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牟田口廉也は無能なのか?

牟田口廉也は無能なのか? の質問があったので以下投稿しました すると不支持の方がいた 具体的に何が不支持なるのか意見を下さい 興味のある方願います 少し加筆しました インパールの失敗は 戦後しばらくは罷免された3人の師団長(佐藤、柳田、山内)が無能とされてた 現在は牟田口廉也軍司令官が悪者となっている そして独断撤退した佐藤幸徳第31師団師団長が英雄になってる この東部インドへの進行作戦は、昭和17年に南方軍が第二段作戦として準備を発令 この時、第18師団長だった牟田口は兵站困難の為反対している その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留に その後ビルマ周囲に英中軍が兵力増強してきたため、日本軍も師団を増強 第15軍の一軍だけでは手に追えなくなるので、上部のビルマ方面軍を新設 同時に大人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった この異動で西ビルマ方面の地理地勢敵状に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を加筆したとも伝わる 作戦反対の参謀、参謀長を更迭も行った 牟田口は、陸士陸大で恩賜ではなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛部隊長を経験し、かなりプライドが高かった だから、特に歩兵科出身者にありがちな皇軍精神論の持主であった だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なった。 また、支那事変は自分が始めたので何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦を強く要望している 牟田口には、全体像の日本国、全陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てで、そこに猛進していた それでカタをつけた事になると思っていた 大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏外郭での作戦成功で、戦果の自負と国民の戦意高揚を欲していた一面がある これは大陸打通作戦にも期待されていた また、たった3コ師団くらい現地軍まかせて、どうでも良いと考えていた インパール作戦は日本陸軍が大好きな攻勢防御 と言うか 陸軍大学でそういう教育をしている 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは当たり前の事 現在の牟田口廉也像は、生還者、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責された事を恨めしく思った一部の極端な一面のようだ また牟田口は作戦にあたり、自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している その数は全陸軍が保有する中隊数を超える数であった 要求数は、ビルマ方面軍により減らされ、減らされたその数も南方軍の手持ち数を超えており、 南方軍の答申は要求数の2割りだった しかし、この兵站部隊が減らされたのに作戦は実行しなければならなかった ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である 苦悩の末、参謀のアイデアを採用して、物資を水牛に駄載運搬、必要時に食料に使う、一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する 結果はこの地方で徴発した動物は物資運搬には適さずアイデアは成功しない 良く誤解されるが 上部司令部の作戦命令に、第15軍には兵站の不足の状況があったが、命令を達成するために苦悩の末、採用したアイデアである 牟田口が個人的に先走った作戦ではない 日本陸軍は与えられた兵力で目的達成しなければならない 開戦時のフィリピン作戦の失敗が良い例だ 実際問題として、作戦中の3個師団の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ 作られた作戦計画は、奇襲により短期で敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった 特に牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 結果の敗戦は牟田口が軍司令官でなくても大同小異 たまたま、そこに牟田口が居ただけ 特に牟田口だけ能力が劣っていたわけではない 第15軍司令官という職責がそうさせた 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが嫌悪感を高めているようだ ただ、出身の北九州では兵を可愛がる良い将軍と人気があった 牟田口は、司令部に家を建て、芸者を呼んで宴会をしていた これが戦場帰りには不快に感じられたようだ 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている 軍司令官、師団長という親任官は、感覚がズレていた たとえ戦場においても、そういうものなのだ 特にビルマだけ、おかしいものではない 兵隊と同じ兵食を食べたり、減食すること等、庶民の兵隊と同じ生活をすること自体、おかしいと考えられていた 上官ほど良いものを食べ、良い生活するのは、高等官は当たり前の事 特に親任官は、戦場においても、それだけの格式、優雅な生活をしていなければならなかった これは、現在の官僚体質や、国会議員、大臣と同じと言えるかもしれない 戦場で刺身を作らせた事や、担当兵に梅干樽を担がせて移動したこと事を、大問題と投稿されている方もいるが、この戦場の生活スタイルは、当時は当たり前のもの 平等という考えは存在しなかった 軍司令官、師団長は親補職であるから兵にとっては天皇と同じ 兵と一緒にとか、同じなんていうのは、映画で作られた虚像 ただ、100%そうだったかと言うと、一部にはそういう考えの人もいたのは事実 でも内容は違った 感覚はズレていた 本当に兵の生活を理解している人は居たかどうか…。 少尉だって学校出ただけで奏任官であって、それだけの待遇があって当たり前 戦時国際法でも、捕虜の兵は使役に使っても良いが、少尉の士官は免除された これが当たり前 まして、軍司令官、師団長の中将なら当たり前 捕虜になっても、軍司令官、師団長の中将は、その格式の食事給養がされる 捕虜収容所の所長が中将より階級が下であったら、たとえ相手が捕虜でも、所長から先に敬礼しなくてはならない 参謀は作戦に反対意見を述べる事はできるが、どの意見を採用するかどうかは軍司令官の判断 実際米軍と違い、日本軍の主義として、司令官が直接主導権を取らず参謀長が決定するのが通例 これは師団長も同様 司令官自ら決定しなければならないのは、参謀長をもたない旅団長まで 軍司令官により決心された作戦を、細部計画を立案するのは参謀の仕事 これも師団長も同じ 決定に逆らった参謀は罷免、更迭されるのは当然 同じく、決定、命令に従わない師団長が罷免、更迭されるのも当然 また、部下は意見具申はできるが決定事項に従うのは当然 米軍は、作戦が計画通り進まないのは戦意が欠けると、戦場で師団長解任が行われている 日本の場合は、師団長が親補職だから大きな問題として注目されている 実際は、本当に牟田口司令官個人から発せられた解任かどうかも不明 日本軍は、米軍と違い、参謀、参謀長を無視して軍司令官が直接命令を発する事は不可能 師団長に命令伝達するのは軍参謀長 師団長が報告行うのは軍参謀長宛 結局、慌てた南方軍が解任された佐藤師団長を精神異常として処理、予備役編入されている 同じく、牟田口廉也も作戦失敗の責任を取らせる形で予備役編入されている ただ直ぐに召集されて予科士官学校長になっている また佐藤幸徳もすぐに召集されている 陸軍の評価としては、作戦失敗の責任で予備役編入しているが、それ以上のおとがめ無しですぐに召集している これは親補職であったからと言われる 牟田口の予科士官学校長は、軍司令官経験者としては格下、かなり責任を取らされた形である 戦後の評価は、佐藤ら3師団長だったが、現在は牟田口軍司令官に変わっている しかし、牟田口廉也が無能で佐藤幸徳が有能とは一概に言えない 失敗=最終的な作戦立案した参謀の問題 第15軍のインパール作戦失敗は結果論 更に言えば、一番の問題は、作戦開始を命令し作戦中止命令の遅れた上部のビルマ方面軍司令部 個人を言うならビルマ方面軍司令官の河辺正三大将 だから牟田口個人を一概に無能とするには当たらない 誰が司令官でも結果は大同小異 内容はガダルカナルやニューギニアと同じ 問題は3人の親補職の師団長が作戦中に解任になった事 親補職であることが問題 ガダルカナルでも川口清武旅団長が戦場で解任になっているが、親補職でないので全然問題になって無い 牟田口廉也無能論は、戦後随分たってから発生した結果論 当時の一般的な軍司令官 中将で師団長のあとに予備役にならず、軍司令官に昇進できただけで大したもの。 結局、日本の軍司令官の資質ってこんなもん そういう教育しか受けていない だから牟田口廉也個人を無能とするには当たらない どうでしょう? 私の意見 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求 与えられた兵力で目的達成しなければならない 敵地で食料を得る通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 個人的に先走った作戦ではない たまたま、そこに牟田口が居ただけ 職責がそうさせた 当時の一般的軍司令官 誰が司令官でも大同小異

