倭寇と勘合貿易について

このQ&Aのポイント
  • 倭寇とは海賊船のことであり、勘合符は正式の貿易船と倭寇を区別するための合い札である。
  • 勘合符を持っていなかった人物は倭寇に略奪されたり殺害されたりする可能性があった。
  • 勘合符の役割は正式の貿易船と倭寇を区別することであり、朝貢貿易船以外の船の平和的な排除を目的としていた。
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倭寇と勘合貿易について

学校の教科書などの説明に、「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」とあります。 単純な疑問なのですが、確認のために倭寇の海賊船に対しのこのこ割符をもっていったら持っていた人物は略奪をうけたり殺害されたりしなかったのでしょうか。勘合符を照合する人物はなにか武力的な裏付けがあったのでしょうか。 或いは勘合符とはそういった性質の物ではなくて単に正式の貿易船と密貿易船を区別するものだったのでしょうか。そうなると一般的に海賊とされる倭寇が乱暴も働かずにすごすごと帰っていったのでしょうか。 または勘合符の役割は朝貢貿易船以外の船の平和的な排除だったのでしょうか。 どなたか詳しい方御回答をお願い申し上げます。

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」 相当に簡略化した説明です。 誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。 勘合符を要求したのは、明王朝です。 貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。 当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。 朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が品物を下賜する、という形態です。 明王朝の家臣である必要があります。 明王朝は、周辺の国の王に対して、明王朝の家臣としてその国を治めている、という様式をとることを強要しました。 同時に統治者に対して、お前が正式な統治者であることを認めて王と名乗ることを許すという、いわば辞令を発行していました。 古代史で有名な金印「漢委奴国王印」が有名です。 このような印を辞令として下賜しました。 この考え方は古代から清王朝が滅亡するまでの長い間続いていた中国王朝特有の考え方です。 (中華思想と呼ばれます) 明や清王朝はこの朝貢貿易以外の交易(私貿易)を一切認めていませんでした。 私貿易は全て密貿易という扱いでした。 明王朝が下賜する品物の経済的価値は家臣が献上したものよりも大きいのが普通です。 家臣の側から見れば安い品物で高価なものが入手できますから、貿易としては常に黒字ということになります。 この利益を狙って偽者が献上してくるのを防止する必要があります。 この船は正式に日本からの献上品を搭載した船です、ということを証明するのが勘合符です。 勘合符を所持した船は1401年~1547年の間で総計84隻です。 日明間での交易全体に占める割合は微々たるものです。 つまり、身分証明書ではありますが、安全を保障する効力はありません。 海上で海賊船に襲われようが、襲われまいが明王朝の与り知らないことです。 倭寇という言葉は、中国や朝鮮王朝で使われていた言葉です。 沿岸を荒らしまわる武力集団の総称です。 内容は、武装商人、日本人の海賊、中国人の海賊、ポルトガル等のヨーロッパの海賊と多岐にわたっていました。 この武装商人の中に、九州一円の大名船や博多などの商人船も含まれています。 もっとも頻繁に渡航したのは朝鮮半島です。 護送船団という考え方は存在していませんでした。 ただでさえ積載量に制限のある船に警備兵などという無駄な要員は乗せていませんでした。 乗務員が即戦闘員です。文字通り自己責任で身の安全を守りました。 海賊船と言っても、カリブの海賊ではありません。大砲をぶっ放して襲ってくるわけではありません。 船を接近させて乗り込んで白兵戦を広げるだけのことです。 こんな手間暇をかけて海上の勘合船を襲うくらいなら、中国なり朝鮮の沿岸に上陸して略奪したほうがよほど効率は良いです。 広い海上で当てもなく勘合船を探すなどという無駄なことはしませんでした。 さっさと中国大陸や朝鮮半島を目指しました。 以上がざっとした説明です、何か疑問があれば補足をお願いします。 蛇足 足利義満は、明との交易による利益欲しさに在職中にいろいろやりましたが、朝廷の家臣であることから上手くいきませんでした。 そこで引退して自由になったところで勝手に日本国王と名乗って朝貢を始めました。 息子の義持は、オレは親父とは違い他国の家臣ではない、といって止めてしまいました。 義持なき後、利に目がくらんだ連中が再開しました。 足利幕府には倭寇を働く九州沿岸の人間を取り締まる意志も能力も持ち合わせていませんでした。 明や高麗、李朝鮮は盛んに取り締まりを依頼してきますが素知らぬ顔でした。 倭寇として沿岸を荒らしまわっていた連中を排除したのは、北九州一帯の諸大名たちでした。 目的は、中国や朝鮮との交易の独占です。 倭寇を排除するのには有効だったことから、明王朝や朝鮮王朝はこれらの諸大名の交易は黙認しました。 これを組織的に徹底的にやったのが秀吉です。 秀吉の時代になってからは朱印船制度というものを設けました。 臣下の礼を要求する勘合などということを秀吉は受付ませんでした。 やがて朝鮮出兵へとつながります。

