宗教の必要性と多様性について

このQ&Aのポイント
  • 宗教は人々が生きる上での指針となり、思想信条の自由を持つことが重要です。
  • しかし、宗教には妄信的な側面もあり、バランスを取る必要があります。
  • また、日本の宗教は形骸化しており、進化する宗教が必要とされています。
回答を見る
  • ベストアンサー

宗教は必要か?どんな宗教が?

人間はこの世界・宇宙の真理を悟りきる事は難しいだろうと思う 無理かもしれない しかし人間は生きなければ成らない 自信もなくては思い切った事は出来ない ならば何かを信じて生きる 思想信条と言うものは必要、少なくとも持って良いと思う それが思想信条の自由だと思う。 そこに宗教も在り、また生まれる。世界中に万と言う宗教があり 生きる指針と成っている。 ただ宗教の副作用である妄信的部分も否めない 日本人は宗教が形骸化しているので無宗教でも通るが 超人にでもならないと宗教無しで自信を持って生きるのは難しい。 世界が一つの宗教になればそれに越した事はないが 統一教会の例を見ると難しかろう 自浄作用のある 進化する宗教が生まれないものか とも思う。 それを踏まえて日本の宗教はどう在るべきか? 道徳や倫理も宗教に寄るものも多かった 祭りや神事も宗教のうちだろう この様な宗教バラバラ妄信状態をどうすれば良いか ご意見伺いたい者です。 

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.9

NO3です。 ☆日本人は宗教が形骸化しているので無宗教でも通るが ◇わたしは、そうは考えない。 現代西洋人の目には、日本人は宗教的に映るのだそうです。 日本人は、十分過ぎるほど、宗教的な雰囲気に包まれて、生活していますよ。 仏教や神道が空気のごとく生活の細部にまで行き渡っているので、そのことに気づかないだけですよ。 ☆それを踏まえて日本の宗教はどう在るべきか? ◇今のままでよい。 神仏や人、自然を畏れ敬う、素朴な宗教的心性でよい。 ☆この様な宗教バラバラ妄信状態をどうすれば良いか ご意見伺いたい者です。  ◇ここで言っている宗教とは、組織宗教もしくは教義・ドグマの意味なのでしょう。 そのようなものは、基本的に不要。 神仏や人、自然などを畏れ敬う気持ちがあれば、それで十分なのでは。 人を殺してはいけない、無闇に他の生き物の命を奪ってはいけない、 自然を破壊してはいけない、するときは必要最小限で、しかも自然と共存できる形で、 などなど を、 その素朴な宗教心性から導き出すことができます。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど なるほど そう言われればその通りですねえ 私も宗教に詳しくないので 創価学会とか天理教とかエホバの証人とか ああいう組織宗教をイメージしますが 確かに日本の伝統的宗教的心性がありますねえ しかしどうでしょうか?それが薄れてきてないでしょうか? どうも大変ありがとうございます☆

その他の回答 (10)

