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☆世界史☆古代末期の社会…ローマ帝国で…
nanasegawaの回答
- nanasegawa
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ローマ帝国では皇帝の考え方次第で政策もコロコロ変わります。コンスタンティヌスがミラノ勅令を出したのは自身がキリスト教を信じるようになったからだとも言われてます。 305年に4分統治を行ったディオクレティアヌスが退位し、翌年コンスタンティヌスが正帝に推されたものの副帝にとどまりした。このときローマでマクセンティウスという人が勝手に皇帝を名乗りだしました。コンスタンティヌスは312年にローマ郊外の戦いでマクセンティウスを破るのですが、この最中に不思議な経験をします。 空に光る十字架が現れその横には「汝、この戦いに勝て」という文字が浮かんでいました。これにあやかって旗に十字架を書いて戦い、マクセンティウスを破ることができました。それでキリスト教を信じるようになったそうです。翌年にミラノ勅令ですから関係がありそうですね。 テオドシウスは帝国を二分しました。ゲルマン人の攻撃などがひどくなり、広すぎる領土を保てなかったのです。生活が苦しくなるばかりの民からも支持が得られず、分解してしまいました。 あくまで私が知っている限りなので他の要因もあると思います。
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