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歴史ってどうやってわかったの?

小学校、中学校、高校で日本史や世界史なとやりますよね それで疑問に思ったのですが教科書やインターネットなどに書かれている歴史の出来事などは本当に起きたことなのですか? 幕末や明治時代以降の内容はそこまで古くないので証拠などもあるのだろう、実際に起きたことだなと考えられます ですが大昔の出来事はそうとは考えられません 例えば大化の改新を行った人やその目的などが教科書には書かれています 大化の改新は645年に起きたと書かれていますがなんで起きた年や目的などが正確にわかるのですか? かなり大昔のことですよね あと有名な武士の家族構成などもです 織田信長の生まれた年や日付までもがインターネットにはあります 教科書などに細かく書かれているという事は細くかけるほどの資料や証拠があるからですよね 幕末や明治時代以降ならその証拠や資料があるのはわかりますが鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません どうやって正確に昔の出来事がわかったのですか?

noname#240273
noname#240273
  • 歴史
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noname#229784
noname#229784
回答No.9

織田信長とかの時代なら、武将同士の手紙などの記録が日付付きで残ってたりするらしい。手紙は日付だけで年は書かない習慣だから、手紙内容に書かれている出来事を他の記録とつきあわせて時代を推定していく。肥後(熊本)細川家とはでっかい蔵に、まだ手をつけられていない手紙類いっぱい。熊本大学の先生がせっせと古文書解読している最中。そういえば、明智光秀の子孫が信長の手紙を独自研究した「本能寺の変の真実」とかも去年、話題となってました。(自分は読んでないですが・・・) 第二次世界大戦で日本の主要都市のほとんどが焼け野原になったけど、京都が紆余曲折で戦火をまぬがれたというのは記録の上からでかそう。 また、特殊な例として。日本に文字記録が残っていない時代、邪馬台国の卑弥呼が登場してたりするのが『三国志』魏志倭人伝。

noname#240273
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回答No.8

遺跡発掘のアルバイトをしたことがあります。 北海道は文字がない文化でしたが、発掘調査でも割と分かるものです。 地層や炭素などでだいたいどの位昔か分かるようです。 細かい年代などはやはり和(日本)人が残した資料と合わせてみているようです。 結構和人とアイヌなどの間の交易の資料は残っているのですよ。 和人はかなり筆まめなのです。 ちなみに日本本土では平安時代から日記ブームがあり、平仮名でも文字が書ける身分の人は何かしら書き残しております。 流石に古事記や日本書紀などはそれらの前のことを取材の上で書かれた物なので眉唾ものですが、それ以降のものは割と信頼出来る物だと思います。

noname#240273
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  • staratras
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回答No.7

>鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません。 それが幸いなことに残っているのです。『鎌倉遺文』(竹内理三編)という全51巻(古文書編42巻、補遺4巻、索引編5巻)もある書籍があります。これは鎌倉時代の古文書(金石文など紙以外に記されたものも含む)を網羅的に集めた史料集で、古文書編には文治元年(1185年)から正慶2年(1333年)までの文書3万5千通が収録されています。網羅的と言っても、この「鎌倉遺文」が出版されたのちに発見されるなどしたため未収録の史料もありますので、鎌倉時代の文書の総数はこれより多いことになります。 このほか、平安時代の史料を集めた『平安遺文』(全11巻)や奈良時代の史料を集めた『寧楽遺文』(3巻)もあります。これらは1次史料をまとめた史料集です。 また1次史料そのものとしては、奈良時代の遺物が収蔵された東大寺の正倉院に古い文書が多数残っていて、その数は断片的なものも含めて1万数千点とされています。これらは、その文書本来の役割のために残されたものではなく、当時は紙が貴重品だったため、不要になった文書の裏を写経所の帳簿として再利用したためたまたま残ったもの(「紙背文書」と呼びます)が大半ですが、理由はさておき日本には約1300年前の戸籍や正税帳(諸国の年間収支の報告書)の一部さえ現物が残っているのです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E9%81%BA%E6%96%87

noname#240273
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  • eroero4649
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回答No.6

