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コンスタンティヌス帝=テオドシウス帝??

帝政ローマについて疑問があり、質問させてもらいます。 えっと、タイトルどうりなのですが、コンスタンティヌス帝とは、のちのテオドシウス帝の事をいうのでしょうか? ミラノ勅令を発し、キリスト教を公認したのと、ニケーア公会議を開催したのがコンスタンティヌス帝という事をならった気がしたのですが、受験勉強をしていくうちに、キリスト教を公認したのは、テオドシウス帝と書かれた資料もあって、、、 何がなんだかわからなくって(≧◇≦)

  • 歴史
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みんなの回答

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.7

#5です。コンスタンティヌスがコンスタンティノープルを作ったのは事実ですが、4世紀の皇帝たちのうち、この町でずっと過ごしたのはそのテオドシウスぐらいで、あとはヨビアヌス帝など一度もコンスタンティノープルに入ったことがない、という皇帝もいました。 んでもってテオドシウスの死後にローマ帝国が東西分裂して、それから東の皇帝がコンスタンティノープル在住になる、ということのようです。 事実コンスタンティヌスが建設した当時のコンスタンティノープルは、広大な広場と城壁があるにせよ、町の象徴とも言える聖ソフィア教会さえなく、はっきりいって各地を転戦していた皇帝たちのいわば行在所的ないし前線基地的な要素の強い都市だったわけです。 さらにローマ帝国の東西分裂後もあくまでこれは「東ローマ」なので、これがビザンツとして全く別の国家として再生していくのは8世紀頃だと言われています。 そしてそれが#6で書いておられる「ローマ皇帝=カール」の成立とともに宗教的な面でも確定するに至る、ということです。 以上は 「生き残った帝国ビザンチン」(井上浩一 著、講談社現代新書) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406149032X/250-5448585-4553068 によるものですが、この本は今は絶版なので古本屋や図書館を利用されると良いでしょう。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.6

1番、3晩です。 >コンスタンティヌス帝がのちのローマ公教会(カトリック)って本当ですか? のちの、ギリシア正教会(オーソドックス)だと思っていました。 コンスタンティヌス帝や、テオドシウス帝の時代は、まだカトリックと正教会が分裂していません。 この後、エフェソスの公会議、カルケドンの公会議で、ネストリウス派や単性派が異端とされ、三位一体の考え方が、強化されます。 三位一体とは、「父なる神、子なるキリスト、そして聖霊は一体である」というものですが、このうちの、聖霊とは何か? また聖霊はどうやって生じたかによる論争が起き、カトリックと正教会が分裂しはじめます。 決定的になるのは、偶像崇拝問題で、政治的理由から、偶像崇拝を否定せざるを得ないビザンツ側と、布教に偶像を必要としたカトリック側の決定的対立となり、ついにカトリック側が、フランク王国を西ローマ帝国の継承国家として認定し、分裂が確立します。 コンスタンティヌス帝から、カール大帝まで、450年ほどあります。

ikuchii
質問者

お礼

回答有り難うございます(〃'∇'〃)ゝ ってことは、後のカトリックでもあり正教会でもあるというふうにとらえていいのでしょうか? ローマ帝国の歴史はホント難しいです(≧◇≦) 私、チョット調べて見たんです、、 そしたら、コンスタンティヌス帝は首都をコンスタンティノープル(現イスタンプール)遷都し、ここが後の、ビザンツ帝国(東ローマ)の首都となる。 って、書いてあったんです。なので、東ローマ=東方教会=ギリシア正教会かなって思ってしまっていて、、、

