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精神の充足量の最大化とはいったいどういう精神か

roureiJinnの回答

回答No.1

「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、100人とも同じ考えや心情、状況にあるとは思えません。 質問者さんが遭遇したヒト(?)について関心をお持ちならば、そのヒトの状況や他の言動を調べてはいかがでしょうか。 webで検索したところ、三件ほど似たメッセージがありました。 http://ameblo.jp/taichap-1129/ この方は、認識のあり方・認識性の発達促進を重要と考えているようです。『人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)』 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1127419566 このpsytexさんは、意志の達成=充足の追及、意味・時間・空間/社会をまとめた視点を重視してます。 http://okwave.jp/qa/q8214866.html このpsytexさんは、ゲーム関連?の質問?で『私=幸せな世界であり、他人=私と真逆の世界にいる』のだろうかとの問いに対して、『あなたの生存は、世界中の人々の順調な営為によって成り立っている。どのような略奪も、どのような一人勝ちも、その持続性の欠如において、あなた自身の幸福の最大化に反する』と述べて、もたれ合い支え合い・空間面/時間面でも連続している社会が個人を活かしているという認識を示しています。 功利主義といえば功利主義的といえる解説をpsytexさんはしているように見えますが、他人に何かを説き勧めるときに功利的な話の展開をするのは非常にポピュラーな方法であり、個人への最終利得を一切説かないべき論はむしろ希であり、個人の最終利得は損なわれるがという説き方をしたのではせっかくの勧告・忠言も受け入れられなくなると思います。   「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、それは『《お金と出世》をこよなく愛していながらついぞその境遇にめぐまれず、そのやぶれし夢をB面のぼやき節にした』というケースは、おそらく10人にもならないだろうと思います。 芸術、スポーツ、研究などに人生の大半をつぎ込み、その期間は結構元気で充実しているように見えるヒトは多いです。その場合、結果、成果も気になっていることは間違いないですが、100人中90人以上は最高成績は出せないことも明らかで、最高成績や名声を上げるのは1割もいません。ですが、その芸術、スポーツ、研究などに集中出来、邁進したことに大いに精神的充足感、自己効力感を持っていたのは100人中99人にはなるでしょう。自己に満足しないヒトでも、充足感、自己効力感は感じるものです。事業家や通常のサラリーマンでも、事情は似ています。人生にそれなりに満足しているのは、自分の金と自分の地位肩書きそのものというよりは、自己効力感、邁進したことそのものにあることが多いと私は思います。 「ぼやき」は、「ぼやく」が名詞化して使われている言葉で、ぼやく行為(ぶつぶつ言う・ぐつぐつ言う・不平をならす)、ぶつぶつと独り言のように言う、愚痴、小言のようなものを指します。 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、ぼやきにはあまり向きな言葉ではないです。 破れし夢を繰り返し述べるという行為はあるでしょうが、この場合、悔恨と自負をまぜこぜにした表現が多く、多くの場合、過去の出来事の回想的話題の中ででて来ます。「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、今後に向けた志向性を強調しているようなので、 破れし夢を繰り返し述べるという行為にはあまり適さないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  先に まったく説得されませんでしたとはっきりとお伝えしたほうがよいでしょうね。  ★ ・・・個人の最終利得は損なわれるがという説き方をしたのではせっかくの勧告・忠言も受け入れられなくなると思います。  ☆ ということは《利得》の問題すなわち《功利主義》だということを物語ります。それ以外の解釈はむつかしいと思われます。  (つまり そういう考え方をするなという意味ではなく その内容は 功利主義として捉えられるという議論です)。  ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化することを目的とする」と述べるヒトが100人いて、それは『《お金と出世》をこよなく愛していながらついぞその境遇にめぐまれず、そのやぶれし夢をB面のぼやき節にした』というケースは、おそらく10人にもならないだろうと思います。  ☆ かまいません。《ひとりいた》という事実だけで この質問は成り立ちます。そういう問題だと考えています。  ★ ですが、その芸術、スポーツ、研究などに集中出来、邁進したことに大いに精神的充足感、自己効力感を持っていたのは100人中99人にはなるでしょう。  ☆ この質問で功利主義をわざわざ持ち出したことの意味は こういった・おそらくふつうに一般に受け容れられるようなご議論について さらに綿密に分析したいというねらいからです。  すなわち 《精神的充足感 自己効力感を持った》というのは ふつうに《わたしがわたしである》わたしが日から日へ一つひとつの課題に取り組みこれを成し遂げてゆく(または 出来るところまでやり遂げる)ことから来る結果である。ということ。これを言いたいためです。  そうでなければ ただの功利主義であり むしろその努力を怠ったかあるいは結果が出なかったかの場合のぼやき節への変身である。これを問うています。  なぜなら その《精神の充足量の人生における総和の最大化》を目的にするなら そうなるという理由です。結果としての内容が 初めに目的として掲げられた《エサ・釣り・人参》となっているからです。  ★ 人生にそれなりに満足しているのは、自分の金と自分の地位肩書きそのものというよりは、自己効力感、邁進したことそのものにあることが多いと私は思います。  ☆ おおむねおっしゃるとおりだと思います。ところが ここで批判しているのは 重ねて述べますが その結果としての内容を《充足量》と捉えしかもその量の最大化を目的としているという部分です。  ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、ぼやきにはあまり向きな言葉ではないです。  ☆ 表向きはそうですよ。ただし では何で変な目的論が出て来るのか? と問えば 裏ではそのぼやきが出て来ている。こう解釈しないなら理解しえないでしょう。生まれつきの功利主義者というのは まづいないでしょう。  ★ 「一生における精神の充足量の総和を最大化する」という発言は、今後に向けた志向性を強調しているようなので、 / 破れし夢を繰り返し述べるという行為にはあまり適さないと思います。  ☆ それはおそらく 自分で発言しておきながら 自分自身がその功利主義者であるということをまだ知らないでいるからでしょう。気づいていないのです。  自己チューで他律によって生きる人間をなじり続けていますが じつはご本人がそうであるということ。それに気づかない。かまたはすでに気づいているのだけれど それをみとめたくないので ほかの人間を批判の対象としてそのなじり行為を延々としゃべり続けるという状態。これだと推し測られますが いかがでしょうか。

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