唯識の欠点とは?現代哲学はどう批判できるのか?

このQ&Aのポイント
  • 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。
  • しかし、もし諸存在が個人的に構想された識でしかないならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。
  • そして、唯識は大乗仏教の空の思想を基礎に置かれている。
回答を見る
  • ベストアンサー

ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • ga111
  • お礼率62% (416/664)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.1

 アニメを基にして思想哲学出来る人がいて、その人は何でも解っているそうです。  私以上の回答をしてくれるだろうから、その人が投稿してくれるまで待ちましょう。  きっと良い回答をしてくれると想います。

ga111
質問者

補足

失礼ですが、BAはダミーです。

その他の回答 (5)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.6

そうですか。哲学にとって挑戦的なご質問かどうか、わたしにはわからないのですが、 現代哲学の課題は現代哲学の課題として、唯識を補うのと等しい方向性に開かれていると感じます。 唯識を補うべくしてわたしたちに来たるべき哲学を、とりあえず2方向で挙げてみた次第です。 念のため言葉を補います。 トップダウン-ボトムアップのシステム対流と言いましたのは、存在の個体性が成り立つように関わる体系であると認識する体系を体系の全体とする、そのような全体性の条件における部分と全体の相互参照といった意味です。 複雑系モデルが唯識と沿うとの観点から、両者は欠点を同じくするだろうというひとつの見方であり、哲学は批判しうるどころかこの統一理論と難所を引き受けることになると思います。 もうひとつの来るべき哲学は、倫理のなかでも特に、身体の哲学で、唯識にも既存の哲学にも対象化されすぎた感のある、意識に具有される受け身であるところの身体を、唯物論の文脈ではないやりかたで、しかし神経内分泌や認知科学を取り入れた「わたしという組織」「わたしという器官」の実相の再確認です。 これは、臓器移植問題や脳死問題に直接かかわりますが、ちょっと予測のつかない問題です。これも上記のシステム対流のように環境全体が人間に問い返す、あるいは存在の関係性全体が存在の個体性の在り方を問い返す、ということを忘れないように唯識思想の警鐘を念頭におけるのではないかと思います。

ga111
質問者

補足

両者は批判しあうものではなく、相補しあうものであるということですね。複雑系に関しては、その定義を明らかにしないと議論はできないかと思います。 唯識 ≒ 複雑系モデル ならば 唯識の欠点 ≒ 複雑系モデルの欠点 というように読めますが、唯識 ≒ 複雑系モデル と最初からしてしまっていいのか?と考えます。唯識は色即是空だといいますが、複雑系モデルにはそのような明確な答えを持とうとする気が最初からないような、、、 >唯物論の文脈ではないやりかたで、しかし神経内分泌や認知科学を取り入れた「わたしという組織」「わたしという器官」の実相の再確認です。 唯識はかなりふるく成立していますので、唯物論的な神経内分泌や認知科学から批判を受けることがありえるかもしれません。この場合も相補しあうものであるべきということですね。ありがとうございました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

唯識批判というのは興味深い問題です。わたしに答えられる知識はありませんが、全体の構造の決定性が、いうなればボトムアップ-トップダウンのシステム対流とオートポイエーシスによるような複雑系の方向性が、唯識思想に沿いやすいように思っています。そうであれば、そこには記述者・記録者・観測者をめぐる問題が浮上しますので、このシステム対流の〈外部〉とよびうる領域での記述・記録・観測の可能性を先端物理学の理論と共振できるような哲学はどんなものになるのかなという気持ちは持っています。 また、こんにちの哲学は、環境倫理や生命倫理などを鑑み、人間中心主義では収拾がつかなくなっています。上記の事項で捉えられるような存在の緻密な体系にも関わる問題です。有限の事象を対象にした新しい応用倫理の構築は哲学の急務だと思います。そして、わたしたちの身体や臓器のほうをわたしたちそのものである、とする視点によって先端医学のありかたを牽引するような哲学はどのようなものだろうかという気持ちも持っています。 こうしたことは、唯識思想から直接取り出せるものではないので、視準となる思想はほかに求めなければならないでしょう。しかし、自然から仕向けられているようにして自発から働きかけているような対流に気付くことは唯識思想のうちにあると思いますので、そこからあらためて所有や消尽の対象でない自分自身とはどのように世界と関っているかという倫理学を拓いていけるのではないでしょうか。そういう意味では、唯識は現代哲学と並走していくものではないかという気がします。

ga111
質問者

お礼

唯識批判のように見えますが、実は、現代哲学が唯識を本質的に批判できなかった場合は、現代哲学批判になります。すなわち、ここの参加者の多くに対しても非常に挑戦的な質問ということです。コメントありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

