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続 価値の哲学 蛇足 生産論

以前「続価値の哲学」の質問を、慌てて締め切った為、気になる点がありましたので再度ご質問させていただきます。 価値について考えている者が、生産や消費について質問するのは、先走りのそしりを受けるかもしれませんが、先走ったお礼をしてしまい、生産について、皆様のご意見を伺えないかとの、お願いです。 生産=生活の資を作り出す仕事。なりわい。生業。出産。 自然物に人力を加えて、人にとって有用な財を作り出し、もしくは獲得すること。 消費=費やしてなくすこと。つかいつくすこと。費消。 欲望の直接・間接の充足のために財貨を消耗する行為。生産と表裏の関係をなす経済現象。 辞書は、上記のように説明していますが、私見ではさらに、物質に対する観念的な欲望の、生産消費があるのかもしれません、もつとも、このことが、私にとって「価値」の難解な問題ですが。 それでも、現在、エネルギーの保存則や、作用反作用の法則が自然の法則として認められる以上、エントロピー経済を待つまでもなく、自然の一部として人間が自然の法則から免れるとは考えられないのですが、「生産と消費」に関して、何を作り出し、何をなくすことが出来るのか、「本当の事を教えてください」(歌の真似。 「価値」を生産・消費していると言う回答はなしにしてくださいね。 私の非常識は、いつか常識になる可能性は有るのでしょうか? 前回の質問番号は、821408です、ご参考にしていただければ幸いです。

