いかにして、摂関政治から院政へと権力が移行したか?
- 平安時代、藤原北家の摂関政治により日本の政治が支配されていました。その後、上皇の院政により藤原氏から実権を奪ったとされています。
- 一般的には、上皇が武士の力を巧みに利用することにより、藤原氏より優位に立ち、実権を奪い取ったとされています。
- しかし、疑問もあります。藤原氏も武士の力を利用できたし、天皇の指名権も握っていたので、なぜ藤原氏が簡単に実権を奪われたのか疑問です。他にも歴史教科書以外に何か理由があるのかもしれません。
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いかにして、摂関政治から院政へと権力が移行したか?
Wikipedia 『院政』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF 平安時代、藤原北家の摂関政治により日本の政治が支配されていました。 その後、上皇の院政により藤原氏から実権を奪ったとされています。 こうなった経緯は、一般的には以下のように説明されています。 ・白河天皇の父である後三条天皇は、藤原氏を外戚としていなく、 藤原氏にとらわれることのない自由な政治を行なえた。 ・上皇は武士の力を巧みに利用する事により、藤原氏より優位に立てた。 ここで疑問があります。 武士の力を利用するのは上皇だけでなく、藤原氏も出来た事だと思います。 また、平安時代は天皇の指名権は実質上は藤原氏に握られていたので、 藤原氏を外戚をしない後三条を天皇に即位させなければ、摂関政治を 維持できたと思います。 かつて栄華を誇った藤原氏が手をこまねいて易々と実権を奪われたとは 考えにくいです。 歴史教科書に書かれている以外の何か理由があるような気がします。 いかにして、上皇は藤原氏から実権を奪い取ることに成功したのでしょうか? ご見解をお聞かせ願います。
- takeshi95
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質問者が選んだベストアンサー
後三条天皇は尊仁親王といって20年以上皇太子をしていたのは、道長のあと頼通まで安定した藤原氏も頼通の弟教通の娘生子や頼宗の娘延子が入内するも男子が生まれず、親王は後朱雀天皇と禎子内親王とのあいだの尊仁親王だけになっていたからです。 後朱雀のあと後冷泉がつづき藤原氏から入内するが皇子死産などで外戚は途絶えてしまった。
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