• ベストアンサー

大昔の出来事はどうやって調べたの?

本屋では歴史の本はよく見かけるし、学校でも日本史や世界史を習ったりしますが、私のような頭の悪い人にはどうやってそんな大昔の出来事を調べたのか疑問に思います。 例えば、魏志倭人伝について書かれた本についても、「そんな大昔の本が何で未だに残っているの?」とか、遺跡についても「そんな大昔の建造物が何で未だに残っているの?」とか考えてしまうのです。 お馬鹿な考えを持つ私には、大昔の本や建造物に対して誰も手を付けずに未だに残っているというのが、どうしても信じられません。 大昔の出来事ってどうやって調べたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.5

人はここ何千年と別にたいした違いはありませんから、今の我々だったら何を残したいと思うかを考えると、わかってきます。 まずはお宝。 書物は、今は量販されて本屋に並んでいますが、昔は紙がまず大変貴重でした。 また書物一冊は基本的には人が手で書いたもの、そして書き写したものでした。 なので、書物自体が、まず大変なお宝でした。 だから、残そうと思ったわけです。俗っぽく考えると、お金になるから子孫に残そうといったところです。今でもお宝は受け継ぎますよね。 また『魏志倭人伝』などは国が命じて作らせるようなものなので、国宝的な感じです。 建物も同じような理由です。 昔の人って何を考えてたんだろう?っていうのはいつの時代も変わらず思うものなので、昔の人が残したものは、それだけで貴重品という扱いをしやすいんです。 ただ、残しておいて、なんでこんなのが造られたんだっけ?というのがわからなくなっていることが多いので今さらながら歴史をさかのぼって研究するわけです。 また、大きな建造物に関しては、壊すのにもお金がかかるのでやらない、ということもあります。 大昔の出来事は、残された書物と建造物などから、本当に書物通りなのか?などを摺合せて、こういった歴史があったんだろうなぁと予測して考えられるものです。 考古学的な視点がないとただの妄想も歴史となってしまいますので、形が残されたものは大事です。 なので、今は大きな建物を建てるときに地面を掘り起こして、歴史的な遺物があるといったん工事が中止されます。 昔を振り返る「歴史」というものがギリシア時代に重要だと考えられるようになって約2500年。 人間は書物と建造物残すということを続けています。

bururutti-2
質問者

お礼

>書物は、今は量販されて本屋に並んでいますが、昔は紙がまず大変貴重でした。 また書物一冊は基本的には人が手で書いたもの、そして書き写したものでした。 なので、書物自体が、まず大変なお宝でした。 昔は紙自体が貴重だったのですか。 どうりで後世に残そうとするわけですね。 >大きな建造物に関しては、壊すのにもお金がかかるのでやらない、ということもあります。 だから誰も建造物を壊そうなどとは思わなかったのか。 誰も手を付けなければ、爆撃さえなければ後世まで残りそうですね。 >昔を振り返る「歴史」というものがギリシア時代に重要だと考えられるようになって約2500年。 人間は書物と建造物残すということを続けています。 そんな大昔から歴史は重要だとされていたのですね。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (4)