noname#15238
noname#15238

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

以前の貴殿のご質問ですが・・・ >仮定 「生命(人間を含む)は、本質的に不足している。」 >此処で不足しているとは、他に依存しなければ存在できないと言う意味です。 >仮定は正しいでしょうか? 正しいです。しかし、不足ではなくて、他に依存しなければ 存在できないというのは、不足なのではなくて、 それが、本来の存在様相なのです。 つまり、存在とは、目的を中心として主体と対象が 授受作用して存在基台を造成してはじめて成就するのです。 これが存在論です。主体と対象が作用することが 「存在」の原理原則なのです。 >存在できないという意味です。 と言われましたが、「存在」とはそもそも、それで 成り立っているのです。これが宇宙の原理原則です。 陽子だけでは存在できないのです。 陽子と電子が授受作用することで、原子が形成されるのです。 それが「存在」の意味です。 「不足」というのは、存在の本質に対する誤解なのです。 力は作用によって必ず生じますが、作用は、 主体と対象が授受して起こります。 故に、存在の為の力も、主体と対象の授受作用により 発生するのです。これが宇宙の根本原理です。 存在する為には、必ず力が必要ですが、その全ての力も 必ず、主体と対象の作用によって、生じます。 ですから、あなたが、「存在」という言葉を用いるとき、 必ず、「主体と対象」という概念を想起すべきなのです。 あなた自身の主観の問題なのです。 良心作用もそうです。時空を超越して、人は、常に より正しいものを指向する心(良心)が作用しています が、これも「作用」である以上、その対象である良心 に主体的立場で時空を超越して人間に働きかける 何らかの存在がなければならないのです。 その良心の主体が「神」だとも言えるのです。 宇宙のはじまりと言われている「ビッグ・バン」も 何らかの爆発力の為の作用があって生じたので、 その作用の主体が存在しなければなりません。 それが神様だとも言えるのです。 兎に角、「存在」とは、主体と対象が授受作用して 存在基台を造成してはじめて完成するので、 不足なのではなくて、それが「存在」というものの そもそも「本質」なのです。 「価値」も、価値を追求する主体と、その価値を 実現する対象とがお互いに授受作用してこそ、 価値が生じるのです。 この世は、すべてそのようになっています。 例外はありません。主体と対象です。 陽子と電子、心と体、男性と女性、男と女、 先生と生徒、親と子、神と人間、霊界と地上界、 右と左、政府と国民、夫と妻・・・ すべてが、主体と対象の関係なのです。 目的を中心として主体的格位と対象的格位が 必要だと言うのです。存在基台とはそういうものです。 男の中にも更に、男性と女性があるのです。 女性ホルモンもちゃんと男の中にあるのです。 そして、入力より出力の方が小さいのが、物理法則 ですが、唯一、入力より出力が大きいのが、 愛なのです。投入すればするほど、大きくなるのです。 愛ゆえに、神様は投入されて、宇宙を創造されました。 物質の根元は素粒子でありエネルギーなのですが、 それも、「目的」があるのです。 素粒子は原子形成の目的の為、原子は分子形成の目的のため・・・ というようにです。 そして、 人間の「目」も結局、そのようにして目的が先にあって創られたのです。 偶然、目が頭蓋骨の両方にたまたまスポッとはまりこんだ のではありません。心臓もまつげも、口も胃腸も すべて目的があります。存在より目的が先なのです。 存在があって、それから目的が出来たのではありません。 たまたま、心臓ができて、胃腸が偶然できて、 たまたま血管ができて、血液がたまたま、そこを 流れはじめ、たまたま、脳みそが神経を司るように なったのではないのです!! 目的が先です。 私は進化論を否定しません。 しかし、私の進化論は、目的があって進化してきた というものです。偶然論的進化論ではなくて、 目的論的進化論です。 目的・目標がなければ、「進化」と言えないでしょ? 退化かも知れないんですから・・・? だから、唯物論者の方は、進化論なんて言っちゃいけませんよ。 「変化論」と言って下さいね。 兎に角、目的が先なのです。 ゆえに、その背後に何らかの意志を認めざるを得ません。 人間は愛する対象として創造されたのです。 