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価値の哲学 ふたたび空気について

お世話になります。 過去の私の質問へのご回答をあれこれ調べても、袋小路のようで、我ながら進歩が有りません。 もう一度、空気の価値について質問させていただきます。 ここでは、空気を取り上げますが、いわば、生命としての人間にとって、自然全体つまり不可欠な対象の「代表」といった意味合いで使用します。 1)ある人は言います、価値とは、主体にとっての欲求対象の、妨害による距離の程度に由来する、主体にも客体にも属さない「第3の何か」である。 2)他の人はこう言います、価値は主体の欲求をみたす、客体の性能と、つまり、価値は客体の側にある。 3)私は言ってしまった、価値は主観の内にある感情と。 4)カントは、存在は事物の性質ではないと強調した。 空気の価値について考えると、1)に基づけば、空気に価値は有りません。2)では、どちらも可能のようです、空気を欲求するかどうかが問題になりそうですが、4)とは矛盾します。3)感情的に空気を欲求することはなさそうです、首を締められた時は本能的な反応で、価値は無くしたときに強く現れる良い例ですが、空気に価値があるかどうか考える場合、当てになりません。 4)難解ですね、これはきっとそうなのでしょう。 それこそ、訳の解らぬ「難解」な質問ですが、「空気の価値」から出発して、価値を、主体・客体・第3の何か、のいずれか、ご意見いただけませんでしょうか? とくに、「第3の何か」については、「何か」についてのヒントでも有れば助かります。 此処での価値は、経済的価値とか社会的価値とか形容詞のついたものではなく、単なる「価値」で、社会科学・自然科学の区別もしておりません。 我儘な質問で申し訳ありませんが、不出来な部分は補足で対応させていただきます。

noname#15238
noname#15238

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

何度もすみませんね。これで最後にしますので・・・ > welovekobeさんの仰る愛は、勿論「博愛」の事ですよね。 ということですが、博愛主義というのは、人間から 出発していますが、私の言う愛は、「神様の真の愛」です。 神様が本来人間に相続させたかった「真の愛」です。 > ぶっちゃけた話、価値が、物に有るのか、評価する側にあるのか、 > 中間のどこかにあるのか、それとも何処にもないのか、 > 「空気の価値」を通して考察できないかという事です。 何度もくどいようですが、「物」とあなたがおっしゃる 時、その「物」には、大抵は、創造目的がありますよね。 「カバン」だって、作った人には目的があるわけです。 ですから、潜在的価値があるんですね。 花だって、神様が創造されたのなら、そりゃ目的が あるだろうから、潜在的価値があるんですね。 しかし、そのカバンの所有者がどのように評価するかで、 現実的な価値が決定するのです。 どのような目的で使用するかによって価値の度合いが 変わります。量・質に差異が生じるのです。 主体の目的が問題なのですね。 目的を中心として、主体と対象が授受作用したときに 価値が発生するのです。 ですから、価値は主体の側だけにあるのでもなく、 客体の側にだけあるのでもなく、主体と対象(客体)が 相対的関係を以って、「授受作用」したときに、 はじめて、"価値付け"という「評価作用」がなされるのです。現実的な「価値」が発生するのです。 「授受作用」がすべての存在の根本原理なのですね。 これで終わります。 乱筆・乱文ございましたら、お許しを・・・

noname#15238
質問者

お礼

こちらこそ何度もすみません。 折角、神の愛に付いて教えていただいているのにさっぱり理解できずに。 私は、此処の質問・ご回答・お礼文等を通して自分の考えを整理しています、たとえば、今回のご回答では カバンを作った人の目的は、作られたカバンに付着していくのだろうか。 「授受作用」で「現実的な価値」が発生するのか、そうではなく「授受作用」とは、逆に価値の消費ではないだろうかとか。 いろいろ考えるヒントを頂き感謝しています。 今回の質問は、文字制限に引っかかりました、前提的な説明に手間取り、最も困っている、3)でひとまず価値を理解したような気がしたのですが、1)の反撃に防戦一方、救いは、空気に価値が有る「べし」、と言うような私の現状まで伝えられなかったことが残念です。 気が向きましたら又どこかでお願いします。

その他の回答 (5)

