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徳川家康 武田家の滅亡に際して

徳川家康について書かれている本だったと思うのですが、 武田家が滅んだ際に言ったとされる話です。 「強い隣人がいるからこそ、自らも武芸に励むことが出来る」 というようなことを言って武田家の滅亡を悼んだと本に載っていたのですが、 どんな本に載っていたのか思い出せません。 記憶が曖昧なので、こんな感じに書かれていたとしか言えないのですが 御存じの方、いらっしゃいましたら、教えて下さい。 よろしくお願い致します。

  • 歴史
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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.2

>どんな本に載っていたのか思い出せません。 記憶が定かではありませんが・・・。 「名将言行録」だったと思います。 「人の人生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」など、色々と載っています。 余談ですが・・・。 武田勝頼は、織田軍から敗走して土佐の国大崎村川井に逃げ延びています。 ここでは、大崎玄蕃と名をかえて64歳で逝去。鳴玉神社に葬られました。 [高知県庁HP] http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/120301/085127.html 歴史は勝者が作るのであって、正しい歴史は存在しません。^^; 某国では、敗者が歴史を作るようですが・・・。

moxafan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 武田勝頼は、土佐で生きていたんですね。 知りませんでした。死んだとばかり思っていました。 出典を教えて下さり、ありがとうございました。 No.1の回答者さんと迷いましたが、出典を書いてくださっているので、ベストアンサーとさせて頂きます。

その他の回答 (1)

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.1

お望みの回答とは違うかもしれませんが、武田家滅亡のとき、実は密かにかなりの元武田家家臣が徳川家に亡命して受け入れられたのです。 なぜかというと、武田家ってのはご存じ信玄によって築かれたかなり質の高い家臣団がいたわけで、これはいってみれば大手企業のエリート社員とか強かったスポーツチームのスタッフとかそういう人材だったわけですね。零細企業から中規模の大名へと成長していた家康にとっては喉から手が出るほど欲しい人材がいたわけです。 ただ、織田信長への手前バレるとそりゃ大問題になります。だから、密かに受け入れたようですよ。 徳川家の家老のひとりである井伊家がその武田家の家臣団を引き継いで武田家にあやかり赤い鎧を身にまとったというのは有名ですね。でもその話を聞くと「どこが密かにだよ。おおっぴらじゃねえか」と思うのですが、一応建前上はひそかにってことだったようです。 私、武田神社を訪れたときに偶然テレビのインタビューを受け、そのときに武田家の直系の子孫とじかにお話しをさせてもらったことがあります。歴史好きの私に声をかけるとは、ありがとう日テレ。 それで、私は歴史好きだから「直系の子孫」と聞いてびっくりして「天目山で全員切腹したのではないのですか」と聞いたのです。直系のご子孫、おおよく知ってるねと嬉しそうだったのですが、信玄の子供に目の不自由な子がいて、お坊さんになっていたのです。そのお坊さんが徳川家を頼って密かに逃げ延びたそうで、それで武田家唯一の血筋ということで還俗して妻をとって子孫を残したんだそうですな。 つまり徳川家は信玄の子供をかくまっただけでなく、妻の世話もしたってことです。

moxafan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そして、面白い話をありがとうございます。 井伊家が赤い具足をつけていたことは知っていましたが、武田家の家臣団を率いていたとは知りませんでした。 直系の子孫がいらしたとは…。 徳川家康は、天下を取った後に、武田家を再興していると聞きましたが、再興された武田家も直系の方がついだのでしょうか。 ありがとうございました。

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