スピリアル系に興味のある人って?

このQ&Aのポイント
  • スピリアル系の本を読んで納得し、目からウロコと絶賛する人たちは具体例に即した説明ができる
  • スピリアル系の本の内容は抽象的で観念的な言葉が多いため、理解が難しい人もいる
  • スピリアル系の本は精神的に不安や焦燥感を抱える人に共感を与えることが多い
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スピリアル系に興味のある人って?

エックハルト・トールの著作が北米でも日本でもかなり人気があるようですね。 私の知能は高い方だと思っているのですが、こういう内容の本は全く頭に入って来ないのです。 思春期以降はそれなりに、悩みもし、教会や禅寺で牧師や禅僧と話したり参禅もしましたが、どうも、彼らの喋る内容が、架空のことを喋っているようで頭に入って来ませんでした。 何故なんでしょう? 頭の構造が違うのでしょうか? フランスのモラリスト達、モンテーニュ、パスカル、ラ・ロシュフコーのような人間解剖の仕方がはっきりと理解出来、頭に入って来ます。 インドの哲人とか、エックハルト・トールのような人間意識の解剖の仕方は、「本当かい?」と反応してしまい、全く入り込めません。精神的に不安や焦燥感で苦しんでいる人にだけ、沁み込むのでしょうか? 人間のエゴに突き当たると、先のモラリストの言葉や心理学者の説明で納得して来ました。スピリアル系の本を読む必要は感じませんでした。 こういうスピリアル系の本を読んで納得し、目からウロコと絶賛する人たちに訊きたいのですが、貴方のどういう問題を、具体的にどう解決出来たのでしょうか?私は観念的、抽象的な言葉を余り理解出来ない人間ですので、出来るだけ具体例に即して、具体的な説明でお願いしたいのですが。 宜しくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

