• ベストアンサー

日米の開戦の原因

xx x(@hateha2_goo)の回答

回答No.10

最後の審判  ヘブライ人たちがペルシャ人やギリシャ人によって支配されたのは、彼らの信仰心が欠除していたからです。結果としてエロヒムは、ペルシャ人やギリシャ人の中に技術的な進歩を助ける何人かの「天使」を遣わすことで、ヘブライ人を罰したのです。  それら二つの文明において、偉大な時代があったのはこのためです。ペルシャ人を援助するために派遣された天使たちの長が、「天使ミカエル」でした。  「長たる君のひとり、ミカエルが、ペルシャの王国を助けるために来た」(『ダニエル書』第10章第13節) ~~~ 1 最も知性的な人びとによって、天才たちの間から選出された人びとから構成される単一の世界政府を樹立することにより、地球を、人種・宗教・文化もしくは知性の程度により差別されることのない、全住民にとって幸福と開花の世界にすること。 2 この目的達成のために、あらゆる手段を活用すること。 3 個人もしくは集団による暴力を廃止すること。 4 労働の法則をやめて、開花の法則に置きかえること。 5 支配者層の知性の欠如から引き起こされている、破滅の危機から人類を救うこと。  ラエル著 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  上記に、ペルシャ人やギリシャ人、紀元前の話しと見えますが、以後もローマ人、イスラム人、モンゴル人、スペイン人、イギリス人、ナチスドイツ人と世界は戦禍に包まれたのではないでしょうか? 歴史の変わり目では、そうして新興勢力が古いものの不信仰を罰してきたものとも見える。  アメリカは、イギリスからの独立そして歴史の非道その善悪原因が比較的よく整理できたのではないでしょうか? _  _  _ ヨハネの黙示録  その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起こるべきことを、見せてあげよう」と言った。 第4章  あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。  彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。  彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。  御使はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。  あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽くすであろう。  神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。  あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。 第17章 「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。  すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。  わたしはまた、もうひとつの声が天からでるのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。  彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。~  彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。  また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。  その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。  おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。  これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、彼女の苦しみに恐れをいだいて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。  これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』。また、すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。  彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に船を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。  天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。  すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、まったく姿を消してしまう。  また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。  また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、  また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。 第18章  見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。  これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。 第22章  http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yohane.html#16  http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#.E7.AC.AC17.E7.AB.A0    _  _  _  _  _  上記、黙示録に、地の王たちと地上の商人たち&その他の嘆き悲しみが予言されるわけですが、_日米の開戦の原因_も、 “ 信仰心の欠除 ” 。 “ 信仰心の欠除 ”と“ 罰 ”、その繰り返す‘鬼ごっこ’となっているのではないでしょうか?  ヨーロッパが、ローマ第三帝国なる宗教戦争に突入した。 東洋その他にもどっちつかずの分けの判らぬものが多数存在する。 その内のひとつがリゾート地ハワイを奇襲襲撃した。 オットリガタナが動き出す。  中東周辺からヨーロッパは、世界の火薬庫だったのではないでしょうか? 他も小さな火薬庫だった。 日米の開戦の原因 _、火薬庫の火薬庫たる由縁と見える。

Earth_Music
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A

  • ハルノートのハリーホワイトはソ連のスパイ?

    ハルノートのハリーホワイトはソ連のスパイ? youtubeでチャンネル桜の動画を見ました。 ハルノートのハリーホワイトはソ連のスパイだったという根拠は何なのでしょうか? 日本の戦争責任とか議論するつもりはありません。 根拠だけが知りたいのでよろしくお願いいたします。

  • 軍事同盟

    日独の軍事同盟のとき、 ドイツは、 日本に、 対ソ参戦を、 せがんできましたが、 日本は、 ソ連との開戦だけはできないので、 のらりくらりと、 対ソ参戦を避けていたじゃないですか。 現在、 日米軍事同盟が結ばれていますが、 米国が、 ロシアと戦争になった場合、 日本は、 対露参戦しますか。 それとも以前のように、 のらりくらりと、 かわしながら、 参戦しないですか。

  • 米ソは、機動部隊の単冠湾出撃を知っていた?