喜びの対象として創造されました。 「喜び」の定義とは、 自己の性相と形状を、その対象に相対的に感じ、そこから 刺激を受けるとき喜びを感じるというのですね。 神様の宇宙創造の動機も喜びです。 対象を愛することを通して喜びを得たい。 これが神様の宇宙創造の動機なんです!! 自分と似ているものを見たとき、感じたとき、 喜びを感じるのです。 心(性質)があるいは形が似ていなければ喜べないのです。 だから、動物も人間に似せて創られていると言ったのです。 自分と同じような表情を、犬が見せるからかわいいのです。 相対的に自己の性相を犬に見て感じるのです。 だから、結局、喜びを生産しなければならないのです。 投入して忘れて、なお投入すれば、愛は無限に大きく なれるのです。喜びは無限に大きくなれるのです。 有限であるこの世の物質・資源を使って何か 生産しても、それはただ形を変えたものでしかありません。 それを、「生産」と人は言うのです。 人の手を借りて、形を変えて、人間にとって「価値ある対象」として作り替えただけです。 そう考えれば、生産とは単なる作り替えでしかないでしょう・・・ しかし、そこに「喜び」(「需要」と言い換えてもいですが、もっと広義な意味での喜びです・・・) があれば、価値が生じるのです。 質量保存の法則を考えれば、生産しても消費しても なくなるものは何もありません。 それにしても、生産とか消費とは単なる経済用語でしょ? 哲学のカテゴリーではちょっと不向きでしょうね・・・ しかし、真の愛と喜びは違います。消費されることはありません。 どんどん増えていくのです。無から生産されていくのです。 愛してもいなかったのに、愛するようになれば、 ますます投入して尽くすのです。そして、 ますます、愛するようになり、喜びが増大されるのです。 投資よりリターンが大きいのが真の愛なのです。 だから、この宇宙が創造されたのです。 そうでなければ、どうして無から有が生じますか? 親なる神様が投入することで「有」が生じたのです。 投入して忘れてしまえる愛・・・これが親の愛です。 それなくては、この宇宙は始まりませんでした。 宇宙の根本は、「神と人間が親子である」ということなんです。 ではでは。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり、失礼致しました。ご回答者様の「無限の愛」に応えられる方法を見つけるのに時間がかかってしまいました。初めに言い訳をさせてください、私は文章力が貧弱で自分の言葉で文章を構成する力に欠けています、そこで、先人の言葉をお借りする方法が今のところ、私にできる最善の方法と考えました。 著作権とマナー関連で不安がないわけではありませんが、この方法でしか応えられない責任はすべて私にあります。 また、質問の内容に関する事柄より、哲学のカテゴリーでの「価値」「生産」「消費」「交換」「所有」などの経済学の概念を持ち込むことの理由を説明することの方が、ご回答者様の「無限の愛」に応えられるのではと考えました。以下は、私にすれば異例の長文になりますので、この一点をご説明することにより、お礼に代えさせて頂きたいと考えています。 生産は直接にまた消費でもある。(1) 最初はマルクスの言葉です、私は、唯物論者でもマルクス主義者でもありませんが、こんなところにも、お尻に大きな尻尾が残っている証拠かもしれません、しかしこの言葉の生産・消費は経済学上の生産・消費であって、一般的な生産・消費とは違うようです。この時点で、すでに別の道があったのではと私は考えています。 資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえわれわれの研究は商品の分析から始まる。(2) これは私的企業の経済体系の理論的分析として考えられる理論経済学の書物であって、制度的統制への論及をいっさい含んでいない。わたくしはこの制限をかなり厳格に解するであろう。というのは、わたくしの考えるところでは、資本主義の純粋論理的分析はそれだけで一つの仕事であるのに対し、経済制度の概観は(それが現代の制度であるときでさえ)経済史家の方法のごとき別の方法によって処理されるのが最もよいからである。(3) 上記の二つの言葉は、経済学の限界をものがたっています、勿論、個別の諸科学は限界又は外延を確定して、精密な研究に進むのは当然の事でしょう。しかしながら、そこから漏れてしまったもの方が、私には重要に感じられるのです。

