赤穂浪士四十七士の中で唯一自害しなかった三平の理由は?

このQ&Aのポイント
  • 今年の大雪の中、赤穂浪士四十七士の中でも俳句の名人として知られた三平は、なぜ自害せずに仲間との切腹を選ばなかったのか疑問です。
  • 三平の父親の反対や仲間との葛藤など、さまざまな要因があったようですが、具体的な事情は分かっていません。
  • 美化された解説もありますが、真相はよく分かっていないようです。詳しい方のご意見をお待ちしています。
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今年は早くも各地で大降りの雪模様ですが...

こんな降り積もる寒空の雪の中を今から三百年前の今頃、赤穂浪士四十七士 は主君 浅野たくのかみの無念を晴らそうと主君の切腹に追い込んだにっくき吉良こうずの介の打ち入りに馳せ参じたんですね? 四十七浪士の中でも俳句の名人と公私とともに名高いと言われた三平と言う人物だけが父親の反対と赤穂浪士の仲間との挟まで苦悩し自害して打ち入りに参加しなかったとされると.......ようこそ歴史秘話 ヒストリアでの解説が有りましたが 何故三平と言う人物は同じ死ぬなら主君浅野たくのかみの無念を晴らしてから仲間とともに切腹への道を選ばなかったのか? その辺の事情が解らないままで仲間を裏切ったとも取れましたが何かこの人物を美化した共、取れますが...お詳しい方おひとつお願いします。

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回答No.1

質問標題の「雪模様」とは無関係の内容ですね。 当時は旧暦。新暦とは平均20日程度のズレがあります。 当時の12月14日は今の暦ではお正月松の内前後と見られます。 寒の入り、小寒、大寒など、真冬の季節に当たるのです。 「群盲象を撫ず」という、今では差別用語となった諺にある通り、部分を見て全体を見落としては、歴史の全体像は理解できません。 「三平」と言えば、一時人気を博した落語家が頭に浮かびます。林家三平さんを否定する気は毛頭ありませんが、彼一人が落語家の代表的人物ではあり得ません。 赤穂浪士の顛末を知るためには、城明け渡しに当たって、討ち入った浪士達の10倍以上の家臣団が、主君の仇討ちを合意していた事実を知り、その数が激減した理由を知らなければなりません。 そこには、数々のエピソードがありますが、「三平」もその一人に過ぎません。 大野九郎兵衛なる人物は、軍資金を持ち逃げした極悪人の如く云われていますが、講談家神田伯陽氏は独自の調査で、吉良邸襲撃の失敗に備えて、別途米沢藩への退路を断つ準備をしていたと、現地調査も踏まえて新しい台本を準備されていたと云います。 歴史の全体像を理解した上でこそ、個々のエピソードが意味をなしてくることに注目して下さい。 因みに、我が家のベランダは吹きだまりになっているらしく、今朝は5cm程の積雪がありますが、ご近所の屋根には点々と白いものが見受けられる程度です。

k1234649
質問者

お礼

お久しぶりのご丁寧なご回答有難うございました。 来れまでの様々な監督による忠臣蔵の映画等からは想像出来ないような出来事があったンデスネ!

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