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惟喬親王、873年没説

以前の質問で惟喬親王、873年没説があると教えていただきました。 教えてくださった方、ありがとうございました。 惟喬親王、873年没説の根拠とはどのようなものでしょうか。 何かの文献に記されているのでしょうか。

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  • fumkum
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回答No.1

こんにちは。前回の「星野市正紀茂光」で回答したfumkumです。余分なことを書いたようで、ご迷惑をおかけしました。 さて、惟喬親王の薨去年月日については2説あって、一つが寛平9年(897)2月20日。今一つが貞観15年(873)2月20日の2説です。それぞれの根拠は次のようなものです。 寛平9年(897)2月20日説。 『日本紀略』 宇多天皇。寛平九年二月廿(20)日。入道弾正尹四品惟喬親王薨。先之出家為2沙弥1。 *参考に 清和天皇。貞観十四年(872)七月十一日。己卯。四品守寝弾正尹惟喬親王病沈・(欠字)頓出家為2沙門1。 『日本紀略』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5 貞観15年(873)2月20日説。 『本朝皇胤紹運録』(『群書類従』本) 惟喬親王  四品上野太守。号2小野宮1.貞観十四年出家。同十五二廿(*貞観十五年二月二十日のこと)薨。(*年齢)廿六。母静子。正四位下紀名虎女(*むすめ)。 〔頭〕伊勢物語愚見抄。惟喬親王。寛平九年二月廿日薨。 『本朝皇胤紹運録』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E7%9A%87%E8%83%A4%E7%B4%B9%E9%81%8B%E9%8C%B2 『日本紀略』と『本朝皇胤紹運録』のどちらも信頼性の高い史料です。wikiでは『日本紀略』について信頼性に欠ける史料のような書き方ですが、歴史学的には準国史のような位置付け(朝廷の外記日記がもとになっているのではないかとの説があります)で、平安中期の歴史研究の基本史料の一つです。それに比べると、『本朝皇胤紹運録』の信頼性は一歩下がると思います。また、『本朝皇胤紹運録』の注釈を見ると、「伊勢物語愚見抄によると、惟喬親王は、寛平九年二月廿日薨去と記載されている」と言うような書き方ですから、『日本紀略』の説の方が正しいとは思いますが、星野市正紀茂光と玄武神社の起源についての関係者の記述をを時代別に並べる時に、可能性として惟喬親王の薨去年の異説も取りあげました。 混乱させて申し訳ありません。以上、参考まで。

noname#193152
質問者

お礼

わーー、こちらにも回答くださりありがとうございます。 お願いですから、迷惑をかけたとか、混乱させて申し訳ないとか言わないでください~! もういろいろなことを教えてくださって本当に感謝しています。 知識を得るというのは本当に楽しいことですね♪ 897年説は『日本紀略』に記述があるのですね。 漢文の読み方が難しいですが(汗~) 宇多天皇の御代、寛平9年2月20日、入道弾正尹四品惟喬親王が薨去した。 先に沙弥となるため出家していた。 清和天皇の御代、貞観14年(872)7月11日、四品守寝弾正尹惟喬親王は病をわずらい沙門に入るため出家した。 己卯は872年の年の干支でしょうか。 いや、872年は己卯の年のリストにはないので、日なのかな。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B1%E5%8D%AF 「西暦年の下1桁が0・5(十干が庚・乙)の年の2月が己卯の月となる」とありますが、命日は7月11日なので 己卯の日、ということなのでしょうか。 873年説は『本朝皇胤紹運録』(『群書類従』本)によるものだと。 惟喬親王 四品上野太守。小野宮と号す。 貞観14年出家。同15年二月二十日、薨去した。 26歳。母は静子。正四位下紀名虎の娘。 > 〔頭〕伊勢物語愚見抄。惟喬親王。寛平九年二月廿日薨。 伊勢物語愚見抄というのは、伊勢物語の注釈書でしょうか。 その伊勢物語愚見抄によれば、 〔頭〕惟喬親王、寛平九年(897年)2月20日薨去。 〔頭〕というのは何を意味しているのでしょうか? >星野市正紀茂光と玄武神社の起源についての関係者の記述をを時代別に並べる時に、可能性として惟喬親王の薨去年の異説も取りあげました。 873年薨去説があるということを知ることができて、ほんとうにうれしいです。 それにしても本当に文献に詳しくていらして、尊敬します! これからもいろいろ教えていただけると嬉しいです!