世界中どこの国でも、文字を持つ王国はだいたい公式記録というのを残すのですよ。その王様の自己顕示欲なのか、人間の持つ性なのか、人は記録を残して後世に伝えたいという欲望があるのです。 神殿なんかに、「この神殿は凸凹王が〇〇年に建立した。この凸凹王は偉大な王で××年にへっぽこ王国に攻め込んで大勝利し、それを祝ってこの神殿を建てた」なんて記録が刻まれているのです。後に発掘調査してその文字を解読するってわけです。 しかしこういうのは公式記録ですから、その王や国にとって都合の悪いことは削除されていたり書き換えられるということはしばしば起きます。しかし一応国家が公式に記録を残したものだから、一般的には国の公式発表とWikipediaの記事なら国の公式発表のほうが正しいとされるものですよね。 古事記や日本書紀は、日本の大和王朝が作った日本初の公式歴史資料です。だから日本の古代研究の基礎は古事記と日本書紀になります。しかしこれは時の権力者たちの記録ですから、彼らにとって都合が悪い記録は消されたり書き換えられたこともあると思われますね。例えば、出雲王朝は大和王朝に「国譲りをした」と書かれています。「私(出雲大社)を盛大に祀るなら国を(大和王朝に)譲ろう」ということで国が譲られて、出雲大社は今に至るも盛大な神社として祀られているというのがありますが、その「本意」が何を意味するのかについては分かっていません。また古代において「長屋王の乱」というのがあったのですが、この長屋王はかねてから皇位継承権を持つ親王だったのではないかという指摘がありました。しかし公式記録には長屋王とされていたので教科書ではそうなっていたのですが、近年の発掘調査で「長屋親王」と書かれた木簡が見つかって「長屋王の乱の後に書き換えられたのではないか」と話題になりました。しかし「単なる書き間違いかもしれない」という疑問は払拭されていないので、まだ教科書上は長屋王となっています。 時代がもっと下って江戸時代辺りからは、日本人の異常なほどの「筆まめ」が効いているところがあります。なにしろブログってのは英語のブログの次に多いのは日本語らしく、太平洋戦争のときも日本兵がやたらと日記をまめにつけていることにアメリカ軍がびっくりした(敵に情報を与えるので、アメリカ軍では日記をつけることを禁止していました)ほどに日本人は筆まめで、幕末にはある江戸の商人のおじさんが毎日「今日はこんなことがあった。世間じゃこんなことが話題になっている」というのをマメに日記につけていて幕末研究の飼料となっています。 外国では識字率が低かったりして昔の記録がほとんど残っていないような国もあります。アフガニスタン辺りなんてのはそうで、辿れるのは数百年レベルでそれから以前はほとんど分からなくなっています。またパキスタンは四大文明発祥の地でありながら、イスラム教が伝わる以前の歴史について当のパキスタン人自身の関心がどえらく低くて国内研究がほとんどなされておらず、インダス文明の研究はほとんど外国人の手によってなされている、なんてケースもあります。 織田信長の記録については「信長公記」という資料があるのですが、これは太田牛一という人が編纂したものなのですが、太田牛一は信長の秘書だった人で、秘書だったので身近で信長のことを知っていましたし、筆まめでもあったのです。本能寺の変が起きたときに信長が相手は明智光秀の軍勢だと知ったときに「是非もない(しょうがない)」といったという記録が残っているのですが、ほとんどみんな戦死したはずなのになんでそんなのが残っているのかというと、太田牛一が丹念に取材して回って、何十年も経ってから「本能寺の変のときに本能寺にいた元女官」を探し当てたんですね。本能寺の変のとき、女は非戦闘員だからといって逃がされて、明智軍も手を出しませんでした。その元女官が当時の記憶を回想して答えたとあります。それが本当の話なのか、何がしかの脚色が入っているかは確かめようがありません。しかし何十年もかけて取材して書いた人がそこでウソを書く可能性は低いと考えるべきなので、本当の話だろうということになっています。

noname#240273
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noname#224207
noname#224207
回答No.5

>幕末や明治時代以降の内容はそこまで古くないので証拠などもあるのだろう、 どんな物を証拠として考えられますか。 議事録とか当時使われていた書類とか誰かの日記とか、こんなものですか? これを文字史料と呼びます。 大昔の人もいろいろ書いていました。 これをセッセと集めて年代順に整理して出来上がったのが歴史です。 荷札でもメモでも何でも集めます。 荷札などは、誰が何を何時何処の誰に送ったか、ということが解ります。 手紙などは、もっといろいろなことがわかります。 古い旧家と呼ばれるようなお宅の蔵などには、この手のものが沢山しまわれています。 法律などは文書で出されますので、よく残っています。 お役所は必ず引き継ぎますので残っています。 現在は国立図書館などで保管しますが、昔もこのような古い書類を保管する蔵などがありました。 又当時の関係者が自宅に残していることもあります。 お寺などの蔵にも残っています。 これを探し出して集めて行きます。 これが大学などで歴史学者と呼ばれる人達の大事な仕事です。 現在も続けられています。 平家物語とか太平記というのを聞かれたことはありませんか。 昔の人は、大事件があるとその経緯や結果を書き残して子供や周りの人に伝えるということをやりました。 この手のものに文章だけではなく絵で描いたものもあります。 絵巻物などと呼ばれます。 日本の絵巻物は非常に古くからあり、現在のアニメのルーツとも言われています。 >なんで起きた年や目的などが正確にわかるのですか 現在の刑事事件の状況証拠のようなものです。 一つの事柄について書かれた文章を沢山集めて、その上で、目的はこうだっただろうなどと決めていきます。 専門家(歴史学者)が集まって合意すれば、こうだった、ということになります。 >あと有名な武士の家族構成などもです セッセと日記を書いて残していた人がいました。 >織田信長の生まれた年や日付までもがインターネットにはあります 信長については「信公記」という信長の伝記を太田牛一という人が書き残しています。 信長や秀吉に仕えていた人です。 これを基にしたものがネットなどに掲載されています。 >以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません 意外に残っているものです。 博物館などへ行かれると古い書類などがよく展示されています。 昔の人はオレのご先祖はこんなことをやった人だ、ということを非常に大事にしていて子子孫孫伝えていました。 現在でも、新聞などに、昔こんなことがあって自分の親がどうしたとか、こんな人の世話になったとかというコラムが「時代の証言」とか「私の履歴書」などというタイトルで掲載されていませんか。 学校の教科書などは、この歴史学だけではなく考古学の知見も加味して書かれています。 歴史学というのは文書すなわち文字で残されたものを基本としています。 考古学は物を基本としています。 刑事事件で言うと物証ということになります。 物は、太古のものだけではなく、昭和でも明治でも大正でも時代に関係なく調べます。 市販の歴史書などでは、これに更に民俗学の知見も加味して書かれています。 民俗学は文字や物では残り難い、伝統行事や習慣や伝聞(言い伝え)を基にした学問です。 歴史小説というのは、この様な学問的な証拠が無い部分を作家が想像して書いたものです。 作家の想像が入っていますので、教科書などとは違うことがあります。

