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徳川家康の遺した言葉について
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- hena-hena
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家康が病床で外様大名に語った言葉です。 「わが命旦夕に迫るといへども、将軍塚斬くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代わるべし、天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし」 意味としては・・・ 「我が命もまさに尽きようとしているが、後は将軍がいるので天下の心配はない、しかし、もし将軍の政道に理にかなわない事や民を疲弊させ苦しめる事があれば、諸侯の誰でも将軍に代わられよ。 天下は一人の天下にあらず、天下の天下ゆえ、例えそのようになっても家康は恨みには思わぬ」 と言いましたが、実は家康は秀忠に「諸国の大名将軍の命に背き、参勤交代を怠る者がいたら、それが一門、譜代であっても速やかに兵を発してこれを討て」とも言っています。 そう考えると「天下は一人の天下にあらず・・・」は家康の本心では無かったと言う事なんでしょうね。
- buchi-dog
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その言葉とは 「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る 己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり」 といったものですよね。 これは、明治になってから旧尾張藩士が作ったものとされています。 ウィキペディアには 徳川家康 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7 家康公遺訓 「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。 と書かれていますが、だいたいこれが「定説」です。 家康が実際に言ったことか否かは別として、たいへん良いことを言っておりますので、この「家康公御遺訓」を座右の銘にするのは悪くないと思います。
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
支配者側の論理として、家康の有名な言葉があります。 「百姓は、貯めないように、死なないように管理せよ」 年貢米は、百姓が貯蓄出来ない程度に搾取し、百姓が餓死しない程度まで搾取するべし!という意味です。 また、同様な言葉もあります。 江戸中期の書物(題名は忘れました)に「家康の言葉」として次の言葉があります。 「胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程よく取れる」 う~ん。百姓を国民と入れ替えると、自民学会連立政権の基本方針と同じですね。 財源を確保しないで商品券(減税)ばら撒き、その後に大幅な消費税率UP。 前回の商品券ばら撒き事件で、数百億円の損害を国に与えても、再度同じ轍を踏むようです。^^;
- char2nd
- ベストアンサー率34% (2685/7757)
「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず」 ではないでしょうか。この後に続くのが「不自由を・・・」ですが。 それ以外だと、 「多勢は勢を恃み、小数は一つ心に動く。」 「怒を敵と思え。」 「真らしい嘘はつくとも、嘘らしい真を語るべからず。」 「道理に於て勝たせたいと思ふ方に勝たすがよし。」 「勝つ事ばかり知りて負くるを知らざれば害其の身に至る。」 などがあります。
- myeyesonly
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こんにちは。 「人生は重き荷を背負いてゆく旅の如し。急ぐべからず」みたいな言葉を言ったと聞いた事がありますけど。
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