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なぜインパール作戦は失敗してしまったのですか?

僕は日本史の勉強をサボってきたので大雑把な質問しかできなくて申し訳ないんですけど、なぜインパール作戦はうまく行かなかったのですか? インパール作戦が失敗したのは、牟田口廉也中将の「突撃主義」が破綻したからと言われてますけど、それは具体的に、何がどうダメだったのですか?

  • mkfdh
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  • misa-on28
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回答No.3

まず、作戦の目的が軍事上の必要よりもむしろ東条がチャンドラ・ボースの自由インド政府構想に参ってしまいその政治拠点を作ろうと言う政治的要素が強かった事。 牟田口が盧溝橋事件の時の現場の隊長であったため、日中戦争以来のおとしまえをつけて自分が手柄を立てて戦争を終わらせるなどと言う個人的な動機により立案した事。 川辺がそれを許容した事。 英印軍を侮り、2週間分の食料しか携行していなかった事。マラリアなど熱帯性の疾患が発生したときの備えが皆無だと言っていいほど貧弱だった事。これにより戦病死者・餓死者が続出した。日本軍の撤退路には餓死者、重病者が放置され白骨街道とまで言われた。またこの白骨転々と転がる様が後続部隊の道しるべとなったとさえ言われる。 武器弾薬の補給が全く考慮されていなかった事。 牟田口はジンギスカン作戦と称して牛に荷物を運ばせ最後にはその牛を食えばいいなどと言うフザケタ運輸方針しか持っていなかったため、山脈越えやチンドウィン川を渡河するときに牛はどんどん損耗していった。 敵は飛行機などをフルに使って補給を行ったがそれに対して無策だった事。 日本軍は山越え行軍のため軽装備であったが敵は戦車や大砲を備えた円筒陣地で待ち構え、日本軍の切り込み攻撃を無力化した。 司令官の牟田口は前線に出る事もなく知る事もなく避暑地のメイミョウあたりで安楽にしていた事。一説によればメイミョウでは遊郭まであったそうな。 現場の師団長3名の反対を押し切り牟田口が作戦を強行した事。 意見の違う師団長3名を作戦中に罷免し指揮が崩壊した事。 現場指揮官のそれぞれをみれば勇戦敢闘したケースも見られる(特に撤退時の宮崎繁三郎少将など)が、そもそもの作戦の土台自体が牟田口のアレなもので、成功する見込みははなからなかったと言える。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。なるほど、うまく行かなかった理由がよく分かりました。背すじが寒くなるほどお粗末な作戦だったんですね。

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  • Yelm
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回答No.9

純粋に軍事的に見ると「大河で分断され交通に不便な平原地帯」というビルマの地勢は防御側に不利であり、そこで外郭の防衛のためビルマ・インド間の交通の要衝であるインパールを攻略してそこで守るという、攻勢防御作戦そのものはそれなりに合理性があります。 問題なのは当時の日本陸軍にそれを実行できる能力が無かった事です。 そして戦史を見ると同様に「軍事的には合理的な思考に基づき構想された作戦ではあったが、実行は不可能であり結果的には大きな失敗を招いてしまった」という実例は珍しくないのです。 例えば第一次大戦前のドイツ軍は参謀本部が長年にわたり練りに練ったいわゆる「シュリーフェン作戦」に基づき、フランスを一気に攻略すべく攻勢をかけていますが、現在ではこの作戦は実現不可能であり、軍部がそれにのめり込みすぎた事がドイツ帝国を英・仏・露の三大国との大戦争に引きずり込んで破滅させる遠因になったとされています。 日本陸軍は組織面で帝政ドイツを参考にした面が多々あり、この結果悪い面までまねてしまったと言えるかもしれません。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。帝政ドイツを真似た弊害という視点からのご意見は大変参考になりました。その点についても勉強したいと思います。

