存在の空無性とは?

このQ&Aのポイント
  • 太田久紀先生の書かれた仏教の『唯識論』を読んでいます。結局、『人間の認識のしくみ』、『存在の空無性』、『私達の深層に潜在する利己性』などへの省察と自覚を深めていくことが大事だと書かれています。
  • 『存在の空無性』については、全ての存在がやがて消滅して行くことは分かりますが、でも、存在している間は決して空無ではなく現に存在しているのですから、「依他起性」であるにしても、一応、それなりの存在形態で存在しているのだから、それを空無だと言われても、なんだかピント来ません。
  • 「存在の空無性」とは「依他起性」のことを言っているのか、それとももっと別のことを指しているのかについては曖昧です。存在自体が空であり無であると言えるかどうかについては、詳しい解説が必要です。他の書物や教えを参考にすることをおすすめします。
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「存在の空無性」という事について

太田久紀先生の書かれた仏教の『唯識論』を読んでいます。 結局、『人間の認識のしくみ』、『存在の空無性』、『私達の深層に潜在する利己性』などへの省察と自覚を深めていくことが大事だと書かれています。 『人間の認識のしくみ』や『私達の深層に潜在する利己性』については、本に書かれている説明で大体分かったのですが、『存在の空無性』については、全ての存在がやがて消滅して行くことは分かりますが、でも、存在している間は決して空無ではなく現に存在しているのですから、「依他起性」であるにしても、一応、それなりの存在形態で存在しているのだから、それを空無だと言われても、なんだかピント来ません。 「存在の空無性」とは「依他起性」のことを言っているのでしょうか? それとも、もっと別のこと、例えば、本当に「存在自体が空であり無である」と言っているのでしょうか? もし、「存在自体が空であり無である」と言っているのだとしたら、どうしてそう言えるのでしょうか?また、この事について、もう少し詳しく、分かりやすく解説している書物などがあれば、教えて戴けるとありがたく思います。 どうぞよろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#181697
noname#181697
回答No.4

空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。 裏があるから表があり、裏生ずるが故に表が生ずる。裏無ければ表も無し、裏が滅せば表も滅する。何故なら、裏も表も固有の実体として存在しているものではなく、依他起性によって成り立つ概念だからです。 仏教は物体が存在しないと説いているのではなくて、概念は実在するものではないと説いているんです。無常も縁起も、我々が様々な概念という迷妄を抱いているから相対的に生じる真理なのであって、迷いの無い所に真理が生じる事はありません。これを「無」の一言で表している訳です。実際には仏教すら相対的・依他起的なものなんですよ。 あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。でも、この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。

toto77japa
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございました。 >空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。 ⇒なるほど。 >仏教は物体が存在しないと説いているのではなくて、概念は実在するものではないと説いているんです。 ⇒「概念は実在するものではない」というのは、分かります。 >迷いの無い所に真理が生じる事はありません。 ⇒? >あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。 ⇒「実体」がないことを「空」とか「無」とかと表現しているのですね? >この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。 ⇒うーーーむ。 難しいですが、自分自身で真実を見極められるよう、さらに勉強していきます。 近いうちに、座禅に取り組もうかなと考えております。 ありがとうございました。

その他の回答 (12)

noname#155457
noname#155457
回答No.13

>>「だから存在自体が『無い』のです。」と言われても、現に、私も、MooonStar >>様も、そこにあってパソコンに向かって作業していたのですから、そ >>れを、『無い』というのは、どういう訳なのか、どうして『無い』と言 >>えるのか、その訳を教えて欲しいのですが、・・・。 簡単にいうと夢ですよ。 誰でも夢の中には自分自身、人々、周りの物質などがあります。 夢の中にいるときはあたかもそこに存在するように見えます。 しかし、実際は何もありません。無です。ただ心の働きに過ぎない。 「だから存在自体が『無い』のです。」