回答No.11

日本人は『当然の如く、宗教的に生きています。』日本人である我々は『仕事』を自分よりも大事にして生きています。この自分(自我意識)を優先しない生き方を『宗教的』と表現すると思います。 宗教の目的は『魂の救いです。』この意味は『死によって、或いは生きる事によって、或いは何かを思ったり感じたりする時に、自分が自分になれない、』と感じる場合があります。自分の求めているものが分らなくなる時です。 それが幸福であったり、満足感であったり、生きがいと思う場合も在るかも知れません。或いはこの人生そのものに対する疑問かもしれませんが、兎に角『しっくり来ない事を感じる瞬間です。』 人生そのものを疑ったり、自分自身でさえ疑いを掛ける時の事です。或いは『死の予感の中でもだえ苦しむ場合や、永遠に対する憧れを抱く場合などです。』 自分自身や人生そのものに疑問を抱く場合では、『この世はかりそめの生を生きているのではないだろうか?』という風に感じたりもする場合がありますが、答えは何時も闇の中です。 こう言った解決しそうも無い、問題が意識に昇る時や、真実の世界や、永遠の世界に憧れる時『人間は自分自身の心の矛盾』に悩んでいます。こういった問題に決着をつけるのが『宗教の目的』になっています。 そうして『自分自身の二つある心同士の間で、決着が付く事が、宗教の目的である、魂の救いが完了した暁です。』 その時に始めて『真実の世界が見えて来ます。』真実で永遠の世界が見えると言う意味ですが、人間は往々にして、自我意識の分別作用で『真実の世界を捻じ曲げて見ている場合がある。』と言う意味です。 その捻じ曲げられた世界は、『真実の世界』と交じり合っていますので、境目がありません、従って誰でもが、真実の世界と『仮の作られた虚の世界』を行ったり来たりして生きていますが、誰もその境目が分らないでいます。 真実の世界とは『目の前に展開している現実の世界』ですが、誰しもが『頭の中の計らいや、欲や得や我執と言う自我意識の分別作用を受けて』現実にはない『頭の中だけの仮の世界を形成する場合があります。』 極端な例を先に書いて、後は誰にでもある日常的な、『頭の中だけの仮の世界を形成する場合があります。』の説明をしたいと思います。 極端な例は『三つに集約する事が出来ますが、この三つに分けてみたところで、人間の全体像』と言う観点から考察する場合では、この三つが、同時に作用したり単独に作用したりする場合があると思われますので、必ずしも三つに分ける事には意味が無い場合も在るかも知れませんので、始めにお断りをして置きます。 極端な例は『人間の障害や病気』と言う意味になります、日常的な例では、軽いノイローゼの状態も含まれると言う意味になりますし、失敗する原因やいざこざの原因になっていると言う意味も含んでいます。 『人間の障害や病気』と言う場合、必ず原因があってその結果にそう言った『人間の障害や病気』が発症していますが、今の進んで医学や科学でも『原因が分からない』とされているものです。そうして身体の検査や脳の機能検査でも『異常なし』とされているものです。 一つ目は身体の異常感(違和感)を訴えている『障害』です。身体が疲れ易くなる事や、違和感を意識する部分の機能が鈍くなって感じられる症状群です。過敏性腸症候群や自律神経失調症と呼ばれているものです。 二つ目は『行動に伴う事柄に異常感(違和感)を訴える症状です。自分の行動の自在性が確保出来なくなる『障害です。』行動が出来なくなったり、行動する意欲さえ失ってしまう症状です。人間が行う事全てに関しての訴えがあります。人に会う事が出来なくなる対人恐怖症や、上がる事を訴える上がり症や、身体や手の震えがひどくなる症状を抱えて、機能的に異常が見つからない場合です。ひとまとめにして【神経症】に分類されていたものです。 三つ目は『沸き上がる考えや、沸き上がる感情に』違和感を訴えている障害です。 宗教の目的はこう言った『違和感』の解消を目的にしています。 この違和感をキリスト教的な表現にするなら『罪の意識』=『原罪』、仏教的に表現するなら『業』といっても良いと思います。 是は人間の脳内反応に『過敏に反応している事が原因で』発症しています。この障害の完治する現象を聖書風な表現をする時『神と和解する』と表現します。仏教的に表現するなら『(自らの命の働き)の性を見る』と書いて『見性(成仏)』をすると表現しています。 どちらにしたところで同じ脳内反応を、違う表現形式を採用しているに過ぎません。 そういった脳内反応をする脳の説明です。脳内反応と言う意味は『機能的に違う脳同士での情報交換が、なされている。』と言う意味です。 実際の脳の機能を科学的に研究してその実績が評価されて、ノーベル賞まで貰う事が出来た研究成果です。ウイキペデアからコピーします。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 更にこの記事を補強するために、或る脳科学者が『自分自身の内面から』脳の機能分化の体験を脳卒中の為に『体験せざるを得なくなった』貴重な体験談を語っている動画を載せてみます。 もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この動画の中で語られている内容は、宗教体験です。キリスト者であるなら『神と和解している最中』と言う意味です。或いは禅宗や仏教なら、『仏性』と出会っている最中と言う意味ですが、専門用語を使うなら『見性成仏中』と表現する事も出来ます。 その結果を『神の僕となる』或いは『生死の問題が解決する』と表現する事が出来ます。 人間には元々備わっている働きがあります、赤ん坊が何も学ぶ以前から『知っている働き』ですが、この命そのものの『命の働き』が人間の全人格の『身体にも行動にも心にも』多大な影響を及ぼしています。 この一点を見落としている事が、精神医療の現場で『原因は分かっていませんが、早期治療で早く良くなります。』と言いながら、鬱などの治療で『何十年掛かっても良くならない人達が沢山存在する理由になっています。 軽い障害と言う意味は、簡単な思い違いという意味です、簡単な障害といったところで『車がいないと思っていた』と言う場合では、重大事故に繋がる可能性があります。 自我と言う心が『現在の真実の情報を送る者や送られてくる情報に、欲や得や自我の執着する分別作用で、情報を受け取る時、真実の世界が捻じ曲げられた。』と表現する事が出来ます。 結婚を決断する時などが良い例です。『明日の事など分らない筈なのに、この人と何時までも幸せでいられる。』或いはどんなに苦労をしたとしても、この人と離れたくないと思う時、真実の愛が『先を見通しています。』真実の愛とは『互いの事を何時も、何も掛け値なしの心で見詰め合う事』が出来た時です。 そうなった時、二人は赤い糸で結ばれていたと実感します。幸福な未来が約束されると言う意味です。例え困難が待ち受けていようともです。 その逆に自分の心の声を無視して、欲や得や見得など、分別する心が働いて決断する場合では、苦労の割りには、実りが少なくなる可能性を秘めています。過ぎてみた場合にはっきりと分ります。