  • misa-on28
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回答No.8

第31師団にたいし、コヒマ占領の報に接した牟田口は確かにディマプールへ追撃命令を出していますが、その命令はビルマ方面軍(第15軍より上級)により「第15軍司令官はディマプールへの追撃を中止すべし」と言う命令により覆されています。 コヒマ攻略の指揮官佐藤幸徳が、牟田口への反発から、敵前で進撃を停止したというのは誤っています。またコヒマを押さえたとはいえ、その西南方高地にはイギリス軍が陣地を構え、やすやすとディマプールへ「2日で」突入できる状況ではなかったようです。 ディマプール追撃の可能性については防衛省の防衛研究所の平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書に荒川 憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に—」という論文が出ていますがその中でディマプール追撃について検討されている文を引用します。原文は以下のURLで確認できます。 http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum_j2002_11.pdf >果たして31師団のディマプールへの追撃は可能であったろうか。軍事的合理性の視点から検討してみよう。筆者の結論は極めて困難であるというものである。それは日英の公刊戦史を基に1944年4月4日から4月中旬頃までの両軍のコヒマ西南高地周辺への兵力進出状況を検討した結果である。英軍側は当初からこの一帯の緊要地形であるコヒマ西南側高地に陣地を確保していた。加えて逐次コヒマ周辺に増援してきた日英両軍の兵力の格差である。しかも、制空権は終始英軍側にあった。 >確かに、宮崎支隊長が4月4日コヒマ部落を占領した歩兵第58連隊3大隊を北方のチェズウエマ(Cheswema)に向かわせず、コヒマ西南側高地を背後から攻撃させていたなら、この高地は奪取できたかもしれない。しかし、奪取しえても、その後の戦闘様相は現実に繰り広げられたコヒマ西南側高地の争奪戦と同じであったろう。 >『コヒマ(KOHIMA)』の著者A・スウインソン(Arthur Swinson)は、この問題について河辺と牟田口の命令を比較した上で「牟田口の方が実際正しかった」と断言している。しかし、これは日本軍を過大評価しすぎている。ディマプールに進出できるのは歩兵第138連隊第3大隊が先頭になるであろう。その3大隊はコヒマ~デイマプール道遮断のため4月6日コヒマ西方15キロの高地に進出したが、そこで英軍部隊と接触する。大隊はこれを夜襲したが、失敗、大隊長は戦死して、以後両部隊は対峙状態のままとなった。 >結局ディマプールへの突進が成立するためには31師団に補給能力があり火力が追随しているという英側と同様な条件が必要である。 そもそも英印軍は当然自軍の弱点を想定して守りに入りますから、ここを攻められるとマズいと言う点は日本軍よりも把握しています。 また自軍の軍事常識として、ある程度の補給を維持できる作戦で攻撃してくると想定しますから、英印軍はむしろ日本軍を過大評価したと言えるでしょう。 勝者はしばしば敗者をたたえますが、それは弱敵を倒してもさほどの手柄ではないからです。ある意味リップサービスとも言えるでしょう。ガダルカナルで戦ったアメリカ兵が実体以上に日本軍は強かったと言う事があるのも同様な事でしょう。

参考URL:
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum_j2002_11.pdf
mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。説得力のある解説で大変参考になりました。日本軍の強さを讃えた英国側の証言についても、裏読みする必要があると分かりました。