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.4

今でも橋なんかに「この橋は我が町が生んだ○○先生が建てられまして・・・」なんて碑文がついていることがありますよね。人間というのはそういう性質を持っているようで、文字を持つ文明では神殿なんかを作ったときに「この神殿を作った偉大な我らが王の名前は・・・」なんてのが残されています。古代エジプトの遺跡に絵文字が残されていますよね。あれです。 しかしああいう文字はもう使われなくなって誰も読めないので、その翻訳をしなければなりません。有名なのがロゼッタストーンで、ある石に刻まれた碑文は、エジプトの絵文字(ヒエログリフ)と民衆文字、ギリシャ文字で残されていたのです。それで、ギリシャ文字は読めますから、そのギリシャ文字の文章から解読してエジプトの絵文字が読めるようになったのです。あとは、他の遺跡に残されている文章を読んで集めれば古代エジプト史というのが分かってくるわけです。 また、魏志倭人伝のようなものは、そこの王朝などが「公式記録」として残すのですね。国家事業として記録をつけておくのです。特に中国王朝の場合は、次の王朝がその前の王朝の歴史を編纂して残すというのが義務になっているそうです。ちなみに今は中華人民共和国が清朝の歴史の編纂作業をしているとか。それでも、その前王朝の歴史編纂事業というのは百年以上かけてやるものだそうで、いやはや悠久の歴史を持つ国はスケールが違います。 日本にも、古事記や日本書紀を始めとした公式記録が残されています。 公式記録にはメリットとデメリットがあります。メリットは、国が公式事業としてやっていることなのでそうそうデタラメなことは書いてないことです。「東日本大震災は、アメリカの地震兵器によって起こされたものだ」なんてのは公式記録では絶対残らないわけです。だから信憑性は高い。 しかし一方、その国によって都合の悪いことはわざと残さなかったり、書き換えたりします。一例を挙げれば、アメリカのケネディ大統領暗殺はどう見てもおかしな点がいっぱいあるのですが、アメリカ政府の公式見解は「オズワルドの単独犯行」ということになっています。日本の歴史の場合も、源頼朝は「落馬して死んじゃった」と公式記録に残っているのですが、鎌倉幕府の開祖が「落馬して死んだ」の一言で済まされているのはあまりに不自然なので「本当にそういう死に方だったんだろうか」という疑問が生まれたりします。 これらの様々な記録は、国家の公式なものから、歴史家(中国の司馬遷、古代ギリシャのヘロトドスが有名です)が記録を残したものなど様々なものがありますが、当然失われたものも数多くあるでしょう。 またそういった新資料や遺跡が発見されることによって歴史が覆ったり教科書が書き換わることはよくあります。有名なのが吉野ケ里遺跡と三内丸山遺跡の発見で、吉野ケ里遺跡の発見は、北九州に大規模な都市があったのが判明したことによって「邪馬台国は畿内にあったのか、九州にあったのか」という論争に大きな一石を投じました。また青森の三内丸山遺跡の発見は、東北に極めて優れた文明があったことの証拠となり、それまで縄文時代は狩猟によって細々と暮らしていました、という教科書の記述が、縄文時代も優れた文明があって交易も活発に行われていましたと180度の転換といっていいくらい変わりました。特に日本の古代史は近年新たな発見が相次いでおり、教科書がどんどん書き換わっています。最近は「聖徳太子って人物が実在していたか怪しいから教科書から削除する」なんて話もあるそうで、授業で聖徳太子についてたっぷり学んだ世代にとっては「ええー!」と驚くばかりです。 遺跡も発見されるものもあれば、失われてしまうものもあります。アフガニスタンのバーミヤンには5世紀頃に作られたといわれる巨大な石仏があったのですが、タリバーンの大ばか者どもによって爆破され、永遠に失われてしまいました。このように、戦争を原因として都市や遺跡が破壊されたり、記録が焼失したりというのは実によくあります。日本では太平洋戦争の戦災によって、江戸時代などに残された資料の多くが焼失してしまいました。戦争は文化の破壊行為であるという証明ですね。

bururutti-2
質問者

お礼

>文字を持つ文明では神殿なんかを作ったときに「この神殿を作った偉大な我らが王の名前は・・・」なんてのが残されています。 なるほど、こういう王の墓などから手がかりを得たりするのか。 >魏志倭人伝のようなものは、そこの王朝などが「公式記録」として残すのですね。 記録を残すというのは、昔から義務付けられたことだったのですね。 でも、千年以上も先まで塵にならずによく残りましたね。 やっぱり厳重に保管していたからなのだろうか? >そういった新資料や遺跡が発見されることによって歴史が覆ったり教科書が書き換わることはよくあります。 やはり教科書の内容も時代とともに変わっていくものなんですね。 「聖徳太子を教科書から削除する」という話には驚きました。 聖徳太子って実在したかどうかも疑わしい存在だったのですね。 >遺跡も発見されるものもあれば、失われてしまうものもあります。アフガニスタンのバーミヤンには5世紀頃に作られたといわれる巨大な石仏があったのですが、タリバーンの大ばか者どもによって爆破され、永遠に失われてしまいました。 やはり失われた遺跡というのも存在するのですね。 貴重な遺跡が失われるというのは悲しいですね。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

ちゃんと やんごとなき施設で代々保管されてきました 空襲で焼けなかったのは不幸中の幸いと言えます 遺跡はむしろ残ってて当たり前 大昔のほうが建築技術は優れていて数千年は耐えられるように作られているから

bururutti-2
質問者

お礼

大事な本ってちゃんと保管して管理してあるのですね。 大昔から重要な本を後世に残そうとしていたのだろうか? 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3298)
回答No.2

