「武士道」とは何か?歴史を超える価値観の探求

このQ&Aのポイント
  • 「武士道」とは、「赤穂浪士の討ち入り」と結び付けられ、武士の最良の行動規範とされています。しかし、その実態は単なる「人殺し」ではないのか疑問です。
  • 赤穂浪士は主君の無念を晴らすために1年間の準備を重ね、49名で討ち入りを遂げました。しかしその行為は自身も死を覚悟した行動であり、武士道の真意を問うものです。
  • また、赤穂浪士が徳川に対して抱いた思いと、鞍馬天狗のような新しい価値観との対比も考えるべきでしょう。徳川の時代は終わり、新しい時代の価値観が求められているのかもしれません。
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  • ベストアンサー

「武士道」って、変ですよね!

「武士道」と言えば『赤穂浪士の討ち入り』  武士道の最もいい、お手本とされているようです。 主君の無念を晴らすべく、1年間決行の日を待ち続け、ついに、49名で本懐を遂げる。  ただ、これって、ただの「人殺し」ではありませんか? しかも、自分たちも死んでしまう、という・・・・。(何、これ?  間違っているのは、そんなヤツ(吉良)が、自分たちよりも優遇する「徳川」にある、と思わなかったのでしょうか?  洗脳されていた? 徳川教?    「徳川の時代は終わり」という鞍馬天狗の方が、立派ではないでしょうか? 「新撰組」という『巨悪』と戦ったのが、見事!としか・・・。(架空のお話ですが・・) どうなのでしょうか?  

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

 赤穂浪士が好まれたのは、「お上の裁定」に逆らったからではないでしょうか。武士道として好まれたのではなく、一般庶民が支持した。 「職を奪われた武士が、お上に対して鬱憤を晴らした上に、自分たちも死んでしまう。庶民は全く傷つかない」というのは全く都合がよかったことでしょう。

yuuhi23
質問者

お礼

あっ、そうか・・・。  あれ? どこで、ズレてしまったのか、私・・? そうです!  ご回答の通りです。  何か、歴史上の事実って、変えられてしまいますね・・・・。    ありがとうございました!

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