色即是空について考えを述べてください

このQ&Aのポイント
  • 視覚に関する研究から、眼球は脳で再構築された情報をもとに色を認識していることがわかります。
  • 色とは脳の再構築した心に反映するものであり、識と空が一体となって世界を映しているのです。
  • 色即是空とは、世界から受け取るならば色は空であり、世界に働きかけるならば空は色となることを意味します。
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色即是空について考えを述べてください

私は芸術家なのでね。 見たままの感動を表す事を研究して、視覚に関する研究書からこんな感じの説明からこんな感じの発見をした。 視覚の末端組織である眼球を医学的に説明すると、色を識別できる組織はわずかで、脳で眼球から色彩の情報を受け取って、色を再計算して認識しているのだそうな。 さらに眼球から脳につながる神経は200万本で、すなわち200万画素のデジカメレベルのあらい情報でありスマートフォン搭載のカメラより情報量が少ない。 それも脳で再構築して認識している。 これは脳すなわち識の役割が視覚的認識に重要な役割を果たしている。 君がまぎれも無い真実だと確信している視覚的に認識し得るもの、仏教で言う色とは、一方で脳の構築した心に反映する識であり、脳はともかく心は形が無いから空である。 すなわち識と空は一緒であり脳の再構築だから我一人の心に世界が映ると言う識が世界観であり世界の認識である。 この論理で色と空は一つになる。 世界から受け取るなら色即是空であり、世界に働きかけるなら空即是色である。 この説明でもう判らないとは言わせんぞ。 解剖医学で実証されてんだ。 お釈迦様は感覚的にこの点に関して考え方を述べていた。 そして喜びたまえ。 長年の君達の信仰は証明されたのだ。 信仰がかなったことで、解脱でも悟りでも好きにしやがれ。 これを哲学と言うのだ。 君達の仏教哲学はウンコだよ。 証明された色即是空から古来の文献を改めて読み直すのはちゃんとした哲学研究になるのだよ。 君達は今までそうした事を一切しなかった。 今持ってそれが出来る知性が無い。 私だけがそれをしている。 私は伝承に語られる弥勒菩薩たる実力を備えているよ。 仏教業界でおらー弥勒だなどと言えば馬鹿扱いされるだろうと考えてそう言っている。 その馬鹿をさらに下回る虫けらが君たちだ。 そらそら、色即是空の見解について意見したまえ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

 “自己チュウ”は「空」であり「空」は“自己チュウ”である。  と、云うのがこの質問が“取り上げている”「色即是空」についての私の考えです。

Flareon
質問者

お礼

そうだね。 全てがアラーヤ識の見せる夢である。 こうすると、無意識は万能である。 こうなるんだがね。 その無意識なりアラーヤ識なりに君達は我と問うているのだよ。 それでちっぽけな脳みその中に収まる話だと解釈しているんだ。 私はそんな見方をしていないよ。

Flareon
質問者

補足

そろそろ閉じるのでまとめていくよ。 観念の話に脳の医学とか心理学と言うほかの学問を引用すると、説明が簡単だったとしても哲学の成果とは言えない。 承知で質問していたのだが、主題を識に集約して、識のとって色も空も自在であり介在する働きとなりうる。 こう言えば唯識だ。 色即是空などの感覚的事柄も仏教の範囲では唯識などの他の取り組みと共通項のある命題だと理解できる。 何を重視して命題とするかわともかく仏教の共通項となりうるよ。 さてそこで、識と言う言葉や唯識の研究で安易に納得してはいけない。 学問として哲学はさらに先に進むことにある。 今回の私からのありがたい話はこの辺りでやめておこう。 まあ、励みたまえ。 それはともかく、各回答は材料集めとして役に立ったよ。 簡潔に自分の考えを表明したのでベストアンサーにさせてもらうよ。

その他の回答 (8)