[即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、 ] この部分が「悩乱」といってよいほど間違っていますね。 例えば「即ち、それら諸存在は「空」であり」ここまではいいんですよ。次の「実体のないものである(色即是空)」は明らかな間違いですね。なぜなら「色即是空」の後に一対に「空即是色」とあるのに、前だけ取り出して「何もない。」では明らかにおかしいものね。「色即是空」と「空即是色」は一対ですから何もなくなるとは言っていないのですね。例えば、色を肉体とか物質とすると、肉体とか物質はなくなるように見えるがまた再生するものである。という意味になりますね。そういう意味では「空」はエネルギーとか霊的エネルギーという意味ですね。何もなくなるという意味にはなりようがないのですね。 何もなくなるでは高等哲学としての仏教が、ニーチェ程度の小学生なみの哲学になってしまいますからね。 「空」が正しく理解できれば、唯識と西洋哲学でいう唯心論が同じ土俵の内の程度の違いぐらいの問題ということがわかるはずですね。しいて言えば唯心論をより深く掘り下げると唯識論になるということですね。 まあ、哲学というものは正しく理解できれば表現方法など少し違うだけで、人種や国は関係ないのですね。「区別とか違うという結論がでれば、どこかに間違いがある。」というのが正しい見解でしょうね。

ga111
質問者

お礼

私は、色即是空だけでとくに問題ないと思います。色即是空と空即是空は同じ?という話題がここにあるようですが、いろいろな解釈があるようで、色即是空=空即是色であるという意見もあるようです。その経は呪文的な要素も強いので、個人的には韻を踏んでいるとも考えられます。 いずれにせよ、2次的な般若経の解釈のさらなるウキペディアの一部の解説的な叙述ということで、ここでは本質的ではないかとも思います。興味深いご意見、ありがとうございました。

ga111
質問者

補足

また、該当する文は 「諸存在は「空」であり、実体のないものである」と言っているのであって、何もないとは言っていません。文法的に、「実体のないものが「空」であり、諸存在である」(=空即是色、この訳が正しいとすればですが)がなければいけないというご指摘のように解釈できますが、私は必ずしもそうは思いません。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.3

 論理の欠点は置いとくとして(難しいので)、それが認知され、広まることでの欠点は、  それぞれの認識度合い(フィルターのかかり具合)が違っていても、「私は神である」「私が認識しなければ存在しない」などと勘違いする低レベルの「神」が多数出現してしまうことではないでしょうか。しょうもない人間に限って、そのように傲慢になって勘違いしがちなので、パラノイア・マニアックな人(そのように他者に働きかける人)はますますそうなり、反対に謙虚な人(内向的な人)は益々謙虚になり、二極化が促進され、社会が混乱し、ひいては自分自身も困ることになる、と考えられます。  解釈と対処の仕方によって内向的・外交的のどちらかに偏りがちになる。

回答No.2

欠点はないが、あくまでも自らが昇華しているのみで他者には関係がない。 学問のオススメといったところか… 主観や客観とあることから他者を意識しているかもしれないが、主観的学問でしかなく、あくまでも己を変えることにしかならない。 人間全体的な社会問題の本質的な解決法にはならない。

ga111
質問者

お礼

確かに唯識のみでは、他者を助けるといったことはほとんど出てこないのですが、大乗仏教という面ではそういったことがよくあるかと思います。相補し合っているのかもしれません。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 色即是空について考えを述べてください