noname#200922
noname#200922
回答No.7

インパール作戦は、すくなくとも中盤戦までは、日本軍の圧勝だったのです。 インパールへの出撃に際して、牟田口中将は、 『ここに諸氏に告ぐ。 河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし』 と述べています。 そもそもインパール作戦は、迅速を旨とする作戦であったということです。 日本は初動段階で、インパールの入り口をふさぐコヒマを占領しています。 すぐ近くにディマプールという、英国軍の物資補給基地があります。 そこまでは、わずは2日の距離です。 もし日本が、その段階でディマプールを陥としていれば、補給の問題は解決していたのです。 そうなるとインパール作戦は、日本側の大勝利に終わった可能性すらある。 そのことを敵である英国側が、戦後はっきりと認めています。 まず、アーサー・スウィンソンという英国のインド駐留軍第二師団参謀は、その著書である「四人のサムライ」の中で、次のようにインパールの戦いを記述しています。 『当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった』 インパール作戦における日英の戦いは、毛筋一本で戦局が変わる微妙なものであったと書いているのです。 彼は、さらにこう述べます。 『当時のディマプールは、全地域にわたって、狼狽と混沌の中にあった。 何千という苦力が路地に群がっていた。 血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。 日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた』 双方の兵力は、英国15万、日本は9万です。 しかも、英国軍は、十分な兵站がある。 対する日本側は、毎度のことだけれど、ギリギリの装備しか持っていない。 ギリギリの装備しかなかったのは、牟田口中将の資質の問題ではありません。 日本という国自体が、貧しく、ギリギリの戦いをせざるを得なかったのです。 そこを間違えてはいけない。 日本本土だって食い物がなくて、食管法が施行され、闇米が流通し、人々に生活物資がいきわたらなかったのです。 冬は寒いけれど、石油ストーブさえ炊けなかった。 だからみんな木を燃やしたのです。 都心部では餓死者まで出る状況だった。 日本はそうした事情の中で戦っていたのです。 第15軍だけが、なにも兵站が少なかったわけではない。 それでも牟田口中将率いる第十五軍は果敢に戦い、昭和19(1943)年3月21日には、宮崎繁三郎指揮の左突進隊が、はやくもウクル・サンジャクの英国第49旅団を潰走させています。 日本陸軍は、ほんとうに強かった。 そして続く本隊が、コヒマに肉迫した。 コヒマは、ディマプールからインパールに通じる、補給路の要衝です。 日本軍の猛攻に、3月25日、英国のアジア総司令官であるマウントバッテン卿は、ロンドンにある英国統合本部に次のように打電しています。 『もはやインパール街道と、ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。 第四軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。 唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。 よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい』 その第7師団の空輸が始まったのが4月6日です。 その空輸が始まった当日に、日本軍は、はやくもコヒマを占領しています。 まさに疾風怒涛の快進撃だった。 コヒマの目と鼻の先には、英国軍最大の補給基地であるディマプールがあります。 ディマプールが陥ちれば、日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、戦いに必要な一切合財を確保することができます。 ところがここで、予期せぬ出来事が起こります。 一刻の猶予もならないと、督戦をあおる牟田口中将に対し、コヒマ攻略の指揮官が、牟田口中将兵の反発から、敵前で進撃を停止してしまうのです。 これは外敵というより、むしろまったく内部事情です。 ディマプールにいた英国スタッフォード将軍は、 「このとき、もし日本軍が、コヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、(作戦全体において、英国に勝利はなかった」と述べています。 日本側のコヒマ攻略の指揮官は、その後インパール作戦の日本側の配色が濃くなったとき、補給途絶の故をもって、無断撤退して抗命事件を起こします。 なぜか戦後史観では、この命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が将兵1万の命を救ったと高い評価を得ているのだけれど、実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、あと二日の距離を急進し、ディマプールを陥としていたら、戦況はまったく違うものになっていた、ということなのです。 たしかにインパール作戦は、困難な作戦でした。 しかし、当時、タイに駐留していた牟田口中将率いる日本陸軍は、わずか3個師団なのです。 この3個師団で、英国のビルマへの浸透を抑えることは、前線が広すぎてどうにも困難です。 さらに、支那南部の雲南省には、国民党十万の大軍がいます。 この大軍は、通常の寄せ集めの支那兵と異なり、米軍のジョセフ・スチルウェル中将によって、米式で徹底的に鍛えあげられた軍団です。 時間が経てばたつほど、日本側は不利になる。 しかも彼らには、十分な補給がある。 簡単にいえば、東海道を東進する圧倒的大軍の敵を、箱根(インパール)で討つか、関東平野(ビルマ)まで引き入れて迎撃するかという選択が、インパール作戦となっています。 これだけではありません。 インパール作戦の実施は、日本とその同盟国との関係が大前提となっている。 そもそも大東亜戦争というのは、日本によるアジアの植民地からの「解放」戦争です。 特ア三国以外のアジア諸国は、みんなそう理解している。 なぜならそれが本当のことだからです。 異を唱えているのは、特ア三国だけです。 特ア三国は、大東亜戦争においては、日本とも諸外国ともまったく戦闘をしていません。 当時、八路軍と呼ばれた毛沢東率いる中国共産党は、単に中国奥地に隠れていただけだし、金日成は、名前も登場しない小者にすぎない。 韓国を建国した李承晩は、米国亡命中で日本軍には会ってもいない。 彼らは強力で規律正しい日本陸軍を前に、逃げ回っていただけです。 戦後の東京裁判で、日本陸軍だけが裁きの対象となり、海軍にはまったく罪が及んでいない事情がここにある。 要するに、実際には日本軍とまったく相対することのなかった連中が、後年になって、「我こそは抗日戦線の英雄」などと、嘘八百を言い募るものだから、その三国だけが、おかしな歴史認識となっているのです。 それ以外のアジアの国々は、すべて、日本のおかげで独立できたと認めています。 日本は、おおいに自信を持つべきです。 実際、大東亜戦争のさなかである昭和18(1943)年11月に、東京で大東亜会議が開催されています。 会議の席上で、ビルマのウー・バー・モウ総理は、次のように述べています。 『インドの独立なくしてアジアの独立なし』 そして特別参加していた自由インド政府首班のチャンドラ・ボーズは、特に発言を求めて烈々たる気迫で、次のように語った。 『他国は、あるいは英国と講和ができるかもしれませんが、インドとしては絶対に英国と講和はできない』 これを受けて、東条英機総理は、 『日本は、いよいよインド独立のため、全幅の協力をする決意』 と述べています。 この会議で、日本がその時点ですでに占領していた、インド領アンダマンとニコパル両諸島が、自由インド政府に帰属することになった。 この会議で、日本はインドの独立のための具体的支援行動に出ることを、国際的に約束したのです。 約束は守らなければなりません。 日本は、大東亜会議の二か月後である昭和19年1月に、インパールへの進攻作戦を決定する。 軍は、国家の命によって動きます。 国が、インド独立支援を決めたのなら、それに沿った軍事行動をする。 それが軍隊というものです。 この決定の時点で、牟田口中将以下の第十五師団は、タイで道路工事をしています。 軍隊というと、戦闘以外のときは、なにやら教練をしているくらいしか仕事がないと思っているなら、大間違いです。 諸外国の軍隊はそうかもしれないけれど、日本陸軍は、戦闘以外のときは、地元のために植林事業をしたり、ジャングルに物流の中核となる道路を造ったり、橋をかけたり、公共施設や病院を建てたり、地域のために休みなく大土木工事を行っていた。 ぜんぶ、当該地域住民のためです。 とにかく、休んだり、暇にしていることがない。 24時間、365日、休みなく、地域のために働き詰に働いていたのが、日本軍です。 本国から命令を受けた牟田口中将は、具体的なインド独立のためのインパール作戦の詳細を煮詰めます。 その作戦の詳細が煮詰まった、昭和19(1944)年3月8日、牟田口中将によって発動されたのが、インパール作戦です。 ただし、日本のインド独立支援という国家の命題を背負った牟田口中将と、現場の戦線だけを監督する現場指揮官との間には、その意識において、この時点で大きなギャップが生まれています。 つまり、日本国の決定としては、インド独立支援を行う。 ところが、この時点で、すでに日本は全体の戦線を縮小する方向にあったわけで、にもかかわらず、 「なぜいまさら戦線を拡大するインド攻略などしなければならないのか」 という意識が、現場指揮官内に万延していたのは否めません。 そして起こったのが、コヒマ攻略隊の造反でした。