toto77japa
質問者

お礼

夢ですか。。。。。? 再回答、ありがとうございました。

noname#155457
noname#155457
回答No.12

唯識論も素はといえばお釈迦様の教えから来ているのです。 「存在の空無性」とは 「存在自体が空であり無である」という意味です。 また、空とは幻という意味であって、『存在自体が幻であって無である』という意味です。空とは何かについては阿含経や大般若経の般若波羅蜜に詳しく説かれています。そこで、阿含経からと大般若経から一カ所ずつ抜粋し、分かりやすく訳して見ました。 (1)阿含経から。 ************************************** 『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者、滅する者是れ幻化にして真実有ること無ければなり。』(阿含経) ************************************** この世は空であり、寂静であり、生まれる者、死んで行く者、これらは幻化であり、実在するものではない。という意味です。 (2)大般若経から。 ************************************** 『善現よ、汝はどのように考えるか。色(物質)と幻とは異なるか? 善現答えて言った『いいえ世尊。どうしてかというと、色は幻に異なり ません。幻は色に異なりません。色はすなわち幻、幻すなわち色。受想 行識もこのようです。』(大般若経) ************************************** このように『空=幻』という意味なのです。だから存在自体が『無い』のです。

toto77japa
質問者

補足

「だから存在自体が『無い』のです。」と言われても、現に、私も、MooonStar様も、そこにあってパソコンに向かって作業していたのですから、それを、『無い』というのは、どういう訳なのか、どうして『無い』と言えるのか、その訳を教えて欲しいのですが、・・・。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.11

No.8、9、10です。 >1.末那識ではなく、阿頼耶識なら《依他起性》ではないと思うので、阿頼耶識こそが「私」である、とは考えられないのでしょうか? >それとも、阿頼耶識も《依他起性》なのでしょうか? いいえ、「阿頼耶識」については、「全ての存在」が「無自性」にもかかわらず、どうしてわれわれには実体性に裏打ちされた実在であるかの如く思われてならないのかを追究していった結果、「全ての存在」が原因・結果の相互作用(縁起)でしかないことに思い至り、こういう根本識の基本性格に照らしてalaya vijnana(蔵識)と呼んだわけです。 ちなみに、ヒマラヤというのはhim(雪)alaya(蔵)という意味だそうです。 ただ、「阿頼耶識」が「蔵識」だと言っても、決して静態的にイメージしてはならず、第4頌では「阿頼耶識」は「恆転如暴流」(恆に転変してやまない点では激流の如し)と喩えられているように、《原因(種子)⇒結果(現行=次の現行の原因としての種子)⇒次の現行……》の無限の縁起そのものとお考え下さい。 >2.私は、「存在」のあり方としては、「物質」のような存在のほかにも、例えば「引力」などのような「力」も、物質的な実体はなくても現に存在していると言えると思うので、物質ではない阿頼耶識も、立派に存在していると言えると思うのですが、・・・。 失礼ながら、質問者さんはいわゆる《実体論》に囚われすぎているかもしれませんね。 唯識やその思想的な基盤をなす中観思想については、たとえて言えば、数十年前にようやく西洋で唱えられ始めた《脱構築》哲学が今から約1500年前の段階ですでに体系化されいたものだとお考えいただけませんか。 当然ながら、唯識によれば、「物質」も「無自性」、つまり「実体」ではなく、やはり心識に囚われての《遍計所執性》(=虚妄分別)にすぎません。 「3.」、「4.」についても、同様にお考え下さい。 なお、「阿頼耶識」が「存在している」かどうかについては、同じ唯識派でも《有相唯識派》(存在するという立場)と《無相唯識派》(存在しないという立場)に分かれています。 >「実体」を物質以外のものも含めて広く解釈すると「私」には「実体」がある事になるが、「実体」を物質だけに限定して狭く解釈すると「私」には「実体」がない事になる。 >それは詭弁でしかないように思われます。 質問者さんは、もしかして「全ての存在」が識であるといったところで、認識主体としての「私」が識に囚われていることと捉えてはいらっしゃいませんか? 唯識では、認識の主体(能取)はもちろん、客体(所取)も同じく識の産物、虚妄ということになります。 私も素人ですので、舌足らずの説明しかできませんが、「私を含めた全ての存在」が《実体》でも《実在》でもないことについては、『唯識三十頌』をお読みになる前に、問答形式でロジカルに展開されている『唯識二十論』をお読みなった方がより分かりやすいような気がします。

toto77japa
質問者

お礼

何回も、丁寧なご説明を下さいまして、誠にありがとうございます。 『唯識二十論』も読んでみようと思います。 いろいろと、ありがとうございました。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.10