回答No.10

 No.9、ねこさんの回答に賛同です。  世界に誇れる日本人の心の特性、神仏や自然を「畏れ敬う」原始的宗教心は、釈尊仏教の基本的精神に違(たが)わないと思います。  “悟り”とは程遠い宗教的世界ではありますが、この地球上に生を受けてしまった“人間”の誰もが持つ“好ましい宗教心”の発露だと思うからです。  今日(本日)のネット上の産経新聞のニュースで、世界の経済の中心が日本になったと報道されていますが、こうした経済上の日本の活動も、その根底には他者を敬う心の存在を感じます。  自分は二の次、おかげさまの心、七年後のオリンピックでのおもてなしの心。  こうした『好ましい日本の心』を世界に広めたいものです。  こうした想いも宗教的精神としたいと思います。

yuniko99
質問者

お礼

基本的には賛同ですが 最近随分他国を差別し悪く言う人も多いです。 ヘイトスピーチ とか言ってましたが 言いかえれば悪口 罵詈雑言ではないでしょうか? 世界の経済の中心ならば それに恥じない日本人であらねばなりませんね どうも大変なりがとうございます。

回答No.8

 回答の中で、水道のシステムを知らなくても蛇口をひねって水を利用することは出来る、といった例えがありましたが、そこから宗教はシステム、信仰は利用者、と思いました。  下水道が完備し、インターネットが普及しているように「宗教」も恩恵を被っている(と思っている)利用者が多数いるから普及し、だから「宗教」を支えているのは「信仰者」であると。  “信仰”する人は多くても、宗教を学ぶ“宗教家”は少ないと思います。  信仰者は喉の渇きを癒したいんですね。  求め心が満たされるなら、なんでもいい、というのが「信仰」にはあると思います。  「信仰」の危ういところです。  そう思うと、確かな宗教を求めるためには学ばなければならないことになりますが、これが大変で。  それならばと、ある時ふと思ったのが、自分の心をよく見つめることで良し悪しを判断しよう、でした。  心は好ましい状態の時は、形容すれば明るく軽く、弾むようでもあります。姿勢でさえシャンと、シャキッと、してきます。  反対に好ましくない状態の時は、暗く重く、姿勢もうつむき加減になってしまいます。  頭の中は自己弁護でいっぱいになります。  こうした自分の心は“実感”なので「信じる」事が出来ます。  だから、好ましい心の世界の象徴である“神様”の根底に自分の好ましいほうの心を置くことにしました。  でも、そのためには自身の「良心」を育てなければならないし、そして自身のそうした心を信じる“勇気”が必要となります。それは信仰の対象である「宗教」の教えを鵜呑みにしないという勇気でもあるからです。  これからの宗教は、各自が自身の好ましい心を信じ、育てる努力をする事で、土台作りをしていきたいものです。  