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  • fumkum
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回答No.2

こんにちは。丁重なお礼をありがとうございます。疑問点についてわかる範囲で。 >「己卯は872年の年の干支でしょうか。」 これは、(貞観十四年)七月十一日の干支が「己卯(つちのとう・きぼう)」という事です。貞観十四年の干支は、壬辰(みずのえたつ・じんしん)です。 >「伊勢物語愚見抄というのは、伊勢物語の注釈書でしょうか。」 伊勢物語愚見抄(いせものがたりぐけんしょう)は一条兼良(かねら)の書いた、伊勢物語の注釈書です。 一条兼良 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E8%89%AF >「〔頭〕というのは何を意味しているのでしょうか?」 〔頭〕は頭注という意味・略語です。ページの上部にあるのが「頭注」、下部にあるのが「脚注」です。 現在われわれが見る『群書類従』は、一般的な活字版ですが、江戸時代に塙保己一が刊行した群書類従は木版でした。私も木版の現物は見たことはないのですが、写真で見ると、全体の上部1/5程度に注を記載するスペースがあります。これを、活字版にして出版する時に、〔頭〕として、本文脇に記載する形式に変更しています。これに対して、国史大系版の『日本紀略』・『三代実録』などは、上部1/7程度の部分に横線を引き、その上に少し小さい活字で、頭注を記載しています。 申し訳ありませんが、訂正(『日本紀略』貞観十四年の条)があります。 <誤> 清和天皇。貞観十四年(872)七月十一日。己卯。四品守寝弾正尹惟喬親王病沈・(欠字)頓出家為2沙門1。 <正> 清和天皇。貞観十四年(872)七月十一日。己卯。四品守弾正尹惟喬親王寝レ沈・(*欠字)頓出家為2沙門1。 実は頭注もあります。 頭注 病、三實作疾 〇沈、三實无、当補痾字 *三實=『三代実録』の略  *无=無 そこで、『三代実録』を見ると、次のように記述しています。 清和天皇 貞観十四年七月十一日己卯。四品守弾正尹惟喬親王寝レ疾・頓出家為2沙門1。 頭注 疾、紀略(*『日本紀略』)此下有沈字、或当補沈痾二字 *紀略=『日本紀略』の略 両書の頭注から考えると、元の文は次のようになると思います。 「四品守弾正尹惟喬親王寝疾沈痾頓出家為2沙門1」 意味 四品=親王の位は、品位と呼ばれ、上から一品~四品の四階制です(それ以外に位のない、无品の親王がいます)。細分化されていませんが、貴族の一位~四位に対応します。 守(しゅ)=律令では官位相当制をとっています。官位によってそれに見合う(相当する)官職が決まっています。例えば、正二位・従二位(二品)の相当官は、左大臣・右大臣となっています。できるだけこの原則が崩れないように官職に任命されるのですが、上手くいかない場合もあります。その時に、従一位(もしくは一品)の人物が、左大臣になった時には、位が高くて、官職が低いので、「行(ぎょう)」と言います。これに対して、正三位(三品)の人物が左大臣になると、位が低くて、官職が高いので、「守(しゅ)」と言います。この行と守は、位と官職の間に入れて表現します。従一位行左大臣・正三位守左大臣のように表現します。 弾正台の長官の(弾正)尹は、令の規定では従四位上が官位相当ですが、天平宝字三年(759)の格(きゃく=令の追加・改正法)で従三位(三品)相当に変更されています。ですから四品では官職(弾正尹)の方が高いので、守となります。 弾正=律令に規定された監察・警察機構。その長官が弾正尹(だんじょうのいん)で、早くに名目化し、特に長官の尹は、名誉職化し、親王が任命されることが多い。 寝疾=疾は病で、寝疾(しんしつ)は寝病(しんびょう)と言う熟語があり、意味は同じで、病に伏すことを言います。 沈痾=(ちんあ)長い間治らない病気。長患い。 寝疾沈痾=読むとすれば、「しんしつ(にして)しんあ(となり)」と音で読んでよいと思うのですが、「寝レ疾」とするならば、「疾(やまい)に寝(ふ)して」もしくは、「疾(やまい)に寝(よこ)たわ(は)りて」となると思います。「寝」には珍しい読み方として、「ふ・す」・「よこ・たわ(は)る」という読み方があります。 頓=にわ(は)か・に=急に 出家=すけ=俗世を離れて仏門に入ること。 沙門=出家して仏道修行する人。僧侶。 沙弥=しゃみ。仏門に入り、髪をおろし、得度したばかりの僧。 *出家(者)・沙門・沙弥・僧(侶)はほぼ同じ意味(厳密には違いがあります)として用いられます。ただ、出家が、上記の文のように「出家す(る)」という動詞として用いられることが多くあることが他と違いますが。 なお、『日本紀略』と『三代実録』などの『六国史』との関係ですが、『日本紀略』は、『六国史』の時代(『三代実録』の光孝天皇の条)までは、六国史の抜粋ですが、その後は独自の記述になります。ただ、『日本後紀』などは、逸文が多く、『日本紀略』により復元された記述も多いほか、六国史にない記述が時に見られる。 以上長くなりましたが、参考まで。

