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「観念」とは何ですか?

「観念」とは何ですか? 辞書的には、 1、基本は「物事に対して持つ考え」です。 2、哲学では「意識の対象について持つ主観的な像」です。 3、心理学では「具体的なものが無くても、それについて心に残る印象」です。 上記のように言葉にすると、様々な表現になり、正直、私は、 理解できておりません。ピンと来ないのです。 いったい「観念」とは、どんな場合に必要な言葉なのでしょうか? アバウトな言葉なのか? 「認識」とはどこが違うのか? もし辞書的な表現でない“何か”を知っていましたら、 是非、お教えください。宜しくお願い致します。

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回答No.3

分からなければ、その言葉を使わなければ良い。 世界は言葉でできているのではない。 得られたイメージに言葉は与えられるのだ。 もし、その言葉を用いなかったために、世界を記述し 切れなかったならば、その時には、そこにその言葉を あてはめれば良い。 それが、その言葉の意味なのだ。 言葉を以って言葉の意味を知る時、それは競走馬の 目隠しに過ぎない‥‥ゴールは見えても、それが どこに在るかは分からない。

OtamaFJWR
質問者

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ご回答ありがとうございました。 「確かにその通りだ」と思いました。 実際、「観念」を使う事は、ほとんどありません。 「観念論者」という言葉を言われた人が、以前おりました。 彼にはイメージが“ある”のでしょう。それに興味があります。

その他の回答 (8)

noname#156094
noname#156094
回答No.9

観念が昂じれば妄念 欲に迷えば邪念 一つに執着すれば執念 情に流されれば情念 悔しいのが無念 人を疑えば疑念 道理を言い聞かすのが正念 念、念、念・・・念ばかり 心の張り紙を次から次へと、剥がしたり、また張ったり・・・ 早い、早い 分析をしない心の張り紙が観念 分析をしてから張り出すのが認識 観は観想、念は憶念 いつでもすぐに取り出せるのが観念 もういいか・・・

OtamaFJWR
質問者

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noname#156094
noname#156094
回答No.8

観念しろ・・・とは、諦めろという事 諦めろという事は、崖っぷちに立たされて一つだけ選んで念じろ、という事 客観的に真実であるかどうかではなく ぎりぎりの主観的選択が観念 観念とは崇高であり、愚かであり、人らしくあるもの 認識という人の賢さの尺度では計れないもの 観念したか・・・

OtamaFJWR
質問者

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

OtamaFJWRさん、こんばんは。 「「意思」では、どうにもならないもの」が、「観念」でしょうか。 ・・・「念」と「認識」の違いでしょうか。 でも、そんな意味で「観念」したくないですね。

OtamaFJWR
質問者

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noname#221368
noname#221368
回答No.6

 自分が最も良く知る「観念」は「数学的定理」です。「数学的定理」は、現実とのつながりがなくても成立し得る論理手続きなので、「観念」だと思います。  ただし普通の「数学的定理」は、現実とのつながりを注意深く保っています。そのために「数学モデル」と「現実」とを区別できない事は、ままあります。  「数学的定理」はいったん証明されてしまえば、現実とのつながりがなくても、その論理手続き自体は否定できないので、それを一つの「具体的なものが無くても、それについて心に残る印象」という物理的現実と捉え、数学的定理は永遠普遍の真理という、現実の存在物と捉える人もいると思います。  同様に数学的(観念的)認識というのもあり得て、それはけっこう役に立ちます。

OtamaFJWR
質問者

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noname#150036
noname#150036
回答No.5

人は, 認識 ― 接触 ― 経験 ― 記憶(継続)--- 判断 ― 経験の解体 ― 将来への再構築 という,いわば現在を踏み越える能力を持つ. つまり,≪なんだろう≫ から ≪たぶんあれだろう≫ への変身である. この,≪たぶんあれだろう≫ が,「観念」であり, パラダイムである. ただし,パラダイムを取り去ることは出来ない. パラダイムを取り去れば,テオリアが根底にあり, テオリアを取り去れば,パラダイムが根底にある. このような状態を相補的であると言い,しばしば 太極図によって表される. たとえば,長すぎる孫の手で,自分の背中をかこうと しても,長すぎてかけない.そんなとき,同じく困って いる人の背中をかいてあげましょう. すると,その人が,長い孫の手で,あなたの背中をかいて くれるでしょう.この事象を観て,再構築した観念によって 表現するならば,相補再分化と表される. ああ アルケー いや 独り言です.(´ω`;)

OtamaFJWR
質問者

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noname#194996
noname#194996
回答No.4

>辞書的な表現でない“何か” これを言葉でない何かと解釈すれば、ここではお伝えできません。ここでの伝達手段は言葉しかないからです。 「観念」そのものはおっしゃる1,2,3 で表される意味を持つ言葉だろうと思います。でも観念という言葉自体はなにものでもないと思います。 >私は、理解できておりません。ピンと来ないのです。 >いったい「観念」とは、どんな場合に必要な言葉なのでしょうか?  アバウトな言葉なのか? 当然だろうと思います。言葉とはそのような、実際のものを恣意的に切り取る漠然としたものだからです。 その言葉自体を研究されるのなら、それを使った先人の書を沢山読まれて、どんなつかわれ方をしているか調べるしかないでしょう。そして、あなたがこれを使われたら、またその言葉に新しい観念が加わるのです。つかわれることによってどんどん豊かに多様になっていく。言葉とはそういうものだと思います。認識も同じようなものだと思います。

OtamaFJWR
質問者

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回答No.2

認識は、実際の事象に対して「ああ、なるほど」と知ること 観念は、頭の中で「こういうことなんだろうな」と思うこと もとは仏教用語。物事を一心に突き詰めて考えること。 転じて、もう後がないこと⇒観念しろ!

OtamaFJWR
質問者

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  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

一番簡易な言葉では「道」です。 柔道剣道華道茶道、世界全部を捉えるのではなく、ひとつだけの正道を選んで極める。それが観念。 認識は、ただ意識に捉えるだけ。観はあっても念がない。 自らが念じた結果、見えてくるものが観念。

OtamaFJWR
質問者

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