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ただの思い違い

  無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと願ったりするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。  

みんなの回答

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8892)
回答No.1

幻想だとしてもその幻想が存在することが不思議ですね。

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  • 思い違い

      無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと思い違いをするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。    

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