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客観の定義付けの問題

まず「認識主体を持たない」という意味ではありません。(当たり前です) 「主体性をもたない」が「特定の主観に依存しない」という意味ならそんな事を確かめる手段はありません。←勘違いです。これは鶴の一声的な意味であり、そのように決まった共通認識は主観に過ぎないということを述べたまでです。(社長がこうすると独断で決めたことを共通認識しても客観的になりえないという意味) 「文が客観である」だと広義的にし過ぎるので現実的に中身がないものになります。 例えば「俺はこう考えている」と言語化した場合、概念は客観的だが内容は主観的になります。しかし客観だと主張されても間違いではないのですが実際には納得できることではないです。客観についてという文を書き「今、書いていることがすでに客観である。」と書かれても同じく概念的には間違いではないことではあるがこれも納得しづらくなります。(パンツはパンツでもゴムがヨレヨレではけないパンツならパンツの意味を為してないのと同じ) もちろん概念的なことを求めているならそれでも良いのでしょうが、それだとパラドックスやアンチノミー的な問いになりやすくエンドレスにループします。 「言語は現象に先立つ」という謎めいたことにもなりますからね。 それなら狭義的に「主体性をもたない共通認識」の方が良いと考えます。 文を反対しているのではなく表現的な問題であって意味合い的には近いので誤解なきように。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ”解説” 客観とは、狭義的に「主体性をもたない共通認識」の方が良いとする彼の見解 に異議、再検討、または、反論し、反駁し、更新できる方はいるでしょうか? また、この見解にほぼ同意せざるをえないものを感じた方からの回答も待っています。

みんなの回答

回答No.9

個の人間は主観から絶対に離れられません。 客観も、主観から観た客観のものごとにしかなろうはずがないのです。 つまり、主観から観た「主体性をもたない共通認識」であることがらです。 科学が客観の最たるものにあたるのですが、科学の探求は人間主観そのものの探求になっているんです。 目の前の石は、誰が見ても石なのだから、客観的に石であると疑わない主観です。 「主体性をもたない共通認識」は、「共通認識」で足ります。 同じ場所で同時に確実に幽霊を見たと言う人が10人いたとするとその10人の中に限ってその幽霊が客観的に存在することになります。

noname#161887
noname#161887
回答No.8

>異議、再検討、または、反論し、反駁し、更新できる方はいるでしょうか? 与えられた命題を否定するくらいはわけないと思いますよ。というのも「共通認識=客観性」は必要条件ではあるが、十分条件ではないからです。たとえば普通の人が知らない真理も、また客観的な認識に入ります。いや、むしろ「真理=客観」と言った方がよいでしょう。何しろ神の認識こそ客観性であるとさえ、中世ヨーロッパでは考えられていましたから。 しかし逆に真理であったとしても客観的にならない事例があります。つまり質問文に書いてあることですが、発話者Aが「俺は真理を言っている」と主張しても、それが真理であるか周囲に判定できない場合です。しかしそれならば、発話者が論理的に述べれば良いだけです。 数学で喩えてみましょう。例えばある回答者が、ヤマカンで正解に辿り着いたとしましょう。しかし、ヤマカンですからテレパシーでもない限り、その答案の提出者の思考過程を万人と共有できません。どうやら合っているかもしれないが、この人は天才なのか不思議ちゃんなのかな、と思う程度です。つまり仮に正答(=真理)でも、主観的なのです。しかしきちんと数式が示され、論述されいたらどうでしょう。その思考過程を万人と共有することが出来ませんか。これでこそ、真理=共通認識となります。つまり客観的となります。 しかしこの喩えで、逆はありません。思考の筋道は示されているが、回答が間違っている場合、共有するに値しない記述として誰も注目しないでしょう。仮にクラスの全員が間違えたとしても、たった一人の正答者の回答にのみ注目が集まるものでしょう。したがって、客観的認識という時、共通認識であるというだけでは不十分なのです。

回答No.7

 主観と客観  主観的と客観的  いろいろ考えちゃうよ。  “的”のあるなしでも「主観と客観」を考える上で結構役に立ちそうだ。  気を付けなければならないのは“混同”して使わないようにすることだよね。  客観とは主観の対象物、て云うのはどうだろうか。  主観は対象物《他者(人)の主観》と共通認識していると云えるかどうか、疑問に思ってしまった。  ☆ 受け止め方に勘違いがあるかなぁ。