No.8、9です。 >それは、「私という存在には実体がない」と言いながら、「輪廻転生の主体はある(例えば、マナ識や阿頼耶識など)」と言うのは、矛盾しているのではないか、という疑問です。 >何故なら、輪廻転生の主体があると言うなら、それこそが「私」の実体ではないか、従って、「私という存在には実体がない」とは言えないと思うのです。 より正確に言えば、「輪廻転生の主体は実体としてあるのではなく、あくまでも阿頼耶識に依る(規定された)末那識(我執という迷妄)としてある」ということかと思います。 このように、自我意識(末那識)も《依他起性》を免れ得ない以上、やはりこれを実体(実在)と見なすことはできないわけです。 でも、この煩悩にまみれた「私」(自我意識)を機縁として、ほかならぬ「私」の《依他起性》を悟り得るのみならず、究極の悟りとしての《円成実性》(=真如)に至る可能性が開かれているとしたら、こういう唯識の教えには、《煩悩即如来》という、いわゆる如来蔵思想がまぎれもなく内在していると言えるのではないでしょうか。

toto77japa
質問者

お礼

何回も、私のために、ご回答下さいまして、本当に、ありがとうございます。 心より、感謝申し上げます。 >より正確に言えば、「輪廻転生の主体は実体としてあるのではなく、あくまでも阿頼耶識に依る(規定された)末那識(我執という迷妄)としてある」ということかと思います。 このように、自我意識(末那識)も《依他起性》を免れ得ない以上、やはりこれを実体(実在)と見なすことはできないわけです。 ⇒ 1.末那識ではなく、阿頼耶識なら《依他起性》ではないと思うので、阿頼耶識こそが「私」である、とは考えられないのでしょうか? それとも、阿頼耶識も《依他起性》なのでしょうか? 2.私は、「存在」のあり方としては、「物質」のような存在のほかにも、例えば「引力」などのような「力」も、物質的な実体はなくても現に存在していると言えると思うので、物質ではない阿頼耶識も、立派に存在していると言えると思うのですが、・・・。 それとも、私の勉強不足であって、実は「力」も何らかの物質に依存している《依他起性》なのかなぁ。 3.こうなってくると、「実体」の定義にもよるような気がしてきます。私は、物質でなくても、先程述べた「力」なども、現に存在しているのだから、これを「実体」と呼べると思っているのですが、仏教では物質だけを「実体」と考えていて、「力」や「阿頼耶識」などは、存在していても、これを「実体」とは言わないだけのことなのでしょうか? 4.でも、そうなると、輪廻転生する主体(=「私」)が阿頼耶識であると認めながら、仏教では阿頼耶識を「実体」とみなさないばっかりに、阿頼耶識を本質とする「私」に「実体」がないと言っているだけみたいな気がしてきます。 そうなると、「実体」を物質以外のものも含めて広く解釈すると「私」には「実体」がある事になるが、「実体」を物質だけに限定して狭く解釈すると「私」には「実体」がない事になる。 それは詭弁でしかないように思われます。 どんどん疑問が湧いてきて、すみません。 もう一度、しっかり、唯識の本を、正確に読み直す必要があるのかも知れませんが、良く分かりません。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.9

No.8ですが、再回答させていただきます。 >No.4.のご回答:『空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。』と同じことを仰っておられるんでしょうか。 はい、中観派の説いた「無自性」と同じことです。 ここから、『般若心経』では「空即是色」と、つまり「空≠無」と説いているわけです。 唯識派は、全ての存在が「無自性」であるにもかかわらず、われがあり、世界があるとわれわれを妄想させる原因・理由について、分かりやすい具体例を駆使し、より論理的に説こうとしたのではないでしょうか。 >「輪廻転生」のことを考えると、輪廻転生して行く主体は何か、それこそ「私自身」ではないか、とも思えます。 はい、『唯識三十頌』の第五頌では「私自身」のことを、「是識名末那 依彼転縁彼」(この識を末那と呼ぶ。阿頼耶識が転成して末那識となり、かつ阿頼耶識をも対象とする)と説いています。 要するに、末那識にはおのれが阿頼耶識に依るとの自覚がなく、cogito ergo sum.(われ考える、故にわれ在り)という虚妄に固執している我執そのものということになります。 なお、唯識と輪廻転生の関係については以下が大いに参考になると思います。 ただし、この主人公は作中では末那識から脱却できない、つまり認識(我執)の亡者として設定されています。  輪廻転生は人の生涯の永きにわたつて準備されて、死によつて動きだすものではなくて、世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであつた。  かくて種子は一瞬一瞬、この世界といふ、巨大な迷ひの華を咲かせ、かつ華を捨てつつ相続されるのであるが、種子が種子を生ずるといふ相続には、前にも述べたやうに、業種子の助縁が要る。この助縁をどこから得るかといふのに、一瞬間の現行の熏に依るのである。  唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。(三島由紀夫『豊饒の海』第三巻「暁の寺」)