noname#15238
質問者

補足

お礼の続きです。 もし正統派経済学が誤っているとすれば、その誤りは、論理的整合性に著しく留意して構成された上部構造の中に見出されるべきではなく、前提が明確性と一般性に欠けている点に見出されるべきである。(4) 人間の幸福とはなんであるかは、科学とは無縁なのでしょうか、確かに経済の成長は、人々の幸福を増進させたことは事実です。しかし、何かを得れば何かを失うのは、この世の常。砂の上に建てられた上部構造は高くなればなるほど危険が増すような気がします。 「原子力についてはその管理責任の所在がなにより大切です。ところが、原発はいつのまにか国の手を離れて電力業界へと移ってしまっている。いまとなって、たとえわれわれが何らかの質問を試してみても、おそらく責任ある回答はどこからも返ってこないのではないだろうか。それに問題はすでにあなた方経済学者の側へと移されたようにも見える。エネルギー供給のいかんが『経済成長』や『完全雇用』のいかんに影響するのだといわれては、物理学者としてはこれ以上何ともいいようがないではないか」朝永振一郎(5) この言葉は、著者と朝永氏との会話の一部です。 自然科学の進歩が、逆説的に、人間の生命の不安を増大させた一面があることを、自然科学者の責任とすることは不可能でしょう。経済学は原子力廃棄物の長期にわたる不安を如何に評価することができるのでしょうか。個別諸科学の限界は、総合的な実践哲学とでもいえばよいのでしょうか、新しい方法論の模索を求めているのではないでしょうか。 本書は、枯渇性資源に関する正統派経済理論の批判に一章を当てている。そこでは「時間選好」について論じることになるだろうが、これは、経済理論を方法論的に特徴づけている、内省的・主観的個人主義と一致する「顕示選好」としてよく経済理論に導入されるものである。だが当然のことながら、まだ生まれていない経済行為者は今日の市場に入札することができないのだから、この方法論は少々不便なものである。(6) この本は、実はまだ読み終えていません、「私たちの子孫が、今日の市場に参加できないという事実に市場経済の大きな落とし穴がある」恥ずかしながら初めて気が付き、今回の一連の質問の動機といえます。この問題を経済学的に如何に答えるのか、興味の尽きないところですし、哲学に値すると考えています。 おお人間よ・・・・・おまえの不幸な子孫になおいっそう大きな不満を予告しているいろいろな理由のために、現在の状態に不満なおまえは、おそらく、もう一度むかしに返れればよいと望むだろう。そしてこの感情はおまえの最初の祖先への賛辞や同時代人への批判となり、不幸にもおまえの後に生きる者にとっての恐怖を呼び起こすにちがいない。(7) 難解です、哲学のカテゴリーで経済書の言葉ばかり借りていますので、飾りに付け加えました。 すべての研究領域には二つの限界があり、そこでは思惟の運動が精密な形式から哲学的な形式へと移行する。認識作用一般の諸前提はすべての特殊領域の公理と同じように、その叙述と吟味とをこの特殊領域から原理的な科学へと移し、この科学の無限の彼方によこたわる目標は、無前提に思惟することである。 この目標を個別諸科学は断念する。なぜならこれらの個別諸科学は証明なしには、それゆえ事実的および方法的な性質をもつ諸前提なしには一歩も前進しないからである。・・・ ・・・一般につねに分業的であるひとつの科学の立場が、けっして現実の全体をくみつくさないように、 二人の人間が彼らの生産物を相互に交換するということは、けっして国民経済的事実にとどまらない。なぜならそのような事実、すなわちその内容が国民経済学的な形象によってくみつくされる事実など、けっして存在しないからである。右の交換はむしろ心理学的事実として、風俗史的な事実として、さらには美学的な事実としてもまったく同じように正当に取り扱われることができる。そしてそれが国民経済学的事実として考察されるときでさえ、それによって袋小路の終末に到達したわけではなく、この形態のなかにさえこの事実は、その諸前提を非経済的な諸概念と諸事実において吟味し、その結果を非経済的な諸価値と諸関連にたいして検討する哲学的な考察の対象となる。(8) これまた難解です、ただ私の哲学の真似事にとつては、大切な「免罪符」です。 (1)「経済学批判要綱」マルクス (2)「資本論」マルクス (3)「価値と資本」ヒックス (4)「雇用利子および貨幣の一般理論」ケインズ (5)「生命系のエコノミー」玉野井芳郎 (6)「エコロジー経済学」アリエ (7)「人間不平等起源論」ルソー (8)「貨幣の哲学」ジンメル 現在の状態に不安をいだく私は、同時代人を批判することはできます しかし、私にいったい何ができるのでしょうか?

