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論理学とは?論理とは?

29歳勤務医です。 基本的な推論の体力や根気はあるので、ちゃんと読みますからできるだけ詳しく教えて下さい。 1。論理学の目標は何でしょうか? ~~学というのは例えば 医学であれば、ヒトの生物学的な知識、叉その人体への応用とか 数学であれば数や図形に関して正しい規則の発見と証明とか。 こんな様に実際的な目標や手段がはっきり分かれば良いのですが、論理学って一体何を目標として、何を手段としているのでしょうか? 2。また、他の学問が論理的なのは良いのです。論理的とは論理学において正しいということですよね。論理学は論理的に話をする前に「論理」の正しさはどういうように扱っているのでしょうか?論理とは何なのでしょうか。 直感的に正しいものが論理なのですか?論理は受け入れるしかないのでしょうか? 論理的である事に基礎をおいた学問はみんな直感的にしか正しさは示されていないのでしょうか? 数学で言う定義や公理のようなものは論理学には存在するのでしょうか?もしあるのなら知りたいです。 三段論法とかは証明できるのでしょうか。 自分で証明しようとしても当たり前すぎて出来ません。 3。教えてgooの物理の板で質問して仕入れた知識なのですが、現代物理学の最先端では同一の仮定から同一の結論が導き出せない事も有るかも知れないそうです。(具体的には全く同じ初期条件で宇宙を仮定しても時間と共に違う結果になる?そうなのです)そういう最新の科学の進歩によって古典的な論理学が退却を余儀無くされているのはホントですか? 本屋さんの論理学のコーナーの本は多くが、推論のトレーニングみたいな事をやっていて、このもやもやした気分には全然答えてくれません! 参考文献も挙げて頂ければと思います。 宜しくお願いします。

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  • Partre
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回答No.4