toto77japa
質問者

お礼

再度のご回答、ありがとうございます。 私も、太田久紀著『唯識三十頌要講』を読んでみようと思います。 ありがとうございました。

toto77japa
質問者

補足

すみません。 kadowaki様の、ご回答を読み直してみて、新たな疑問が出てきました。 それは、「私という存在には実体がない」と言いながら、「輪廻転生の主体はある(例えば、マナ識や阿頼耶識など)」と言うのは、矛盾しているのではないか、という疑問です。 何故なら、輪廻転生の主体があると言うなら、それこそが「私」の実体ではないか、従って、「私という存在には実体がない」とは言えないと思うのです。 この両者の関係は、どう考えたら良いのでしょうか? もし、よろしかったら、再度お教え戴けると有難く存じます。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.8

唯識の周縁部について少し聞きかじったことのある者です。 私も以前に太田久紀著『唯識三十頌要講』を読みましたが、難解な『唯識三十頌』の注釈書が多い中で、本書は比較的分かりやすかったのを思い出します。 質問者さんがお読みになったのは、もしかして『唯識の読み方』でしょうか。 >『存在の空無性』については、全ての存在がやがて消滅して行くことは分かりますが、でも、存在している間は決して空無ではなく現に存在しているのですから、「依他起性」であるにしても、一応、それなりの存在形態で存在しているのだから、それを空無だと言われても、なんだかピント来ません 「全ての存在」が「現に存在している」にもかかわらず「空無」だというのは、単にわれわれが「全ての存在」が「現に存在してる」かのように信じ込まされているだけということだと思います。 実際に、『唯識三十頌』の冒頭(第一頌)には、「由仮説我法 有種々相転 彼依識所変 此能変唯三」(仮のものに囚われ、われわれはまるで自分や世界が実在するかのごとくに盲信している。この自分や世界はいろんな現象の形を取って、われわれの周囲で生起している。いずれもわれわれの心識が転成することで生じる。この原動力である識はただ三種のみである。)と説かれていますから。 われわれが何となく実在しているかのごとくに思い込んでいる自分や世界にしても、確たる実質性、実体性に裏付けられているわけではなく、やはり「由仮説我法」ということでしかないわけです。 そして、こういう認識の虚妄性を中観派の龍樹菩薩のように、「色即是空 空即是色」と一刀両断するよりも、説一切有部(一種のスコラ哲学?)にも通じる、一種の方便としてのロジックを活用し、認識の迷妄の有り様や仕組みについて、より明解に分析しようとしたのが瑜伽行派唯識なのではないでしょうか。 >「存在の空無性」とは「依他起性」のことを言っているのでしょうか? と言うよりも、「全ての存在」があたかもそれ自体の実質性・実体性に裏付けられて「現に存在している」かのようにわれわれが信じて疑わないことを、唯識では《遍計所執性》(=虚妄分別性)と呼び、さらにこういう分別そのものが実は「依他起性」(因縁性・因果性)に規定、支配されているだけと唯識は説いているということではないでしょうか。