スピリアル系とは『永遠からのメッセージです。』私達の思考方法とは違う思考方法が存在しています。この事は簡単に説明する事が難しいです。 人間は誰でも二つの世界を行き来しています。今この見えている現実の世界が二つ存在していると言う意味です。貴方が信じようと信じまいと、一つの事実です。 一つの世界は『真実のままの世界です。』全てが真実で出来ている世界です。現実の真実だけの世界です。 もう一つの世界が又在ります、所謂『虚の世界です。』この世界を誰でもが真実の世界と思い込んでいます。本当の真実の世界と、本当は真実ではない『妄想として』真実として疑う事がない世界です。 こう云った、二つの世界を行き来しています。 では虚の世界です。思い込みの世界観と言う言い方も可能と思います。虚の世界では事故やいさかいや、争いが絶えない世界です、おまけに人間の不幸が重なる世界です。お互いが信じられなくなってしまう世界です。 こういった世界を引っ張っているものが『人間の欲や得や見栄や我執』です。きれいな女性に惹かれて結婚をした場合や、財産家である男性に惹かれて結婚をして、実際に幸福になれない場合では『虚の世界の幻想にだまされていた事を知らないでいた事』を意味します。 或は逆に『みすぼらしい』と人が思っていたとしても、二人で人生を切り開いて見事に財産を築来上げて、死ぬまで仲良く寄り添う事が出来た場合では、二人ともお互いの真実の愛を見つけて(赤い糸で結ばれて)育んでいた事を意味します。 目に見える世界の真実性を見抜けなかった事を意味します。こう云った目に見えない世界を『スピリアル系』と表現します。 幸福と言う意味を論じた場合では、少し説明し易くなります。幸福と言う意味ですが、幸福を捜し求めている間は『幸福が逃げてしまいます。』幸福は捜し求めなくなった瞬間に手に入ります。 安心も同じです、安心を求めている間中『不安や恐怖に襲われる場合が生じています。』安心を求めなくなった瞬間から『安心の中にいます。』 お金も同じです、お金を求めて、働いている間は『対してお金に恵まれません』只、お金を求めなくなって、働く事に専念する時から、お金が付いてくるようになります。 疲れもそうです、楽になりたい気持ちも同じです、楽をしたいと求めた場合では、一日中寝て過ごしたとしても、もっと楽をしたい気がある間は『楽が逃げています。』 こういった精神性をひっくるめにして、スピリアル系と表現します。 人間の一番の不幸を話をします。それは『死』の問題です、一個人の死で一個人の人生は全てなくなってしまいます。自分の死の場合では如何でしょうか?考えただけでも不安や恐怖心に駆られると思います。 こう云った問題を解決するものがスピリアル系になります。 人間が『身体の機能も脳の機能も』変わらない健常者と同じでいながら、自分の頭の中に『病気を作り出してしまう現象が在ります。』その為に専門の医師が沢山存在しています。 検査では異常が見付からない場合です。健常者と何も変わりが無いにも拘らずです。こう云った場合を具体的に書いてみます。一つは心を病むという現象です。是は始めから何処にも無かった『心の健康を望む心が、頭の中に作り出した、自分で作り出した妄想』を現実に存在すると思い込んでいる現象です。 一つは、身体の健康を求める余り『頭の中に自分で病気を作り出して、その妄想としての病気を信じ込んででしまって、恰も自分が病気と錯覚をしている現象です。 もう一つは『神経症』と言われているものです。主に『自分で自分の行動に制限を掛けてしまう現象です。』強迫行為や強迫観念、或は恐怖症などもあります、話す事も字を書く事さえ出来なくなる場合が在ります、所謂手の震えが止まらなくなる現象ですので、執刀医の場合では致命傷にまでなってしまうケースもあります。 こう行った事が起きる原因が『頭の中の世界観』と『目の前の真実の世界観』の食い違いです。頭の中で描かれた世界観が妄想で出来ていた場合を『虚の世界』と表現しています。 こう云った虚の世界から人間を救出する責務を負っているものがスピリアル系の課題です。 或は宗教の課題と言っても良いです。 先に上げた三つの障害、病気と思われているものには共通点があります。最大の共通点は『死に対する不安や恐怖感』です、是が基点となって様々に枝分かれしてゆきます。 次の問題点は『意識性』の問題です。共に共通しています、その共通点とは『不安になり易い性格とか、神経質な性格』と言う点です。 この問題を端的に表している物に聖書があります。人間が知恵のみを食べて、天国から追放されて苦しみを受ける事になった、と言う部分です。 この苦しみが先の三つの障害に当たります、もっと広く解釈するなら『欲や見栄を絡めた結婚に失敗する事や、お金に執着をして貧乏から抜け出せないでいる事』にも通じています。 人間は何故苦しまなくてはいけないのか?がスピリアル系を理解するキーワードです。そうして最後に死の中で、或は死にも左右されない幸福の境涯を手にするための教本の役目を果たしている事を意味します。 上手く説明出来なくなりましたので、ある動画をコピーして張って置きます。キーワードは『自分を捨てる、或は自分が全てを諦める』です。この意味は自我意識という自分が、自分の中に存在している自分自身の命の働きに全てを委ねると言う意味です。 或は自分自身の『無意識の意識』に自分を預けると言う意味です。 右脳の機能は『永遠からやって来ましたので、永遠の意味を理解している者』と言う言い方になります。左脳の意識としての言葉を使う様になってから自我意識は脳の機能から、永遠を理解する機能が入っていない事を意味します。物事を割り切って分別する機能を持った時からです。 割り切れる問題は有限に属しているからです。 この二つの意識の仲違い出番争いが『心の中の不安や恐怖心の元』であった事を、二つの意識が出会う事によって理解します。禅で言うところの見性体験です。キリスト者なら『神との和解です』 是以後『心の矛盾に苦しむ事がなくなる体験』と言う意味です。涅槃寂静の世界に入るという意味です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 この動画を裏付ける科学的な証拠です。 自分では分らないとしても、人間にはもう一つ心が在ります。科学的な証拠をウイキペデアから紹介します。 『”ロジャースペリー 分離脳』 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

0123gokudo
質問者

補足

回答ありがとうございます。 貴方が説明された諸点は、わざわざスピリアルを持ち出さなくても、全て、少なくとも私には説明可能なことばかりです。私は精神分析医の著作を主に読んで来て、納得できる説明で納得して来ました。現実に我々の周りに転がっているものを使って説明してくれますから「本当かい?」という反応にはならないです。 しかし、スピリアル系の人は、エクハルトも若干読んでいますが)、説明が難しいが事実なんだといきなり結論を押し付けて来ます。 虚の世界と真実の世界は、厭離穢土、欣求浄土の思想と同じ、というより、そのパプリカでしょうが、こういうのも何も、浄土の思想を持って来なくても、虚と実の奇妙なつながりは精神分析学者が平易な誰でも納得できる説明をしています。   要するにスピリアル系に説明を求める人たちは、現実的な説明より、あるかないか分からないような架空の世界の理論を好むということでしょうか? スピリアル系に感動する人たちの、感動点が分からず質問しましたが、大体のところが見えて来ました。 ありがとうございます。 

その他の回答 (9)

