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惟喬親王、873年没説
以前の質問で惟喬親王、873年没説があると教えていただきました。 教えてくださった方、ありがとうございました。 惟喬親王、873年没説の根拠とはどのようなものでしょうか。 何かの文献に記されているのでしょうか。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87 上記によりますと 正良親王(仁明天皇)(810-850) 正子内親王(810-879) の母親は橘嘉智子で、生年が同じなので双子だと言う説があるそうです。 橘嘉智子は他にも嵯峨天皇の皇子・皇女として 秀良親王(817-895) 秀子内親王(?-850) をもうけています。 嵯峨天皇には他にも高津内親王との間に 業良親王(?-868) 業子内親王(?-815) 百済王貴命との間に 基良親王(?-831) 基子内親王(?-831) をもうけています。 ●良、●子というのはひょっとして男女の双子のこと? なーんて思ったりしたのですが、まさかそんなことないですよね。 けど、●良、●子というペアの名前には何か意味があると思います。 例えば乳母から名前をとったとか。 何かご存知の方いらっしゃいましたら教えて下さい。 推測でも結構です。 よろしくお願いします。
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お礼
わーー、こちらにも回答くださりありがとうございます。 お願いですから、迷惑をかけたとか、混乱させて申し訳ないとか言わないでください~! もういろいろなことを教えてくださって本当に感謝しています。 知識を得るというのは本当に楽しいことですね♪ 897年説は『日本紀略』に記述があるのですね。 漢文の読み方が難しいですが(汗~) 宇多天皇の御代、寛平9年2月20日、入道弾正尹四品惟喬親王が薨去した。 先に沙弥となるため出家していた。 清和天皇の御代、貞観14年(872)7月11日、四品守寝弾正尹惟喬親王は病をわずらい沙門に入るため出家した。 己卯は872年の年の干支でしょうか。 いや、872年は己卯の年のリストにはないので、日なのかな。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B1%E5%8D%AF 「西暦年の下1桁が0・5(十干が庚・乙)の年の2月が己卯の月となる」とありますが、命日は7月11日なので 己卯の日、ということなのでしょうか。 873年説は『本朝皇胤紹運録』(『群書類従』本)によるものだと。 惟喬親王 四品上野太守。小野宮と号す。 貞観14年出家。同15年二月二十日、薨去した。 26歳。母は静子。正四位下紀名虎の娘。 > 〔頭〕伊勢物語愚見抄。惟喬親王。寛平九年二月廿日薨。 伊勢物語愚見抄というのは、伊勢物語の注釈書でしょうか。 その伊勢物語愚見抄によれば、 〔頭〕惟喬親王、寛平九年(897年)2月20日薨去。 〔頭〕というのは何を意味しているのでしょうか? >星野市正紀茂光と玄武神社の起源についての関係者の記述をを時代別に並べる時に、可能性として惟喬親王の薨去年の異説も取りあげました。 873年薨去説があるということを知ることができて、ほんとうにうれしいです。 それにしても本当に文献に詳しくていらして、尊敬します! これからもいろいろ教えていただけると嬉しいです!