脱し得るのだ。

noname#209756
質問者

お礼

難しいのですけど、なんとなく相互作用の中から射影や補完などがでてきて。 多分、おっしゃる通りです。 認識の深まりって大事な概念です。 難しすぎるので、また理解していきます。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.1

"意思決定ってどうするべきでしょう?"   ↑ 歴史との連続性を切断しない、ということが 重要だと思います。 試行錯誤という歴史の結晶が伝統であり、しきたり習慣、常識 などです。 だから、それらとの整合性を考えながら 判断する、という保守の考えが合理的だと 思います。 そして、試行錯誤が出来るようにする為には 自由が必要です。 自由な環境が大切だということです。 社会主義は、この自由を否定して、大失敗した わけです。

noname#209756
質問者

お礼

正論からスタートするから自由がないのかと思います。 歴史を切断しないというのは大切ですね。 ご回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • イギリス、フランスの帰納法演繹法的と保守進歩

    日本の保守的なというもののイメージは古い慣習を守って、新しいことをしないですね。 進歩的は非倫理的にも、新しいことをする。 政治では保守系、革新系とわかれますね。 西洋ではイギリス、フランスの対比がよくいわれますけど。 イギリスは伝統を大切にして、イギリス経験論の哲学を持ち、帰納法、ハイエクは進化論的合理主義で考える。 フランスは理想を大切にして、大陸合理論(現代ではポストモダン)の哲学があり、演繹法、ハイエクは設計的だと思います。 あくまで、傾向かと思いますけど。イギリスのほうが不安が少なく、最近ではプレミアリーグの収益力やロンドンの金融などがありますね。 フランスは、自動車やブランド、農業などで、新しい政策を考えたりしますね。 どちらかいえば、イギリスのほうが新しいことをして、経験していく感じで。日本の保守的とは違う感じですね。 哲学はイギリス経験論と大陸合理論はドイツ観念論になっていきますが、ドイツはおいておいて。 最近は、進歩的のほうが発展するように思えますけど、フランスのほうがイギリスより発展しているとはいえませんね。 この対比って、保守対進歩なんでしょうか?演繹法と帰納法的なんでしょうか? どちらが優れているとは言えないのでしょうか? もともと、。日本ってどちらが近いのでしょう?

  • 慣習と比較優位(フランスをとおして)

    フランスでは法哲学として勢いは失っているようですが、自然法が発達していると聞きます。 法律、アメリカにうつるまでの哲学、ファッション、食事など様々だと思います。 同じ先進国でも産業ではイギリスは金融、ドイツは工業ですね。 やはり世界の最先端のものを生み出す比較優位を生み出す習慣などやはり存在するのでしょうか。 (ハイエクはフランスを設計主義的合理主義、イギリスを進化論的合理主義といってます。) 学問の場合は、そこに学ぶものがあるという形になると思いますが。 それに比べ、日本人は勤勉とかすり合わせができるとか。これって浅い(もしくは産業での)比較優位を生み出す習慣なのでしょうか?

  • 哲学ってベストは存在しない?(経験論と合理論)

    イギリス 経験主義 フランス 構造主義、啓蒙、合理主義 ドイツ 観念論 欧州ってそれぞれの国の哲学って特色がありますね。 イギリスとフランスはよく対比されますね。 フランスの場合、合理主義で演繹法とすれば、論理学上結果を求めているなどいろいろつながっていくかと思います。 現在でも、一人当たりのGDPはわずかにイギリスより上です。(ただし、通貨が違います) ですが、ハーグ議員やハイエクなど設計主義型合理主義であまりよくないと評されてます。 イギリスは、金融はすごいですけど、サッカーもお金で集めてきて、ロングボールが多いというのも洗練されてない戦術で勝負したりします。 かといって、フランスも国の関与した産業とデザインなどに強みがあるもののイギリスよりも上ともかぎりません。合理主義だと極端にもなるとも。 1.その国によって哲学が違うというのは、特性があって経済上などでベストのやり方、哲学が存在するのではないということなのでしょうか? 2.どちらのほうが優勢などあったとしても、特性で伸びる分野が違ったり、あるいは影響しあったりなどで、単純にはどちらの勝ちとも負けともいえないのでしょうか? 3.日本はどちらに近いのでしょうか?

  • 法律の実務でよくある事なのですが、裁判官がよく行う

    法律の実務でよくある事なのですが、裁判官がよく行う事です。ある結論が裁判官の心の中にあって、その結論に行き着くためだけの証拠だけを採用し、それ以外の都合のわるい証拠は無視する考え方をなんというでしょうか? ちょうど科学と対極にある考え方のようです。客観性、再現性、合理性がある事が科学の定義です。 しかし、法律の考え方はそれこそ昔の魔女狩りとなんら変わりないこう思い込んだ事だけを結論に至るような証拠のみを採用します。 実証主義?帰納論?演繹論は違いますよね。 知ってる方教えてください。