回答No.6

質問者:kiokunosekaiさんは勘違いをされているのではないかと思います。 客観は主観に対する対義概念です。右翼に対する対義概念が左翼、長期の対義概念が短期のようなものです。肉体と精神も対義語として使うこともあります。客観と主観は、「対義語としても使う」のではなく、概念としては連続していることの方向を示しているものとしてしか使いません。 スッキリ断定的に表現する方が明瞭に考えられるような気がするために、主観と客観を対立概念としてしばしば使います。 それを聞いたり、読んだりするヒトの中に、主観とは別個に客観がある、客観と別個に主観があると、誤解してしまう人がいるだけす。   個人が文を作成するにあたって、「この論文の中で【客観とは、主体性をもたない共通認識のことである】と定義する」のは本人の勝手ですが、多くの場合不都合な定義になります。   例えば「概念は客観的だが内容は主観的」「自分の意見でなくて客観的事実を報告せよ」「あなたはもっと客観(客観性)を重視しなさい」という文中の“客観”では、「共通認識となっていることが確認されている」ことを前提にしていません。 通常の文章では“客観”は「主観的でないようにしてよ」「自分の視点や感情ばかりに依存しないでね」という“意向”を述べていることが多いと私は思います。日本語の文でいえば、「客観」は、「(意見を出す人、報告をする人、観察する人)が、狭い観点・一方的視角に限定してしまうのを自重して、価値観や感情を込めないで、できる限りバランスのとれた見方で事実関係を中心にして観察・報告して欲しい」という意向を示していることが多いです。 そうした意向(相手に対する要望)をオブラートに包んで表現する用語が、日本語の「客観」だと思います。 客観的事実、客観性を欠くなどの言葉の使用状況を考えれば、認識そのものを分類しているのではなく、意向や要望がその裏にあることがわかります。 客観的精神、客観的妥当性、客観描写、客観的表現、客観テストなどの用語も、何かを識別しているだけではなくて、(好ましい・そうあってほしい)という意向があります。{(意見を出す人、報告をする人、観察する人)が(狭い観点・一方的視角や感性でやる)のは止めて欲しい}という要望があるときに、客観という単語を使うのだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「客観は、認識の一形態」ではないと思います。 客観は、何人かの共通認識になっていることを必須の条件にいていません。 客観は、それが何人かの共通認識になるであろうことを期待しているのでもありません。   客観は、主体性を持たないことを、相手に要求するとは限りません。 部下や調査員に「客観的にやってくれ!」と要求する場合、部下や調査員には主体的、積極的にやることを要求しています。 彼(彼女)が持っている能力や知識・感性も出来るだけ活かしてあたることを希望しています。本人の持っている感性を鋭くして、知識を動員して、積極的に主体的にやらないと、表面的・形式的にはなっても、客観的なことがわかりません。 「客観的にやってくれ!」は、客体をメインにせずに、{自分の希望や情動、嗜好、好悪、損得などで動いたり、見方を一方的にしたり、(何かに)都合良く強調したり無視した報告をするな}という条件を述べていることが多いのです。 (何かに)というのは、部下や調査員の個人的事情だけでなく、既存の組織方針、自分たちが進めてきた方向にとって適合不適合、通常の世間的道徳心や法制度、学会などで共通認識となっているセオリーなどのことを含みます。 既存の共通認識に適合的な視点というのも、主観的といわれるものと考え、「客観的に・客観的な」というのは、既存の共通認識に不適合も含むようにという希望を出しているのです。