noname#193152
質問者

お礼

重ねての回答ありがとうございます~!! 己卯は七月十一日の干支でしたか。 恥ずかしながら己卯を「つちのとう・きぼう」とよむとは知りませんでした。 日本人失格ですね。 ふりがなをふってくださってありがとうございます。 伊勢物語愚見抄は伊勢物語の注釈書で一条兼良という人が書いたのですね。 ウィキには「戦後『伊勢物語』の注釈研究の分野において兼良を旧来の注釈と一線を画した実証主義者・合理主義者とする評価が見出され」とありますね。 伊勢物語愚見抄、読んでみたいです。 頭って何のことかと思いましたが、頭注のことなんですか。 全体の上部1/5程度に注を記載するスペースがあると。 「四品守弾正尹惟喬親王寝疾沈痾頓出家為2沙門1」の詳しい説明~! 大感激です! 自分にわかりやすいように、箇条書きにしてみました。 (1)親王の位は、品位と呼ばれ、一品~四品の四階制で、貴族の一位~四位に対応する。 位のない无品の親王もいた。 (2)守(しゅ)とは位が低くて官職が高いことを意味する。 (3)(弾正)尹は 弾正台の長官で、従三位(三品)なので、四品では官職(弾正尹)の方が高いので、守。 (4) 弾正とは律令に規定された監察・警察機構で、その長官が弾正尹(だんじょうのいん)。 長官の尹は、名誉職化し、親王が任命されることが多い。 これで四品守弾正尹の意味がわかりました! (5)寝疾=疾は病、寝疾(しんしつ)は寝病(しんびょう)。病に伏すこと。 (6) 沈痾=(ちんあ)長い間治らない病気。長患い。 (7) 頓=にわ(は)か・に=急に (8)出家=すけ=俗世を離れて仏門に入ること。 (9)沙門=出家して仏道修行する人。僧侶。 (10) 沙弥=しゃみ。仏門に入り、髪をおろし、得度したばかりの僧。 つまり、四品守弾正尹の惟喬親王は病を患って回復せず、急に僧侶となるため出家したということですね。 『日本紀略』と『六国史』の関ついての説明もありがとうございます。 『日本紀略』は、『六国史』の時代(『三代実録』の光孝天皇の条)までは、六国史の抜粋で、その後は独自の記述なんですね。 『日本後紀』は逸文が多く、『日本紀略』により復元された記述も多く、六国史にない記述もあると。 とても勉強になりました! それにしてもこれだけの回答を書くためには、相当な時間がかかったことと思います。 本当に本当にありがとうございました!

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