toto77japa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >質問者さんがお読みになったのは、もしかして『唯識の読み方』でしょうか。 ↓ そうです。 >われわれが何となく実在しているかのごとくに思い込んでいる自分や世界にしても、確たる実質性、実体性に裏付けられているわけではなく、・・・。 ↓ No.4.のご回答:『空無性というのは「存在には実体が無い」と言う意味であって「実際には何も存在していない」という意味ではありません。帰結するべき実体が無いからこそ、万物は生じては変化し滅するというのが、無常という概念の根本です。』と同じことを仰っておられるんでしょうか。 確かに、「私」という存在は、単なる肉体ではないし、精神作用も、肉体に属する感覚器官に依存している部分については、肉体が滅びればなくなってしまうので、これも、永遠不滅の実体とも思えません。 そう言う意味では、「存在には実体が無い」という考え方は、頷けないこともないと思います。 しかし、「輪廻転生」のことを考えると、輪廻転生して行く主体は何か、それこそ「私自身」ではないか、とも思えます。 あわせて、第八識「阿頼耶識」について考える時、それは、肉体的・物質的なものに依存していない、ある意味「力」のようなものと考えられるので、肉体が滅んでも存在し続けるのではないかとも思え、これが輪廻転生して行く主体であり、これこそが「私」ではないのかと考えたりもしています。 だから、「私」という存在は、「物質的な実体がある訳ではない」と言う意味では「空」であり「無」であるけれど、物質に依存しない第八識「阿頼耶識」が「私」なのではないかと思えるのですが、この考えは、おかしいでしょうか? 第八識「阿頼耶識」のことを真に理解していないだけ、という事なのでしょうか?

回答No.7

#5の者です。 >どういう本を読めば良いか、具体的な書籍名などを、 >お教え戴けると大変有難く思います。 申し訳ありません。 中学生の頃、アインシュタインによる、「空間の重力ポテン シャルは負エネルギーで、物体は正エネルギーだから、 全宇宙のエネルギーの総和は常に0である」という指摘に インスパイアされて、「無からの相補分化」の宇宙論を考え 始めて、疑問に従って読んだ数百冊の量子論や天文学、 最近は超弦理論の本の少しずつが役に立ったので、どれか 1冊を挙げる事はできません(最近は日経サイエンスや 岩波の科学の拾い読みが多い)。 常に好奇心を持っていれば、自分の考えの至らぬ所を 自己顕示や自尊心のために糊塗することなく、“今一番 知りたい事”が湧いてくるはずです。 それについて記した本が、一番役に立つ本です。 とりあえず、入門という意味では、本屋のブルーバックスの 棚に行って、片っ端から開いてみましょう。 その中で『面白い』と感じたものが、「それ」です。 私がここに記述した内容は、言葉で覚える知識ではなく、 目に見えている全てのものの“感じ方”であり、日常の感受 の中に不断に反映できなければ「意味」はありません。 僕の孤独な30年を、僕の文章の手助けであなたが何年に 縮められるか分かりませんが、少なくとも僕の文章だけや、 何冊かの本だけによってではありません。

toto77japa
質問者

お礼

何回も、丁寧なご教示、ありがとうございます。 >常に好奇心を持っていれば、自分の考えの至らぬ所を・・・、“今一番知りたい事”が湧いてくるはずです。それについて記した本が、一番役に立つ本です。とりあえず、入門という意味では、本屋のブルーバックスの棚に行って、片っ端から開いてみましょう。その中で『面白い』と感じたものが、「それ」です。      ↓ そうですね。常に好奇心を失わないようにして、求めて参りたいとと思います。 >私がここに記述した内容は、言葉で覚える知識ではなく、目に見えている全てのものの“感じ方”であり、日常の感受の中に不断に反映できなければ「意味」はありません。      ↓ 私も、全く同感です。 いろいろと、ご教示、ありがとうございました。 これからも勉強して参ります。

回答No.6

 《一応、それなりの存在形態で存在している》こと,例えば「我有り」ですが,これを「我無し」とするのに抵抗がある素人が回答させていただきます。  これはいったいどうしてなのか,『私達の深層に潜在する利己性』というキーワードで,分かったような気がします。「我無し」とすれば自己が滅んでしまいます。利己性が「我無し」と認識することを拒んでいるのだと思いました。  およそ全ての認識が自他の関係である限り,あらゆる存在形態には必然的に利己性が伴います。自己が滅んで利己性が滅び,全ての認識が滅んで全ての存在形態が滅びます。  しかし,全ての存在は滅ぶのであるから空無であるとは,私も合点がいかぬところです。なぜなら,私が滅んでも他人がその存在を認識するであろうし,人類が滅んでもなお存在するものの可能性を否定することはできないからです。  ところが,「人は自他の関係でしか認識できない」(『私達の深層に潜在する利己性』)とあるがまま見据えますと,それを超越した場合の認識による存在はいったいどのようなものであるかという問いが生まれます。その問いに答えて「存在の空無性」が言われるのだと思いました。  すなわち,自他の関係でしか認識できない限り,その関係で認識しないのであれば,何も認識されないであろうということで,「存在は空無である」と言うことです。言いかえると,利己性から逃れると「存在は空無となる」と言うことです。利がなくなるのは惜しいことですが,同時に害もなくなるので,その面で有益と言うことでしょう。