回答No.5

私の場合、主観・客観は「主観性の高い・低い」とか「客観性の高い・低い」といった表現が相応しいと思っています。そうして両者の比率を「交換可能性」という概念にて捉えています。 たとえば、「鉛筆の芯が折れたが、鉛筆削りがないので、別の鉛筆で書いた」というとき、「鉛筆のメーカーと真の硬さ(BとかABとか)」が同一であるなら、「折れた鉛筆」と「代わりの鉛筆」は「交換可能性が高い」ものとなるでしょう。でも、「私」が書くのか、「貴方」が書くのかでは、たとえば「字体」が異なります。即ち「主体」にとっては「交換可能性が低い」ということになります。 また、「32kgの物体を5インチ砲で45度方向に初速800m/秒で放出すると○○の高さまで上がって、△△分後には□□km離れた物体に命中する」といったことは、たとえば「地球上、無風状態」という条件であれば、「私」が行っても「貴方」が行っても、ほとんど同じ結果になるでしょう。すなわち「誰か」という項目については「交換可能性が非常に高い」ということになります。このように「主体者」そのものが「交換可能性が高い」状態であることが、「客観性が高い」ということと解しています。 主観と客観と交換可能性。。。 http://jinen.exblog.jp/345889/ 2004-09-25 09:57 >>> 主観と客観との対置は、過去から良く行われている。言葉による対置から、両者は「切り分けられるのでは?」という誤認がなされることがある。しかしながら、両者は、方向性のみをあらわすものであり、「切り分けること」はできない。 「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという限定された条件を持ち込んでいる。ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味する。 すなわち「この私」と「その他」とは、決して切り離すことができないということである。 === カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91 === <<<

回答No.4

 主観と客観  主観は自分の心の反応、現象、捉えた物。  客観は自分以外の“現象”  他人も他人の思う心も、自分にとっては客観。  自分の主観は他人には客観。  さしあたり自分は主観であり他人は客観である、でもいいかとも思う。  ここから思いを深めていければ・・・・・  

  • kanto-i
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回答No.3

主体が主観的であることを発言すれば、客観ではありませんよね。 主体が主観を横に置いておいて、客体で発言すれば客観になります。 私(主体)はやりたいくないけど(主観) やった方がいいということ(客体を使った客観)を知っている。 たとえば、勉強をしたくないけど、勉強した方がいいと知っている(分かっている) これが主観と客観の差だと思います。 主体が、自分の意見を横に置いておくことを選んだ時、客観は発生するので 主体が意見を述べる時、自分の主観を意識的に認識できているかどうかと その主観を横に置いて発言するということを選ぶかにかかります。 つまりは、自分が客体として身を置いて発言しようとしているかの意識が鍵となります。 客観とは「自らが客体に身を置いた認識」だと言えましょう。

noname#194996
noname#194996
回答No.2

>客観とは、狭義的に「主体性をもたない共通認識」 違います。おっしゃるように主体を持たない認識はありません。また客観が集合名詞だという証拠もありません。 客観 と主観 の関係は 本来 自分(主)があって他人(客)があるという相対的なものだと思います。 主観があってこそ客観が生じる。逆もまた真なり。自分の見方はあくまで主観であり、他人の見方は常に客観であると割り切るべきです。 もちろん自分の見方のほうが他人の見方よりも「客観的」だという現象はありえますが、それは量的な問題ではなく質的な問題なのです。質的に客観的なものは多くが量的に優勢になり共通認識に近くなるという性質をもっているということはありますが、それは結果論に過ぎません。 ですから数量的に主観的<客観的 ではなく、 双方がっぷり4つに組むのが正しいのです。ですから常に客観的なもののほうが真に近いというのは幻想です。

回答No.1

客観とは、主観を捨てることではなく、客観というのも 多くの主観の集合に過ぎないと理解することである。 (客観=他人の立場に立って見る=自分とは異なる 主観の相対化)

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     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。