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みんなの回答

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.4

こんばんは。ithiです。 私の言いたいのは、 好き好んで軍司令官になったわけではない→該当地域の担当に自分の意志はない 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった→立場が変われば言動が変化するのは当り前 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求→兵站の手当はした 与えられた兵力で目的達成しなければならない→命令に文句は言えない 敵地で食料を得る→貧乏日本陸軍の通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない→誰でも同じ作戦する 個人的に先走った作戦ではない→誰でも同じ作戦する たまたま、そこに牟田口が居ただけ→該当地域の担当に自分の意志はない 職責がそうさせた→命令に文句は言えない 当時の一般的軍司令官→誰でも同じ作戦する 誰が司令官でも大同小異→誰でも同じ作戦する これだけなんですよ。 この人の場合、好き好んでなったでしょう。中将の師団長より、大将並みの軍司令官ですよ。 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求→兵站の手当はした 与えられた兵力で目的達成しなければならない→命令に文句は言えない 敵地で食料を得る→貧乏日本陸軍の通例の作戦→もうここで企画段階で中止ですよ。 いつから日本はこうなったと司馬遼太郎みたいに考えてしまうのが、ここですね。日露戦争の時は一生懸命準備しても足りなかったのに…ここで勝てたのが一種の天祐信仰に代わったんですかね。日露戦時だったら、本来企画だってできなかったと思うのに… たまたま、そこに牟田口が居ただけ→該当地域の担当に自分の意志はない 職責がそうさせた→命令に文句は言えない→そんな奴に資格はない、ジンギスカン作戦を考える貧しい頭でもできると思います。 当時の一般的軍司令官→誰でも同じ作戦する→絶対しない。現に彼の最初の参謀長は反対して更迭されています。三人の師団長も更迭されています。 誰が司令官でも大同小異→誰でも同じ作戦する→絶対しない。現に彼の最初の参謀長は反対して更迭されています。三人の師団長も更迭されています。 彼らなりに研究はしたと思いますからね。確かに着眼点はよかったんでしょうね。でも、その準備は日本軍にはなかったという次第です。その点は英軍の方が飛行機で補給する立体作戦や第1次世界大戦で防衛戦術の重要性を知っていた分、優秀な軍人がいたということです。 当時の司令官の任務と権威はとても大変でした。だから、彼がしないといえば、かなり反対があってもしなかったでしょう。 ババ抜きというトランプゲームであの中で一番頑固で凝り固まった将軍がたまたま軍司令官として一番ババを引いたということでしょう。

mm058114
質問者

お礼

ありがとうございます。 『この人の場合、好き好んでなったでしょう。中将の師団長より、大将並みの軍司令官ですよ。』 →師団長より上へのタイトル、評価への野心はあったでしょうが、牟田口が第15軍を指定したわけではありません。 『そんな奴に資格はない、ジンギスカン作戦を考える貧しい頭でもできると思います。』→それは後世の結果論からのあとづけであって、当時の日本陸軍ではあたりまえの作戦。中将昇進2年半であって陸士陸大の成績は中くらいであったが、陸軍予科士官学校長、師団長経験したので、戦時の軍司令官昇進は、まあまあ妥当なところ。充分当時の陸軍内規の資格を満たしている。 『そんな奴に資格はない』→回答者様の個人的感情ですね。 『現に彼の最初の参謀長は反対して更迭されています。』→司令官が部下を更迭するのは、珍しいことじゃありません。ガダルカナルの第17軍でも参謀長更迭が行われているし、硫黄島でも行われているし、特に第15軍だけに限ったことではありません。まあ戦意不足というのが主な理由です。反対は消極的と取られるのが、日本陸軍ですね。でも、こういう人事って日露戦争から行われています。沖縄第32軍の高級参謀の八原博通が防御戦を主張したときに、 長勇参謀長が『これ以上反対すると更迭しなきゃならなくなる。最後まで第32軍に一緒に居て欲しい』と言ってます。部下の更迭は、特に牟田口個人だけに限ったことじゃなくて、これが日本陸軍という組織なんですよね。 『誰が司令官でも大同小異→誰でも同じ作戦する→絶対しない』→牟田口は兵站300中隊確保の上の作戦遂行を意見具申しています。しかし兵站を減らされてもゴールは同じままを命令されました。ここに『他に人だったら絶対しない』なんて日本陸軍には絶対存在しません。上長から命令があったら文句も言わず、与えられた兵力でゴールを達成するのが日本陸軍です。ここに『牟田口なら実行した、他の人ならしない』なんて存在しません。只々やるだけです。開戦時のマレー、シンガポールの第25軍も、蘭印の第16軍も、与えられた兵力で只々やっただけです。そして偶々成功しただけで、特別に、山下奉文、今村均が優れていたわけではありません。同様なことが比島では、思い通り行かなかったからと言って、本間雅晴が能力が低かったわけではありません。 『軍司令官として一番ババを引いた』→作戦が上手くいかなかったときに、軍司令官、師団長などの負け将軍を予備役に編入するっていう、とりあえずの懲罰人事ですね。ノモンハンの時もそうでした。 色々ご意見いただきありがとうございました。 私の結論は、個人の問題ではなく、人事や作戦、兵站、命令、参謀とかの諸問題は、すべては硬直した日本陸軍の組織や常識、シキタリに行き当たるのではと、思います。 だから、私は日本陸軍が弱かっただけであって、牟田口が特に無能だとは思わないのです。可も不可もなく普通の軍司令官だと思います。 皆さんが無能と言われるのは、後世の我々が結果論で評価し、懲罰的に負け戦の犯人作っているだけではないでしょうか? いかがでしょうか? また、投稿してくださいね。 ありがとうございました。

mm058114
質問者

補足

投稿にコメントが遅れてしまってごめんなさい。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10467/32917)
回答No.3