toto77japa
質問者

補足

うーーん。 何か、良く分かりません。 ごめんなさい。

回答No.5

#3の者です。 >目に見えない何物かが存在しているから、その刺戟が >認識されるのではないかと思えるのです。 それが誰しもが感じる普通の感覚ですから、ご心配いりません。 そこにあるのは、因果律の問題です(感受が結果ならば原因 あるはず)。 しかし、そこに潜在的に生じるのは「時間の流れとは何か」 =存在だけではない先入物の発生です。 しかし、その時間が、存在と共に対発生するものだとすれば、 一石二鳥です。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」に於て、その無限の闇に認識体の 仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説 の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです自我仮説が 虚構の時間軸となり、空間の絶対化=無限不確定性を相補的に 分担(経験の蓄積による現象表面的定性化)する)。 それは、因果律的に過去から未来へと連続するのではなく、 認識によって宇宙が生じる=自我(感受表面=現在=光速)から 過去(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と未来(空間的広がり =予測=未来=光速下)が対発生しているという事なのです。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の 感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験 (過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がり は発生しているのです。 量子(光子)相互作用は、原理的には、瞬間作用とされます。 「静止」している(無の不確定性無限の潜在としての)自我仮説性 の方が、光速で移動(プランク定数の収束の時系列化)する事で 無の闇は、相対的な光の風になります。 四次元時空を記述する式において時間項にはC(光速)が掛けら れています=時間は光速で過ぎる。 自我仮説の相補としての、時空仮説に対する無の射影なのです。 相対性理論の四次元時空の式において、時間項は虚数になって おり、ゆえに空間軸と時間軸の等距離点に“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下 の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。 そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗 において負=過去(時間的反転)と等価になるのです(自我仮説 (時間の流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化が、過去 (経験=時間)と未来(予測=空間)の相補分化につながる)。 その認識体による大ざっぱな認識=階層現象表面的定性化に おける非光速性に基づく時空仮説に対する、無の射影が量子= エネルギーなのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補 として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という 無の射影として、存在は生じていると言えるのです。

toto77japa
質問者

お礼

何回も丁寧なご回答、ありがとうございます。 私も、昨年来、相対性理論や量子力学に興味を持ち、「図解雑学 相対性理論」(佐藤健二監修、ナツメ社)を読み、今は「図解雑学 よくわかる量子力学」(夏梅誠・ニ間瀬敏史著、ナツメ社)や「はじめての<超ひも理論>」(川合光著、講談社現代新書)などを読んでいる途中です。 なので、量子論に関するお話は、ある程度理解できるのですが、残念ながら、貴方様の仰っておられること、全てを正確に理解できるところまでは至っていません。 そこで、お願いなのですが、私もpsytex様と同じ様な理解・認識に至りたいと思いますので、そのためには、どういう本を読めば良いか、具体的な書籍名などを、お教え戴けると大変有難く思います。 なにせ、私は、物理学などは高校で習った程度で、いきなり高度な内容だと理解出来ないと思いますが、少しずつ前進して行ける様な読み物があれば、何冊でも、順次、勉強して行きたいと思いますので、ご教示の程、どうかよろしくお願い申し上げます。