mkfdh
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございました。当時の事情がよく分かり、大変参考になりました。しかしコヒマを攻略しディマプールを目前にして、なぜ攻略隊は造反してしまったのか、それが痛恨の極みです。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.6

失敗は補給の問題と、効を欲しがる軍司令官の個人的わがままです。 約束の補給料を第15、31、33の3コの各師団に、第15軍司令官の牟田口廉也中将ができず、麾下部隊の命令の無視によって、戦線は大崩れになっています。 責任は、牟田口中将の上部機関のビルマ方面具、南方軍、大本営にもありました。 牟田口中将の作戦を裁可したことです。 原因として考えられるのは、大本営としても、押し詰まった昭和19年の戦局に、作戦成功の良い知らせを欲しい大本営の問題、国民に良い知らせをしたいとが欲が出た陸軍省です。 当初、牟田口中将は、補給の為、全陸軍の1/3に及ぶ大規模な補給部隊を要求しました。 それは、陸軍としては、到底不可能な事でした。 それが、大本営までの作戦申請の過程で、上部機関により、ドンドン減らされて、また認可されても、また降りてくる過程でドンドン減らされました。 その数字は、要求した数字を、はるかに下回り、たった3コ師団の補給も危ぶまれる程になっていました。 結果、3コ師団は、食料として、生きた羊、山羊をつれて出発しました。 物資輸送に使う、象も、物資消費が済んだ暁には、食用にする計画でした。 また、陸軍お決まりの、糧は敵に求めるの精神で、インパールまでの給養で進撃し、インパールで敵の糧食を得る計画でした。 中国戦線で、長年培われた、この精神で、作戦はスタートしたのです。 結果は、ご存知の通り、大失敗です。 師団長をはじめ、どんな優秀な現場指揮官がいても、作戦の結果は、見えていました。 反対した3人師団長をはじめ、第15軍参謀長まで更迭しました。 司令部の参謀も、内心では反対していたけれども、参謀長の更迭を見て、何も言えなかったと言われています。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。解説は参考になりました。作戦失敗に官僚制の弊害のようなものを感じました。