回答No.5

主体を自分とし、空気を客体とし、そこに第3の何か関係しているとして、 ここでは、仮に第3の何かを主体としてみます。 1)に基くと、空気か自分のどちらかには価値があります。しかしもし第3の何かが、自分を客体と捉えていたなら、未知の存在である空気に価値があるということになります。 もしかすると、空気の研究でもするかもしれません。 2)に基いて、主体の欲求をみたす客体の性能と客体の側にあるのだから、空気も自分も価値があります。仮に客体対象を変えたとしてもこの世界のすべての存在に価値がある!ということになります。 もしかすると、全てのものは尊いのかもしれません。 3)ならば、第3の何か自体に価値がある。ある人がいった定義(1)と同じです。しかしこの第3の何かの感情とはなんでしょうか?それはつまり神の愛でしょうか?それなら、なんと言っても神の愛ですから、 もしかすると、空気にも神の愛が宿っているかもしれませんよ? 4)は、存在は物事の性質ではないということですが、第3の何かから見れば、当たり前だと思います。 性質を決めるなら、決めた枠の中に納まる対象が必要ですが、もともと枠の中にいない第3の何かにとっては、いい迷惑です。 つまり何が言いたいのかといえば、 第3の何かの在価値=自分の価値=空気の存在価値 ではないか?ということです。

noname#15238
質問者

お礼

うわ~これは困った。 とりあえず、難解な「第3の何か」注目いただき感謝いたします。それにしても難解なご回答、得意の時間切れも使えません。 「第3の何か」の説明不足でしょうか。 価値は、客体と主体の間に現れる「第3のカテゴリー」例えば、真・善・美の様に実在しない理念のようなものと言うことですが、「カテゴリー」と言う言葉を無造作に使いたくなかつたのです、私自身良く解らないのが本当の所です。 ぶっちゃけた話、価値が、物に有るのか、評価する側にあるのか、中間のどこかにあるのか、それとも何処にもないのか、「空気の価値」を通して考察できないかという事です。誤解が有ったかも知れませんが、有難うございます。

回答No.4

空気について触れていないのでマナー違反かも知れませんね。 空気について述べさせて頂くと、 価値とは2)で貴殿が述べられているように 対象の側にありますが、その対象の中にある本来の 価値を「潜在的価値」と言います。 そして、主体がその対象を主観的評価によって 認めた価値のことを「現実的価値」と言います。3) 「空気」は、潜在的価値があるのです。 つまり、人間や生物等の為に神様が作られたのが、 まさしく「空気」なので、空気には、本来潜在価値が あります。創造目的があるからです。 「空気」がたまたま偶然にこの地球上に発生して、 その結果たまたま生物が誕生したというのなら、 「空気」には、潜在的価値はありません。 結果としての「現実的価値」だけがあります。 「神様の創造目的」を理解しない限り、 「価値論」をどれだけ、吟味しても おそらく完全な答えはでないと思います。 なぜなら、この宇宙は間違い無く神様によって 創造されているからです・・・ あと、愛は、霊界へいけば空気のような存在です。 霊界は愛の世界なので、愛を呼吸して生きていく世界 です。永遠性があります。 その愛をこの地上で肉体のある間に完成させないと ならないので、地上生活が重要なのです。 人間が、もし肉体が朽ち果てて死んで御仕舞いなら、 地上生活には何ら価値がありません。 人間の尊厳性もあり得ません。 本性論になりますが、人間が神様の愛が動機となって 創造されたので、人間の本質は、愛であり、 神様と人間が親子であるというその関係が、 宇宙の根本原理なのです。 だから、「愛」が価値の源泉だと言うのですね。 理由がちゃんとあるのです。 私はなんとなくいい加減に思いつきで御話したことは ありません。得に哲学のカテゴリーではね・・・ しっかり理解して下さいね。あなたなら、理解できる はずですので・・・ それでは、また。 PS 「愛するということは不運である」というのは、 人間が堕落して愛が偽りの愛に変質してしまったからです。 (No.906697 質問:神が悪を創造したのか? )をご参照下さい。

noname#15238
質問者

お礼

>価値とは2)で貴殿が述べられているように すみません、大切なことですから、最初に訂正させていただきます、2)は私の意見では有りません。 空気についてご解答いただき有難うございます「潜在的価値」ですか、私は「価値」に形容詞をつけることには反対ですし、どちらかと言えば「潜在的」と言える原因は人間の認識能力の関係で、空気の存在に「潜在的」性質は無いように思いますが。最初の前提が違いますから、当然の相違でしょうか。 welovekobeさんの仰る愛は、勿論「博愛」の事ですよね、全てを愛することは、だれも愛さないと、同義のような気がします、そうあるべきかも知れませんが。 かく申す私も、価値について、現実と「べし」を良く混同しています。 PS あれ、長すぎません。有難うございます。