#1です。 >って言う事は、コーチ陣にあたる、軍司令部の参謀長、参謀も無能といことになりますね 参謀の任務は、司令官の命令を実行に移すために補佐するものであり、ご存知のように軍隊は上意下達の組織なので、司令官が白いものを「赤くせよ」と命じたなら赤くするためにはどうすればいいかということを必死で考えるのが参謀の役割です。 辻政信のように、参謀なのに勝手に動き回って「これが司令官の命令である」と勝手にいって回るってのが軍隊としては異常以外の何物でもないんですよ。参謀というのは「優秀な手足補佐」であり「頭脳」ではないのです。これは日本陸軍独特の現象であり、アメリカ軍やドイツ軍などでも「参謀が暴走する」なんて絶対ありえないんですよ。この悪癖は現在も続いていて、本来参謀であるべき官僚が政治家をさておいて暴走する・・・というのは今回のテーマとは関係ないので割愛。 これまたプロ野球で例えるなら、監督が「大谷翔平に盗塁王をとらせろ」と命じられたらコーチと本人がやることはそうなるように練習したりプレーするということになります。しかし大谷君に「お前は投手もできて打者もできるんだから盗塁もできるはずだ」と言い出したら世間の多くの人は「この監督は頭がおかしい」と思うことでしょう。 >そして、好き嫌いではなく、与えられた持ち駒で作戦実行を命じられた職責である。 ええっと、どうも質問文から推測するに、インパール作戦については結構知識をお持ちのようですが、あの作戦は牟田口が「やりたい」と言い出してゴリ押しして実現した作戦ですよ。 ご存知ない方のために説明しますと、元々ミャンマーとインドの国境付近から中国方面へは援蒋ルートと呼ばれる連合軍から蒋介石軍へ支援物資を送るルートとなっていました。このルートを遮断するための「二十一号作戦」というインパール作戦への元ネタになった作戦が研究されましたが、戦局の悪化と戦力の引き抜きがあったために1942年11月に大本営は二十一号作戦を「保留」とします。「中止」ではなく「保留」としたのはいかにも官僚的判断でしょうね。中止しちゃったらもう二度と企画できなくなるからでしょう。 ところが15軍司令官になった牟田口は、誰にも頼まれていないのにインパール作戦を企画して上司である河辺正三ビルマ方面軍司令官に再三ねじこんで作戦の実現にこぎつけたのです。牟田口は「やれ」っていわれたんじゃないんですよ。自分から「やりたいです」って言い出したのです。読売ジャイアンツの高橋由伸監督とは違うのですよ。 >結果は、誰が軍司令官でも同じようなもの だと思います。そこは私も同意です。ただ、「他の人だったらそもそもインパール作戦なんておっぱじめなかっただろう」ともいっておきます。あちこちから「こりゃ無理だ。無謀だよ」っていわれたのを「やります。やらせてください」と押し切ったのは他ならぬ牟田口本人です。皇族で軍人だった竹田宮に「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評されたんだから、どんだけ無茶な企画を押し切ったんだって話ですよ。 質問者さんのご意見は「インパール作戦が牟田口の企画と知らず、牟田口はただ命じられたことをやろうとしていたと思っていた」なら納得ですが、なんかそのようにも思えますので申し上げれば、「インパール作戦は牟田口が企画してゴリ押しして実行に移された作戦」なのですよ。 もし「そんなのは知ってらァな。だけど俺は牟田口を擁護する」とおっしゃるなら、別にそのお考えをあれこれ申し上げる筋合いではありませんが、「質問者さんは牟田口家の一族の方なのかなァ」と思う次第ですね。一族でもなければ同情してやる筋合いはこれっぽっちもないやつだと思いますがね。 >また、任命責任として、将官人事を決める3長官も無能と言う事になりますね。 あ、ここの部分は同意ですね。とんでもない無能なやつを監督にしたら、そいつを監督に招聘したバカは誰だとなるのは当然のことです。ただ当時の日本軍の人事というのは陸海軍ともに非常に硬直したものとなっていたので、そこに選択の自由はあったのだろうかというのは考えなくもないですね。 そういえば、バブル崩壊後に第一勧銀(当時)が総会屋に多額の利益供与をしていたという不祥事があったのですが、その原因のひとつが第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧銀になるにあたって、第一勧銀の頭取は旧第一銀行出身者と旧勧業銀行出身者から交互に出すという「たすきがけ人事」にありました。能力で選ばれるのではなく、社内政治的なバランスで選ばれていたわけですよ。 ちなみにその第一勧銀は現在のみずほ銀行ですが、みずほ銀行といえばよくATMが故障することで有名ですが、みずほのATMって富士通と確か三菱だったかな、どこだったか2社のシステムが併用されているんですよ。そんな面倒なことをすればどこかがしくじれば申告なシステムトラブルになるなんて誰だって予想できますよね。でも合併合併でここまで大きくなった歴史があるので、1社のシステムに統一できないんだとか。今は統一したのでしょうかね、少なくとも2002年に大規模なシステムトラブルを起こして、2011年にまたトラブルを起こしたときにはまだ2社並立システムのままだったはずです。 なんだか何の話をしているのか分からなくなってきましたが、これを見て分かるように、「日本軍の失敗」というのを研究してみると、驚くほど【過去の話ではない】ことに気づくんですよ。これは福島第一原発事故や三菱自動車の不祥事にもいえるのですが、それはまた別の機会にでも。