  • 保守主義と知性・理性の錯綜

    社会を頭で改革しようとした人たちは急進左派となり、ハイエクのいう設計型合理主義のフランス(フランス革命のことをさしていると聞いてます。)や労働者が応援する旧共産圏がありますよね。革新派はインテリなどがついたりしますよね。 革新と言われる企業家やヨーロッパのブルジョアが保守的な党を応援していますよね。企業家やブルジョアたちは結構知識があるのになぜ、保守的な政党を支持したりするのですか。アメリカの共和党もそうですよね。人の理性の限界を保守派はいうはずですが。 かといって、フランスの場合はナポレオン3世の時代、理性の限界説よりも理性はいいと考えられてますよね。当時の王政復古した背景からすればそうなると思いますが、かといって当時フランスを訪れたイギリスの学者やハイエクはフランス革命を批判してますよね。 頭で体制を考えると逆に一時期に国民が感情で動くようになりますよね。 私は最近は過度の民主主義、革新よりも良識が重要だと思ってます。 1.民主主義になると少数派は圧迫される原理はわかりますが、なぜ寡頭制の場合に案外逆に少数 派を逆に抑圧しないということがあるのでしょうか。 2.理性、理性の限界、感情が保守、革新であっちこっちに錯綜していてわかりにくいです。 3.暴民的にならず、良識をもちたいというのは保守層にカテゴリーされるのでしょうか。良識も理性と も考えれますが。

  • 神の概念の崩壊後の音楽

    ダーウィンの進化論やニーチェの神は死んだ、とする発言などによるキリスト教的合理主義が崩壊した後のクラシックへの影響とはどのようなものが挙げられるのでしょうか? ドボルザークの新世界はこれに当てはまるのでしょうか?

  • 人為的な合理論などと荀子の礼

    自然の秩序のようなものが大事って、ハイエクなどいってます。 哲学の合理論など、やはり正論からはいるとかなり極端であったり、無理があったりします。 一種の人為的なものが社会主義的(穏健な社会主義が批判にあたるか別として)だとして、荀子の礼というのも人は性悪説として悪いことをしないために型にあてはめるものです。 世の中を性善説にとらえ、悪いことをする人がいないのも変です。 人為的と自然のくみあわせは必要なのでしょうか?礼も経験則なのでしょうか?

  • 決定論は、否定されたのか?01(長文、熟考願う)

    決定論は、否定されたのか? 決定論は、「あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。」 ちょっと、自由意志派や受け取りやすくするのなら、人に限れば、 「その時に応じた、”主観的な最善だと思う”行動を、常にとる。」と、言い換えても、個人的には良いと思う。 最善だと思う行動は、その人がすでにある状態(先行する状態)があり、その上で最善だと思う、ひとつの答えを常に持つ(常に決定される)からだ。 ”決定”って、言葉が、エピキュリアン=快楽主義者なみに、響きが悪いよね。(苦笑 「あとから、違う選択をすればよかった、自由意志によって自由な選択できたはずだ!」というのは、 「行動した結果が、加味された状態での過去の想像上の選択」あって、その行動したという結果がない状態では、その想像上の選択は起こり得なかった、ということ。 左右の道で迷った時、右に行ったら事故にあった。 「あの時、右は不吉な気がしたんだよー。左に行けたはずなのに。」というのは、幻想であって、事故に合う前の段階では、左に行く選択はありえなかった。 決定論に置いて、自由選択というのは、想像上のものか、自由に選択したという意識の中にあるものであって、現実には起こりえない。 ここまでが、序文 質問は、「不確定性原理によって、決定論は完全に否定されたのだ!」という意見もあるが、”不確定性原理の世界”は、ミクロの世界で起こるべきものであって、そもそも規模が違う”現実には(ほとんど)影響がない”のではないか? 99.999999999%が決定的であるのなら、それは決定論の否定にはならないだろう。 有識者のみなさんは、どう思いますか? あと、多少の語彙や認識間違いや誤字脱字は、あなたに意味が伝われば、それで良しとしてくれ。 それでも、「どういう意味で使っている?」というのなら、「こういう意味で使っているのなら×××だ」でも良いし、更に回答をしてくれるのなら、聞いてくれたことに対して、補足する。

  • ダーウィンの進化論

    正直あまり難しいことはわからないのですが、アメリカは進化論を否定、ヨーロッパは肯定? だと記憶してます。 実際どういう結論になっているのでしょうか。 また、もし近い将来科学が論理的に進化論を肯定出来る日が来たら、イスラム教はどうなるのでしょうか? 七日で地球を作ったとされるキリスト教も立場を危うくしますか? 進化論が肯定される日=神が死ぬ日・・とう表現は大仰でしょうか。 ご親切な方の回答期待しています。 And on the seventh day God finished his work which he had made

  • 「進化している」という用語について

    しろうとですが、進化論に興味をもっていて、昨年、惜しくもなくなられた米国の生物学者、スティーヴン・J・グールド氏のエッセイなんかを読んでて思うのですが、特にスポーツ、野球関連の記事で目にする「進化している」という言葉の使い方。 グールド氏は繰り返し述べていますが、魚類・爬虫類・哺乳類と進化して、哺乳類の中でも、類人猿から人類に進化し、最高位に人間がいるのだという考えは、人間中心主義的であって、進化がすすむほど生物学的に上位に位置すると考えるべきではないという考え方があります。 人類至上主義が、結局、地球環境破壊につながったんだという意見もあるようです(私はなるほどなって思ってる)。 例えば、打者がスイングを工夫して打率があがったら、「進化してる」んじゃなくって「進歩してる」んじゃないかなと思います。 こういう「進化」の言葉の使い方って、気になってる人はいらっしゃいますか? 今後も、使われつづけるのでしょうか?