clergy
質問者

お礼

ichikawaseiji様 詳細な回答真にありがとうございます。 朝貢貿易の形態、中華思想による国交などよく理解できました。 厚かましく恐れ入りますが、もしお手数でなければあと二つ三つご教授いただけませんでしょうか。もちろんお暇があればで結構ですので。 私は「明朝の倭寇取締り要求に応じた足利義満が引き換えに交易を要求した」のが勘合貿易の開始と認識していたのですが、これは間違っておりますでしょうか。 勘合貿易が献上品に対する下賜品との交換形態をとるのであれば、一種の物々交換となり、その際貨幣は使用されなかったのでしょうか。 室町期の明銭、たとえば永楽通宝などの日本への流入が日本国内商業発達に大きな役割を果たしたと聞き及びましたが、明銭の流入は勘合貿易以外の私貿易すなわち密貿易によるものだったのでしょうか。 詳細な回答をいただいた上に質問をかぶせて申し訳ありません。重ねて厚く御礼申し上げます。

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  • tanuki4u
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回答No.5

王直 私が高校生であった40年くらい前は、鉄砲伝来に関しては 南蛮人が漂着して伝えた どうやって南蛮人と日本人がコミュニケーションできたの? → たまたま中国人も乗っていたから、砂浜で筆談したんだよ なんて説明だったが、最近は 海商である王直が鉄砲の売り先を探していて、種子島に到達した。 ※ 他にもあたったんだけどさぁ というような説明になっている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5 このへんの 「『鉄炮記』に「五峰」と記されている人物は、日本の平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領である王直の号と同じであり、またポルトガル史料にはジャンク船であったと記されていることなどから同一人物であるとも考えられている。」 No3で「海賊船と言っても、カリブの海賊ではありません。大砲をぶっ放して襲ってくるわけではありません。」という指摘があるので、補足というか蛇足。 日本人の海賊イメージはカリブの海賊やらバイキングなんですよね。 バイキングは、手短に言えば寒冷化にともなってスカンディナビアの住民が「移民先」を探した行動。 今話題のウクライナも、スウェーデンあたりからやってきたノルマン人が、現地住民をまとめて作り上げた国家から、ウクライナ、ロシアが生まれたのでややこしいのね。 1066年のノルマンコンクエストも、同年に北東からノルウェー王が攻めてくるは、南からノルマンディ公が攻めてくるわの大騒ぎの年。イングランド王の正統性が薄くなったので、「チャンス!」といろんなバイキングがやってきたという構図。 カリブの海賊は、私掠船です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E6%8E%A0%E8%88%B9 同時代の地中海ではバルバリア海賊が似たような形態 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%B5%B7%E8%B3%8A 現代風に言えば「半官半民の第三セクターによる戦争行為」というような感じ 戦争なんだから、敵を探して略奪しないとならないのです。 日本の海賊は、海商なり海賊衆として理解するのが分かりやすいかと。 商売もするし、交渉決裂なら武力に訴える。

clergy
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 どうも私には2~3年前に見たNHKの大河ドラマの海賊の先入観あるいは固定観念になっており、思い込みで判断していたようです。地域が異なればそこの風土に影響される人間も異なってくるという単純なことに思いが至りませんでした。 いろいろお手数をおかけいたしましたこと深く謝します。ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