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.8

こんばんは。 おしい!!!けど 少し違うね 色http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2 原色http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E8%89%B2 人間の目の奥の網膜には一面に光受容細胞(錐体細胞と桿体細胞)があるが、光量が充分な場合は三種類からなる錐体細胞が反応する。錐体細胞には、長波長に反応する赤錐体、中波長に反応する緑錐体、短波長に反応する青錐体の三種類があり、それぞれの波長に最も反応するタンパク質(オプシンタンパク質)を含む。これらが可視光線を感受することで信号が視神経を経由して大脳の視覚連合野に入り、ここで赤・緑・青の三種類の錐体からの情報の相対比や位置を分析し、色を認識している。 人間など、三種類の色覚受容体をもつ生物の色覚は「三色型色覚」(trichromacy) とよばれる。これらの種の生物は、光刺激を三種類の錐体で受けとめ三次元の感覚情報として処理し、あらゆる光の色を三つの原色の混合比として捉える。 要するに、人間の視覚認識だけで「空」を観ると本当は(「空」= この世界の全ての物は(粒と波))として 生滅をしながら存在している(有る)ということだけれども、人間など三種類の色覚受容体をもつ生物の色覚は「三色型色覚」(trichromacy)であるため「空」を正確には把握できない。人間の視覚認識では 色は光=白なのです また、目を閉じれば光が無い=黒にしか観えない。 仏陀は人間に認識できない「空」の部分は、最初から無我(人間が何かの原因と結果を考える時は「空」に入れなくてもいい)とすると言ったんだよ。仏陀哲学の前提概念が無我なのです。だから、無我でない人間の心は認識できる(有る)に決まっているのです。(三位一体からでも分かる)そこで 人間は、この世界をあるがまま(認識できる部分)で観るとよく理解できる。物事には原因と結果がある。そして、この世界は全て繋がりがあるんだと。繋がりがある故に 人間がこの世界の全ての物を認識できれば 「色即是空」「空即是色」であるということです。 たとえば 貴方が自分の写真を(真 善 美)だと思ったら、それでいいんだよと言うことです。まあ、貴方と生命の繋がりや物事の繋がりを写真に入れなければ意味がないけどね。人間は(この世界の(粒や波)の生滅=「諸行無常」)を感動(喜怒哀楽)として(気持ちが繋がることで)感じたいのです。^^

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 学者さんだね。

回答No.7

釈迦が口癖のように述べていたの。 己を陽炎泡沫の如きものと思う者には既に知恵がある。 己を陽炎泡沫の如きものと、知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す。 という言葉だったそうです。 基本待てには、人間も虫けらも、生まれ老い病み死ぬ、同じ生命体であり、人間が偉いとか、人間こそ、価値がある。などは、好き嫌いや善悪美醜、の感情同様、人間個人の妄想なのです。 好嫌戦慄は己より発し己を去る、とも釈迦は言っています。 俺が、俺が、と自己主張をしている間は、知恵=静けさ、は身に付かない。と言うことでもあるのでしょう。 芸術家さんには馴染めぬ思想でしょうね。 色即是空について述べよ? 悪の総裁選びのテストですか?馬鹿の総裁候補なら私にも、若い頃からの生き方行動によって立候補出来るのかも知れません。誰しも若い頃を振り返れば、恥ずかしいような馬鹿、となるのものでしょう。 色即是空、という言葉は、3世紀頃か。中国にやってきた。鞍馬汁(漢字?)が 仏教の真髄として。諸行無常、と一切皆苦(人間の一切は苦である、と知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す)を一つにして。形あるものは移ろい行く空しいものである。というようなニュアンスで伝えたもののようです。 日本人の無常観でしょうか。定着させたのは。平家物語の冒頭句。 祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現す、奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし...誤解釈されていますよね。 祇園精舎の鐘の音、一切皆苦の響きあり、沙羅双樹の花の色、諸行無常の理を現す。となる筈では。 御出題の(ちと嫌みっぽいかな)色即是空、という言葉は。そういう意味にはとれない。意味が違う。 日本人なら誰でも知っており、誰も理解出来ていない。とも言われる。 般若心経の、舎利子、以下の、釈迦が語ったことにされている。一節ですよね。 般若心経という経典は大般若経とかの長大?な大乗経典から、抜粋し、短編の経典に纏めたもので。 当然の如く、考え方の違う複数の作者の文章の寄せ集めとなり。釈迦の名、観自在菩薩として借りながら釈迦の思想とはかけ離れたものも多い、ほとんどそうである、とも言えます。 7世紀ですか。並の知恵者ではない事を、その行動が示している。と言えるのでしょう。 孫悟空でお馴染みの、玄奘三蔵、が苦難の旅に挑み。インドに渡り、短期間と言われる間に、多くの経典を漢訳し。中国に持ち帰ります。その一つが、276文字かの般若心経と言われる。漢訳経典です。 その中に、別品、別格、となっている。のが、舎利子以下の 色不異空  色即是空 諸法空相  不生不滅不垢不浄不増不減 の部分です 色=空  形有るものと実態のないものは同じものである 色×空=諸相  形有るものと実態のないもの(形あるものに付随する能力方向性)が一体となって 事象変化、変化し続ける世界が起きている。 と言っている。 その起こり方は常に、今、という一つの単位統一体とむして現れるのであり。 そこに、善悪、美醜などがあるわけはなく。今が次ぎの今に変化転化するのであり。全体としては 増える事も減ることもなく。一定である。と言っているのです。 これは、大乗仏教が置き忘れた、理解出来なかった。釈迦の理法の解説であり。物理理論なのです。 クウ、とは、ゼロ、の意味である。と(テレビでですが)インド人がいっていましたが。 原典はそうかも知れませんが。玄奘訳ではそうはなりません。空、とは「×1」の概念なのです。 形あるもの×1として、起こるのは変化した形あるもの、となり。色×0=0(消滅)とはならないのです。 何故、この部分だけが当て字も少ない、別格、の理論になっているのか。 答えは、全く同じと言えるような、意味、表現の文章があるのです。 それが「老子」の有×無=1(イッ)形あるもの、有、と実態のない能力方向性、が一体となって、 一つの統一体として、存在。なる。と言っています、老子にゼロやマイナスはなく。るのは常に一つの統一体としての1(イツ)としての単位が起こり続ける。というものですが。 玄奘は老子を理解しており。老子を舎利子以下の文章に取り込んだ。 仏教と老子を融合させた。という事になります。 その後の漢訳仏教には、丸の悟りとか、1(いっ)の悟り。など、老子色が目立つものになり。 また、老子を無神論の老子を取り込む事によって。神のいない宗教としての体裁が保持され、釈迦の知恵が、滅びるず済んだる。との見方も出来そうです。 時間オ-バ- 回答終わり。