回答No.10

なかなか分かり難い話と思いますので、理解出来かねているところと思います。別な観点から説明したいと思います。 世の中にもっと分からない問題集があります、禅問答です。この中に無門関と言うものが在ります、その中の第二則に『百丈野狐』とい言うものが在ります。この禅問答が理解出来た時、貴方の腑に落ちると思いますので、取り組んで頂きたいと思って書いています。 問いの意味はこうです、悟りを開いた偉い人は『因果の世界に落ちるのか如何か?』と問われた、今は狐の姿をしている、かってはこの寺の住職をしていたという狐が、百丈と言う今の住職に話しかけます。 昔『不落因果』と答えたために、何回生まれ変わっても『狐の姿をしています。』如何答えるのが正解だったのでしょうか? そこで、百丈は『不昧因果』=因果をくらませない=因果にくらからず、と答えています。この一言でその狐は悟りを開いた、と言う話です。 『不落因果』と答えたら狐になって『不昧因果』と答えたら悟りを開いた、この違いは何だ!がこの禅問答の趣旨です。 分り易い話にするなら、如何したら幸福になる事が出来て?、如何したら不幸から抜け出す事が出来るのか? と言う問いかけです。『何故自分だけ不幸になるのか?』或は『どうして自分は幸福なのか?』 この原因を問うています。 簡単に解説をするなら『因果の世界に支配されているのか?』或は『因果の世界を自分が支配しているのか?』と言う雲泥の差があります。 この問題に決着を付けるものが、貴方の問いである、スピリアル系と言う意味があります。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.8

うさんくさいですよね。 同じエックハルトでも、マイスター・エックハルトの否定神学なら面白く読めるんじゃないかな? 腑に落ちるという出来事は、すでに内在している気付きを再確認することでしょう。 似たようなことをすでに考えている人の耳にのみ、言葉は沁み込むのだと思います。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >似たようなことをすでに考えている人の耳にのみ、言葉は沁み込むのだと思います。 なるほど、この見方は腑に落ちますね。:)

noname#215306
noname#215306
回答No.7

ある程度の年齢まで、霊的な現象に触れて来なかったと したら、それがその人と取り巻く状況に与えられた物な のだろうから、それでいいのでは?、、 聞かせて下さい・教えて下さい、というので話してみて も、その情報をほんとに意味で、ある程度でも理解・認 識出来る人というのは?、思い出してみると?、今まで 皆無だったかと思うし? 霊的世界の人達というのも勿論、様々だけれど?、なん であれ共通するべき目標や目的という物を設定するとし たら、それは真実はなんだろう?、という姿勢になると 思うのだけれど?、、 多くの人達というのは、この適切な姿勢の重要性さえ認 識・理解出来ない状態にあるようだし? > 出来るだけ具体例に即して、具体的な説明でお願いしたいのですが。 複数の専門医達が匙を投げ、カテーテル手術も断念し、 高齢である事もあり、状態は進行はしても、安定や改善 という事は起こり得ず、いずれは心筋梗塞の発作を起こ すでしょう、 と皆に同様に診断された、私の狭心症持ちの祖母の状態 を殆ど・全く発作を起こさない状態で、もう?8年以上 、ヒーリングで安定させている事 県外の親戚の家に一週間遊びに行っている間に、それま で毎日のように通っていた住宅街の更地に家が建ち、し かもその家が、ほんとの新築直後という感じではなく、 建ってから半年位は経過しているような状態だった事 数年前の一時期、全く車のない車道上に、突然走行車が 現れ、そのまま走り去って行くという現象が毎日のよう に起きていた事、、4tトラックが現れ、そのまま走り 去って行った事もある 見通しのいい開けた歩道上に、自転車に乗ったおばさん が突然現れ、そのまま走り去って行った事も、、 1つ不思議なのは、逆の、走り去って消える現象がなか った事、、走行車が現れる現象というのは、トータルで は数十台以上にはなるかと? 因みに?、それと近い時期に、クンダリニー症候群を発 症した事から、内科医の紹介で、心療内科・脳神経外科 などの様々な検査などは受けていて、全く問題はないと いう診断だった もう慣れっこだったので、ほんとに注意深く観察出来、 面白かった、、一週間で建ってしまった家に付いては、 その地域から引っ越すまでの数年間、やはり毎日のよう に通りつつ、不思議だなぁ?と思いながら、しげしげ眺 めてた、、 そうそう?、一週間の間、雨はなく晴天、、その家の庭 の地面が兎に角馴染んでいて、植えられている植物や生 垣なども、植えられて直後という感じでは全くなかった 事が一番の驚きだった、、 私は当時、住宅建築が好きで、雑誌なども読んでいたの だけれど、流石に一週間で住宅が建つなんて工法はなか った、、ボックス型を組み合わせる工法はあったけれど 、それでも一ヶ月は掛かっていたかと記憶している、、 因みに家毎移動するという工法も見た事があるのだけれ ど、日本の場合、これは広い敷地内の移動で、そもそも その家の前というのは道が狭く、他から移動して来るの は不可能だった、、狭い上に長い道に、何十本もの引き 込みの電線が横切ってる、、 ま?そもそも家を乗せるような大型のトラックが入り込 める道でもなかったし