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.5

お礼の方にちょっと回答。 >コンスタンティヌスって本人はキリスト教に改宗しなかったって初めてしりました。 非クリスチャンだったなんて、、、キリスト教を公認したのに、、 そもそもミラノ勅令はキリスト教をこれ以上弾圧しない、と言っているだけで、国教化をしたものではありません。キリスト教保護的政策が強くなっていくのはコンスタンティヌスと最後に帝位を争ったリキニウスとの闘争の中で、リキニウスがキリスト教を弾圧する中、戦略的観点からキリスト教優遇の政策を採ったものと考えられています。(後に茶坊主ども、たとえばエウゼビウスなどが伝説化を進めますが) んでもってコンスタンティヌスが洗礼を受けたのがその死の床であった、というのはよく知られた事実で、つまり死ぬ直前に洗礼を受けた、ということです。 何れにせよこの時点ではキリスト教、それも後にカトリックになっていく一派が、他の宗教同様弾圧されなくなった、ということで(それまではキリスト教は異端も正統派もいずれも弾圧されていた)、異端とされた宗派は結局弾圧されたまま、ないしあらたに弾圧されることになったわけですが・・・・また、皇帝崇拝やローマ神話はそのまま維持されています。 その後、テオドシウスがキリスト教を国教化したわけで、以後他の宗教は禁止されるわけです。

ikuchii
質問者

お礼

おはようございます。 そして、回答有り難うございます。 そっか。そうですよね。コンスタンティヌスはキリスト教を公認したのに、、というか、ミラノ勅令でこれ以上弾圧しないといってるんですよね。 間違って理解しちゃってました(≧◇≦) 国教として認めてのちにキリスト教以外を禁止したのは、テオドシウス帝ですもんね。 あと、回答を読んでちょっと疑問に思ったのですが、コンスタンティヌス帝がのちのローマ公教会(カトリック)って本当ですか? のちの、ギリシア正教会(オーソドックス)だと思っていました。 宜しかったら回答おねがいします(≧◇≦)

  • koon1600
  • ベストアンサー率51% (200/390)
回答No.4

まず最初に、2人は別人です。 コンスタンティヌス1世が在307年~337年。 テオドシウス1世は在379年~395年です。 で、一つ大きく間違っているのは、テオドシウス帝はキリスト教を国教としたのです。 コンスタンティヌス一世はキリスト教を公認しただけです。 それまでのキリスト教徒は迫害の歴史です。ネロ帝から始まり、多くのローマ皇帝から迫害を受けています。財産没収はもちろん、殺害も普通でした。 で、そのなかでもキリスト教は広がっていったため、コンスタンティヌス一世の代にようやく禁止が解かれ、公認となります。これがミラノ勅令。コンスタンティヌス1世とリキニウス帝です。 その後のユリアヌス帝の時代にやや禁止に傾きますが、このときは特権などの剥奪で、迫害にはいたっていません。 そして、テオドシウス帝の時代にはついに「国教」となります。このときに正道とされたのはアタナシウス派。 ミラノ勅令では同じくこれが正道だったのですが、その後コンスタンティヌス2世が対立していたアリウス派を押したため、正道が一定してはいなかったのです。 どうも、キリスト教の歴史と、皇帝が位に就いた年代の流れをいまひとつ把握し切れていないため、混乱が起きたのではないでしょうか?

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教の歴史
ikuchii
質問者

お礼

回答有り難うございます。 URLも貼っていただき嬉しいです。 これで、混乱から解放されるように調べてみます(o^∇^o) コンスタンティヌスが、公認するまでキリスト教徒は迫害なんてびっくりです。 それでも、キリスト教が広がっていったってキリスト教信者ってすばらしい☆

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.3

1番です 間違えました。 ニケーアの公会議で、異端とされたのが、カリウス派で、正統とされたのが、アタナシウス派です。 ネストリウス派は、エフェソスの公会議で異端とされた宗派です。

ikuchii
質問者

お礼

回答ありがとうございまぁす(〃'∇'〃)