    アメリカとソ連は、日本海軍のハワイ作戦空母部隊の単冠湾出撃情報を掴んでいたのでしょうか。 (以下、いずれも日本時間) 【A】昭和16(1941)年11月26日午前6:00、択捉島の単冠湾に集結していた日本海軍機動部隊(ハワイ作戦空母部隊。総指揮官は南雲忠一中将)が単冠湾を出撃しました。(大本営から、日米交渉が妥結したらハワイ作戦を中止して内地へ帰投せよと命令されていたから、「出撃」とは言えないかも知れないが。) 【B】11月27日午前6:45、米国ワシントンで、コーデル・ハル国務長官が野村吉三郎大使と来栖三郎補助大使に、米国側の条件を記した文書(いわゆる『ハル・ノート』)を手交した。 1。ハル四原則の無条件承認 2。支那・仏印よりの軍・警察の全面撤退 3。日独伊三国同盟の死文化 4。重慶政権以外の政権の否認 これらの内容は、それまでの日米交渉のプロセスを無視した強硬なものであり、米国側には交渉を纏める意志がないと見受けられた。 【C】同日、モスクワに迫っていたドイツ軍に対して、ソ連軍の猛反撃が開始された。(ソ連は事前に、日本軍に備えて満州国境に配備していた兵力の半分を西部へ移動させていた。) 以上の三つの出来事は、密接な関連があるように思えてなりません。アメリカとソ連が日本の機動部隊の単冠湾出撃情報をいち早く掴んでおり(多分、日本の暗号無線を傍受、解読して)、日米交渉を決裂させるために、日本が拒絶する事が確実な強硬な条件を突き付けた。つまり、日本を開戦に追い込んだ。(交渉が妥結した場合は、日本がハワイ作戦を中止することさえも知っていた) ソ連は、日米が開戦すれば東部(満州方面)の安全が保障されるから(日本が米ソ両国を相手に、同時に二正面作戦を開始することは不可能だから)、安心して対ドイツ戦に専念できる。ということで、ドイツ軍に猛反撃を開始したように思えます。 アメリカとソ連が、日本海軍のハワイ作戦空母部隊の単冠湾出撃情報を掴んでいたという私の仮説は間違っているでしょうか。 ちなみに、私は、日本の政府または統帥部の中に最高軍事機密をアメリカまたはソ連に売り渡した者がいるのでないかと疑っています。宮中(昭和天皇の周辺)さえ怪しいです。

  • 真珠湾攻撃をルーズベルト大統領(当時)が事前に知っていたのは本当か?

    1941年の真珠湾攻撃を、実はルーズベルト大統領は事前に知っていて、空母や主力艦隊などを別の場所に退避させていたため、致命的な損害は免れた――。このルーズベルト陰謀説に関しては様々な文献が出版されており、頭が混乱しています。肯定、否定その他様々な考え方があるようですが、まだ「決定打」になるものが見付かっていません。そういうのがあれば、ぜひ教えて下さい。私の周囲の人間で、年輩の方々は、いずれも肯定論者です。かと言って決してそれを鵜呑みにしているわけではありません。 ○肯定論 『真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々』(ロバート・B・スティネット著、妹尾 作太男訳、文藝春秋) ○否定論・ソ連謀略説 1.『真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 講談社選書メチエ』(須藤 眞志著、講談社) 2.『ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦』(須藤 真志著、文春新書) ○その他 1.『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 新潮新書』(斎藤 充功著、新潮社) 2.『ハル回顧録 中公文庫BIBLIO20世紀』(コーデル ハル著、宮地 健次郎訳、中央公論新社)

  • 日米開戦は回避できたか?

     はじめてここに質問します。  「戦争論2」を読んで日米開戦にいたる経緯を細かく知りました。石油の禁輸政策やハルノートを突きつけられれば、戦争もやむなかったと思ってしまいます。  ただ、このことで友人と話をしていたら「勝てないとわかっていながら戦争に踏み切ったのは無責任」、「幕末のときみたいに、戦争を回避することもできたんじゃないの?」といわれました。  質問は(1)本当に日米開戦は回避できたのか。     (2)回避したとして、その後歴史はどう動いたと思うか。 です。   (2)の補足として、回避したらアメリカの植民地になるだろうが、現在のように  自立した国家としての立場で高度経済成長は見込めたか、というような趣旨で  お願いします。

  • 何故ハルノートが日本を追い詰めた説を信じるのか?

