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摂関政治から院政への移行に関して

学校の教科書では、「白河上皇が院政を始めました。」と既定事実のように淡々と記述されていますが、そんなに簡単に移行できたものなのでしょうか? 当然既存の権力側(藤原氏)の抵抗があったのではないでしょうか? 教科書には特に抵抗があったとも書いてはありません。 不思議でなりません。

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  • titelist1
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回答No.3

後三条天皇の親政と呼ばれるものが院政始まりの下地なのです。後三条天皇の母は後朱雀天皇の第二子ですが、母は陽明門院禎子内親王なのです。つまり天皇の娘で藤原道長によって心ならずも退位させられた三条天皇の娘なのです。 後朱雀天皇の第一子は藤原道長の娘の嬉子が生んだ後冷泉天皇なのだが、その皇太子を何故か後三条天皇に決めたのです。藤原道長の長兄の藤原頼通と妹の嬉子との確執や禎子内親王の権威が有ったのかも知れません。藤原頼通は皇太子にその証である壺切の剣を23年間も渡さなかったのです。その間に水面下で勢力争いを延々とやったのです。後三条天皇が即位して藤原頼通はやっと剣を渡すのです。藤原頼通は落胆して関白職を弟に譲り、宇治に隠居して宇治の平等院を建てるのです。 後三条天皇は即位して僅か4年で病気を理由に子の白河天皇に譲位した。早い譲位は孫の母が摂関家ではなく、その孫を皇太子にするためでもあったのです。白河天皇の母は藤原ではあるが摂関家ではないのです。白河天皇は父の意を汲み、後に上皇となり本格的な摂関藤原家外しを行なうのです。

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回答No.5

摂関は藤原氏の独占でしたが 道長の息子の頼通・教通の時代に天皇に嫁がせた娘に皇子が誕生せず 藤原氏の摂関が出来なくなりました それにより権力が天皇に戻り院政へと移行していったのです 抵抗は出来ないでしょう 天皇と親戚ではなくなった藤原氏に抵抗(口出し)出来る権利はなくなっていましたので ※当時は外戚(母方の父)が権力を握ることが出来ました なので娘を天皇に嫁がせ皇太子が生まれれば  その皇太子の外戚は藤原氏ですから それで摂関として権力を握れたのです  しかし後三条天皇以降藤原氏の娘に皇子は生まれず 結果藤原氏は摂関になれずに権力は衰えたのです

  • ithi
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回答No.4

okosama-lunchさん、こんばんは。 そうですね。白河院政が単に始まりなのではなく、その前の後三条天皇に注目が集まらないのが、問題なのです。在位年数が少ないからかな。実際は後三条天皇が退位して院政を引いたのですが、退位の翌年に崩御します。 実績としては延久の荘園整理令でしょうか? 後三条天皇、白河天皇は即位前から摂関家の頼通や弟の教通から迫害されていました。白河天皇の代になるともう摂関家とはほとんど血縁もありません。ただ、院政当初の摂関家の勢力はとても強大だったので、協調するような状態だったそうです。例えば、摂関家の娘を入内させるというような感じです。本格的な院政は堀河天皇の代は再び摂関家が外戚になりましたが、そのあと摂関家内部に対立抗争があり、堀河天皇の崩御、鳥羽天皇の即位と同時に摂関家の機能が停止したことが蹶起になったようです。詳細は下記のURLを参照ください。 後三条天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 白河天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

  • Key_A
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回答No.2

共通しているのは、当時の今上天皇がカカシ同然であると言う事です。 また、当時の藤原家も娘を差し出して天皇家の系図に浸入していましたので、 ただの派閥争いに過ぎません。 まあ、日本史に関して言えば記号同然の大昔より、戦後史を学ぶ方が はるかに有意義だと思いますよ。

回答No.1

 この辺りって、確かにサクッと一行で済まされてますよね。  藤原氏の権勢は、自分の娘を天皇に嫁がせ子供(男子)を産ませ、その子供が天皇となることにより、「外戚」としての立場を得ることによって維持されていました。  ですが、藤原頼道(藤原道長の子供です)の時代、天皇に娘を嫁がせますが、男子が全く生まれないという事態が起こりました。そのような中、後三条天皇が即位します。この後三条天皇、藤原氏とは疎遠な天皇でした(といっても道長は曾祖父、頼道は大叔父)。  後三条天皇ですが、摂関政治に嫌気が差していたのか、頼道の娘を娶ることもありませんでした。この時点で、藤原氏は外戚では無くなり権勢にも陰りが見え始めます。また、天皇に権力を集中させるような政策を次々と行い(荘園の整理や藤原氏以外の貴族の登用等)、更に藤原氏の勢力は弱体化していきます。  この後三条天皇の後を継いだのが、後三条天皇の第1皇子「貞仁親王」です。即位し「白河天皇」となります。そう、「白河上皇」その人です。  こうして、藤原氏は没落していき白河上皇による院政の時代へと変わっていったのです。  以上、ご参考になりましたら。

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