noname#203203
noname#203203
回答No.5

馬鹿の一つ覚えで「鵯越」をしたからです。 シンガポールはこの作戦で陥落出来ましたが、イギリスも察知して、 二度目は、待ち構えていました。 更に、グアムでも「鵯越」をして、支援部隊は壊滅しました。 山本五十六が”陸軍さんは「桶狭間」と「鵯越」ばかり”と批判して、 陸軍から命を狙われ、戦艦長門に司令長官として、逃げ込んだとか・・・

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。山本五十六長官が「陸軍さんは桶狭間」と揶揄したのは、織田信長の正面突破説と迂回奇襲説のうち、後者を前提に語ったのですか?

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.4

mkfdhさん、こんにちわ。 インパール作戦の代名詞になっていることは補給問題を無視した無謀な作戦として有名です。もともと大本営がたてた作戦だと言われています。しかし、実際に実施するにあたってその時期は敗色が濃くなった昭和19年でした。この間にいろいろな人事が行われ、第15軍の麾下にあった3個師団の師団長が更迭されたり、参謀長も更迭されたりします。一説によると反対者を追っ払うためだといわれています。 大本営も敗色濃厚になった局面を変えるために積極攻勢に出る作戦としてこの作戦を実施させようとします。 案の定補給路が険峻な山岳路で牛馬でも困難な移動ルートでした。また空からの攻撃には格好の的になりました。 そして、敵の陣地を攻撃するときには急襲のために軽装備であったため、敵の堅固な陣地を突破できませんでした。 詳細は下記のURLを参照ください。 インパール作戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。

  • nantamann
  • ベストアンサー率30% (342/1138)
回答No.2

日本陸軍お得意の現状把握実務能力の欠如というかルーピー脳。 具体的には補給がない見込めないのに戦線を伸ばしたということでしょう。飢え死にです。ホントに愚か。軍隊の愚かなことは馬鹿が指揮官になると兵は間違いなく死ぬという例です。東条英機はじめ日本軍人は論理的思考の出来ない馬鹿ばかりだった。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

武器弾薬の補給がない 食料も現地調達という無計画 そもそも物資を輸送する手段もない 兵員に持てるだけの装備を持たせてあとは戦場で調達するというその場凌ぎだった ろくな道路も無いところを短期間で徒歩移動して、航空支援も敵情の確認も出来ず遮二無二机上の予定表に従って突進する 例えインパールでなくとも、世の中そんなに単純ではない

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。最後の一文は正論だと思います。

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    牟田口廉也は1944年3月インパール作戦以外にも無能な事をしたことはあるのでしょうか?

  • 牟田口廉也は無能なのか?