    真珠湾攻撃を実行した事にハルノートが100%関係ない、とは言えませんが『ハルノートが日本にとって《厳しすぎる》物なので、日本は真珠湾攻撃した。』って言うのは非常にわかりやすい無知あるいはウソなはずです。 1941年11月5日の御前会議決定『帝国国策要領』って聞かれた事はないでしょうか? もしご存知でなければ、国立公文書館アジア歴史資料センターのWebの↓にレファレンスコードC12120186200を入力してリンクを辿っても見られます。 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference ウィキペディアでも9月6日の同じ名前の決定(11月5日はそのやり直し)と合わせて『帝国国策遂行要領』と言う項目(↓)がありますので、そちらの方が読みやすいかも知れませんが。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E7%AD%96%... 簡単に言えば、 ・9月6日の同じ名前の御前会議決定での「帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度」を、甲案と乙案の二本立てに変え ・それで交渉が妥結しなければ開戦する。 ・交渉期限は12月1日午前零時 と言う物です。 相手に対して『こちらの要求を呑まなければ戦争するぞ。〇〇日以内に回答せよ。』と言うのが最後通牒であるのは皆さんもご存知だと思います。 11月5日の御前会議決定は、決めた事その物は最後通牒と同じって事です。(『相手にはそうは言わない』と言う所が最後通牒との違いです。) だから、11月27日(日本時間)に受取ったハルノートは、当時の日本政府&軍首脳にとっては、日本の要求である甲案・乙案が通らなかった、というだけの意味しかなく、中身が“厳しい”かどうかは関係がありません。 ハルノートを受取ってから後は、日本時間の12月1日零時までに、急に米国が考えを変えて“やっぱり日本の言う通りにします”と言って来てそれで妥結できる可能性は純粋な理屈上の話ならありますが、そんな事はまぁあり得ない話なので『ハルノートを受取った』事は、日本が『自分達の要求が通らない事を最終確認した』と言う程度の意味ならありますが、それだけです。 「ハルノートの受領」で『自分達の要求が通らない事を最終確認した』のに、その前日に真珠湾攻撃の機動部隊が択捉島を出撃していたのは、日本(正確には大本営)が日本の要求が通る可能性は殆ど無い、と判断した事に他なりませんが、これは大本営に限った認識ではありませんでした。 11月5日の御前会議での東郷外相の日米交渉の妥結の可能性についての説明が、国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120186900で見られますが、そこから引用すると… 『尚、全体に就て質問があったが、甲案を以てしては急速に話が出来ることは見込がつき兼ねる。乙案に就ても話はつき兼ねると思う。例えば仏印撤兵のことである。又第四の支那問題に就ても米は従来承知せぬことなので承諾しないのではないかと思う。』 『又時間の関係は短いのである。ご決定後訓電して交渉するのであって、十一月中と云うことである故交渉する時間に二週間である。之れも他方面の必要からして已むを得ぬ。従って交渉としては成功を期待することは少い。望みは薄いと考えて居る。唯外相としては万全の努力を盡すべく考えて居る。遺憾ながら交渉の成立は望み薄であります。』 と、さすがに交渉責任者である外相が天皇臨席の場で「妥結の見込みは無い」とまでは言ってはいなくても、そのままストレートに読んでも、妥結の可能性に対して非常に悲観的なのは明らかです。 それは当たり前と言えば当たり前で、甲案はそれまでの日本側の主張とさほど変わりません。 乙案は、11月1~2日の大本営政府連絡会議で東郷外相が提示した外務省原案は簡単に言えば、「日本が南部仏印から撤退する代わりに米国は石油供給を再開する」というものでしたが陸軍が強硬に反対し『米国は支那事変解決を妨害せず』(=米国は蒋介石政権への援助を止める)という条件をつけ加える事になりました。 