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 実は私は既に高齢者で随分永らく生きて来て、霊的なものを目撃したくて、探し求めて来たのですが、いまだに一度も経験できないでいるのです。 母親が死後報知してくれる筈だと期待しましたが、数十年あの世から何の連絡もありません。最近最愛の妻を亡くしたのですが、彼女からも一切何の連絡もありません。 歩けなかった人が突然歩けるようになる奇跡も、実際に見聞しましたが、アレはフロイトも患者に施したことで、奇跡ではなく精神分析で説明が付きます。 一週間で家は建たないハズだということですが、2X4工法なら2、3日で建ちますよ。私は建築関係の仕事をして来まして、実際に目の前で建つのを見て来ました。あっと言う間に建ててしまいます。 エクハルトに魅かれる人は貴方のような認識の方がおおいのでしょうか?

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.6

わからないことを、空想して理解したつもりになる、というのが、それ系の本を読む動機かと思います。 地に足の着いた人には馴染まないでしょう。 ただ、ひとつの文化として、スピリチュアル系、ニューエイジ系の本があるということです。 例えばファンタジーの映画を見て面白いと思うか、それは全然面白くなく、ドキュメンタリーの方がいい、と言う人々の差異のようなものと思います。 目からうろこというよりは、共感をよぶ、情動に働きかけるのが、それ系の本だということでしょう。要するに、考えて読むものではなく、感じて読むものということです。フィーリングです。 ところで、実際的な感性を以って物事を考える質問者のような方にも、わからないことがたくさんあると思いますが、それはどのように処理しますか?わからないまま保留したり、仮説を立ててひとまず置いておくということをしたりしますか? 感性や情動、空想に強い人の場合は、架空の世界をふくらませることで落ち着くのだと思います。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そういえば、ファンタジー映画を見たら、時間を浪費したとひどく後悔しますね。それに反してドキュメンタリーは食い入るように観てしまいます。 >共感をよぶ、情動に働きかけるのが、それ系の本だということでしょう。要するに、考えて読むものではなく、感じて読むものということです。フィーリングです。 どこをどう感じているのかを知りたいのですねえ。 >ところで、実際的な感性を以って物事を考える質問者のような方にも、わからないことがたくさんあると思いますが、それはどのように処理しますか? 一般には分からないとされていることでも、自分ではかなり説明できていると思います。離人状態や催眠状態を経験していますから、それで「幽体離脱状態」や「悟りの状態を」自分ではどういうものかは分かっているつもりです。 まあ、説明できないことは、保留するより仕方ありません。エクハルトの説明は証拠を示さず、方法論も述べていないようなので、独りよがりな主観を述べているだけのオッサンだなと思うのです。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

唯の好み。 貴方は言語学による、理論の構築は得意なようなので、その方式での世界認識を中心にしているというだけ。 人によって世界は皆、違う世界に見えているので、そう簡単に否定も肯定も出来ない。 観念的・抽象的には理解出来ないというのは、つまりはそういうタイプの情報分析能力が低いという事。 もし興味があったら、「絵画」を「言語で」完全に説明する事に挑戦してみたらいいです。 目が見えない人に、ゴッホや写楽を説明出来たら凄い物です。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「好みの問題」で片付けられないのが私の性分で、それでこんな質問を出しているわけです。 人間には千差万別の考え方をしますが、「十人十色」では片付けたくはないのです。それで、どういう性向の人がどういう考え方をするのかなど、心理学者の説明を求めてしまうのです。 スピリアル系の本が好きな人というのは、どういう種類の性向を持った人が多いのか、など、心理学者が分析していたら是非読んでみたいです。