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

名前が違うんだから別人だというのは わかりますよね。 オクタビアヌスがアウグストゥスと尊称で 呼ばれるようなケースはこれだけですから ローマ皇帝の名前は変わったりしません。 コンスタンティヌス(一世) (生没年280頃-337) ローマ皇帝(在位306-337)。大帝とも。専制政治を強化、三三○年都をローマからビザンチウムに移してコンスタンティノポリス(コンスタンチノープル)と称した。また、キリスト教を保護し、ミラノ勅令を発して信仰の自由を認め、これを公認宗教とした。またニケーア公会議を主催して新約聖書の編集者としても知られる。 テオドシウス(一世) (世没年346頃-395) ローマ皇帝(在位379-395)。大帝とも。三世紀末以来分割統治されていたローマ帝国を再統一(最後の統合)。正統キリスト教を国教化した。しかし死後、ローマ帝国を二分割してそれぞれ二子に残して東西に分離。 ちなみに大帝という称号は教会がつけたものです。 テオドシウスはどちらかというとグレートというほどの 人物ではないのですが キリスト教を国教にしたという功績が 暗殺や虐殺に手を染めたとくダークな一面をも凌駕して 評価されちゃってます。不当なほどに。 コンスタンティヌス帝は、母親が熱心なクリスチャンだったのですが 本人は死の床までキリスト教に改宗せず 彼の統治時代はキリスト教もその他宗教同様に 信仰の自由をある程度みとめられ その他大勢のひとつに過ぎませんでした。 ただコンスタンティヌス帝は、 キリスト教社会の礎を築いた非クリスチャンとしては最大の功労者で 聖書に採用する福音書や手紙を選んだり、 教義をシンプルにしたり、その後のキリスト教のアウトラインを 作ってそれを帝国の維持に利用しようとしたことは特出すべきです。 政治と正統派キリスト教の癒着が 結局は、ヨーロッパでキリスト教が支配宗教にのし上がった理由ですからね。 ちなみにダヴィンチ・コードやユダの福音書で有名になった 一連の話にはコンスタンティヌス帝はあまり出てきませんが 彼の考えは東ローマ皇帝型として教皇皇帝だったので、 神と地上とを仲介する存在として精神世界も支配して 統治に生かそうという考えから その路線でいくとどこかにイエスに子供がいるかもしれないという話は 伝説でも許容できないわけで ローマ帝国の敵であるメロヴィング朝にその伝説がまさにあるというのは この見方で考えると、双方、全く政治的作為があったことがわかると思います。

ikuchii
質問者

お礼

回答有り難うございます。 よく考えてみたら、生没年も名前も違うんですよね(≧◇≦) 謎が解けました☆ コンスタンティヌスって本人はキリスト教に改宗しなかったって初めてしりました。 非クリスチャンだったなんて、、、キリスト教を公認したのに、、、 イエスに子供がいたという説は私もきいたことがあって関心があります。 フランスもイタリアも歴史がながくて謎だらけですねぇ。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

全くの別人です。 コンスタンタィヌス帝(306年~337年) テオドシウス帝(379年~395年) コンスタンタィヌス帝の時代に、ニケーアの公会議が開かれ、アリウス派を異端とし、ネストリウス派を正統とします。 テオドシウス帝の時代に、コンスタンタィノープルの公会議にて、ニケーア信条を採択 ニケーア信条は、ニケーアの公会議で採択された内容の修正で、現在のカトリック教会の基礎的考え方になります。 キリスト教を公認したのが、コンスタンティヌス帝で、キリスト教を国教としたのが、テオドシウス帝です。 つまり、「キリスト教を、信仰しても良い」としたのが、コンスタンティヌス帝で、「キリスト教を信じなさい」と言ったのがテオドシウス帝です。

ikuchii
質問者

お礼

回答有り難うございます。 全くの別人なんですね(≧◇≦) あれ?ニケーア公会議で正統とされたのって「三位一体説」をとなえる、アタナシウス派じゃなかったんですか? ネストリウス派は異端されたんじゃないんですか? また疑問が増えちゃった(≧◇≦) よかったらこの疑問の回答もおねがいします。

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