    私は芸術家なのでね。 見たままの感動を表す事を研究して、視覚に関する研究書からこんな感じの説明からこんな感じの発見をした。 視覚の末端組織である眼球を医学的に説明すると、色を識別できる組織はわずかで、脳で眼球から色彩の情報を受け取って、色を再計算して認識しているのだそうな。 さらに眼球から脳につながる神経は200万本で、すなわち200万画素のデジカメレベルのあらい情報でありスマートフォン搭載のカメラより情報量が少ない。 それも脳で再構築して認識している。 これは脳すなわち識の役割が視覚的認識に重要な役割を果たしている。 君がまぎれも無い真実だと確信している視覚的に認識し得るもの、仏教で言う色とは、一方で脳の構築した心に反映する識であり、脳はともかく心は形が無いから空である。 すなわち識と空は一緒であり脳の再構築だから我一人の心に世界が映ると言う識が世界観であり世界の認識である。 この論理で色と空は一つになる。 世界から受け取るなら色即是空であり、世界に働きかけるなら空即是色である。 この説明でもう判らないとは言わせんぞ。 解剖医学で実証されてんだ。 お釈迦様は感覚的にこの点に関して考え方を述べていた。 そして喜びたまえ。 長年の君達の信仰は証明されたのだ。 信仰がかなったことで、解脱でも悟りでも好きにしやがれ。 これを哲学と言うのだ。 君達の仏教哲学はウンコだよ。 証明された色即是空から古来の文献を改めて読み直すのはちゃんとした哲学研究になるのだよ。 君達は今までそうした事を一切しなかった。 今持ってそれが出来る知性が無い。 私だけがそれをしている。 私は伝承に語られる弥勒菩薩たる実力を備えているよ。 仏教業界でおらー弥勒だなどと言えば馬鹿扱いされるだろうと考えてそう言っている。 その馬鹿をさらに下回る虫けらが君たちだ。 そらそら、色即是空の見解について意見したまえ。

  • 仏教の教えは唯一つ

      仏教は唯一つのことを説いているのではないか。 色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり、無である。 仏教が説いているのは唯これだけであり、それ以外には何も語っていないのである。 色即是空空即是色、仏教においてはこれが全てであると思っております。 仏教はあの世のことなど何一つ語っていない。 極楽浄土のこと、地獄のこと、人が死んで成仏するとかしないとかのこと、六道輪廻のこと、戒名や戒名料のこと、お題目のこと・・・等々、これらについて仏教は何一つ語っていないのである。 仏教が説いているのは唯一つのこと、色即是空空即是色である。 この世のあらゆるものは空であり、無である。 あの世のあらゆるものもまた空であり、無である。 何故ならあの世はこの世が作り出したもの、あの世とはこの世のことだからである。 故に極楽浄土は空であり、地獄は無である。 これで良いのではないか、これで何の問題もないのではないか。 私はこれで十分であると考えます。 このように考えると極楽浄土も、地獄も、成仏も、戒名も、六道輪廻も、お題目も、・・・およそ坊主の考える一切が空であり無となるのではないか。    

  • 龍樹は大乗仏教をどう正当化したのですか?

    龍樹は大乗仏教を体系づけたと聞きます。 当時、大乗仏教は上座部仏教から攻撃されていて、龍樹がそれに対する理論武装をしたのですよね。 そこで龍樹はどう反論したのか知りたくなって、彼の思想を調べて見ると、空の哲学を作ったと。 そして私はまだ読んでいないのですが、空の哲学は非常に理論的で難解であると。 これでは多くの者が受け入れられる教えを目指す大乗仏教から遠ざかっているように見えるのですが、違うのでしょうか? 空の哲学は大乗仏教の理論的根拠となっているのですか? 私のここまでの理解が間違っているのかもしれません。 教えていただければ幸いです。

  • 精神は 空である。

     色即是空・心(受想行識)即是空であるなら 精神も空である。  精神分析によって認識され規定されている精神の状態も そして精神分析じたいも みな空である。  空即是色・空即是心(受想行識)であれば 精神分析なる行為も精神の状態もそれとして――仮りの現象として――起こっている。   これでよいか?