回答No.4

スピリチュアルなことは、本を読んでいくら観念をつみあげても、まったくそのおもしろさはわからないと思います。 聖書に書いてあるようなキリストによる奇跡のような現象に、「実際に遭遇する」こと、「目の当たり」にすることが、スピリチュアルなことの意義を理解することには決定的に重要でしょう。 こう書くと、だまされるのではないか、利用されるのではないか、悪徳新興宗教のように洗脳されはしないか、と疑心暗澹となる人も多いでしょう。しかし、実際いるのでよ、お互いの自由を尊重しながら、そういう現象に案内してくれる人が、、、。 もちろん、モラリストの言葉や心理学者の説明で満足し、スピリチュアルなことによさを感じない方は、それでそれでよいのではないでしょうか? 嗜好や価値観の違い、お互いの主観的経験は、大切にしないと、、、。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 世界中の人の半分が神を信じ、半分が信じないとします。神は存在するのか、存在しないの? もし、存在しないのだとしたら、存在を信じている人の感覚は全て単なる思い込みで架空のことを現実と勘違いして来たことになります。 逆も言えます。存在してるのに存在しないと信じている人たちの言動は虚妄ということになります。短い人生であるのに、虚妄で生きたくはないのです。可能な限り、確かめたいのです。 >スピリチュアルなことによさを感じない方は、それでそれでよいのではないでしょうか? 勿論、最終的にはそうなるのでしょうが、その前にもう少し、良さを感じている人のことを知りたいわけです。どこに良さを感じているのかと・・・

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15359)
回答No.3

私は結構好きですが、参考程度にと思って接しています。  基本的に自分の実体験と照らし合わせて話しを聞いたりします。考え方を変える。つまり視点を変えるという事の手がかりとして私は受け止めます。ただし、ものすごく曖昧なものは「そうなんだね」という程度の認識です。  それと、彼らの話の基本となる部分の知識も必要になります。聖書の知識、仏陀の教えなどが必要です。親が宗教に入って礼拝などに行かれている場合は子どもの頃から、そういった教えを聞いてきています。だから理解出来る部分があるのです。私は仏教関係で法事などでお話しを聞くという事もありましたし、オカルト関係の書物だと前半などは基礎的な知識が書かれている事もあります。そういった基礎があることで、有る程度の理解も出来ます。  それでも基礎部分でも曖昧なので、それらの事をまとめたり、詳しく説明したりすることで理解する事になります。学校の教科書の予習をしても分からないけど、先生の話など聞いて理解するという事と似ていると思います。

0123gokudo
質問者

お礼

普通の人よりは仏教やキリスト教に接して来たとは思っているのですが・・・ 私の周囲の人たちは疑問も持たず、スーッと宗教の世界に入って行きましたが、私はいつも客観的に考えてしまい、どこにも入って行けませんでした。