回答No.3

まず、価値の定義ですが、「主体(主観)の欲望を満 足させる対象の性質」を価値といいます。 すなわち、ある対象があって、それが主体の欲望や願 いを満たす性質をもったとき、その主体が認めるその 対象の性質を価値といいます。 主体に認められなければ価値とはなりません。 以上のように、価値には、対象の性質と主体の欲望が 必要であり、主体がその対象の性質を認めて評価する こと(主体の「評価作用」といいます。)が必要です。 さらに、主体には、主体的条件と、対象には、対象的 条件が必要です。同じ月を見ても、ある人は悲しく、 またある人は明朗に見えることがありますが、それは、 主体の主観的条件によって、価値の量・質にも、差異 が生じるからです。これを「主観作用」と言いいます。 このように、価値の評価には、主観作用が働きます。 (「感情」といってもいいかも知れませんね。) すなわち、主体的条件と対象的条件が成立して、相対 基準を造成して、「授受作用」が起こって価値が生じ ます。 そして、主観作用の本質が、「感情」である以上、一 番重要なことは、価値の源泉は「愛」だと言うことで す。父母が子供を愛するれば愛するほど、その子供は 美しくみえ、美しく見えれば、さらにまたもっと愛し たくなります。 ですから、愛がなければ本当の価値は現れてきません。 これが、ひょっとしたら、あなたの求めていらっしゃ る第3の何か・・・かも知れませんね。 「万物」はすべて愛する対象として、人間の為に、神 様によって創造されているので、人間に似せて作られ ています。これが対象的条件です。例えば、花の美し さも香りも、人間にとって心地よいものになっていま すので、花に対する神様の創造目的と、人間の花に対 する価値追求欲が、神様の絶対的な愛を基盤として、 授受作用したときには、その花の価値も絶対的となり ます・・・ これ以上話すと1日では終わりませんので、これくらい で終わります。何か参考になればいんですけどね・・・ それでは、また。

noname#15238
質問者

お礼

やっぱり、愛ですか。 愛も価値と同様、よく考えると難解ですね。 愛も価値も、真・善・美も、法則までもが、実在しないが存在する「第3の何か」ですか、う~ん多すぎますね。 空気が出て来ませんが、愛に付いて面白い物を見つけました。 愛すると言うことは不運である。お伽噺の中の人々のように、魔法が解けるまでそれに対してどうすることもできないのだ。 プルースト「失われた時を求めて」 私も価値の魔法が解けませんが、価値を愛しているのではなく、知ることを愛していると、自分では信じています。 いつも有難うございます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

空気の価値ときましたか。 価値にも分類と段階がありますね。 下から上へ、愛する価値、与える価値、教える価値、存在の価値、または、存在し続ける価値 などですね。太陽の恵みや地球や空気は存在の価値ですね。 愛する価値というのは飢渇ですね。ほしいほしいと思うところから相対価値が生まれますね。欲望の価値といってもいいですね。この欲望の価値が経済的価値と等価ですね。与える価値は名の通り与えることにより生まれる価値ですね。キリスト教的奉仕の価値でしょうか。教える価値というのは教育としての価値ですね。その上にあるのが存在の価値ですね。この存在の価値は一般的な欲望の価値、つまり経済的価値に染まった人間には到底理解できないものですね。太陽は毎日さんさんと地球を人々を照らし続けてますが人間に1日あたり10円の日銭は要求しませんね。おまえは悪人だから照らさないとか善人だから照らすなどともいいませんね。空気も同じですね。善人、悪人、動物、植物一切の区別や差別なく誰でも空気は吸えるのですね。これを自然と呼ぼうが神の恩寵と呼ぼうがつまりそういう存在の価値がありまたその恩恵を日々受けているのですね。それに気づくかどうかなんですね。これ、仏教的な悟りの1つなんです。

noname#15238
質問者

お礼

悟りですか 質問の前に「空気の価値」で検索すると、399件も有りました、この質問は400件目になりそうです。「空気の価値」は意外と関心が多いようです。 >下から上へ、 「第3の何か」のヒントですか、それとも、愛する事、与える事、教える事、存在する事、存在し続ける事に評価の光を当てていませんか? 質問し続けることを評価していただいたと「我田引水」これではお礼になりませんが、有難うございました。

回答No.1

価値とは対象にたいする自分の希望です。

noname#15238
質問者

お礼

スピード違反、減点ですね(笑 希望は欲求よりイメージとして弱そうですが、更なる回答を希望してしまいそうです。

noname#15238
質問者

補足

すみません、うっかりお礼の言葉を忘れていました。 補足欄でお礼の補足です、有難うございます。 お土産 おまわりさん、うれしそ~ぅに、キップ切り

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