最初から参考文献の話になりますが、以下の議論は みすず書房から出ている エドムント・フッサール著 立松弘孝訳 「論理学研究」 に全面的に拠っています。 全4巻構成で、訳書の第1巻が原書の1巻に相当し、第2~4巻が原書の2巻に相当しますが、 特に第1巻で論理学の位置付けについて、当時の論理学の基礎付けの中心的立場だった 心理学主義との対決を通して議論されています。 訳書2~4巻は哲学的認識論が中心で、現象学研究と言う点では こちらのほうが重要なのですが、さしあたり読まなくてもいいでしょう。 古典中の古典とは言え100年前の本です。 また、フッサール自身「形式的論理学と超越論的論理学」というより研究が進んだ本を後年著しています。 こちらは未読ですし、その他に分析哲学の立場からも無視できない議論があります。 その辺りについては私は詳しくは知りませんのであしからずご了承ください。 さて、論理学の目標となると、これは理論学ということになります。 そもそも、学問は、数学にせよ物理学にせよ、または医学にせよ、 それぞれ固有の研究領域がありますが、単に個々の諸事実を集めただけでは 学問とは言うことはできません。学問へと昇華されるには、体系的統一が必要です。 その統一はいかに与えられるか。「すべてのAはBであり、XはAである、故にXはBである」 というような推論形式に従い、与えられた認識から基礎付けをしつつ新しい認識に従うとき、 初めて体系的統一が生まれ、学問が可能になります。 このとき、個々の学問の内容に関わるのではなく、内容抜きの純粋形式を問題にする 理論的学問が成立し、これが論理学であるわけです。 論理学の課題は学問一般が可能であるための条件を提供することにある、と言えましょう。 ですから、論理学は応用されれば学問論としても成立します。 (西洋哲学で「論理学」と言うと、狭義の論理学だけでなく学問論や認識論まで 意味が広がることが少なくありません。学問的伝統と言ったところでしょうか) この理論学から出発して、規範学の基礎として論理学は使われます。 規範学とはなにか。例えば「AはBであるべし」という主張は、 「BであるAのみが善きAである」という形式に転換できます。 このときこの推論には価値評価が伴っています。 「善い技術」と言う規範的命題を言明するときに、 私たちは「善い」技術についてなんらかの概念を持っていなければなりません。 「BであるAのみがCという諸性質を有する」という理論命題に、 「Cの肯定的価値評価」が生じれば、それは「AはBであるべし」という規範命題の形を取ります。 規範学にはなんらかの理論的諸真理が必要であり、 よって、規範学の土台には理論学が存在しなければなりません。 理論学としての純粋論理学が、諸学問に土台を提供する、ということになります。 数学で言う定義や公理を論理学に求めるとすれば、 同一律「AならばA」、矛盾律「Aかつ非Aではない(Aまたは非Aのどちらかである)」、 排中律「Aまたは非A」等を挙げることになるのでしょうか。 これら論理学の定理は、それ以上さかのぼることができません。 「前提として不可欠であり、しかも循環無しに互いに還元できない公理」まで さかのぼり、そこから三段論法等の諸定理を整備するのが純粋論理学の課題でもあります。 これで3以外の問いにはひとまず答えられたでしょうか。 3に関しては私はまったくの無知なので今回の返答は控えさせていただきます。 Q. 論理学って一体何を目標として、何を手段としているのでしょうか? A. 目標は、それ自身では真でも偽でもない理論的真理を整備し(純粋論理学)、 他の諸学問が正当であるための基礎付けを与えるなどすること(規範的論理学-純粋論理学の応用)です。 そのための手段が、諸定理や公理系です。 Q. 数学で言う定義や公理のようなものは論理学には存在するのでしょうか? A. 主だった定理には上述の同一律等があり、これらは公理系から導出されます。 これは適当な論理学の入門書に当たってみればよいと思われます。 Q. 「論理」の正しさはどういうように扱っているのでしょうか? 論理とは何なのでしょうか。 A. 「AならばA」はそれ以上遡行が不可能なことが明証的に把握されえます。 そこから出発し、循環無しにはそれ以上さかのぼることが不可能で、 そこから外れるとあらゆる証明が意味を失うような、 すべての理論に統一を与える純粋法則、それが論理とでも言えましょうか。 以下補足。 「~学が他の学問に基礎を与える!」というようなこういう立場は いわゆる「基礎付け主義」と言って、実はそれほど評判がよくありません。 (ではなぜ紹介したのか、と言われると、基礎付け主義の絶対確実な知識は存在する、 という立場に、反論があるのも承知で個人的に共感があるからです。 個人的好みをこういった議論に介入させてまことに申し訳ありません) こういった基礎付け主義に対する分析哲学の立場からの議論を含み、かつ比較的易しい本として 戸田山和久著 「知識の哲学」 産業図書 がお勧めできます。 フッサールの論理学研究は相当難易度が高いので、まずはこちらを当たってみるのもよいでしょう。 いずれにせよ、論理学の立場についてはいまだにこれぞという結論は出ておらず、 もっとも優秀な哲学者たちが日夜頭をひねっている、というのが現状です。

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質問者

お礼

大変丁寧に教えていただいているのにお礼が遅れ申し訳ありませんでした。 ありがとうございます。 前のお礼でも書いたのですが、No1で示していただいた戸田山氏の論理学をつくるを少しずつ読んでいるところでして、もう少し読めばもう少し気の聞いた御礼が欠けるのではないか、などと考えていて遅くなりました。申し訳ありませんでした。 そんなに簡単に知ったかぶれるものでもないようなので、とにかくお礼だけ申し上げます。 「知識の哲学」は早速注文します。

その他の回答 (4)

  • simmel
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.5

 論理学の目的は、あやまった思考、推論を排して正しい思考を目指すことです。  論理学の正しさは公理に即しているかどうかです。公理として有名なのは俳中立などがあります。そのほかにもいろいろありますが、それは参考図書で研究なさっているので、ここではあげませんね。  あらゆる領域で古典論理学は、乗り越えられつつあります。少しちがうかもしれませんが、ユークリッド幾何学から、非ユークリッド幾何学への移行と同じようにこれまでの公理系では矛盾と捉えられてきたものが実はそうではなく、そこに学問の可能性を見ていくというものが多いです。論理学といえども、やはり、1つのパースペクティブにすぎないのであり、絶対的な神の視点ではないということです。