Flareon
質問者

お礼

批判にはへらへらする事にするよ。 長文でなかなか内容があるよ。 ありがとうね。

  • freulein
  • ベストアンサー率39% (94/237)
回答No.6

★「視覚的に認識し得るもの・・とは脳の構築した心に反映する識であり,心は形が無いから(それらは)空である」とのご主張には同意できません。例えれば「暴漢の持つ刃物が視認されたなら、それは脳の構築した心に反映する識であり、従ってそれは空である ⇒ 私に実害はないはず」と判断するようなものでしょうか。 ★語呂合わせ・つじつま合わせで色即是空が説明できたとして、質問者様の「色即是空」にはどれだけの知恵・教訓の産出力があるでしょうか?お示しなさるといいでしょうね。 ★小生の理解をお示しします。ご批判ください。 「色即是空」: ある対象が多彩な様相を示す(色)ならば、その対象を支配する法則には必然がない。  適用:水の姿は常温で固体・液体・気体を示し、ときに結晶水・吸着水など多様である。すなわち水の本 来の姿と言うものは無い。人の心象が多様であることから人の心の本来・必然と言うものは無い。  「空即是色」: ある対象の挙動が必然でないときには(空のときには)、その挙動は多様な姿を示す。  適用:人の心の挙動が必然でないときには、人は多様な心象を持つ。必然でないどんな苦しみに対して も、それなりの回答は無数にありうる。