遺跡に関しては、忘れましたが書物に関しては写本して残していると思います。 明月記や源氏物語見たいに。 出来事の調べる事に関しては結構難しいらしいです。 書物と発掘で見つけた物で照らし合わせるらしいのですが対外両方出ないらしいです。 例えば、1000年後、発掘してラーメンの器を見つけたて発掘物だけで判断したら今の人たちは、 龍を信仰してたと考えると。 書物だけだと、芸能人など電話帳に載せない人が多いので、 もし、電話帳が残ってたらあの芸能人はあんなに有名なのに電話帳に載せれないほど貧乏なのかと。 書物に関してはは捏造や書かないということはよくありますよ。

bururutti-2
質問者

お礼

やはり大昔の事を調べるのは相当難しいのですね。 そうなると、今のところ有力だと思われている内容も、実は間違いだったって可能性も充分あるわけですね。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mana5867
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.1

ある程度は「魏志倭人伝」等の本だとか 当時描かれていた絵等の歴史的な物から 予想して当時の人はこう考えていたんっだと 予想した物を発表されていますが それは表向きの話 ぶっちゃけ日本史でも世界史でも歴史というのは大抵が捏造されています 歴史書の1ページ目である、猿が人から進化したという話すら捏造です 時の王や皇帝がこういう歴史は残したいけどこういうものは残したいなら、まずいと思う物を消滅させていたりします(建物や歴史的な物を燃やしたり) それは今現在でも変わりません 例えば第2次世界大戦では日本がアメリカを積極的に攻撃したと授業などでは説明される(私の時はそうだった)と思いますが 実際は第2次世界大戦にアメリカの参戦理由を作りたいがために、アメリカが中軸国である日本に貿易をさせないようにさせたため日本人は飢えて死ぬか それとも 勝てる見込みはないだろうと予想されていたにもかかわらずアメリカに開戦するかの要求を突きつけられました 結果は仕方がなくアメリカに開戦しました。 そして日本は戦争に負けました。 そして授業で習う歴史等では日本が積極的にアメリカに攻撃したことにしろといわれて今もそうしてるのです 第2次世界大戦に限らずこういう歴史上の捏造はあちこちあることから大昔であればあるほど捏造の可能性は高いです

bururutti-2
質問者

お礼

大昔の話ってほとんどが捏造だったりするのですね。 やっぱり大昔の事って正確には分からないものなんですね。 だけど、そうすると「捏造された可能性の高い内容を、学校教育で必須で学ぶのは一体何故?」という新たな疑問が生まれてしまいました。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 三国志時代の建造物

    三国志の小説を読んでいるところなんですが、当時の建造物はどんな感じだったのか、とても興味があります。 中国四千年の歴史と言われますが、日本人の私からすると、約二千年前の三国時代でさえ「そんな大昔にこんなに文明が栄えていたのか」と思わずにはいられません。 城や民家など、当時の建造物の資料や遺跡が見られるサイトや本があれば、ぜひ教えて下さい。

  • 邪馬「壱」国

    歴史の番組で、邪馬台国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」ではないかと主張している方がいました。 そのときは特に気にしなかったのですが、 数か月後、別の歴史番組で魏志倭人伝を映した映像を見たとき、「台」の旧字体ってこんな字だったっけ?と思いました。ちなみに書かれていた字体は「邪馬壹國」でした。 親がくずし字の本を持っていたので見せてもらったところ、「壱」の欄に魏志倭人伝に書かれていたのと同じ字体「壹」がありました。 中国語の辞書も調べてみたところ、「壱」の欄にも同じ「壹」の字が載っていました。 邪馬台国は本当に「邪馬壱国」ではなく「邪馬台国」だったのでしょうか? それとも単なる書き間違いか、はたまた別の理由が考えられるのでしょうか?

  • 弥生時代に日本に馬はいましたか?

    昔読んだ考古学の本では、弥生時代の遺跡からは馬の骨は発見されていないとありました。 魏志倭人伝にも牛馬はなしという記述があります。 ところが下のサイトには、縄文時代からの在来種がかなりの種類いたとあります。((6)日本の在来馬) http://ojizoo.jp/habataki/200250-05.html 弥生時代に馬がいたという証拠が見つかっているからだと思いますが、どこの遺跡でしょうか? また、牛についてはどうでしょう。 農耕用には馬よりも牛のほうが便利なのですが。 よろしくお願いします。

  • 日本の考古学の素人向け入門書はありませんか?