  • 色即是空の「空」の対立語(反対語)はなんですか

    私は仏教のことは何も知らないものですが「色即是空、空即是色」とこの言葉を何とはなしに思い浮かべていましたら、ふっとこの反対は何になるのかなあと思いました。そこで、どなたかか色即是〇、〇即是色の〇のところに「空」の対立語(反対語)を入れていただけませんか、その結果出来あがる言葉はお釈迦さんのおっしゃる事と全く反対の意味内容になるのだと思うのですが、 教えて下さい宜しくお願い致します。

  • 般若心経と浄土教

      色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であると説く般若心経。  易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗。 この2つ教えを一つの仏教として結び付け一つに統合したい。 どのように考えますか。    

  • 仏教の教えは唯一つ

      念ずるのである。 この世の全ては無であり空であると、 ただひたすら念ずるのである。 嬉しかろうが、楽しかろうが、有り難かろうが、苦しかろうが、悲しかろうが、そのようなことはどうでもよいのである。 念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり空であると、ただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより、 人はみな生きることの苦から解き放たれ、 救われるのである。 仏教の教えは唯一つ、これではないか。 補足:  「色即是空空即是色」 → この世の全ては無であり空である。 「義無きを以って義とする」 → ただひたすら念ずる。  

  • 哲学にとって最も重要な事はその自己完結性である

      宗教であれ信仰であれ、思想であれ、哲学であれ、これらを成立させる最も重要な要件は何かと考えてみた。 そしてこれらのものを成立させる最も重要な要件は自己完結しているかどうかであると考えた。 どれほどの綺麗事を掲げる政策であれ、実行段階で内部矛盾を抱えていれば直ぐに破綻する。 仏教であれ、キリスト教であれ、およそ既成宗教と名の付くものは、この意味で見たとき内部矛盾を抱えるものばかりであり自己完結したものなど一つも存在しないことが分かる。 奇跡を説くキリスト教であるがその奇跡を受け入れることのできないキリスト教徒は悩み苦しむことになり、無や空を説く仏教であるが結局坊主は無や空が何たるか分かるわけもなくただただ途方に暮れるばかりで、せいぜい葬式仏教を営むくらいしか出来ないのである。 思想や哲学において最も重要な事は、その思想や哲学の歴史でも権威でもなく、またそれを支える組織やコミュニティの存在でもなく、純粋に自分自身がその思想や哲学を納得できるかどうか、その思想や哲学が自分自身の中で自己完結しているかどうか、それ以外ないのである。 このように考えるとそれが自分独自の考えであろうとなかろうと、やはり自分自信で辿り着いた思想なり哲学なりを最も大事にしないといけないのではないだろうか。  

  • 仏教で言う「空」を分かりやすく説いた本は?

    仏教で言う「空」について、本当に理解している人が書いた、分かりやすい本を教えて戴きたいです。 どうぞ、よろしくお願い致します。 これまで、「釈尊の悟り」、「仏教百話」、「やさしい唯識」、「唯識のすすめ」、「はじめての唯識」、「「唯識」の読み方」、「仏教の思想2、存在の分析<アビダルマ>」、「日本人のための宗教原論」などを読みました。 なんだか、うすうす分かった様な気がしていますが、論理展開に無理があるような説明だったり、途中から論理が飛躍しているような説明だったりしていて、今一、はっきりと、「なるほど。良く分かった!」と思えるような説明にめぐり合っていない気がしています。 キチンと理解したいので、反論や疑問を感じないほどの、行き届いた論理展開をしている本を読みたいです。 どうぞよろしくお願い致します。

  • この世は無でも有でもなく、その中間の空であるとは

      「色即是空空即是色、この世の全ては無であり空である」 このように申したところ、この世は無でも有でもなく、その中間の空であるという者が現れました。 これを中道と言うらしい。 わたしとしては中道を行くなんて考えはただの風見鶏、現世主義の最たるものでおよそ信仰とは最もかけ離れた経典の中だけの世界だと思っております。 では訊ねたい。 仮に仏教の教えがこれであったとして、こんな平凡ありきたりのことを説いて一体何のご利益が生まれますかね。