  • 人間と社会とについての用語の確認

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。

  • 受身表現を客観的表現に書き換えて下さい。

    実は自分の中だけで起きた出来事について質問があります。 それは受動的な感覚の表現である“発見された(=暴かれた)の客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現が知りたいということです。 自分は、《§:幻聴と耳鳴りがきっかけだったり、テレビがきっかけの他、車・バイク・飛行機の音に接した、電話口や玄関先で話しているのに接した、喫茶店で働いていて利用者さんが職員さんに注意されているのに接したなどきっかけは様々》ですが、自分の意思で飲み食いする・起きる・冊子を読んでいてページを変えるなどの日常動作をしようとしたが、 様々なきっかけであるもの=《§:》 に気を取られて(?)意思に反してそれらの動作が緩慢になったり、停止したりしたことが過去に何度もありました。 例えばテレビ画面を少し見る→目をはなす→目をはなすのは束の間で再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまうこともありました。 意思に反してテレビ画面から視線をそらすことができなかったときは、テレビ画面をじっと見ていたことがあって、《A:一点を見つめたまま視線が動かない状態》となったこともありました。 さらに、寝ている時でも起きている時でも体が固まったりして、寝ている間には意思に反して目が開かなかったりもありました。 ここまでのことが起きている際、自分の記憶の中の言葉『動くな』『食べるな』『飲むな』『ペンをとじるな』『裏返すな』『止める』『制限が入る』・・・・・・・・『ん〈故人の名〉』および過去に自分が体を動かしたり止めたりした記憶などが何らかによって《B:まるで暴かれた(発見された)ような感じ》が起こり、制止に至ったという訳だと思うのです。 ここまでのことは自分の中だけで起きた何らかの現象が起因していたと思われ、すべて自らの主体性を保てない状態だったと思うのです。 ここで質問です。 ★《A:一点を見つめたまま視線が動かない状態》を「目が据わる」と表現するのは、合ってますか?それとも間違いですか? 僕は、一点を見つめたまま視線が動かない状態だった時、“お酒に酔ったりしていた”訳ではありませんでした。 ★《B:まるで暴かれた(発見された)ような感じ》と文中にありますが、これは受動的な感覚の主体的表現です。 これを客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現に言い換えた表現を教えて下さい。 1つだけでなく、いくつか知っていたらそれを教えて下さい。 最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。 ※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。

  • 主観&客観についてです。

    主観と客観の関係についての、学問の分野とか、あるいはそれらについて考えておられる方いますでしょうか? クオリアについては多少勉強したんですが、自分の考えとは微妙に志向の軸がずれてるように思われます。 主観の世界と客観の世界を足したら、この世のすべてを網羅することになる、それの法則はつまりこの世のすべてを貫く原則になるという方針で10年ほど考えてみたんですが、同じようなことを考えてる文章や人に出会ったことがありません。 そういう人なり、学問があれば参考になると思って書いてます。 論理的思考ではあっても、科学の枠にとらわれないことで、両者を統一した視点から捉えて、その原則に近づこう、という風な趣旨のものなのですが。 似たようなこと考えてるかたおられるでしょうか? あるいはそういう学問の分野があるでしょうか?〈文科系と理科系を論理的に統合するような見解といえば近いと思うのですが〉 上のような考えを知っておられる方がいたらぜひ教えてください。お願いします。 補足になりますが、トランスパーソナル心理学は、その論理的組み立てからみて、また違うパート、分野の学問と思われますので、それは除外してます。 脳科学、あるいは、数学の位相幾何学〈トポロジー〉からの発展系としての考えが比較的近いように思います。自分の考えのたどってきた経路を見てきた場合、参考になったもので。ただ、同じというわけではなかったです。 なにぶん一人で勝手に考えてきたもので、似たような考えをご存知の方いたらよろしくお願いします。とても人の考えを参考に〈あてに?〉したいもので。

  • 試験 現代文科目について

    試験の際に現代文の問題は何故に偏った見解を求めるものが多いのですか? 試験だから当然に客観的な意見を求めているというのは至極理解していております。 ですが、理由がよく分からないです。主観的な思考では解けない問題をつくるのは考えさせる能力を問うのとでは違いませんか?

  • 受身表現から客観的表現に変換して下さい。

    実は、本日(8月3日)『国語』カテゴリで「一点を見つめたまま視線が動かない状態」を「目が据わる」と表現するのはニュアンス的に間違いであり、「目を据える」「凝視する」と表現するのが正しいと言う回答を得たのです。 僕は、一点を見つめたまま視線が動かない状態だった時、お酒に酔ったり怒ったりしていた訳ではなかったのです。 自分の中では、★印の内容の出来事があったのです。  ★テレビ画面を少し見る→目をはなす→目をはなすのは束の間で再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまう  ★意思に反してテレビ画面から視線をそらすことができなかった時は、テレビ画面をじっと見ていたことがあって、一点を見つめたまま視線が動かない状態となったこともあった。 : ★印に関して受身表現では、《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というふうに表現するだろうと思うのです。 《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というのは自由を失った感じだと言うことです。 また「一点を見つめたまま視線が動かない状態」というのは、ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思うのです。 ここで質問です。 《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》は受動的な感覚の表現です。 この表現を客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現に書き換え、回答下さい。 客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現を1つだけでなく、いくつか知ってたらそれを教えて下さい。 最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。 ※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。