Flareon
質問者

お礼

批判にはへらへあるる事にするよ。 いい回答だよ。 ありがとうね。

回答No.5

 お邪魔します。  人間は コップとちゃうよ。

Flareon
質問者

お礼

そうさなー 脳がどうとかで人間を占うのは確かに良くないからそう言うご指摘なんだろうね。

回答No.4

色即是空=「多彩な存在も根源的につき詰めれば無である」 という言明に対する最大の抵抗感は、『だって、このように 有るじゃないか』という感覚的な実感によるものである。 しかし、冒頭のような結論に到達した人間も、決して世の中に 反逆しようとしている訳ではなく、その「自然な実感としての 存在感」をより正確なものにしようとした結果なのである。 そうした「存在感」の実体が、“自分とは独立した外的な物体” ではなく、感覚器官表面での量子相互作用パターンに過ぎな いのである(五感の相関した経験の蓄積に於て、聴覚や視覚 など先行感覚に対して「味覚や痛覚といった生理的な感覚」が 結びつけられた(遠くに至った時にどういう生理的感覚が得ら れるか)にものが、空間的広がり)。 それに対し、そうした“感覚により描かれる存在性は「認識性 とは独立した外的な実体」をなぞったもので、『外的な実体』は その向うにある”という反論が一般的だ。 しかし、その「外的な実体」を分析すると、量子論の不確定性 原理に行き当たり、本来「存在」の意味する“位置と運動量”、 “質量と時点”といった、性質を兼ね備えたものではなく、例え ば運動量を完全に確定すると、その「性質」に実体を与える 「位置」が無限不確定になる(どこにあるか不明)、即ち「有限 性質を持ったなえた存在」というものは、本質を確定せず、 階層現象的な表面をいい加減に捉えるところに派生するもの なのだ(認識性の介在)。 確かに目の前の「コップ」は存在するようだが、そのコップとい う物体自体は存在せず、珪酸などの分子の並び方に過ぎず、 その分子は更に珪素や酸素といった原子の並び方、原子は 素粒子の‥‥といった階層現象化のくり返しの果てに、量子 =不確定性原理のみに還元される。 相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によって しか存在は無い、という帰結を潜在的に持っている(客観的時空 や絶対的存在というのはない)。 その無限不確定性の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク 定数hの収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は 光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての 時空仮説=宇宙を認識するのだ。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h) の収束におけるhの減少の時系列化である時、それが架空の 時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、 超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補 分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底を なす事で不確定性の相補化を可能にし、経験による予測=現象 表面的定性化における有限的存在(=非光速)を幻出している。 その仮説的時空軸は、(相対性理論において時間項が虚数ゆえ に)等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面原点を生じます。 なぜライトコーンかというと、それこそが光の描く軌跡だからです。 「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として 生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の 射影として、存在は生じていると言えます。 換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。

Flareon
質問者

お礼

数学や物理が出てきたら全く読み取れないよ。 頑張って最後まで目を通したけどお手上げ。 ありがとさん。

回答No.3

 やあ。  ★ ~~~~  君がまぎれも無い真実だと確信している視覚的に認識し得るもの、仏教で言う色とは、一方で脳の構築した心に反映する識であり、脳はともかく心は形が無いから空である。  すなわち識と空は一緒であり脳の再構築だから我一人の心に世界が映ると言う識が世界観であり世界の認識である。  この論理で色と空は一つになる。  世界から受け取るなら色即是空であり、世界に働きかけるなら空即是色である。  ~~~~~~~  ☆ モノが《色》として 視角をとおしまた心をとおして《識》となる。心はかたちがないから《空》である。  よって色即是空なりと。  としますと 初めのモノは どこへ行ったのですか?    見えなくなったのですか?  消えてしまったのですか?  色即是空とは 手品師のわざのことを言うのですか?

Flareon
質問者

お礼

ありがとう モノは色と言われようが空と言われようが動じ無いだろう。 物事は解釈できると言う発見だったのかもしれないな。 アラーヤ識の投影する夢が世界の全てだなんて考え方にはまったりしたら手品師のせいだろう。

回答No.2

>証明された色即是空から古来の文献を改めて読み直すのはちゃんとした哲学研究になるのだよ。  いいと思いますよ。  視覚だけじゃなくて、時間、空間、物質、あらゆる物理現象に同じようなことが言えるわけなんだが、  人間の脳の外側、究極的には自分の脳も含めて、何も存在しないという推論に達することになる。  まずは、存在するってこととと存在しないってことの狭間を超人的な観点から観ないとね。  >世界から受け取るなら色即是空であり、世界に働きかけるなら空即是色である。  そうとも言えるんだが、そもそも世界にはことごとく何もありはしないんだよ。  ここで言っている世界ってのは、あなたとあなたが反射されたその世界ってのをあなたが見ているんだよね。  ゆっくりと楽しめばいいんじゃないの。

Flareon
質問者

お礼

そうだね。 ちょっと挑発的だったかもしれない。 楽しむことにするよ。 ありがとう。

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1855/6063)
回答No.1

そういう態度は韜晦と言われて本人は気分が良くても周りからバカにされるものだってことくらいは知っておいた方がいいですよ。 でも、お勉強したのは偉いと思います。

Flareon
質問者

お礼

君達のバカ呼ばわりされる事こそ実に愉快なのだよ。

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