回答No.7

宗教とは何かを辞書レベルで考え直す事から始めましょう。 結局のところ、思想信条に源泉であり、そこには哲学が大概存在するが、 日本で存在している多くの宗教は、宗教の名に値しない者が多い。 それは、宗教ではなく「宗教観」教育ができていないからです。 上述したように、一定の哲学があり思想があり価値が存在する。 そうであるならば、結局、体験してその価値がどうかを判定するしかない。 実際、釈迦は死ぬまでさまざまな経典を生み出した。しかし、それは、 数々の試行錯誤の結果でもある。ダイエット方法でも結局、 体験してやってみないと分からない。それと同じ事です。 どの宗教もある一定の価値を謳い、幸福をどう求めるかという側面がある。 しかし、そのために真理を知る事が必要かというと必ずしもそうではない。 水道の仕組みや素材の仕様を知らなくても、蛇口をひねれば水が出てくると いう事を把握すれば、誰にでも水道水を利用できるのです。これと同じです。 結局、信頼できるかどうかという事になれば、質問者自身の周囲の信仰者を 見て話して判断すればいいだけの事である。そこに風評は要らない。 最後に一つだけ。日本人の多くは無宗教と言い張る者が多いが、宗教観が 理解できないが故に、実際は未宗教と言えるかもしれない。無宗教なのに、 靖国に行かないと戦没者慰霊ができないというのは、その代表例とも言える。 なんなら、ビフォーアフターみたいにレポートでも作ってみたら?

yuniko99
質問者

お礼

日本人に「哲学」とか「宗教」とか言うと「え~~~」と言う人が多いですね 考える習慣がないのかなあ?知識はあっても哲学はない? 宗教も妄信のような人が多いように思います。 勿論宗教を持つ人には多くの立派な人もいますが。 出来れば理解して使いたいですね 水道も凍るような時は少しだけ出しておくとか ありますからねえ どうもありがとうございます。

  • enylle
  • ベストアンサー率15% (61/391)
回答No.6

無宗教。 宗教無しで生きている人がいる以上、必要なものではない。

yuniko99
質問者

お礼

僕も無宗教です 親も無宗教です ただ宗教無しでもいいけど 有りでもいいのかなと思って質問しました どうもありがとうございます。

noname#215306
noname#215306
回答No.5

確かな霊能だけではダメで、しかもそれすらない人達の 集まりの宗教というのはそもそも不要かと ここでもご託の粘土こねこねしてる人達いますが?、、 でも見ててもなにも進歩も向上も、その可能性すら感じ られない、、というか真理という物を実は、知りたい訳 ではなく、ご託こねこねして楽しんでいたいだけ、と認 めた人もいたし? イギリスなどで資格・技能として認められた東洋医学の ように、秘教的な治療・改善そして教育としても人格変 容の為の取り組みでも始まらないと、犠牲を払いつつも 遅々として進まない未来を送る事になるのではないです かね? 人類がいつまで存続するかは知りませんが・・・

yuniko99
質問者

お礼

宗教の仕事になるか政治・教育の仕事になるか分かりませんが 人間として恥ずかしくない 目的とルール在る人間社会を作らなければなりません 霊能と言うものがどう言うものかは分かりませんが 人類は永遠を 目指すものだと思います どうもありがとうございます。

noname#186640
noname#186640
回答No.4

これからの宗教について。 御利益を期待してはならない。 平和的活動にまいしんすべきである。 この世には陰と陽があることをわきまえ 不足すなわち十全であることを知らなけ ればならない。 ちなみに、わたしは神社の鳥居をくぐっても 賽銭などしません。うしろめたさもないです。 拝殿に向かっても、短く言うだけです。 「元気でしたか?わたしも元気です。」 「さびしくなったら、いつでも呼んでね。」 たとえ神がバチをあてたとしても、恐れる ことはありません。神はもうひとりの わ・た・し・だから。