それでも、まだ陸軍は乙案自体に対して反対するので、会議の休憩時間中に陸軍省の二人(東條陸相・武藤軍務局長)が参謀本部の二人(杉山参謀総長・塚田参謀次長)を「支那を条件に加えたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる。」(蒋介石政権援助を止めると言う条件が加わったのだから、米国は受けない)のだから、これ以上反対して東郷外相が辞任して内閣作り直しにでもなったら開戦が延びるかも知れないから、得策ではないだろと説得して、参謀本部の二人も『不精不精に之に同意』したものです。(国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120254500) つまり、日本政府&軍首脳は『米国が受けないだろう、と自分達で思っている条件を米国が受けなければ開戦する』という結論を11月1~2日の大本営政府連絡会議で出して11月5日の御前会議で形式上正式決定していたって事です。 だから、ハルノートが「厳しい」かどうか、なんてどうでも良い話で「甲案も乙案も通らないだろうなと思っていたが、やっぱり通らなかったな。じゃあ開戦決定!!」ってだけの事です。(勿論、交渉責任者の東郷外相《個人》としては、日本の要求と多少の違いだったら努力するつもりではあったでしょうが。) 厳密に言えば12月1日午前零時までは外交交渉の期間として決めていたのだから、それ以前に「万が一見つかったら、奇襲が困難になるだけでなく、外交交渉もパーにする」様な機動部隊を出撃させたのは、国内的に問題があるかないか、といったらありますが、米国が日本の要求を受けっこないと思っていたからこそやった事です。 妥結に現実的な期待があったら、そんなバカゲた事をする訳がありませんからね。 思い切り短くまとめると、 日本政府&軍は、自分達の甲案・乙案が、実質的には最後通牒と同じ効果の物である事を理解していた。 従ってハルノートは、日本政府&軍にとっては「米国が最後通牒を蹴った。」と言う意味しかなかった。(「厳しかった」かどうかの問題ではない。) と言う事です。 『ハルノートが厳しい条件を突きつけたので日本はやむなく立ち上がった』というのは、11月5日の御前会議決定『帝国国策要領』という超基本的な史料を無視した主張です。 「ハルノートが日本に苛烈だったので日本はやむなく立ち上がった」と言ったタワゴトに引っかかっている人の中には「もしハルノートが公表されていたら、国際非難は米国に集まったのではないか?」と思ってしまう人がいるようで、そう言う質問をこのサイトでも見かけます。 が、実際にはハルノートはそれまでの米国の『原理原則論』的主張を繰返しただけで特に目新しいものは無い(だからこそ、大本営陸軍部戦争指導班は全く非妥協的なものとして“高圧的”と読んだ)上に、米国国務省は(恐らく)意図的にハルノートの内容をオープンにしたので、骨子は各地で報道されました。 それに対して(これまた恐らく意図的に)米国は日本に責任を押し付けようとしている、という主張が日本の新聞に載りました。 ↓は更にそういう日本国内の動きをニューヨークタイムズが報道した物です。 https://www.nytimes.com/1941/11/29/archives/us-ultimatum-is-seen-by-japan-domei-agency-says-our-note-seems-to.html この様にハルノートの骨子は、日本では“原理原則論”&“非妥協的”といった程度ですが、米国を中心とする日本の外の国ではバンバン報道されていたにも関わらず、ハミルトン・フィッシュの様に「聞いていなかった。」と戦後に言い張る輩もいて、それを真に受けてしまう気の毒な方もネットにはいます。 政府&軍首脳総体としては、ハルノートを受取る前からせいぜい「ダメ元」の交渉だったが、交渉責任者としての東郷外相や一線で交渉していた野村大使達は(可能性が乏しくとも)かなりギリギリまで努力を尽くした、って話を「日本は開戦回避に最後まで努力したが、ハルノートがケシカランから~。」みたいに摩り替える『インチキ』が一部では横行しているのが私には全く理解出来ないのですが、どうしてこんな単純な『インチキ』が蔓延し「ハルノートが日本にとって厳しい要求だったから、日本はやむなく立ち上がったのだ!!」ってな『ガラクタ説』を信じている人が多いのでしょうか?