    牟田口廉也は無能なのか? の質問があったので以下投稿しました すると不支持の方がいた 具体的に何が不支持なるのか意見を下さい 興味のある方願います 少し加筆しました インパールの失敗は 戦後しばらくは罷免された3人の師団長(佐藤、柳田、山内)が無能とされてた 現在は牟田口廉也軍司令官が悪者となっている そして独断撤退した佐藤幸徳第31師団師団長が英雄になってる この東部インドへの進行作戦は、昭和17年に南方軍が第二段作戦として準備を発令 この時、第18師団長だった牟田口は兵站困難の為反対している その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留に その後ビルマ周囲に英中軍が兵力増強してきたため、日本軍も師団を増強 第15軍の一軍だけでは手に追えなくなるので、上部のビルマ方面軍を新設 同時に大人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった この異動で西ビルマ方面の地理地勢敵状に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を加筆したとも伝わる 作戦反対の参謀、参謀長を更迭も行った 牟田口は、陸士陸大で恩賜ではなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛部隊長を経験し、かなりプライドが高かった だから、特に歩兵科出身者にありがちな皇軍精神論の持主であった だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なった。 また、支那事変は自分が始めたので何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦を強く要望している 牟田口には、全体像の日本国、全陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てで、そこに猛進していた それでカタをつけた事になると思っていた 大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏外郭での作戦成功で、戦果の自負と国民の戦意高揚を欲していた一面がある これは大陸打通作戦にも期待されていた また、たった3コ師団くらい現地軍まかせて、どうでも良いと考えていた インパール作戦は日本陸軍が大好きな攻勢防御 と言うか 陸軍大学でそういう教育をしている 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは当たり前の事 現在の牟田口廉也像は、生還者、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責された事を恨めしく思った一部の極端な一面のようだ また牟田口は作戦にあたり、自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している その数は全陸軍が保有する中隊数を超える数であった 要求数は、ビルマ方面軍により減らされ、減らされたその数も南方軍の手持ち数を超えており、 南方軍の答申は要求数の2割りだった しかし、この兵站部隊が減らされたのに作戦は実行しなければならなかった ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である 苦悩の末、参謀のアイデアを採用して、物資を水牛に駄載運搬、必要時に食料に使う、一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する 結果はこの地方で徴発した動物は物資運搬には適さずアイデアは成功しない 良く誤解されるが 上部司令部の作戦命令に、第15軍には兵站の不足の状況があったが、命令を達成するために苦悩の末、採用したアイデアである 牟田口が個人的に先走った作戦ではない 日本陸軍は与えられた兵力で目的達成しなければならない 開戦時のフィリピン作戦の失敗が良い例だ 実際問題として、作戦中の3個師団の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ 作られた作戦計画は、奇襲により短期で敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった 特に牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 結果の敗戦は牟田口が軍司令官でなくても大同小異 たまたま、そこに牟田口が居ただけ 特に牟田口だけ能力が劣っていたわけではない 第15軍司令官という職責がそうさせた 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが嫌悪感を高めているようだ ただ、出身の北九州では兵を可愛がる良い将軍と人気があった 牟田口は、司令部に家を建て、芸者を呼んで宴会をしていた これが戦場帰りには不快に感じられたようだ 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている 軍司令官、師団長という親任官は、感覚がズレていた たとえ戦場においても、そういうものなのだ 特にビルマだけ、おかしいものではない 兵隊と同じ兵食を食べたり、減食すること等、庶民の兵隊と同じ生活をすること自体、おかしいと考えられていた 上官ほど良いものを食べ、良い生活するのは、高等官は当たり前の事 特に親任官は、戦場においても、それだけの格式、優雅な生活をしていなければならなかった これは、現在の官僚体質や、国会議員、大臣と同じと言えるかもしれない 戦場で刺身を作らせた事や、担当兵に梅干樽を担がせて移動したこと事を、大問題と投稿されている方もいるが、この戦場の生活スタイルは、当時は当たり前のもの 平等という考えは存在しなかった 軍司令官、師団長は親補職であるから兵にとっては天皇と同じ 兵と一緒にとか、同じなんていうのは、映画で作られた虚像 ただ、100%そうだったかと言うと、一部にはそういう考えの人もいたのは事実 でも内容は違った 感覚はズレていた 本当に兵の生活を理解している人は居たかどうか…。 少尉だって学校出ただけで奏任官であって、それだけの待遇があって当たり前 戦時国際法でも、捕虜の兵は使役に使っても良いが、少尉の士官は免除された これが当たり前 まして、軍司令官、師団長の中将なら当たり前 捕虜になっても、軍司令官、師団長の中将は、その格式の食事給養がされる 捕虜収容所の所長が中将より階級が下であったら、たとえ相手が捕虜でも、所長から先に敬礼しなくてはならない 参謀は作戦に反対意見を述べる事はできるが、どの意見を採用するかどうかは軍司令官の判断 実際米軍と違い、日本軍の主義として、司令官が直接主導権を取らず参謀長が決定するのが通例 これは師団長も同様 司令官自ら決定しなければならないのは、参謀長をもたない旅団長まで 軍司令官により決心された作戦を、細部計画を立案するのは参謀の仕事 これも師団長も同じ 決定に逆らった参謀は罷免、更迭されるのは当然 同じく、決定、命令に従わない師団長が罷免、更迭されるのも当然 また、部下は意見具申はできるが決定事項に従うのは当然 米軍は、作戦が計画通り進まないのは戦意が欠けると、戦場で師団長解任が行われている 日本の場合は、師団長が親補職だから大きな問題として注目されている 実際は、本当に牟田口司令官個人から発せられた解任かどうかも不明 日本軍は、米軍と違い、参謀、参謀長を無視して軍司令官が直接命令を発する事は不可能 師団長に命令伝達するのは軍参謀長 師団長が報告行うのは軍参謀長宛 結局、慌てた南方軍が解任された佐藤師団長を精神異常として処理、予備役編入されている 同じく、牟田口廉也も作戦失敗の責任を取らせる形で予備役編入されている ただ直ぐに召集されて予科士官学校長になっている また佐藤幸徳もすぐに召集されている 陸軍の評価としては、作戦失敗の責任で予備役編入しているが、それ以上のおとがめ無しですぐに召集している これは親補職であったからと言われる 牟田口の予科士官学校長は、軍司令官経験者としては格下、かなり責任を取らされた形である 戦後の評価は、佐藤ら3師団長だったが、現在は牟田口軍司令官に変わっている しかし、牟田口廉也が無能で佐藤幸徳が有能とは一概に言えない 失敗=最終的な作戦立案した参謀の問題 第15軍のインパール作戦失敗は結果論 更に言えば、一番の問題は、作戦開始を命令し作戦中止命令の遅れた上部のビルマ方面軍司令部 個人を言うならビルマ方面軍司令官の河辺正三大将 だから牟田口個人を一概に無能とするには当たらない 誰が司令官でも結果は大同小異 内容はガダルカナルやニューギニアと同じ 問題は3人の親補職の師団長が作戦中に解任になった事 親補職であることが問題 ガダルカナルでも川口清武旅団長が戦場で解任になっているが、親補職でないので全然問題になって無い 牟田口廉也無能論は、戦後随分たってから発生した結果論 当時の一般的な軍司令官 中将で師団長のあとに予備役にならず、軍司令官に昇進できただけで大したもの。 結局、日本の軍司令官の資質ってこんなもん そういう教育しか受けていない だから牟田口廉也個人を無能とするには当たらない どうでしょう? 私の意見 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求 与えられた兵力で目的達成しなければならない 敵地で食料を得る通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 個人的に先走った作戦ではない たまたま、そこに牟田口が居ただけ 職責がそうさせた 当時の一般的軍司令官 誰が司令官でも大同小異