yuniko99
質問者

お礼

神は我々の心の中にいるのでしょうねえ 神は自分だと言うのは言い得て妙だと思います どうも大変ありがとうございます。

回答No.3

いえいえ、 《バカの飲み薬》!! https://www.youtube.com/watch?v=Qt7fbwHa218 ~~~~~~ 残念無念な脳みそに 終身無能な脳みそに すこぶる効くらしい ただ副作用は三倍返し バカの飲み薬~♪ ~~~~~~ でございます。 中毒になりますと、 日常生活に支障をきたします。 そこから抜けられなくなります。 そして、また、 その苦しさを忘れるために、 《バカの飲み薬》を飲みつづけ、 醒めては三倍返しの副作用に苦しみ、 「ほれ、もう一杯♪」 となります。 宗教とは、所詮、過酷な現実からの逃避のために、人間が作ったものです。 ということで。

yuniko99
質問者

お礼

確かにそう言う面もありますねえ 宗教など持たずに 自由に副作用のない人生を歩む訳ですね どうもありがとうございます 端的な意見ですね。

noname#186407
noname#186407
回答No.2

あなたは、今いろんなことを勉強しているのですね。 宗教についても考えるのはとてもいいことだと思います。 しかし、あなたの質問内容を読んでみると、あることに気がつきます。 それは、一つの疑問に対して答えを簡単に決め付けているのですね。 例えば、「超人にでもならないと宗教無しで自信を持って生きるのは難しい」ですが、そんなことはありませんよ。私は仏教、キリスト教、神道を勉強してきましたが、未だに無宗教です。 それは不思議なことではないのです。勉強はしてますが、今までに自分の人生経験で積み重ねてきた考えで生きていけるのです。だから、特別な宗教は必要としていません。だからといって私は超人ではありません。普通の人間です。 そのような人はとても多いのです。 もちろん宗教が必要な人もおりますが、必要とせずに生きていく人もいるのです。

yuniko99
質問者

お礼

多くの人が色んな宗教から学んで 捉われずに自信を持ち 智恵ある判断で生きて行けるといいですね 成る程どうもありがとうございます。

回答No.1

宗教とは、自己チューなまま社会化(分業化による助け合い)するために派生した、アメ(お金、出世)とムチ(法規、モラル)の一種である(アメ=御利益、ムチ=天罰)。 つまり“馬鹿につける薬”。 いつまで馬鹿でいるつもりか分からないけど、自己存在の本質に根差した喜び(=自我仮説の相補としての宇宙(他我)×自己の社会生命性の自覚化(愛)による自律的生)において生きられるぐらい、認識を深めたいものだ。

yuniko99
質問者

お礼

認識の深い宗教?宗教は要らない? どっち? どうもありがとうございます。

関連するQ&A

  • 宗教が戦争を生むのか

    閲覧ありがとうございます。 私が現在、26年間生きてきて、物心ついてからいままで、世界で戦争が止んだことがありませんでした。 小さなころ、ベルリンの壁のニュースを聞き、戦争を不思議に思ったものです。 でも高校などで世界史を勉強して、あらゆる時代・場所で人間の争いがありました。26年なんてものじゃない。 そして、私が出した答えが題のとおりです。 人が争いを止められないのは、その中に変えがたいお互いの真理が根ざしている、つまりは思想信条が関係していると思います。 日本には八百万の神々への信仰、先祖信仰など昔から信仰があり、例えば元日は初詣に行き、葬式は僧侶に来てもらうなど、よく考えればちぐはぐなことですが「普通」と捉えられます。 しかしキリスト教や仏教(日本で広まっている主な宗教と考えあげています)のように、「宗教」に対しての偏見が強いです。 なぜ善い部分は認め合い、取り入れて生きられないのか。 こんな狭い日本でさえ。 悲しくなります…。 政治家が堂々と犯罪を犯す。 それに目を向けている人は何割か。 マスメディアは世の中を、流行を、思考を「洗脳」していることを、気付いているのか。 どう生きたいか。 何をもって、善か悪かを判断するのか。それが信仰によるのではないか。 こんなこと、話題にするのは「重い」と煙たがられる世の中。 哲学を嫌煙するのが今の世の中…というか私たち若い世代です。 ストライキだらけだったろうが、昭和の日本はまだ人間が「生きていた」のでしょう。 宗教とは何なのか。 今、日本人に必要なものは何なのか。 私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。

  • 多くの宗教は素晴らしい教えなのに、どうして信者は戦争や犯罪を犯してしまうのでしょうか??