    最近原始時代に興味を持ち始めたんですが、日本の旧石器・縄文・弥生・古墳時代に関する素人向けのわかりやすい解説書を探しています。本屋で考古学のコーナーを見たんですが難しそうな本ばかりでした。できればモースや相沢忠洋がこうこうしたといった、これまでの研究史っぽいものを含んだ本が良いんですが、おすすめの本があったら教えてください。考古学でも文献史学でも、それらをおりまぜたものでも構いません。 ちなみに今まで読んだのは(考古学書とはいえませんが)新潮文庫の「発掘捏造」「古代史捏造」と岩波文庫の「魏志倭人伝」だけです。

  • 邪馬台国近畿説での疑問

    近畿説の方は以下の疑問に対しどのような回答を出されているのでしょうか? 魏志倭人伝ベースの話です。 1;帯方軍から一支国まで一万二百里、邪馬台(一)国まで、一万二千里となっています。 2;対馬・壱岐・北九州に代官置いていたとありますが、近畿から安全に行き来出来たのか? 3;日本でしか発掘されない?銅鐸に関して記載ない。 4;出雲/吉備の記載がない。 5;記紀に記載がない。 6;大小(大人/子供or偉いさん・平平?)顔身体に入墨している。他漁労民の風習が書かれている。 7;古事記では顔に入れ墨した人に虐められ、天皇になってから仕返ししたとあり、顔の入れ墨が通常でなかったと思われる。 8;魏志倭人伝ではいずれの版本でも邪馬一国となっているはずなのに、近畿・九州説の大半の本では台国に代えてあります。非常に作為的と思われます。

  • どうして、自国の偉大な歴史を自慢しないのですか?

    私が長年、抱いている疑問について質問したいと思います。 私は、子供の頃から外国に興味があり、特に歴史、それも四大文明に興味がありました。 そして、大学時代には、私の大学の外国人の教授や留学生などと積極的に交際し、その人達から母国の歴史や遺跡の話しについてよく聞いていました。。 その時、よく話しを聞いたのが、ギリシャ人、イタリア人、トルコ人、インド人、中国人などです。 そこで、この人達と付き合って感じた疑問は、「誰も自国の偉大な歴史を自慢しない。」と言うことです。 私の方から積極的に聞けば、自国の歴史や遺跡の話しをしてくれていましたが、こちらから聞かなければ歴史の話しが話題になる事など、まったくありませんでした。 私は、最初、”偉大な歴史を持つ国の人達”は、「我が民族は、半万年の長い歴史を有し・・・」とか「我が民族があれもこれも発明し、惜しげもなく〇〇に教えてやった。」とか 「我が国は〇〇の兄です。」などと自慢するものだと思っていました。 そして、私の疑問はまだまだ続き、どうして、あの人達は、誰も興味も関心なく、そんな話し聞いてもいないのに 「オリンピックはギリシャ人が始めたんですよ!!」などと言ったり、私が「ネパールカレー美味ぇ~」と言ったりすると 「インド人がカレーをネパール人に教えてやったんですぅ!!」などと言ってみたり、「実は中国人が印刷技術を発明したんですけど、知っていましたか?」などと言ったりしないのでしょうか? これらの疑問を抱いて、私なりにその理由を考えてみたんですけど、”偉大な歴史を持つ国々”には、その文明や遺跡を研究する学者などが世界中からやってきます。そして、旅行者も時間と費用をかけて世界中からやってきます。 これらの国では、観光産業は数千億円から一兆円くらいの巨大な産業です。 この事は、つまり、自国に世界中から多くの人達が歴史と遺跡を見に来るということは、その行動自体が、「あなたの国の歴史は文句なしにすばらしい!!」と言っているのと同じです。 世界中の人達が行動によって、その国の歴史のすばらしさを認めているという事です。 ですから、”偉大な歴史を持つ国の人達”は、一々、言葉にして、「我が国は悠久の歴史があり・・・」などと言う:必要はないと言う結論に達しました。 海外経験豊富なみなさん、一体どうなんでしょうか?