回答No.3

「存在とは突き詰めれば無である」という言明に対する 最大の抵抗感は、『だって、このように有るじゃないか』 という感覚的な実感によるものである。 しかし、冒頭のような結論に到達した人間も、決して 世の中に反逆しようとした訳ではなく、その「自然な 実感としての存在感」をより正確なものにしようとした 結果なのである。 1つには、そうした「存在感」の実体が、“自分とは 独立した外的な物体”ではなく、感覚器官表面での 量子相互作用パターンに過ぎない(五感の相関した 経験の蓄積に於て、聴覚や視覚パターンなど先行感覚 に対して「味覚や痛覚といった生理的な感覚」が結び つけられた(遠くに至った時にどういう生理的感覚が 得られるか)にものが、空間的広がり)。 そうした仮説的な時空的において、原点であるべき 感覚主体が有限な広がりを持つ事で、仮説的相補分化 (=先入的本質性の無さ)が明らかとなる。 2つ目は、それに対して、そうした“感覚により描か れる存在性は、「認識性とは独立した外的な実体」を なぞったもので、『外的な実体』はその向うにある” という反論がある。 しかし、その「外的な実体」を正確に分析すると、 量子論の不確定性原理に行き当たり、本来「存在」の 意味する“位置と運動量”、“質量と時点”といった、 性質を兼ね備えたものではなく、例えば運動量を完全 に確定すると、その「性質」に実体を与える「位置」 が無限不確定になる(どこにあるか不明)、即ち、 「存在=有限な性質を兼ね備えた実体」というものは、 対象の本質を確定せず、階層現象的な表面をいい加減 に捉える事で派生するものなのだ(ここにも認識性が 介在する)。 確かに目の前の「コップ」は存在するようだが、その コップという物体自体は存在せず、珪酸などの分子の 並び方(並び方によっては石にもなる存在)に過ぎず、 その分子は更に珪素や酸素といった原子の並び方、 原子は素粒子の‥‥といった階層現象化のくり返しの 果てに、量子=不確定性原理のみに還元される。 このように、我々の日常的実感の、いわゆる「素朴唯 物論」は、相対性理論が我々の日常レベルの運動では ニュートン力学で近似できるようなものに過ぎない、 というのと同様な結論に至るのである。

toto77japa
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 仰っている事は理解出来ますが、納得までは行きません。 確かに、「外的な実体」を正確に分析すると、素粒子の組み合わせに行き着くのでしょうが、でも、それら素粒子の結び付き方いかんで、様々な違った物質が出来あがり、実際に存在しているのですから、素粒子が結び付いた結果として現に存在している物質は、それらを構成する素粒子と同じとは言えないと思うのです。 仮に、いつかは消滅するとしても、消滅するまでの間は、現に存在しているのですから、それが無であるとは、とうてい思えません。 「空」や「無」の定義にもよりますが、・・・。 また、「存在感」の実体が、“自分とは独立した外的な物体”ではなく、感覚器官表面での量子相互作用の結果だと言うところまでは理解出来ますが、その相互作用の結果を受領する目に見えない何物かが存在しているから、その刺戟が認識されるのではないかと思えるのです。 ありがとうございました。

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      無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと思い違いをするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。    

  • 存在の空無性について

    以前、ここで、同じ問題について質問させて戴きました。 http://okwave.jp/qa/q7314759.html?best_flg=true&isShow=open その時、siryuanさんからの回答の中で、『あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。でも、この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。』とのご回答が寄せられました。 そこで、教えて戴きたいのですが、『自分自身で真実を見極める』には、どうすれば良いか、お教えいただけると、その教えを実践してみたいと思います。 もし、この質問が、siryuan様のお目に留まれば、是非、お教え戴けますよう、よろしくお願い申し上げます。 この質問は、本当なら、あの時にしておけば良かったのですが、どういう訳か、あの時は、空無性へのsiryuan様のご回答に感じ入るばかりで、本日の質問の点については座禅でもすれば良いのだろう、ぐらいに勝手に思い込んでいて、『自分自身で真実を見極める』には具体的にどうすれば良いか、改めて再質問する事を思いつかないまま質問を締め切ってしまい、それ以来、その事を後悔し、悶々としていましたが、本日、思い切って再質問させて戴きました。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

  • ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • 宇宙が選択したこと: 存在

    素人です。 質問1:  物理の考え方には、認識できない物は存在しないと考えるそうです。そういう表現で合っているでしょうか。私は、そうは思わないのですが、理由としては、私の家の庭には、赤い花が咲いていますが、その事実を知っていても知らなくても、その花がそこにあることを私の隣人は知っているからです。つまり知覚による認識と、認識対象の存在・不存在は関連性が無いという考え方を 私はします。 物理の考え方では、この花の例はどうなっているのかなと思います。 質問2:  宇宙において空間というものは、特別な存在のようで、分子や粒子やもっと細かなヒモとか、光とか、何かしらのエネルギーとか、そういうものが、存在しない世界も 選択しえたろうに、どうしてまた、存在するということが選択されたのかなと思います。そういうものが存在するからこそ、空間があるのかも知れませんが。  私がたまたま、そうした素粒子やエネルギーが存在する宇宙側に生まれたからであって、何もない つまり 虚無(本当に虚無です、無の宇宙ではなくて)の宇宙(宇宙と呼べないかもしれませんが)においては、知覚機能をもった人間も何もないから 感じようがないのかもしれませんが、それでも 不思議だなと思います。