No.3です わざわざお礼を記入頂き有難うございます。  お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。 >「明朝の倭寇取締り要求に応じた足利義満が引き換えに交易を要求した」のが勘 合貿易の開始と認識していたのですが、これは間違っておりますでしょうか。 現在残されている資料からすれば、義満が先に書状を送っています。 この書状に対しての明からの返書に 〇お前を王と認める 〇明の暦を使って統治することを認める (・・・大統暦を斑(わか)ち正朔(せいさく)を奉ぜしむ・・・) となっています。 これを受け取った翌年に、かの有名な「日本国王臣源表・・・」なる文言のある書状を送っています。 同時期の明側の史料では日本を「不征之国」として扱っていたことが分かっています。 不征之国=征伐は加えないが通交は断絶する国 義満からの書状で通交が再開されたことになります。 >勘合貿易が献上品に対する下賜品との交換形態をとるのであれば、一種の物々交換と なり、その際貨幣は使用されなかったのでしょうか。 この辺が、形式主義である一方で実利本位の中国の面白いところです。 献上品を積んできた船に乗ってきた人間が、私的に商売をすることはお構いなしでした。 この為に、勘合船の後半の船のスポンサーは相国寺や山名氏、大友氏などの寺や大名でした。 末期には大内氏、細川氏などが単独で船を仕立てています。 実際の船の調達や運航は全て博多や堺の商人が請け負っていました。 献上品は都へ送られ下賜品が送り返されてきていますので、この部分は結果として物々交換ですが、それ以外の積荷は通常の取引でした。 この取引は船に乗っていた博多や堺の商人が担当していました。 >明銭の流入は勘合貿易以外の私貿易すなわち密貿 易によるものだったのでしょうか。 明からの下賜品に銭も含まれていました。 日本からの献上品:金(砂金)硫黄、刀剣etc 明からの下賜品:銅銭、錦、生糸etc 下賜品の中の銅銭については、お金を下賜するという感覚ではなく、社会生活に必要な道具を下賜するというような感覚でした。 日本側も便利な物を頂くという感覚だったでしょう。 日本から明へ持ち込まれた刀剣はこの時期の累計で約20万把だったと推定されています。 日本刀の切れ味は中国の武将も好んだようです。 後半になると、下賜品の銅銭を現地で使って生糸を仕入れて持ち帰るという、チャッカリしたこともやっていました。 交易の絶対量や金額は、朝鮮や琉球との交易のほが大きかったです。 この交易の決済には銀の他に中国銭が使われていましたから、国内への中国銭の流入は豊富でした。

clergy
質問者

お礼

重ね重ねご回答いただき恐縮です。かなり自分の中の先入主を修正しなければならないなと感じました。 ご回答からは当時のスーパーパワーである中国が経済面でも広範囲にわたって影響力を持っていたこと、それに対し権力から遠い位置にある人々がしたたかに行動していたことが推察されて大変興味深く拝読いたしました。 ichikawaseiji様の知識の深さには敬服いたします。真にありがとうございました。

  • tanuki4u
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回答No.2

勘合貿易の乗組員 ≒ 私貿易商人 ≒ 倭寇 倭寇が勘合符を持っていれば、勘合貿易 少し時代はずれるが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%97%A6 朱印状を貰った人の一人は 王直の部下だった人 王直といえば http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9B%B4 後期倭寇の代表人物ですが、「松浦氏」に招かれて平戸に移ってきています。

clergy
質問者

お礼

URL興味深く拝見いたしました。 王直という人物は浅学な私には初耳でしたがこのURLによると中国出生の人物も倭寇と呼ばれていたのですね。倭寇の定義とはかなり雑多な国籍(?)を持った密貿易組織または集団ということになりますね。 お手数まことにありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.1

clergyさん、おはようございます。 単純な疑問なのですが、確認のために倭寇の海賊船に対しのこのこ割符をもっていったら持っていた人物は略奪をうけたり殺害されたりしなかったのでしょうか。勘合符を照合する人物はなにか武力的な裏付けがあったのでしょうか。 だから、将軍や大名が後ろ盾になるのです。おそらく護衛の兵隊がいっぱい乗っていたでしょう。後には有力商人に幕府が請け負わせる方式になるそうですが、その時にも浪人を雇い入れたでしょうね。 或いは勘合符とはそういった性質の物ではなくて単に正式の貿易船と密貿易船を区別するものだったのでしょうか。そうなると一般的に海賊とされる倭寇が乱暴も働かずにすごすごと帰っていったのでしょうか。 または勘合符の役割は朝貢貿易船以外の船の平和的な排除だったのでしょうか。 勘合貿易は莫大な富を生み出しました。しかし、条件があって受ける条件としてみんな皇帝の家来であるという柵封体制下での貿易なので、皇帝の命令という形で密貿易を行う倭寇を取り締まる必要がありました。倭寇の本拠地は日本の大名たちの領地の中にもあるようなので、取り締まらないと勘合貿易を取り消される可能性もあったのです。取り締まりの中には実力行使もあったでしょう。 詳細は下記のURLを参照ください。 日明貿易 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%90%88%E8%B2%BF%E6%98%93 倭寇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

clergy
質問者

お礼

ご丁寧な回答痛み入ります。 なるほど、大名や将軍の後ろ盾があったわけですか。商船団を武力が護衛するのはいつの時代も同じなのですね。 倭寇の本拠地が日本国内にあってそこで取り締まるというご指摘には深く得心いたしました。出先の中国ばかりに目が行って出発点でも取り締まりができるという視点はまったく私には欠けておりました。 お時間を割いていただきありがとうございました。

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