前田利家とは?信長の多重人格説とは?

このQ&Aのポイント
  • 前田利家という男性は織田信長の家臣であり、様々なエピソードが伝えられています。
  • 織田信長の多重人格説は、前田利家の珍奇な行動やエピソードから推測されています。
  • 前田利家の人物像やエピソードについて詳しく知りたいという方もいらっしゃるかもしれません。
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初めて質問します。前田利家という男

織田信長の多重人格説は 珍奇なお肴・比叡山延暦寺の焼き討ち・山中の猿 などのエピーソードから考えられてるものならば 若いころ6m以上もある槍をふりまわして歩いてた(非戦闘時)。 十阿弥殺し。 信長に追放されたにもかかわらず 信長軍VS○○軍の戦に勝手に自分の旗付けてに参加して暴れまくる。 頭だか顔だかに弓がぶち刺さっててもおかまいなしに暴れる。 春日井堤の上の槍。・・負けそうなのに一人で大軍に突っ込んだ勝ったりした。 利休さんからすごくいい茶碗をもらうが訳わかんねーみたいなノリで花さした・・怒られた。 ↑某N○K大河参考がほとんどなのですが・・こういったエピソードを踏まえて  ・・・・・前田利家天然説・・・・をあみだしたのですが・・・・・皆様はどう思われますでしょうか。  又 利家のエピソードなどご存知でしたら教えていただきたいです。  

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回答No.1

前田利家は漫画「花の慶次」では、傾奇者である甥の前田慶次を「鼻つまみ者」等と言って嫌っていますが、史実は違います。史実では、彼も傾奇者であったそうで、派手な服装を好んで着て、途方もない長さの槍を持ちながら町中を闊歩してます。晩年には「若いうちは傾いてるくらいが調度よいものだ」と小姓衆に語っているそうです(三壺記)(利家公御夜話)。 ●元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った6m30cmの槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。 ●元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞した。 ●坂本城の天守に夜な夜な幽霊が出るという噂が立ったとき、自ら肝試しを志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられた。 ●危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとする芳春院が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだという(古心堂叢書利家公夜話首書)。 利家は傾奇者であったにも関わらず、非常に計算高く、世渡り上手で、また、前田家の決済は全て利家が自分でやっていました。算盤は当時に日本に伝わったばかりで、それを使えるというだけで稀有なことでしたが、利家は算盤を難なくこなし、その算盤は家宝として今でも残っています。 また、石川県金沢市へ行くと、お年寄りの方々や商売に携わる人々は、今でも「前田様」「利家公」と呼んでいます。金沢では、今でも加賀の国を繁栄させた大功労者なのです。 従って、俺は前田利家を「天然」とは思いません。むしろ、傾奇者を装い、バカ長い槍を振り回したりして相手を威嚇し、数々の武勲を計算づくで戦ってきて、領主自らが自分の領や家の決済を自分で行っていたのですから、まさに「文武両道」の武将であったと思います。

baichi
質問者

お礼

ありがとうございます。 坂本城の幽霊の件は知らなかったです、何故に志願なんだ~っ!って。 確かに 前田利家といえば男の中の男 武将中の武将 織田家家臣の信頼もあつく なにより信長公が一番信頼していた人物と考えております。 ただ・・武勇がすごすぎるので普通じゃないんじゃ・・・・と考えてしまいます。 それほどの豪傑なら男とは・・武将とは・・って感覚の持ち主だと思うのでなおさら「算盤で決済なぞ女子のするものじゃ!」ってなりそうなんですけどね。・・・算盤・・面白いなコレ。って・・・。 肝試しにしても幽霊見たいな~。って かわいい一面もあったのでしょうか。  坂本城の幽霊の件検索してみたいと思います。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

noname#177763
noname#177763
回答No.3

先述のお二方がおっしゃる通り前田利家はかぶき者です。 桶狭間の戦いの前に家中のケンカで刃傷沙汰を起こし、 信長から出仕停止処分を喰らっていたにも関わらず、 桶狭間の戦いには勝手に参戦しています。 ひょっとしたら前田慶次以上のかぶき者かもしれませんね。

baichi
質問者

お礼

ありがとうございます。前田慶次以上ですか。十分考えられますよね。桶狭間って信長の戦の中でも有名でかなり策略めぐらせて段取りしたって読んだことあるのですがそういう大一番で勝手に参戦って・・・・・色々事情はあったにせよ根性とか度胸とか超越してますよね。希代の天才かその逆か???謎が深まるばかりです。

  • datchi417
  • ベストアンサー率27% (515/1904)
回答No.2

前田慶次がかぶき者として有名ですが、利家も元々はかぶき者ですから、根っこにはゴーイングマイウェイの精神があったんじゃないでしょうか。

baichi
質問者

お礼

ゴーイングマイウェイ・・・あらためて聞くと前田利家にしっくりくるような気がしますね。 前田慶次は利家の甥といっても血はつながってないので慶次は利家に憧れていた。って気がします。

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