回答No.2

それ系の本に興味はなくはないが、あくまでも、科学的な根拠が書かれてない場合が多い以上、『この著者はこのレベルの人なのか・・・』と全て見えてしまう。 超常現象だって、実は全て未来の科学で解明される。現に、私自身が、幻覚を自在に生み出せる能力だって、単に『同時に複数の場所にいる波の性質を持つ【量子論】』で、簡単に説明がつくし、法則性だってある。実例なら、舌を使い身体のどんな組織も突き破り、固い骨や歯さえも軟化して自由にその歯のみを、自由意思で動かせるし折ったり回転も可能だ。実に面白い法則性ならば、それら身体の組織は必ず脱落しない、という点で、糸のようなもので必ず周囲の組織と連結している点だ。その糸さえ、上側に1本だったり、それが瞬時に消えたとき、下側に2本出現したりする。だから、歯をグルグルと10回右回転されてから、舌で様子を見ていると、逆に10回の左回転で元に戻っていくのが観測できる。 また、私の皮膚細胞には「黒い毛のようなモノ」があり、それを抜いてみると、その毛はフッと消えてしまうのだ。他には、皮膚や紙などに色の暗い「何らかの短い線」を描き、それを下地を曲げることで「弦のような弓状に目で認識した瞬間」その描かれた短い線が立体化し、まるで太い毛のようになる。これは見えるし触れる。特徴は非常に固くハサミで切る事は不可能。なぜなら、それは2次元の平面に存在するモノを切る事が出来ないからだ。もちろん下地もろとも切る事は可能に思えたが、それは下地もろともカッターで傷をつけた程度の結果しか得られない。 量子的な相補性の実験なら、自分の身体で実験が容易に可能だ。例えば真ん中あたりの奥歯を1本内側へ折り曲げると、口の周囲の肉をめくれば、当然ながら穴ができる。そしてそこのみから空気を肺に入れて呼吸することが可能で、ところが、指で外側から穴のあるぶぶんを「突く・さわる」と、その瞬間、歯は元々の基本位置(元の場所)に存在し、穴は塞がれ、突然、呼吸不可能になる。面白いのは舌で折り曲げた歯をちゃんとキープしておけば、先ほどのように突いたときのみ、穴がふさがり空気の移動が止められてしまう点で、モールス信号のごとく、突いてみれば、その度に、同じ現象が起きる。これは私の脳が触覚において、口の中と外で同時に異なる座標に歯を認識できる事を意味する。この『同時に異なる座標にある、とする考え』は、「1つ量子が同時に、異なる座標に居ることが可能」という量子の持つ『粒子であり同時に波である』という、もう有名すぎる事実の再現が、私の身体なら、「自由意思と無意思」が併存した形で、未だ試していない多くの実験が可能である。例えば、歯を舌で抜き取ったとき(ちなみに無限の回数で可)、下の肉から「手=hand・足=foot」の形をしたモノが生える事は多く、その手の形や指の本数を数えても、明らかに自分の手そっくりな肉塊がそこにあり、その小さな手を握ったり開いたりも可能である。これが意味するのは脳のアクセスしやすい部位の設計図が、単に異なる座標にも再現でき、例えば別の舌さえ生えることがあり、お互いに握手が舌同士で可能である。やろうと思えば、自分で自分同士でキスさえ可能であろう。まるで忍術の分身の術だが、何の事はない、我々の身体も「量子という最小単位の集まり」だから、量子の性質があって当たり前なのだ。 ネコのノド鳴らしは、未だ科学的に観測されていないので、解明不可能なのだが、量子の肉をノドあたりで振るわせることにより、実はあの振動や音は出ているのである。ネコ科の動物が鳴らす理由は解明されており基本は『低周波治療』が目的である。獣医なら誰でも「イヌよりネコの方が骨折の回復が早い」という常識を知っている。 また、中国における伝統的な「気功」というモノもあるが、あれも私の「量子脳」で考えてみれば100%説明できるであろう。そもそも、気功を及ぼす対象は、「もう1つの自分=宇宙(日常世界)」なのだから、離れた対象に力学的な作用で動かす、という事は、私の歯がビヨーンと自由意思で延ばせるのを想像すれば、気功は手の分身たる「量子肉塊」を手から延ばせば、かなり細くはなるだろうが、対象に触り、力学的に影響を及ぼすことも不可能でない訳がない。 この読者が「量子って何?」という事ならば、下記をご覧ください。そして一定のこの星のこの時代での必要な方向性を言語化すると、私の大好きな厳しいお兄様の述べた『1つの結論の一節』を次に紹介します。 【愛によって真理を成し、真理によって愛を為し、而して完全な意志に於いて完全な充足は果たされるのだ】by my dear big-brother. ======== プレゼント: 「認識体=観測者」の数だけ宇宙はある、と言えます。『博愛目的で無から』生じるのが、ヒト型の現代レベルの【自分=外界(=宇宙=時間と空間があるイメージ)】です。この「自我と宇宙」の関係は「相補性」であり、

実際のイメージは、絶対無に、ある運動を仮想定すれば【自我】と【時空(=宇宙)】が【相補分化】して【愛し合い目的】で「併存する」、ようなイメージが持てる。 

頭の悪い我々一般人でさえも、下記を参考に ""感性のアンテナをのばす"" ことで、「(量子を知る=)物理 =もののことわり」-->「もののことわり=助け合う愛や【笑顔】に満ちた世界」が、イメージとして直感でき、

【現状の地球人は、博愛による美しい『均衡が、崩れ』かけている原因が、自分自身の心理状態によるもの】というようなイメージを直感できる。下記の映像は読者へのプレゼントです。 

https://www.youtube.com/watch?v=-cM6aVIyQ_Ihttps://www.youtube.com/watch?v=HsbV_QHCBT8https://www.youtube.com/watch?v=wLKJz73DTGEhttps://www.youtube.com/watch?v=kYsGS5QAORE

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 貴方の書いていることを理解するのは、なかなか時間がかかりそうです。 リンクありがとうございます。このYouTubeの実験、以前もどこかで見ました。

回答No.1

超常現象は、「超」でも何でもない、日常の常識(素朴唯物論) の延長に、本質に遡る現象を期待する、怠惰な認識だ。 超常現象の説明に、超弦に遡る量子的解説や、ゲーデルの 不完全性定理に根差した言明があるのを見た事がない。 努力もせずに救われたい人には最適な、神無き宗教と言える。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 貴方の回答内容を理解するには、ちょっと基本的な知識が必要なようです。私には基本的な知識がないので、理解出来ないです。

