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大昔の出来事はどうやって調べたの?

koiprinの回答

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  • koiprin
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回答No.5

人はここ何千年と別にたいした違いはありませんから、今の我々だったら何を残したいと思うかを考えると、わかってきます。 まずはお宝。 書物は、今は量販されて本屋に並んでいますが、昔は紙がまず大変貴重でした。 また書物一冊は基本的には人が手で書いたもの、そして書き写したものでした。 なので、書物自体が、まず大変なお宝でした。 だから、残そうと思ったわけです。俗っぽく考えると、お金になるから子孫に残そうといったところです。今でもお宝は受け継ぎますよね。 また『魏志倭人伝』などは国が命じて作らせるようなものなので、国宝的な感じです。 建物も同じような理由です。 昔の人って何を考えてたんだろう?っていうのはいつの時代も変わらず思うものなので、昔の人が残したものは、それだけで貴重品という扱いをしやすいんです。 ただ、残しておいて、なんでこんなのが造られたんだっけ?というのがわからなくなっていることが多いので今さらながら歴史をさかのぼって研究するわけです。 また、大きな建造物に関しては、壊すのにもお金がかかるのでやらない、ということもあります。 大昔の出来事は、残された書物と建造物などから、本当に書物通りなのか?などを摺合せて、こういった歴史があったんだろうなぁと予測して考えられるものです。 考古学的な視点がないとただの妄想も歴史となってしまいますので、形が残されたものは大事です。 なので、今は大きな建物を建てるときに地面を掘り起こして、歴史的な遺物があるといったん工事が中止されます。 昔を振り返る「歴史」というものがギリシア時代に重要だと考えられるようになって約2500年。 人間は書物と建造物残すということを続けています。

bururutti-2
質問者

お礼

>書物は、今は量販されて本屋に並んでいますが、昔は紙がまず大変貴重でした。 また書物一冊は基本的には人が手で書いたもの、そして書き写したものでした。 なので、書物自体が、まず大変なお宝でした。 昔は紙自体が貴重だったのですか。 どうりで後世に残そうとするわけですね。 >大きな建造物に関しては、壊すのにもお金がかかるのでやらない、ということもあります。 だから誰も建造物を壊そうなどとは思わなかったのか。 誰も手を付けなければ、爆撃さえなければ後世まで残りそうですね。 >昔を振り返る「歴史」というものがギリシア時代に重要だと考えられるようになって約2500年。 人間は書物と建造物残すということを続けています。 そんな大昔から歴史は重要だとされていたのですね。 回答ありがとうございました。

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