    こんにちは。 世界三大(四大)宗教は勿論、新興宗教も信条として掲げている事は、倫理的、道徳的で素晴らしい事に思えます。 しかし、何故その素晴らしい教えの信者によって、戦争が起きたり、テロが起きたりするのか疑問です。 私にも身近な新興宗教も、標榜している信条は素晴らしいのに、何故その信者は強引に勧誘したり、財産を巻き上げたりする事が多いのか、理解に苦しみます。 どうして多くの宗教の信条は素晴らしいのに、信者は戦争や犯罪を犯してしまうのでしょうか。 皆さまの考えを伺いたいです。

  • 宗教家、宗教の信者の方の意見を聞かせてください

    実は、別カテで別の題名で同じ質問をしたのですが、 もう1回させて頂きます。 日本共産党は思想、信条の自由を認め、宗教者であっても入党を認めていますが、 逆に、宗教団体の方は実際のところ、どうなんでしょうか? 共産党の支持者、党員が入信というか、信仰したいと言ってきた場合、 どう対応するんでしょうか? 断りますか、許可しますか? 実は、私は、共産党、共産主義に興味があるし、仏教にも興味があり、 両方、信仰というか、自分の思想として信奉したいと思っています。 こういう形態はありですか?

  • 宗教の必要性

    特に宗教に入っているわけでも、神様とかも信じていないですが、最近になって宗教は人間には必要なのかもと思う事があります。 日本人って自殺が多いですが、それって宗教が無いからなのかなあとかも思います。 宗教や神を信じている人は死ぬまで神が助けてくれると信じながら死ぬと思うんですが、宗教や神を信じていない人は基本的には自分が一番信じられる存在だと思うんです。 それで自分ではどうしようも出来ない事等に遭遇した時や状況に陥った時に絶望しておかしくなったらり、自殺を選んでしまうのかなと。 もちろん宗教に入っている人が自殺しないとは限らないですけど。 だから最近は宗教は死ぬまで希望や望みを持たせるためのものなのかなと思っています。 皆さんはどう思いますか?

  • 宗教てなんですか? 信じる・信じない・必要とする・必要としない・・・

    イスラム・キリスト・仏教・ヒンズー・・・ ETCと世の中にはたくさん宗教がありますが、人は何故、宗教を信じるのでしょうか?または、何故必要とするのでしょうか?漠然とした質問ですみません。宗教をさほど重要な位置付けにしない日本人もいれば、他国のように宗教のことで争ったりしてる人たちも居ます。 何故これほどまで宗教に対しての意識の違いが起きるのでしょうか? 人が亡くなれば寺等で葬式はしますが、自分の家が日蓮宗だから日蓮宗のお寺で・・みたいな流れで代々から継がれて与えられてるから・・・与えられてる宗教で・・・という感じの認識で行ってると思います。 だけどそれは、外国の人たちのような宗教観とは違うものだと思うのですが・・・ 他国からは日本のような宗教観を持った人たちのことをアミニズムというそうですが、、、未熟な宗教観とはどういう意味でしょうか? そもそも宗教観に未熟てあるんでしょうか? イスラムもキリストもユダヤもヒンズーもどれもみんな肯定も否定もする気もないのですが、、そんなに目くじらててこっちの宗教が本物だ!みたいな事を言い合う理由が分かりません。 だんだん混乱してきました。 人間にとって一体、宗教て何ですか??