mm058114
質問者

お礼

ありがとうございます。 私は、牟田口一族ではないですからね(笑) みずほの事とか、福島第一原発事故や三菱自動車の不祥事。 一冊の本、書けますね。 タイトルは「日本軍の失敗」 面白いです。 「二十一号作戦」作戦に触れられていますが、延期ですよね。 そこの担当軍司令官になったら、誰もが延期になっている作戦を検討するのでは普通の業務。 そして牟田口は、やりましょうよと上申した。 牟田口は、評価をあげたいという野心はあったかもしれません。 支那事変は自分が起こしたので、援蒋ルート遮断で、カタをつけるという気持ちもあったようです。 ゴリ押しという言葉を使われていますが、自分の判断を具申するのは当たり前で、そりゃ人によって強弱はあるでしょうけど、ちゃんと命令系統通りの意見具申です。 日本陸軍(日本人)の悪いところで、上部は、やりたいなら、やらせてやろうです。 大本営も3コ師団くらい現地で勝手にって感じ。 第二段作戦に沿ってるし、インドの独立に近づくし。 真珠湾攻撃とかミッドウェーと何ら変わらないと思います。 まあ、ガダルカナル、ニューギニアと違うところは、大本営から作戦を発せられてなく、現地からの意見具申であったこと。 この現地の意見具申を無能だからと、評価するのはどうかな?と思います。 牟田口は、大本営と違い、全体の戦局に疎かっただけで、自分の知りうる戦局で判断し意見具申しただけだと思うんですよね。 これが、無能なのかな? 万単位で戦死がでたのは、ガダルカナル、ニューギニアとなんら変わらないし。 牟田口司令部の立てた作戦計画に、師団長が反逆して後退するなんて、想定外だし。 成功してたら英雄? インパール作戦の失敗は結果論で、それを無能と決めつけて良いのだろうか? って思います。 乃木大将も同じじゃないですかね。 ミッドウェーも、作戦軍から発せられたものであって、じゃ山本五十六は無能?ってことになりませんか。 でも反対に、師団長が佐藤幸徳でなければ、戦死戦病がたくさん出るかもしれないけど、作戦成功してたんじゃない?? 戦史叢書にも、竹田宮の情勢判断はよく引用されますが、 果たして竹田宮恒徳王参謀は、それだけの状況判断のできる人物だったのかな?っと私は疑問に思います。 インパールの時は、関東軍の参謀でしょ。 それにまだ、中佐なったばかりだし、部隊長やったことないし。 その点、冷静な状況判断できるのは、部隊長司令官経験があり軍事参議官で昭和天皇の信頼があった東久邇宮稔彦王大将では? 辻政信は問題外ですよね。 勝手な命令出して、それも返って現地軍混乱させて。 誰かが、予備役編入を強く上申していれば良かったですよね。 その最初で最後のチャンスは、第25軍の山下奉文だったろうなっと思います。 長々スミマセン。 ありがとうございました。 また、面白い事投稿してください。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.2