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質問者

お礼

遅くなりすみません。 「論理学といえども、やはり、1つのパースペクティブにすぎないのであり、絶対的な神の視点ではないということです。 」 なるほど!です。 遅ればせながらありがとうございます。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.3

質問が沢山あるようなので、まずは部分的に・・・ >1。論理学の目標は何でしょうか?  いろいろあると思いますが、大きな目標の1つは、 論理の限界を探ることでしょう。証明不能という 証明もあるわけです。 ゲーテルの不完全性定理 ゲオルグカントールの無限集合について ・・・など 論理的証明できない部分をどう扱うかと いうのも大きな課題で、ヴィトゲンシュタインと いう哲学者は、その著書「論理哲学論考」の 最後に、語り得ぬものは沈黙せねばならぬ と書いていることで有名です。 >何を手段としているのでしょうか?  帰納法とか演繹法といった論理的 手法などです。 >「論理」の正しさはどういうように扱っているのでしょうか?  1つ1つの論理的手法の限界を知らないで 使うと、誤った答えが出てきます。  高校の数学で、数学的帰納法というのが 出てきたはずです。 X=1のとき正しくて、X=nのとき 正しければ、X=n+1のときも正しい。  1つ1つ事例を挙げて、証明していく方法を 帰納法といいます。    カラスは空を飛ぶ  白鳥も空を飛ぶ  鷹も空を飛ぶ  だから鳥とは空を飛ぶ生き物だ  というのが単純な帰納法的証明の例ですが、 これではダチョウや鶏が空を飛ばないと いう事実に反してしまいます。 >現代物理学の最先端では同一の仮定から同一の結論が導き出せない事も有るかも知れないそうです。  多分量子力学の不確定性原理と、そこから 予想される多重宇宙理論のことを言って いるのでしょう。    だとすれば >古典的な論理学が退却を余儀無くされている・・・  ということはありません。 量子力学のほうが論理の固まりで、 それが人間の認識する現実と違い 過ぎるのに、実験結果と一致する んです。

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質問者

お礼

丁寧に書いていただいたのにお返事が遅くなって大変失礼いたしました。 ありがとうございました。 簡単な量子論の本などを読み書いていただいた不確定性原理や多重宇宙理論などの世界もうわべだけですが、知りました。 さて、それとは別ですが No2の方へのお返事でも書いたのですが、論理が先にあるのではなくて、現象や事態や事実の統一的な表現法に論理という方法があると解釈するのが妥当かなと感じるようになりました。 だとすると、私たちの感覚では到底了解不能な量子の世界などには、現在私たちが認識している一般的なニュートン力学の世界とは違う論理もあっていいかなと感じます。

回答No.2

あえて申し上げますが、論理が先にあると思うと、まずいということは無いでしょうか?わたしは、ひとまとまりになっている物の数だけ、別々の論理があると思っています。ひとまとまりになっているかどうかは、それこそ、わからないのですから、論理だってあるかどうかも分からないのではないですか。お医者さんなら、一人一人の患者が、それぞれ論理を持っていることを実感しませんか。なんだか訳の分からない事を書いてしまいましたが、患者の苦痛に論理があるかどうかが最終的課題ではないでしょうか?

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質問者

お礼

No1で紹介していただいた本を少し読みまして、現象、事態が先にあって論理がついてくるという意味が少し分かりました。 ありがとうございます。

回答No.1

1と2はそれ自体が論理学の守備範囲です。疑問をお持ちの点は、 戸田山和久「論理学をつくる」名古屋大学出版会 に書いてあると思います。 3について。古典論理などというものは円周率を3で代用する数学のようなもので、もともと限られた範囲にしか使えません。 健闘を祈る。

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質問者

お礼

本は早速、注文しました! 有難うございます。

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