  • 宗教カテの必要性

    只今、質問に対する回答を仕上げ、回答しようと思ったらタッチの差で締め切られました。 そろそろ締切時だと思ったので、大急ぎで仕上げたのに、間に合いませんでした。 悔しいので、回答文を急遽質問文のベースとし、その私の「回答案」に対するコメントを伺います。 回答しようとした質問は、 やはり宗教カテは残すべきであった http://okwave.jp/qa/q8625821.html 私はNo.11回答者で、2回目の回答を試みました。 以下、私の回答しようとした原稿です。 この回答案に対し、皆様のコメントをお願いします。 長文ですがお付き合いください。 改めて質問と回答・お礼の全文を読んでみましたが、どうも、少し質問の趣旨とはずれてきているようですね。 ご質問は、このサイトに「宗教」サイトが必要かどうかを問うものですよね。 そのためには、先ず第一に、人間社会の中で、「宗教」と言う話題が、どの程度重要で、どの程度人々の間で話題になりうるか、仮に表立ってface to faceの話題にならないとしても、そのことをネットなどの場も含めた多くの場で語り合いたいニーズがどのくらいあるか、と言うことだと思いますので、以下で検討します。 もしそのニーズがそれなりにあるのなら、当然それにふさわしいカテゴリーが設けられるべきであり、それを他の理由で設けないのであれば、管理人の怠慢と言われても仕方がないと思います。 勿論、その名前のカテがなくても投稿することは可能でしょうが、投稿の度にどのカテで投稿すればよいか迷うのであれば、単純に考えてサービスが不完全ではないでしょうか? ≪「宗教」の重要性と話題にしたいニーズの多寡について≫ 1. 宗教の目的としては、(1)人類の救済、(2)よりよく生きる意味の追求などが挙げられるようです。これはまさに、人類や一人一人の人間の人生の最大の目標であり、関心を持たずにはいられないテーマだと思います。勿論、世の中には宗教によらずとも、(1)と(2)を達成することが出来るという考えもありますが、有力な選択肢として、古今東西の人間が考え続けてきた「宗教」について考えることは、有意義なことだと思います。 2. キリスト教には十戒がありますが、仏教にも五戒があり、それらは時代や国家を超えて、普遍的な教えです。(下記ご参照) http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto03.htm 又、キリスト教の最大の教えは「(隣人)愛」ですが、仏教も「慈悲」を重要視します。 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto09.htm イスラム教の教えも本来は同様であり、世界中のどの宗教(一部の邪教やカルトは除く)をとっても、人間にプラスになる重要な教えです。 3.勿論、宗教戦争や、宗教の名を借りた世界制覇、宗教の意に反した人間の弾劾、宗教法人が税金がかからないことによる私服のこやし、ぼったくり、政教癒着・・・等々、数え上げるとキリのないほど、宗教が原因のトラブルも発生したのは承知していますが、それらは、「副作用」とでも言うものであり、宗教の功と罪を比較すれば、それでもやはり、功>罪だと思われます。なぜかといえば、神仏に対する「信仰心」と言うものが、人類史上どれほど、人間のモティベーションを上げ、不可能を可能としてきたか、計り知れないと考えるからです。 4.日本では、経済・政治・法律・科学技術・文化芸術・社会生活と宗教は別ものと思われており、宗教と接するのは、葬式や結婚式、初詣、クリスマスなどというごくわずかな機会かもしれませんが、日本以外のたいていの国では、経済・政治・法律・・・社会生活を、まるごとひっくるめたものが「宗教」であり、「宗教」を踏まえないで、グローバル社会でビジネスをしようなんて、向こうみずもはなはだしい。 ・・・と最近のベストセラー、『世界は宗教で動いている』(橋爪大三郎著、光文社新書)は前書きで述べています。同趣旨で書かれた本には、他に同著者による『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)と『ふしぎなキリスト教』(大澤真幸との共著、講談社現代新書)や佐藤優著『サバイバル宗教論』(文春文庫)があります。 ≪「宗教」カテの必要性について≫ 1.上記の通り、宗教を話題にするニーズ、必要性は大変高いと思いますので、「宗教」について投稿したいユーザーを「迷子」にしないために、「宗教」カテは必要だと思います。 2.普段の社会生活の中で、政治や宗教について、話題にするのがはばかられる日本社会では、尚更、ネットで扱うニーズは高いと思います。 3.仏教もキリスト教も多くの宗派に分かれており、それぞれにQ&Aサイトがないことはないが、全体を横断したQ&Aサイトはほとんどない(検索しても出てこない)ので、是非このサイトで気軽に質問/回答出来るようにしてほしい。 4.「宗教」カテが荒れないためには、自分の信仰や信条を頑なに信じる余り、他者や他宗教信者などに不寛容になったり、誹謗中傷をしたりする投稿者を、うまくコントロースする必要があると思われますが、 その一案としては、前の質問に対しrasenkaidanさんがNo.21で言われた通り、それぞれの宗教別にだったら、あってもいいと思います。そうすれば、宗教全般のカテで、各宗教の信者や宗教には敬意を持っているが特定宗教信者にはなりたくない人(いわゆる「無宗教者」)や宗教否定者などが入り乱れて、乱闘を繰り広げる余地が少なくなり、それぞれの宗教についての質疑に収束されると考えられるからです。 勿論、このサイトの目的は、「疑問点を質問し、分かる人に回答してもらう」ことであり、「自分の考えが正しいのかを人々に知らしめる」ことではありません。それはもう一度、質問者や回答者には確認してもらう必要はありますね。 ≪哲学と宗教の関係について≫ 全然別のものであり、厳密に区別する必要があるという意見も理解できますが、まあ、両方とも「人生を如何によりよくするか」を探求するためのものであり、親戚関係にあるテーマだと思いますので、 せめて、「哲学・宗教」というように、「宗教」を併記するようにしてほしいと思います。                                                     以上