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    数日前家族(30歳)が仕事でトラックを運転中、交差点の事故でなくなりました、ぶつかった時すでに具合が悪そうで、救急車がかけ付けてきた時にはすでに亡くなったそうです。 事故の外傷などがまるっきりなく警察に解剖を薦められ解剖した結果、死因は心タンポナーデという事でした。 ネットや本で調べましたが、それは状態のことで、どうして心タンポナーデになってしまったのかそこが知りたいのに警察は何も教えてくれません。 亡くなった家族は2ヶ月前に事故にあい、頚椎損傷でずっと治療中でした。仕事はしていましたが、筋肉痛のような背中の痛みを訴え毎日湿布を貼っていました。電気治療、内服もしていました。 2ヶ月前の事故は、破損した車を見ましたがかなり衝撃のあったと思えるものでした。2ヶ月前のの事故が原因であったのではないのか、私たちは困惑しています。 あんな元気だった家族が急に死んでしまうなんて 心筋梗塞や何か原因がわかれば納得できますが、心タンポナーデです。これでは納得がいきません。何のために解剖したのかわかりません、 心臓だけというわけだったのに、帰ってきたときには頭も切られていました。 どうぞよろしくお願いします。

  • 人と何を話したらよいのか分からなくなってしまいました。

    人と何を話したらよいのか分からなくなってしまいました。 29才の内向的で自己肯定感の低い男です。 親子関係から始まり、人間関係が苦手で子供の頃から避けて来ました。 就職を考えたのをきっかけに接客のバイトをし、今は外回りの仕事に就いています。 見た目を気遣い、体を鍛えたり、楽器をやったり、スポーツサークルに入ったり、 自分を脱却するために人の輪に積極的に入っていくよう心がけていましたが、 最近、人と話すことが怖くて仕方ない自分に戻ってしまいました。 自分は子供の頃から周りのような「普通の人」になりたくて仕方がなくて、 普通になれない自分を責めて責めながら無理矢理付け焼刃で自分に 色々と足し算することで生きてきました、足りないことしかありません。 でも、周りの普通の人は幼い頃から人間関係を育み、友人・恋人に恵まれてきた方 ばかりで、いうなればベテラン、自分のような薄っぺらな人はやはり無価値です。 みんな凄く面白い話をしているわけでもないのに、どうして楽しんで注目して もらえるんだろう?どうして自分の話はいつも聞き流されたり、反応が薄いのだろう? どうして自分は必要とされないのだろう?普通の人と何が違うんだろう? 話し方の教室に通ったり、話し方の本を読んだり、コミュニケーションのセミナーにも 行きましたが、自分が話す、楽しませる、満足させるということには何一つ 自信が持てず、交友関係や人の輪に行く機会が増えれば増えるほど、 自分に対する自己嫌悪や無価値感が強くなり、逆効果になってしまいました。 大勢の飲み会や、人の沢山いる輪の中では途方もない孤独感と取り残され感を感じます。 最近、人と何を話したら良いのか分からなくなり、言葉が出てこなくなりました。 何を言えばいいんだろう?何て話せばいいんだろう?何を言ってはいけないんだろう? これを言ったらダメかな?ダメじゃないかな?じゃあ何を言えば良い?分からない。 でも、早く何か言わないと、適切な言葉を言わないとと頭の中がパンクしそうです。 何か言おうとしても「え、えと」「あ、あの」くらいしか言えなくなりました。 何処に行っても、誰と会っても頭が軽いパニック状態になります。 「無価値な人間が何を言えばいいのだろう?」という申し訳なく辛い気持ちになります。 人と会う、話すことが辛くて仕方なくなって来ました。 (仕事上はかなり鞭を打ちながらやっていますが、仕事の話をすれば良いので気は楽です) 根本的に社交的で面白くてはしゃげてバカ騒ぎが出来る人間にはどうしてもなれません。 何を話したら良いのか本当に分からず、昔よりも喋れなくなりました。 話が出来ない人間はやはり余計なことをせずに静かに一人で生きるべきでしょうか? 今の自分には求めていたはずの場所が最も怖くて恐ろしいものに感じます。

  • 心霊現象を頭から否定する人は

    心霊現象を頭から否定する人は、どうにも狭い科学感に 取り付かれているのではと思いますね。 机に向かって本を読んでも幽霊は出てきません。それど ころか、それを否定する文章なら尚更否定する傾向が 強まるでしょう。しかし検証をしたわけでもない。 私の知り合いにも、幽霊などいるわけがない。ということを 事あるごとに言う人がいました。 私が「何故、そう言い切れる」と言うと「俺の読んでる科学 書にはそう書いてある」と言うのですよ。 自分で検証したわけでもなく、ただ本を読んで納得するだけ で全否定とはなんともね。 心霊現象には尾ヒレが付きますが、それでも否定しきれな い何かがあるので心霊スポットと言われる場所があるので す。 私は釣りが好きなのでいろいろとWEB検索していますと、 狩野川支流の黄瀬川の枝流に桃尻川というのがあり、 有名な心霊スポットらしいです。 かなり危険な渓流らしく立入る人は少ないようです。 その渓流の写真を見ていると、やはりいますね。感じます。 幽霊とは違う、物の怪のような強力な妖気ですね。 これは執りつかれれば人間などは、ひとたまりもありませ ん。おそらく肉体ごとどこかへ連れて行かれてしまうで しょう。恐ろしいです。 まぁ釣り人の中には良く釣れるポイントを独り占めするため にそういうデマを流す人もいますが、この川は違います。 そういう処も知らずに頭から否定する人をどう思いますか。 ただの世間知らずとは言えないと思いますが。