  • 田母神元幕僚長は軍人としてどうか。

    軍人でありながら政府の従来からの公式見解を否定し、政府に逆らっても反省せず開き直るというのは、文民統制の意味と意義と重要性について全く理解できていないと思われます。 また、過去の戦争は何が原因でああいう結果になったかを全く認識できていない、過去の失敗から何も学べないような人間が、有事の際に部隊を正しく指揮できるのでしょうか。 勇ましい言葉だけが空回りし作戦が実状に伴わずに味方の大部隊を壊滅に追いやった旧陸軍の辻政信(ノモンハン、ガダルカナル)や服部卓四郎(ノモンハン、大陸打通作戦)、牟田口廉也(インパール作戦)を彷彿とさせますが、 こういった大戦中の反面教師から「指揮官たるや」を学んでほしかったと思います。 みなさんは、このように政府に平気で逆らう人間が空軍のトップにいたことをどう思いますか。

  • インパール作戦

    インパール作戦で日本が負けた要因を教えてください。

  • インパール作戦から

    インパール作戦はなぜおこなわれたのでしょうか? 近代兵学を知っているものならば 無謀だとはわからなかったのでしょうか? 牟田口の狂信的な熱意に大本営もビルマ方面軍も呑まれてしまったのでしょうか? そしてなぜ早く作戦中止にできなかったのでしょうか? 牟田口がガンだったのでしょうか? そのおかげでたくさんの兵隊さんが飢えて倒れて ビルマ街道は白骨街道と呼ばれるようになってしまいましたね。

  • インパール作戦から

    インパールから奇跡的に生還した兵士の方は、戦後問われるて牟田口の名前を聞くと激怒して「あんな奴が畳の上で死んだことは許せない!」といって涙を流したようですが、宮崎繁三郎の名前を聞くと安堵して怒りを納めたようです。その宮崎中将について教えて下さい。今日においても帝国陸軍の中では評判の良い人のようですが・・・