  • 宗教について教えて下さい。

    宗教について教えて下さい。 世界中には様々な宗教がありますよね、 なんで人間には宗教が必要なんでしょうか? 一応、我が家も一般的な宗派はありますが、 個人的には「無宗教」です。 宗教を否定してるわけではなく、 人にはなぜ宗教が必要なんでしょうか? たまにかんたんな宗教の教えの本とか読むと「なるほど~、うまいこというなぁ~」とか「おもしろいなぁ~」とか思うのですが、 私の印象としては「人が人としての道」の様なものを、はずさずに生きてくよう、 教えてる印象があります。 しかし、昔に宗教のせいで起きた戦争がありましたよね。 宗教というものがよく分からないから私は「無宗教」なのかもしれません。 分かりやすく説明すると、「宗教」とはなんでしょうか? そして世界中には様々な宗教が存在してますよね。 皆、同じ人間なのに、生まれた国、または家柄で宗派が変わってきます。生き方まで変えてしまいます。 決して否定してる訳ではなく、 皆、同じ人間なのに、なぜ世界中、または日本だけでも沢山の宗教が存在するのでしょうか? 「人、皆、それぞれ」だけではなく、遺伝子的に生まれた時から絶対的な「何か」を本能的に必要としているのでしょうか? デリケートな内容の質問ではありますが、ずっーーーーーと疑問に思っていました。 何かの宗派の方でも、無宗教の方でも、どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m。

  • 儒教を宗教とみなせる【肯定意見求む】

    今日、「儒教を宗教とみなせるかどうか」という議論が行われています。 否定意見、すなわち「儒教は宗教ではなく、一思想だ」という立場の方は、 「儒教を宗教として扱った場合、教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている。何よりも、神の存在を完全に否定している事から、宗教として扱われる思想ではない」(引用:Wikipedia) ということを専ら主張しているみたいです。 そこで、肯定派「儒教は宗教とみなしてよい」と考える方の意見が聞きたいです。どなたか考えがある方、よろしくお願いします。

  • 宗教団体の思想について

    全人類の「結果平等」を目指し、そのために世界を滅ぼそうという思想の宗教や宗教団体はありますか? つまり死や滅亡という「結果」を全てのものに終局的に実現させる事によって平等を確保しようというという人たちはいるのでしょうか?

  • どうして無宗教は悪なのか

    何らかの宗教団体に属し、神を信じることがグローバルスタンダードらしいのです。 無宗教に属する人間が世界的に見ても異端であるということはよくわかりましたがそれが非難される理由がわかりません。 日本人のほとんどが信仰しているといわれる八百万の神を信じないことが悪い理由は具体的にはどういうものがありますか? 少数派は空気を読めない人間と解釈されるからですか?