  • 興味のない人にあなたに興味がないといっていいか?

    職場に私に話しかけてきてくれる女性社員がたくさんいます。 その中で、上品な人や仕事ぶりなどの感じのいい人だなと思っていた人にランチに誘われたり、声をかけてもらうことはうれしいです。 一方で、詮索好きな人も多いです。人との距離感が近く、立ち入ったり、話に100%同意してくれないと生意気だと攻撃してきます。私を子分のように扱うのですが、無意識では私が気になって仕方ないというように私には見えます。私の何かを羨ましがっているように思うのです。実際、私を貶めながら、私を仲がいいと自慢したり、会議や飲み会でいつも隣の席を陣取ります。女同士で社会人なのに気持ち悪いです。 後者の人たちに、私はまったく興味が持てません。だからこそ異分子と感じて寄ってくるのだろうとは思います。後者の人たち同士で仲良く詮索しあえばよいのにと思うのですが、目に見えないよくわからない理屈(紳士協定?)みたいなのがあるみたいです。私も同じ詮索好きになれば匂いで紳士協定に入れてもらえるのでしょうが、同じレベルになりたくありません。 この人たちが詮索してくるときに『私はあなたの生活に興味がないのだけど、あなたはどうして私に興味があるの?』と真顔で聞いてみたらどうなるでしょうか? 私は普段失礼なことは言わないし、震えてしまって言えないのですが、上記は正直な気持ちなので、まっすぐ目を見て、嫌味にならずに言えてしまいそうなのです。相手がすこし答えに窮するのはわかっています。でも、そのあと恨まれるでしょうか?

  • 孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない

     表題の内容を 次の評論にからませて問います。  ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:   かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き  るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。   そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――  哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ  れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし   またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。   そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に  よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ  である。    (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4     水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳  2004 p.673)  あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。  だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。  パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。  だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。  問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。    パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。  しかもこれは うそである。  《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。  つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。  わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。  わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。  自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。  わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。  ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。  わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。  そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。

  • 言語論の前提 part2

    すいません。もう一度改めて質問させてもらいます。 パート1はこちらです。 http://okwave.jp/qa/q8501145.html 本を読んでも、どうも、納得できませんでした。そして、皆様がこの前の質問にくださった回答を読んでも、いまいち理解できませんでした。質問の仕方を少し?変えてみますので、よければ、ご回答お願いします。 今回もそうですが、「言葉では物事を示せない理由」を知りたいです。本に書いてる理由を読んでみましたが、これはただ諦めただけではないか?というような疑問を抱きました。総称になるなら、もっと細かく説明すればいいことではないか?と思ったんです。その、たった一つのものを示すためには、そのものだけにある特徴を示せば(形容、修飾して)、それで示せたことになるのでは?と思いました。 また、数字を使って説明してもだめなのでしょうか?数字を使うと、限定的に示せるのではないのかと思ったのですが・・・。この前の質問で、数字も観念であるから~というような回答をいただきました。数字も観念。たしかにそうです。でも、観念だからって、何が悪いのかわかりません。 ああ、頭が悪すぎるなぁ。でも、納得したいです。ご回答待っております。

  • 仕事人間の夫に読ませたい本(子育てに関する)

    いつもお世話になっています。 タイトル通り仕事人間の夫に 読ませたい本を探しています。 仕事仕事でほとんど家にいない 夫ではありますが、いるときは オムツ換えからお風呂からなんでも やってくれるので、育児の仕方が 書いてある父親向けのハウツー本ではなく、 (1)(父親が存在するのに)父親不在が 子供に与える影響が書いてある本 (2)子供に積極的に関わることを推奨している本etc をできれば父親向けに書いてある本を さがしています。 具体例として(1)(2)を書きましたが、 「自分はこれを読んで、育児に意欲が でてきた」という本や「夫がこれを読んだら 積極的に育児をするようになった」という ような小説、エッセイでもなんでも 構いません。 ご回答よろしくお願いします。