  • インパール作戦

    なんであんな無茶苦茶な作戦が起きたのでしょうか。 海軍のく○たと並んで陸軍の牟田○は責任も取らず 戦後を生き延びたそうですね。 あんなバカの命令で死んだ将兵達が成仏したとは思えません。 部下に暗殺されても文句言えないと思いませんか? せめて自決するとか。 こんなのがいたから自衛官の皆様が苦労してるのではないでしょうか。

  • 生活保護の水際作戦

    最低賃金が生活保護費以下の地域在住のものです。 一般就労したいですが、ちょっと通院回数多いと入院があると、生活が破綻します。都会では一週間で生活保護を認めてくれるが、田舎では丸々一ヶ月かかります。しかもその間飲食等の借金があると、4ヶ月に伸びます。 なぜ一般就労するかと、車の所持が禁止されているのです。片道二時間の買い物は生活が成り立ちません。この間自転車も保険料かかるから禁止ですと言われました。生活保護者の権利を守るだとそうです。 堅苦しい田舎、役所のひどい水際作戦を回避することはできませんか。 以前にも質問しましたが、車は絶対に禁止です、どう審査請求してもだめです。問題は市役所の引き延ばし作戦ですか。都会なら一週間でも、田舎では申請に数か月かかる場合があるからです。それが耐えられないです。

  • 友人の恋愛作戦は通用しますか??

    今度、少数の男女で酒を飲むことになりました。 私は20代前半の男ですが、同い年の男の友人が、 一緒に飲むある女の子を以前から好きなようで、 色々と誘ってはいるものの、いつも理由をつけられて断られているようです。 女性はおっとりとした方で、積極的ではなく、ガードが固いような印象を受けていましたが、 彼がどうやら、それとなく好きと伝えたのが裏目に出て、 更にガードが凄まじく固くなってしまったようです。 流石にタフな友人も焦らされる展開に堪えてきたのか、 今度の飲み会である作戦を行うというのです。 それは、私が最近の恋愛事情を友人に振り、 そこで彼が、 「最近までは好きな人はいたけど、もう友達のままでいいかなって思い始めてきた」 「確かにいい女性で、せっかく会えたということを大切にしたかったけど……」 「ただ、今度のゴールデンウィークに誘ってみて、そこで断られたらもう潔く諦めようと思う」 なんてことを言うと言っているのです。 まあ、作戦を立てるのは必要なことかもしれませんが、 それを女性本人の目の前で、しかも飲み会という場で言うなんて、 正直私は賛成しかねています。 私の振りで始まったことが原因でダメになるなんていうのも、 少し後味が悪いですし…… それでも、友人はこれでダメならスッキリするし、 これ以外に状況を打開できる方法が思いつかないと言います。 私はどう考えても失敗するようにしか思えないのです。 これは友人として、止めるべきでしょうか? 皆様にこの無謀な作戦への意見をいただきたいです。 無謀だと思われる方は、少しでも状況を打開できるアイデアを授けてはくれないでしょうか? 下らない質問かもしれませんが、よろしくお願いします!!

  • 神風特別攻撃隊の思想・精神の根源(ルーツ)

    抽象的な表現で申し訳ありません。勝手に解釈して、ご回答をお願いいたします。  今、太平洋戦争のことなどを考えながら、遠い昔、「聞け、わだつみの声」という神風特別攻撃隊として出撃していった隊員の遺書を読んで、訳も分からずに、ただただ涙したのを想いだしながら、今になって、ふと、神風特別攻撃隊を生み出した、また自ら?志願していったという日本人の精神の根源(ルーツ)は何処にあったのだろうか???あるいは何にあるのだろうか???という疑問が湧いてきました。  個人の行動としての「必死の突撃」というのは、古今東西、いろいろあったと思うのですが、国の作戦としての神風特別攻撃隊というものには、なにか異常なもの、不思議なもの、あるいは得体の知れない不気味なものを感じます。  まさに、必死の作戦、悪魔の作戦と言えると思いますが、そもそも作戦を考えだした奴が悪い、当時の軍部は異常だったということだけで片付けられる問題なのか、あるいは日本人にはそんなところ……必死の作戦を考えだし、実行する思想や行動……があるのだろうか???……あるとすれば、それは何から生まれてきたのか???また、日本の過去の歴史の中でそのことを暗示させるような思想や事象はあったのでしょうか???という疑問です。  それとも、特別に異常な作戦ではなく、あの状況に置かれれば、何処の国でも考えることなのでしょうか???