その他の回答 (2)

回答No.3

私の書いた回答に対して、いろいろ補足やお礼をたく さん頂きまして至極恐縮です。 私は某有名大学の経済学科を卒業しておりますが、経 済学がその当時大嫌いでして、ほとんど成績は可や不 可でした・・・おかげで留年しましたが。 ですから、貴殿が書かれている内容を完全に理解でき ていないことをお許し下さいませ。 ただ、漠然とですが、今の貴殿に何か補足させて頂け ることがあるとすれば・・・ それは、「自然界というのは、善なる世界だ」 と言うことだけです・・・ 神様が創造された自然界には、原理・法則・秩序が最 初からプログラムされております。 それは、「全体目的と個体目的の調和」という原理な のです。 良く人間は、勝手に、自然界は弱肉強食だ・・・とか 言って競争を良しとしますが、ライオンは、シマウマ を襲い食べても、お腹が減っていなければ、たとえす ぐ横をシマウマが通りすぎても見向きもしないそうで す・・・ これは何を意味するかといえば、足ることを知ってい るということです。過分な欲望は動物にはないのです。 全体目的を破壊する欲望がすなわち悪なのです。 彼らにはそれがありません。 ライオンが、もし、シマウマを襲わず、周辺がシマウ マだらけになれば、シマウマは滅んでしまうのです。 シマウマが滅べばライオンも滅びる・・・結局、弱肉 強食の世界なのではなくて、 「調和の世界」なので自然界がちゃんと成り立ってい けるのです。弱肉強食なのではないのですね。 人間だけが、勘違いしているのです。 人間だけが悪なる競争を良しとしている変な生き物な のです。 つまり、自然界は神様の原理で創造されているので、 善なる世界なのです。全体目的と個体目的が調和した 世界・・・これが善なる世界なのです! しかし、人間は、哀しいかな、堕落したので、自己中 心的な欲望、すなわち過分な欲望を持ち、自己の位置 を離れるという堕落性を持つに至ったのであります。 これが悪なのです。 人間の欲望が問題なのです。哲学、主義、思想はどう でもいいのです。 人間の欲望が問題です。 経済学は、善なる経済学とか悪なる経済学とかを問い ませんね。だから、経済学では、この世を救えないの です。なぜでしょう・・・? それは、人間が、神様の創造理想から外れて自己中心 性を持って堕落したからです。これが悪の根元なので、 この善悪の問題を抜きにして、世界を元通りに平和に 復帰すことはナンセンスなのです。 人間は神様によって創造されたか、単なる偶然に発生 したかの2つに1つなのです。 これ以外にはありません。絶対にありません・・・ だから、問題なのです。 神様は、我々堕落人間が勝手に信じる信じないとか言 う前に、実在するかしないかなのです! 2つに1つなのです・・・ もし、神様がいらっしゃらないのなら、哲学なんて止 めなさい、というのです。まるであたかも「ぼうふら」 のように偶然に発生して、突然変異のなれの果てが、 我々人間なら、最初から、全体目的である神様の人間 創造の目的もなければ、存在目的もないんだから、存 在価値があるはずがないでしょ!!  だから、「産まれながらの人権」も「尊厳性」もナン センスなんですね。価値のない物を捕まえて、善だ悪 だ・・・?? ナンセンスなのです・・・ 人間始祖アダムとエバは、神様の全体目的・創造目的 を無視した過分な欲望により、自己の位置を離れ、堕 落して、血統的に、自己中心的な欲望を持つに至りま した。善なる欲望=本心もありながら、しかし、悪な る欲望を抑えられないでいるのです。これが人間の矛 盾性なのです。本来の状態から外れているので、矛盾 なのですね。最初からそのような状態なら、「矛盾」 とは言いませんね。  堕落したのです。 ですから、過剰な生産、過剰な消費、過剰な分配が歴 史上いつも止まないのです・・・ 欲望が問題です。 神様は、ご自身に似せて人間を創造されましたが、理 想の世界も、また人間一個人に似ているのです。 ですから、理想の経済体制も、人間の体がヒントにな るのです。 生産と分配と消費とは、あたかも、人体における胃腸 と心臓と肝臓のように有機的な関係を保たなければな らないので、生産過剰による販路競争や、不公平な分 配によって、全体目的に支障をきたすような蓄積や消 費があってはならないのです。 必要に基づく十分な生産と、過不足のない公平な分配、 そして、全体的な目的のための合理的な消費をしなけ ればならないのであり、そのために、ちょうど、人体 における肝臓のように、機能全体の円滑な活動のため に、適宜な貯蓄をしなければならないのであります。 このようなことは、自然界では当たり前のことなので す。が、しかし、人間世界では、当たり前ではなくな ってしまったのです。 この問題を解かない限り、哲学だなんだかんだ言って みたところで始まらないのです。 何度も言うようですが、人間が単なる偶然に産まれた のなら、哲学してみても、何も答えは出ません。最初 から人間の存在自体に何の意味・価値もないんですか らね・・・ しかし、もし、人間が神様によって創造されたのなら、 人間は結果的存在なのです。 そして、神様は原因的存在なのです。 原因的存在を無視して、結果的存在である人間だけに 目を向けているのが今の哲学なのです。 結果的存在である人間をいくら調べても、 どうして、人間が存在しているのかは分かりません。 神様が作者で人間はその最高傑作です。 作品をいくら眺めていても、なぜその作品を創造した のかは、分からないのです。 作者を無視していたらね・・・・ 永年に分かりません。 原因的存在である神様に目を向けないで、何が善だ何 が悪だと言ってみても所詮意味がないのです。 神様は実在するかしないかなのです。 あなたが信じる信じないの前にです・・・!! しかし、それを信じるのはあたなの責任分担です。 あなた次第なのですね。 それでは、今日はこの辺で・・・