  • 邪馬台国に関する私論

    考古学については素人ですが、邪馬台国問題に関心があり、いろんな本で個人的に研究してます。そこで自分なりの考えを披露してみますので、考古学的な考え方におかしいかどうかアドバイスが欲しいです。 長文になりますが、我慢して読んでいただけると幸いです。 まず結論からいうと、邪馬台国は北九州にあったと思うのです。理由は2つあって、一つは近畿地方だとすると魏志倭人伝の記述の仕方が不自然だからです。倭人伝によるとまず帯方郡から出発して狗邪韓国→対馬国→一支国→末慮国→伊都国→奴国と非常に細かくしかもかなり正確に記載されています。距離的にも数キロから数十キロおきにこまめに記述されてます。ところがその先が奴国→投馬国へが「南へ水行二十日」とあり、投馬国→邪馬台国が「南へ水行十日、陸行一月」ときわめておおざっぱで、それだけの長距離または長期間移動したのであれば、当然その間にもたくさんの島や小国があったはすです。それが一切無視されていきなり奴国から邪馬台国の間に投馬国しか記述がないのはいかにも不自然です。帯方郡から奴国(九州北部)まではこまめに書いてあるのに、そこから近畿地方までいきなり数百キロ飛ぶのはおかしいと思います。なぜ九州北部から近畿地方まで一気に記述が飛んでしまうのでしょう。なぜその間にあったはずの国々についての記述がないのでしょう。 それともう一つ疑問なのは、これは単純に私の感覚的な思いですが、人間は目に見える範囲でしか行動できないと思うのです。今は地図もあるしスマホもあるので知らない土地に苦も無く行けて、ナビシステムがあれば苦も無く目的地に行けます。しかし弥生時代のろくな航海術も移動手段もない時代に、どうやって帯方郡から近畿地方に行ったというのでしょうか。魏志倭人伝に倭国の記述があるということは、誰かがそこまで行って再び帯方郡に帰ってきたということです。帯方郡から海を渡って九州に来て、そこから近畿地方まで行って、また同じ距離を戻るなどということが簡単にできたわけはないと思います。その間の食事や寝床はどうしたのでしょう。また道路だって整備されていたわけではありません。船で瀬戸内海を陸を見ながら航海したとしても、方角的に本当に目的地に向かっているのかどうかも分からず、その先に本当に邪馬台国があるのかも分からないのです。要するに目に見えない目的地に向かって、ただ人からの聞き伝えを信じて移動するなどということは不可能だと思うのです。 そう考えると、むしろ奴国から先の魏志倭人伝の距離に関する記述が間違っていて、邪馬台国はやはり九州にあったと考えるのが自然だと思います。南へ水行十日や二十日というのは水行一日や二日の間違いで、もしかしたら陸行一月というのも一日の間違いかもしれません。そう考えて九州地方に邪馬台国があったと考える方が自然だと思います。もちろん魏志倭人伝の記述が間違っていたというのは単なる推測で根拠はないのですが、それにしても倭人伝に記載のあるとおり方角や距離を進めると日本列島を大きく南にはみだしてしまうことを考えると、やはり魏志倭人伝のどこかに記述の誤りがあったはずなのです。 上記以外にも細かい疑問点はあるのですが、こうした理由から私個人としては邪馬台国九州説を取りたいのです。こうした考察の仕方はおかしいでしょうか。ちゃんとした考古学的な考察ではどのように考えるのが正当なのでしょうか。詳しい方からのアドバイスが欲しいです。 よろしくお願いします。

  • 歴史ってどうやってわかったの?

    小学校、中学校、高校で日本史や世界史なとやりますよね それで疑問に思ったのですが教科書やインターネットなどに書かれている歴史の出来事などは本当に起きたことなのですか? 幕末や明治時代以降の内容はそこまで古くないので証拠などもあるのだろう、実際に起きたことだなと考えられます ですが大昔の出来事はそうとは考えられません 例えば大化の改新を行った人やその目的などが教科書には書かれています 大化の改新は645年に起きたと書かれていますがなんで起きた年や目的などが正確にわかるのですか? かなり大昔のことですよね あと有名な武士の家族構成などもです 織田信長の生まれた年や日付までもがインターネットにはあります 教科書などに細かく書かれているという事は細くかけるほどの資料や証拠があるからですよね 幕末や明治時代以降ならその証拠や資料があるのはわかりますが鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません どうやって正確に昔の出来事がわかったのですか?

  • Karl Marx について

    課題でKarl Marxについて調べています。自分の考えだけで煮詰まってしまったので色んな方の意見が聞きたいです。 1)彼が生きている間には、1848年革命等の歴史的にも重要な出来事がありましたが、こういった 出来事がマルクスの思想や考えを形作っていったかもしれないことについてどう思うか。 2)彼自身は、世界で起きていた様々な出来事に影響されていたか。

  • 卑弥呼が亡き後トヨという親族女性が女帝になった理由

    中国の魏志倭人伝に、かれているとおり、 また 日本国の三世紀、当時 邪馬台国とよばれていた日本を支配していたと 歴史の教科書にかならずでてくる女帝 卑弥呼「ヒミコ」ですが。 歴史の本にかかれているとおり、卑弥呼は有能な霊視者で 一生 独身で、夫をもたなかった理由は 何ですか? また、男弟と呼ばれる 男衆が、女帝 卑弥呼の政治を補佐し、日本を平和におさめ統治していたが。 女帝 卑弥呼が死んだあと、女帝でなく、 男王を立てたが、日本国中が あらそいで、 おさまらず。 女帝 卑弥呼の血縁のトヨ「台与」という 女帝を国民が王に えらんだ、 理由は何ですか?