  • 人間の存在と生ゴミ

    宇宙は、それ自体だけでは存在できない。宇宙を見る(観測者)がいなければ(無)と同様である。だが、人間に宇宙の客観的存在の存在性を左右するチカラがあるのだろうか。人間の存在性(現存在)は自分を超えて宇宙と同等の価値を持つ。宇宙は一人の人間が作り上げた妄想だとも言える。 難しい話は置いといて、私が言いたいのはカラスの問題である。カラスはゴミ袋を破いて、中の物を物色する。そして人間に嫌われて(悪人)扱いされる。でも本当にカラスは悪人なのか、と私は問いたい。生ゴミを大量に出しているのは人間のくせに・・・ カラスは人間にイタズラをするために、ゴミ袋をつついているわけではない。むしろ逆だ。人間がカラスを招き寄せて、無理矢理つつかせているのだ。どうして人間は生ゴミ(残飯)を作り続けるのか?ココロ(宇宙はひとつ私も一人)な私に、誰か教えてください。 https://www.youtube.com/watch?v=we0mk_J0zyc

  • 青臭い質問ですが・・・

     無とは何か? という質問を見てなんとなく思いました。無は僕らが生きている間(死んでからはわからないのですが・・・)ないんじゃないのか。ということです。  なぜそう思ったのかと言うと「我思う、ゆえに我あり」だから全てを消し去っても自分が残るじゃん。とかそんなことを思ったのですが、でも果たしてその自分というのが、果たして本当に自分なのかという疑問を思ったわけです。  だからと言って、自分はなんなのか? と問いたいわけじゃありません。こうやって「自分」と書く「言葉」自体が自分なのか?と思ったわけです。  言葉がなかったのならば、「我思う」自体も無しなるわけで、(思うという行動が言葉を駆使しているからだと思います)じゃあ言葉が現実なのか? と問えばそれも違うと思うからです。(僕は言葉で物を認識しているわけですが、言葉がなくても何かは存在している。それが例え僕に認識できなくても僕じゃない人から《神様から?》見たら物はあると思うからです)  では無とは何か? 自分が死んだら無になるのか。とも考えたのですがそれも違うような気がします。(というか、死んだ経験がないのでわからないのです)  みなさんはどうも思われるんでしょう? 無とは自分がなくなってしまうことなんでしょうか。  もしそうであるならその認識している「自分」は「言葉」ではない自分なんでしょうか。

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 神の存在を証明できるか?(改)

    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

  • 《認識の無への還元》は 認識行為ではないのか

     (あ) 《物理学は、対象を分析しているようで、実は同時に認識手段も分析している事でもある》と いま認識しているのではないか?  (い) 《そして、対象は「超弦=量子定常波」、認識は「感受表面での量子相互作用」として、量子性に還元される》とやはりいま認識しているではないか?  (う) 《その量子が、仮説的時空への無の射影=認識の無への還元として得られる時、もはや「なぜ認識はあるのか?」という問いは意味を持たない》という認識が いまおこなわれている。その認識を無へと還元するのは このいまの人間の〔認識だけのではあるが〕意志行為である。  (え) 《全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる》という認識を いまおこなっている認識および意志の行為になぜ《先入化》してしまうのか?  (お) 《この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば(プランク定数hの収束の時系列化=物体の収縮=宇宙の膨張)、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ》というのは いまここでおこなっている認識行為ではないのか? その認識をおこなってしまえば もう人間の認識行為は消えてなくなるのか?  (か) なぜ《無への還元》なる認識をいまの認識に先入化するのか?  (き) なぜいまここなる時を止めてしまうのか?  (く) 認識を無に還元したから 自分は透明人間になるというのだろうか。  (け) なぜいま・ここにはいないかのような思考と振る舞いをするのか?  (こ) 《無への還元》は 単なる観念ではないのか? それとも量子相互作用をいま知覚しているというのだろうか。  (さ) 《認識は無に還元される》という命題の前にその認識とは何であるかを明確にしなければならない。生きているなら 《〈認識は無に還元される〉と認識しているわたしがいる》ということを明らかにしていなければならない。