noname#240273
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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

教科書やインターネットなどに書かれている歴史の出来事など は本当に起きたことなのですか?   ↑ ハイ、一般にはそう理解されています。 大化の改新は645年に起きたと書かれていますがなんで 起きた年や目的などが正確にわかるのですか?     ↑ 古文書などの資料があるわけです。 それは公文書であったり、学者の記録であったり 庶民の日記であったりします。 そういうのが複数出てくれば、信憑性が増す わけです。 しかも、遺跡という物証で裏付けられれば、確証 になります。 かなり大昔のことですよね    ↑ 日本を舐めてはいけません。 世界最古の企業は日本にあり、いまも企業活動を 続けています。 1400年の歴史があります。 金剛組といいます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E7%B5%84 こういうのが日本にはゴロゴロしているのです。 また、長い歴史がある旧家、というのもあります。 そして未だに旧家から新たな資料が発見されたり し続けているのです。 鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません どうやって正確に昔の出来事がわかったのですか?     ↑ それが残っているのです。 原本ではなくて、書き写したのも多いですけどね。 これは日本が比較的平和だったからと言われています。 戦争ばかりやっていた中国では、ろくな資料が残って おらず、日本に残っていたりします。 だから、中国人学者が日本に中国の歴史を研究しに 来日したりしています。

noname#240273
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  • sttak
  • ベストアンサー率40% (2/5)
回答No.3

>鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません   一般人には不要な情報だから開示する必要がないのでしょう。文字が存在するのであればその国が滅亡でもしないかぎり後世まで記録は残り易いはずです。 >どうやって正確に昔の出来事がわかったのですか?   歴史学者が今までの歴史諸説や記録を調査や議論し、これで正解だろうと決めてまとめたものだと”思います”。最近なんか鎌倉幕府の創設が1192年だったのが1185年なんて言われてますし、いまだに調査が続いてるんでしょう。教科書に記載されている内容が本当に正しいのか分かりませんし、不都合な内容は載せないっていうのもあるらしいですよね。「本当は~」なんてタイトルの歴史書もあるので何とも言えません。とりあえず、受験対策なら教科書に記載されている情報を正とすればよさそうです。 >織田信長の生まれた年や日付までもがインターネット   Netの情報をどこまで正しいとするかはあなた次第。不確かな情報でもNetにあると信じる人が多いようですし、流されないようにとだけご忠告させて頂きます。

noname#240273
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  • takuranke
  • ベストアンサー率31% (3923/12455)
回答No.2

>鎌倉時代やそれ以前の時代の資料や証拠がそこまで残ってるとは考えられません 残っています。 紙が普及する前は絹布や木簡で、紙が普及したあとは巻物や本として残っています。 >どうやって正確に昔の出来事がわかったのですか? 残念ながら正確ではないです。 大化の改新は実は無かったという説がありますし、聖徳太子の存在も疑問視している人がいます。 鎌倉幕府の成立年も変更されました。 また記録によっても正反対のことが記載されているもののをあります。 このあたりは、これら以外に記録が無いか捜して比較したり、つじつまの合うほうなどを取上げて定説としていることが多いです。 それと歴史小説の多くは事実を基にしたフィクションです。

noname#240273
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  • tokx367
  • ベストアンサー率10% (40/373)
回答No.1

そりゃぁ、色々記録あるだけ。

noname#240273
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