  • 日米開戦日の謎?

    1941年(昭和16年)12月8日に日本はハワイ真珠湾を奇襲攻撃して日米が開戦しました。 しかし、皮肉なことにこの日は西部戦線(独ソ戦)でドイツがソ連に歴史的な敗北を喫した日でもあります。そこでお聞きしたいのですが? なぜ?「あと数日開戦日を遅らせよう!」という柔軟な判断ができなかったのでしょうか? 日本の諜報機関の工作員たちはヨーロッパに多数いて逐一、大本営に連絡していたと思うのですが? 私の私見で恐縮ですが、 (1)大本営が聞く耳をもたなかった (2)諜報機関がお粗末だった(日露戦争を勝利に導いているので考えにくい) (3)ドイツが勝ってくれると勝手に信じていた。 詳しい方教えてください。

  • パール判事の東京裁判でのハルノート発言の意図。

    真珠湾攻撃を実行した事にハルノートが100%関係ないとは言えませんが、度々ネットや書籍等では 『ハルノートが日本にとって《厳しすぎる》物なので、日本は真珠湾攻撃した。』 と言う主張をする者が居ますが、これは非常にわかりやすい無知あるいはウソなはずです。 1941年11月5日の御前会議決定『帝国国策要領』が国立公文書館アジア歴史資料センターのWebの↓にレファレンスコードC12120186200を入力してリンクを辿って見られます。 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference ウィキペディアでも9月6日の同じ名前の決定(11月5日はそのやり直し)と合わせて『帝国国策遂行要領』と言う項目(↓)がありますが(そちらの方が読みやすいかも知れません。) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E7%AD%96%... 簡単に言えば ・9月6日の同じ名前の御前会議決定での「帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度」を、甲案と乙案の二本立てに変え ・それで交渉が妥結しなければ開戦する。 ・交渉期限は12月1日午前零時 と言う物です。 相手に対して『こちらの要求を呑まなければ戦争するぞ。〇〇日以内に回答せよ。』と言うのが最後通牒であるのは皆さんもご存知だと思います。 11月5日の御前会議決定は、決めた事その物は最後通牒と同じって事です。(『相手にはそうは言わない』と言う所が最後通牒との違いです。) だから11月27日(日本時間)に受取ったハルノートは、当時の日本政府&軍首脳にとっては、日本の要求である甲案・乙案が通らなかった、と言うだけの意味しかなく、中身が“厳しい”かどうかは関係がありません。 ハルノートを受取ってから後は、日本時間の12月1日零時までに、急に米国が考えを変えて“やっぱり日本の言う通りにします”と言って来てそれで妥結できる可能性は純粋な理屈上の話ならありますが、そんな事はまぁあり得ない話なので『ハルノートを受取った』事は、日本が『自分達の要求が通らない事を最終確認した』と言う程度の意味ならありますが、それだけです。 「ハルノートの受領」で『自分達の要求が通らない事を最終確認した』のに、その前日に真珠湾攻撃の機動部隊が択捉島を出撃していたのは、日本(正確には大本営)が日本の要求が通る可能性は殆ど無い、と判断した事に他なりませんが、これは大本営に限った認識ではありませんでした。 11月5日の御前会議での東郷外相の日米交渉の妥結の可能性についての説明が、国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120186900で見られますが、そこから引用すると… 『尚、全体に就て質問があったが、甲案を以てしては急速に話が出来ることは見込がつき兼ねる。乙案に就ても話はつき兼ねると思う。例えば仏印撤兵のことである。又第四の支那問題に就ても米は従来承知せぬことなので承諾しないのではないかと思う。』 『又時間の関係は短いのである。ご決定後訓電して交渉するのであって、十一月中と云うことである故交渉する時間に二週間である。之れも他方面の必要からして已むを得ぬ。従って交渉としては成功を期待することは少い。望みは薄いと考えて居る。唯外相としては万全の努力を盡すべく考えて居る。遺憾ながら交渉の成立は望み薄であります。』 と、さすがに交渉責任者である外相が天皇臨席の場で「妥結の見込みは無い」とまでは言ってはいなくても、そのままストレートに読んでも、妥結の可能性に対して非常に悲観的なのは明らかです。 それは当たり前と言えば当たり前で、甲案はそれまでの日本側の主張とさほど変わりません。 乙案は11月1~2日の大本営政府連絡会議で東郷外相が提示した外務省原案は簡単に言えば「日本が南部仏印から撤退する代わりに米国は石油供給を再開する」と言う物でしたが陸軍が強硬に反対し『米国は支那事変解決を妨害せず』(=米国は蒋介石政権への援助を止める)という条件を付け加える事になりました。 それでも、まだ陸軍は乙案自体に対して反対するので、会議の休憩時間中に陸軍省の二人(東條陸相・武藤軍務局長)が参謀本部の二人(杉山参謀総長・塚田参謀次長)を「支那を条件に加えたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる。」(蒋介石政権援助を止めると言う条件が加わったのだから、米国は受けない)のだから、これ以上反対して東郷外相が辞任して内閣作り直しにでもなったら開戦が延びるかも知れないから、得策ではないだろと説得して、参謀本部の二人も『不精不精に之に同意』したものです。(国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120254500) つまり、日本政府&軍首脳は『米国が受けないだろう、と自分達で思っている条件を米国が受けなければ開戦する』という結論を11月1~2日の大本営政府連絡会議で出して11月5日の御前会議で形式上正式決定していたって事です。 だから、ハルノートが「厳しい」かどうか、なんてどうでも良い話で「甲案も乙案も通らないだろうなと思っていたが、やっぱり通らなかったな。じゃあ開戦決定!!」ってだけの事です。(勿論、交渉責任者の東郷外相《個人》としては、日本の要求と多少の違いだったら努力するつもりではあったでしょうが。) 厳密に言えば12月1日午前零時までは外交交渉の期間として決めていたのだから、それ以前に「万が一見つかったら、奇襲が困難になるだけでなく、外交交渉もパーにする」様な機動部隊を出撃させたのは、国内的に問題があるかないか、といったらありますが、米国が日本の要求を受けっこないと思っていたからこそやった事です。 妥結に現実的な期待があったら、そんなバカゲた事をする訳がありませんからね。 思い切り短くまとめると 日本政府&軍は、自分達の甲案・乙案が、実質的には最後通牒と同じ効果の物である事を理解していた。 従ってハルノートは、日本政府&軍にとっては「米国が最後通牒を蹴った。」と言う意味しかなかった。(「厳しかった」かどうかの問題ではない。) と言う事です。 『ハルノートが厳しい条件を突きつけたので日本はやむなく立ち上がった』と言うのは、11月5日の御前会議決定『帝国国策要領』という超基本的な史料を無視した主張です。 ここで疑問なのが、東京裁判においてインドのパール判事は『ハル・ノートのような通牒を受け取ったら、モナコやルクセンブルク大公国でさえもアメリカに対し矛をとって立ち上がったであろう。』と述べていましたが、最後通牒にもならないただの試案であるハルノートを突き付けられたのは日本側の「最後通牒」を蹴られただけで、決してハルノートの内容が開戦した原因ではないはずなのに、一体どう言う理屈でパール判事は「モナコやルクセンブルク大公国でさえも~。」と言ったのでしょうか?

