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論理的って

ghostbusterの回答

回答No.18

「論理的」の対義語である「感情的」という言葉を思い浮かべてみてください。 「あいつは感情的なやつだ」 「そんなに感情的になるなよ」 どう見てもこれは悪口です。逆に 「論理的な人だ」 「論理的な説明だ」 こっちはずいぶん肯定的な評価です。 こう考えれば、みんなが > 「論理的」であることに執拗になってます になるのもわかりますね。 そもそも「論理的」は褒め言葉であり、「感情的」はけなし言葉だからです(褒めようとするときは「感情的」という表現を避けて「感情豊か」とか「感情細やか」と言ったりします)。 ご質問は結局のところ、なんで「論理的」が肯定的な評価と結びつき、「感情的」が否定的な評価と結びつくのか、ということになっていくかと思います。 そうしてその答えは、歴史的に「論理」に価値がおかれ、「感情」がそれより一段劣ったものとみなされてきたから、としか言いようがありません。 西欧では伝統的に「人間」を「動物」から区別するときに、人間には「理性」が備わっているから動物とは異なる、と考えてきました。そうして、この「理性」(ラテン語でratio)というのはギリシア語のロゴスに対応する言葉です。このロゴスは同時に「論理」という意味でもあります。理性の「理」は論理の「理」でもあり、「理屈」の「理」でもあり、訓読みすると「ことわり」ともなって、そこらへんのニュアンスはギリシャ語とも似通っています。 ではなぜ「理性」が「論理」になっていったのか。 ギリシャ人たちは、ものごとの本質は目に見えるものの向こう側にある、というふうに考えてきました。春になると花が咲き、夏になると葉を繁らせ、秋になると紅葉し、散ってしまうけれど、木は木だ。木の見かけを超えて、変わらない不変の木の本質があるはずだ……というふうに。 その考え方の習慣は、いまのわたしたちにも残っていて、現実の友だちとの関係を通して、「友情の本質とは」とか、「ほんとうの友情なら」なんてことを考えたりしますよね。 そうやってギリシャ人も目の前にあるものを通して、永遠不変のもの、現象を超えたところにあるものについて考察していったんですが、そうしたときにかならず出て来るのが「なぜ」という問いです。なぜ、ものごとの見かけは移ろってしまうのだろう。なぜ日は昇り、また沈んでいくのだろう。 ここで、問い手が納得できるような理由を提示することが求められるのです。 「なぜ海が荒れるのか」 「海の神が怒っているからだ」 というふうに。 「AはBである」といったとき、なぜそうなのか、その仲立ちになるものを見つけようとする。そうして、それが正しいと、問い手を納得させようとする。こうしてロゴスの学としての論理学が始まっていったのです。 なるほど、その説明は納得できる。わからないと思っていたことに説明がついた。 だから「論理的」だ、と。 それに対して感情はどうかというと、激しい感情というのは、涙を流したり、顔が赤くなったり、すべて身体現象を伴います。そうして、その感情を構成する身体の運動は、いずれも本能だったり、自然反射や条件反射だったり、それらの原因の組み合わせです(なんとなくそれだけで「動物的」って感じでしょ)。 このように感情は受動的なもので、しかも多種多様、互いに対立する感情が起こる場合すらある。デカルトは『情念論』のなかで、感情を意志の力でコントロールし、感情の主体となることによって人間の自由が可能になる、といったことを言っています。つまり、感情というのは、制御すべきもの、抑制すべきものだった。 「感情」が哲学の中で「自己を示すもの」としてとらえなおされるようになるのは、二十世紀に入ってから、ハイデガーやサルトルによってです。それまで「感情」というのは、人間の中で言ってみれば「二流市民」の扱いをされてきた。おもしろいことにほぼ同時期、核兵器やユダヤ人の大量殺戮などの蛮行は、人間の「理性」が引き起こしたものだ、と反省されるようにもなってきます(アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』)。 あれこれ書きましたが、ポイントは、別に「論理」自体が肯定されたり、立派なものだったりするわけではなく、逆に「感情」が否定されたり、貶められたりするものでもない、ということです。単に、わたしたちはそうした言葉を慣用的にそうした文脈で使用している、というだけの話なんです。 相手に自分の感情をわかってもらうためには、感情的になるよりも論理的に説明した方がわかってもらえるし、逆に、相手を論理的に説得しようとすれば、相手の感情を考慮に入れなければ説得もうまくいきません。 このように現実には「感情」と「論理」は密接に絡み合っているので、どちらかが正しかったり大切だったりするわけではありません。 ですから質問者さんも、これから「論理的」「論理的」と錦の御旗のようにふりかざす人を見かけたら、「ああ、この人の頭の中身はあんまり論理的にできてはいないな」と思うといいんじゃないでしょうか。

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