noname#15238
質問者

お礼

ご回答者様と私では、根本的に違つているのですが、ご回答の内容には、驚くほどのシンパシーを感じます。 私は神に付いては、あまり話したくないのですが、神に触れなければこのアドバイスのお礼にならないような気がしますので少しだけ。 二つに一つ、その通りです、絶対です。 問題は、「始まりがあったのか、無かったのか」の二つに一つです。始まりがあれば神は実在しますが、始まりが無ければ、私たちはただ目的を探す無為な存在です。 誤解しないで下さい、私は神を信じる方を、羨ましく思っても批判などしません、ある人が、神を信じているか否かを本質的問題にしていないということです。 逆に申せば、神を信じる方にとって、神を信じない私のような存在はじゃまなのでしょうか、そんなことは無いですよね(笑。 お礼の内容には自信なし、有難うございました。

  • mondo04
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.2

>「生産と消費」に関して、何を作り出し、何をなくすことが出来るのか、「本当の事を教えてください」 非常に難しい問題ですが、「本当の事」を私なりに考えてみましょう。 それは、貴兄の >物質に対する観念的な欲望の、生産消費があるのかもしれません、 と暗示されているところの「観念的な欲望」がヒントになると考えます。 私たちは物を生産し消費します。 そして、その物には必ず価値があります。 価値とは何でしょう? 思うにそれは、存在性、優越性、利益性、利便性、快適性など刺激的な快感をもたらす物の性質でしょう。それらの快感物象性は消費によって表れます。 さらにその快感物は、実験や試行での失敗錯誤をつうじて発明、改革、改良され、忍耐努力での勤勉励行や緊張疲労の労働行為で生産されます。即ち快感物の生産には不快感となる行為が不可欠とされるのです。 したがって、価値物とは不快感と快感の合成で成り立っていることになります。 私たちはその合成体から快感性だけを取り出(消費)して価値と呼んでいるに過ぎません。 問題は、私たちの快感と不快感(喜怒哀楽)が観念で表れていることです。 その観念とは、優劣損得を思考判断する合理能力としての価値観です。 私たちは価値観によって自他の間に物事をとおして快感と不快感をつくりだしています。 しかも価値観は相対的ですから、価値物や価値行為のもたらす快・不快も相対的であることになります。相対的な快感はその相対性によって快感欲望を刺激するでしょう。なぜなら、自己の存在性は他者の価値を優越することで表れるのだからです。 こうして、より大きな快感が際限なく欲望され、それを満たすためにより刺激的な価値物が生産されて消費されることになると考えます。 >「生産と消費」に関して、何を作り出し、何をなくすことが出来るのか 上記の考え方からすれば、基本的に価値物は自然物を人工物に変えることで作り出されます。つまり、私たちは原理的に自然を破壊することで快感を作り出していると結論することになります。 独断と偏見に満ちた「本当の事」です。

noname#15238
質問者

お礼

いつもお世話になります。 感覚のいい加減さには、我事ながらあきれます。 ここニ・三日の寒さが身に応えますが、ほんの2ヶ月前は、今ぐらいの気温に暖かいと感じていたはずです。 人間に絶対温度が感じられないように、絶対的価値は感じることも、認識することもできないのでしょう。 そういえば、「ゆでガエル」理屈、誰か実験した人いるのかしら、ぎもんだなぁ~ 人に自然を破壊する力があるのか、これも疑問にしておきましょう(笑。 有難うございました。

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    経済学でか「価値」をどのように定義していますか? 古典派経済学ではある財やサービスを生産するために投入された労働が価値を決める(労働価値)だとか、マルクス経済学では財やサービスを使用したときに得られる満足感が価値を決める(使用価値)、ある商品の使用価値がその他の商品の使用価値と交換される場合の比率が価値を決める(使用価値)と言っていた気がします。しかしどれも需要サイドや供給サイドからしか議論していない不十分な説明であり、19世紀の終わりに物理学者たちが財やサービスを追加的に1単位消費したときに得られる紅葉、すなわち限界効用という概念を導入して経済学を構築し直したと聞きました。つまり、新古典派経済学では人間が主観的に感じる限界的な効用のことを「価値」と呼んでいるのですか?また需要曲線はこの限界効用理論から導出されており、需要曲線と供給曲線の交点で財やサービスの量と価格が均衡することになっていると思いますが、敷衍するとこの価格のことを「価値」と呼んでいるのですか?(実際、貨幣は価値の尺度であるという言葉があると思います。貨幣は価格を表しているので、価格が価値なのでしょうか?)しかし、現実には貨幣の供給量などによって物価は大きく変わるため、財やサービスの価格もその時の経済状況によって変動します。モノは同じなのに他の条件によって価値が変わってしまうことに違和感があります。加えて、マクロ経済学のでは初期にGDPを付加価値の合計だと定義していますが、ここでいう価値の定義もあやふやだと思っています。 経済学では「価値」をどこでどう定義しているのか教えていただきたいです。

  • 「畠山の爽快講義」は付加価値の説明が変です。

    「畠山のスパッとわかる政治・経済爽快講義」という政経参考書の166pにある説明は間違いではないでしょうか? 166pでは、付加価値の説明がなされているのですが、示されている計算の例では最終消費財価格と付加価値の総計が一致しません。 理由は、国内で生産されているはずの肥料や電気などの価格が付加価値から引かれてしまっているからです。 確かに中間生産物の額を引くのは当然なのですが、電気代や肥料代は、この例ではもともと販売額として総生産額を出す計算の式に組み込まれていなかったので、これを突然引いてしまうと、その分は国内では生産していない事になり、結果が小さくなってしまうのです。 この例では、最終消費財の価格が1500円のパンでした。 仮にこの国では一年に1500円分のパンしか生産されないのでしたら、国内総付加価値=GDPは1500円となるはずなのに、そこでは1350円になってしまっていました。 私の考えの方に誤謬があるのでしょうか? 皆さんはどうお考えになりますか?