mm058114 さん、こんばんは。 牟田口廉也は無能だったかといえば、無能です。だって、師団長時代は反対したのに軍司令官になってから俄然賛成するという立場が違えばコロッと変わる人なんです。こういう変わり身の早い人が陸軍では出世しました。陸軍省の課長である大佐が参謀本部の課長になっただけで、意見を変えるのです。もちろん、彼の長年の盟友で上司だった河辺正三方面軍司令官はたった3個師団で遂行できると考えていたこと自体問題です。ちなみに3人の師団長も陸大の優秀卒業生です。参謀本部も現地司令部の意見をほとんど聞かず、補給部隊を真っ向かけずりまくりました。最もそんな準備は戦前からしていないのは理解しておいた方がいいです。つまり、少尉や中尉の下級将校ならいざ知らず、陸大卒の佐官以上の人たちは自分たちの出世が第一で戦争が2の次のような人が多かったのです。戦前の陸大教育の欠陥です。つまり、陸大を卒業すれば出世ができると考える思想です。まあ、彼ばかりに責任を押し付ける考えは大いに誤りで、陸軍の上位軍令組織であるビルマ方面軍や南方軍、参謀本部にも責任があります。 参謀の2,3人位なら、変えても構いませんが、師団長三人を同時に挿げ替えるのは異常ですから、必ず、方面軍に意見具申すべきでした。おそらく方面軍は止めたでしょうね。 でも、牟田口司令官、佐藤師団長の処分は軽すぎました。位階勲等と階級のはく奪位はあってもいいと思います。

mm058114
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の言いたいのは、 好き好んで軍司令官になったわけではない→該当地域の担当に自分の意志はない 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった→立場が変われば言動が変化するのは当り前 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求→兵站の手当はした 与えられた兵力で目的達成しなければならない→命令に文句は言えない 敵地で食料を得る→貧乏日本陸軍の通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない→誰でも同じ作戦する 個人的に先走った作戦ではない→誰でも同じ作戦する たまたま、そこに牟田口が居ただけ→該当地域の担当に自分の意志はない 職責がそうさせた→命令に文句は言えない 当時の一般的軍司令官→誰でも同じ作戦する 誰が司令官でも大同小異→誰でも同じ作戦する これだけなんですよ。 処分に言及されて面白いですね。 位階勲等の所管は陸軍では無いですからね。 下士官が重罪で二等兵降格はあったけど、士官にはあったのかは知りません。 米軍のように、みんな少将で、戦時にその職責に応じて、大将、中将に任命されるシステムだったら面白かったですね。 牟田口司令官、佐藤師団長の処分については、 牟田口は、たまたま負けたけど、形ばかり処分しなければならなかった。 佐藤の方が、親補職の抗命罪で大きな問題あったけど、上聞してはまずいので、 精神異常の診断をつけて、とりあえず予備役編入で黙らせた。 河辺正三ビルマ方面軍司令官も、作戦失敗後直後に参本付に更迭されているから、親補職から解任され一応責任取らせた形になってる。 彼らの召集、栄転は、本土決戦による部隊増加に現役将官を確保するための時局処理。 ってところですよね。 運が良かったのか悪かったのか。 ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10467/32917)
回答No.1

ここは質問サイトなので、「牟田口は無能だと思うか?」という質問であれば「私は軍司令官としては無能だと思う」と回答します。 もし「私は牟田口は無能ではないと思っているが、同意するか?」という質問ならば、「私は無能だと思っているので、同意しません」と回答します。 もし「私は牟田口は無能ではないと思っているので、同じ意見を持つ人の回答を募集します」であるならば、「それは規約違反であり、削除対象ですよ」と申し上げる次第です。 なお、私が無能と判断する根拠ですが、「多くの兵士を死に追いやり、かつ作戦が失敗したから」です。プロフェッショナルの軍人である以上、求められるのは部下の死を少なくし、相手をより多く殺し、戦争を勝利に導くことです。プロスポーツチームの監督がチームを最下位にしたら世間からは無能といわれます。プロスポーツチームの監督の仕事は「チームを勝たせること」だからです。アマチュアの場合は勝利が全てではありませんが、プロは結果が全てです。 牟田口司令官は、一軍の長として作戦を失敗させたので、無能です。プロフェッショナルは結果で判断されるのです。