  • もしハルノートを受諾し、大日本帝国が続いていたら?

    今日の夜9:00~NHK真珠湾スペシャルを見ましたが・・・ ハルノート原案では、日本軍全面撤退と引き換えに20億ドルの対日借款が盛り込まれていた。 それが国務省内で練り直され、対日強硬派の言い分が通り、借款の項目は削られた・・云々 なかなか興味深い番組でしたね。 でも 当時の日本政府・軍部の主流派から見て、ハルノートは受け入れられない。それどころか対英米戦は既定路線・・・・かな。 さて、今回、あくまで IF ですが 日米戦争を回避でき、大日本帝国も明治憲法もそっくりそのままで今日この21世紀のIT社会に至ったらどうなったことでしょう? 若者が茶髪でスマホに熱中し前を見ずに道歩き、少女がローライズでパンツ半分見せながら道歩いて、それでも大日本帝国存続中だとしたら。 いったいどんな日本社会になっていることでしょうね? テクノロジーは今の現実そのままの社会で、国体は大日本帝国。 つまり往時(1941時点で)、あと数年を待たずして、台頭する巨大な軍事大国ソ連、蒋介石を追い出し中国の覇権を握った中国共産党。米国はこれらと対峙するために、日本を利用せざるを得なくなるのです。良い悪いはこのさい別として。 尚、連合国による対独・対伊 の戦争はあり、歴史通り連合国の勝利に終わったとします。日本だけがそのまま。 今どんな日本社会になってますか?あくまで IF です。

  • 日米開戦当時の満州国の石油

    日米開戦当時の満州国の石油 日本の歴史の教科書には日本の石油不足が深刻になり、それが直接の動機で開戦になったとかいてあります。しかし、満州国の奉天で石油がとれており、それでまかなえたのではないかというのが私の疑問です。実際はどうだったのでしょうか?