mm058114
質問者

お礼

なるほど。 プロスポーツの監督ね。 うまいこと言いますね。 納得します。 って言う事は、コーチ陣にあたる、軍司令部の参謀長、参謀も無能といことになりますね。 また、任命責任として、将官人事を決める3長官も無能と言う事になりますね。 私の言いたいのは、 牟田口が自分の意志でこのインパールの地に来たわけでなく、 たまたま、インパールの司令官に任命されたという偶然のもの。 そして、好き嫌いではなく、与えられた持ち駒で作戦実行を命じられた職責である。 彼の能力は、特に甲乙なく他の軍司令官と大差あったわけではない。 皆そういう教育しかされている。 結果は、誰が軍司令官でも同じようなもの。 たまたま、牟田口がそこにいただけ。 プロ野球の監督だと、 そもそも、そのチームの監督になりたかったわけでなく、 ただ、ヤレっと連れてこられた。 でも、フロントに介入でない。 新人ドラフトにも口出せなく、 移籍、フリーエージェント、欲しい選手を入団させられない。 人数も9人しか与えられず、選手交代もままならない。 それでも優勝しなければならない。 優勝できなかったから無能。 それも、きっと誰がやっても優勝できないと思われる状況だが、 今年度監督をやったヤツが無能。 と言うことでよろしいでしょうか。

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     戦前(昭和期)の日本陸軍の憲兵機構を調べると、トップが憲兵司令官、次席が憲兵司令部本部長という職になっています。  しかし、憲兵司令部内には「本部」という組織は無く、本部も無いのに本部長というポストだけがあるという不思議な状態になっています。  なぜ憲兵司令部参謀長ではなく、本部長なのでしょうか。(スタッフではなく、指揮権を代行できる(副司令官のような)ラインのポストだったのでしょうか。  また、参謀長であればその職掌は「参謀長ハ軍司令官ヲ輔佐シ機務ニ参画シ命令ノ普及並実施ヲ監督シ事務整理ノ責ニ任ス」となるわけですが、憲兵司令部本部長の職掌はどのようなものだったのでしょうか。

  • 終戦時の関東軍司令部に、副官部は置かれていたのでしょうか

    昭和二十年八月、終戦時の関東軍司令部に、副官部は置かれていたのでしょうか。参謀部の参謀は陸軍大学校卒業の大尉以上でしょうが、もしや副官部(副官)には学徒兵出身の中尉、少尉でも配属されたのでしょうか。 1.関東軍司令部条例(大正8年軍令陸第12号)第五条によれば、「関東軍司令部ニ左ノ各部ヲ置ク、一参謀部、二副官部、三兵器部、四経理部、五軍医部、六獣医部、七法官部」と、参謀部と別に副官部が置かれています。副官部は昭和二十年(康徳十二年)八月の終戦時まで組織として存続しているのでしょうか。 2.関東軍副官部の定員、編成はどのようなものだったのでしょうか。 3.黄白襷掛けの副官懸章はとても目立ちますが、関東軍副官部所属の副官は全員、常に副官懸章を付けていたのでしょうか。 4.学徒兵出身の士官で、終戦時に新京(通化)の関東軍司令部に配属されていた方はいるのでしょうか。

  • 牟田口廉也が無能なところはどういうところですか?

    逃げるところですか?

  • 父(故人)の帝国陸軍での軍歴概要を知りたいのです、又はどこへ行けば正確

    父(故人)の帝国陸軍での軍歴概要を知りたいのです、又はどこへ行けば正確に判るのでしょう。 昭和16年10月23日 東京市板橋区で応召陸軍2等兵となった東京市の会社員、30歳か31歳だったと思います。南方軍第16軍と思いますが台湾で訓練を受けて東シナ海を南下し翌年3月初めのジャワ本島上陸作戦に参加、連合軍降伏し占領軍となり今村軍政にたずさわる。、20年の敗戦でオランダ軍の捕虜になって22年夏復員。 銃を持っての先頭は敵前上陸作戦だけだったときいています。

  • 軍部

    旧陸軍の「軍部と政府の対立」とか「軍部の独走(暴走)」と言う場合の「軍部」とはどういう組織をさしているのでしょうか。 参謀本部や陸軍省は政府側(?)だと思うので含まれないとすると、関東軍や天津軍・朝鮮軍などの方面軍のことを言うのでしょうか。