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超越論的観念論

「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道) 実は、この本を読む前から、存在に関する「この三種類」存在様式について、あれこれ考えていました、勉強不足なのでしょうが、書物にはっきり書かれているのを見るのは初めてです。 ところで、中島さんは「観念論者」ですから、問題ないのですが、私の中には、唯物論・観念論・二元論から、マルクス主義、果てはアナーキーまで、混沌と同居しています。 そうすると、3)は当面問題ないのですが、1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、と言う、この二つの表現は、比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 連休中、暇でお金のない、同志の皆さん、此処のところ額に汗、脳ミソに皺を刻んで、深刻に考えるような難問が見当たりません(酔っ払いの戯言ですから、各質問者の皆さん、さらっと流してください)。 さて、皆様、心は完全に、時間だけの中、空間には存在しないでしょうか。 酒の抓みにでもなれば、幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#86347
noname#86347
回答No.14

fishbowl66さん、こんにちは。 >比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 カントに則して言うと、 ここは中嶋先生のおっしゃる時間のみの存在、つまり心理的実在だけが可能となる、でしょうか。 なぜならカントはこう言っているからです。 「すべての表象は、それらが外的な諸物を対象としてもつにせよ、あるいはもたないにせよ、それ自体そのもので、心の規定として、内的状態に属するが、しかしこの内的状態は、内的直観の形式的条件、したがって時間に属するゆえ、時間は、すべての現象一般のアプリオリな条件であり、しかも内的現象(私たちの魂)の直接的条件ではあるが、まさにこのことによって間接的には外的現象の条件でもある。私が、すべての外的現象は空間のうちにあり、だから空間の諸関係にしたがってアプリオリに規定されていると、アプリオリに言いうるなら、私は内的感官の原理にもとづいてまったく一般的に、すなわち、すべての現象一般、言い換えれば、感官のすべての対象は、時間のうちにあり、だから時間の諸関係のうちに必然的に立っていると。」 つまり空間のうちにあるものは必然的に時間のうちにもある。 ところでfishbowl66さんなぜ実在ではなく存在と書かれたのでしょうか? 中島先生のお話では、「実在」というのは直観されうる対象のみということになりそうですね。 しかしカントを読むとこの「実在」について疑問が湧いてくるんです。 カントは原則の分析論の付録の最後の無の区分表のところで「実在性」についてこう述べています。 「実在性は何か或るものであり、否定性は無である。」 さらに続けて純粋空間および純粋時間について、 「これらは、なるほど直観作用の形式としては何か或るものではあるが」 ご覧になっていただければすぐ分かりますが、3番の「ens imaginarium」を篠田英雄は想像物、原佑は空想物と訳しています。 しかし天野貞祐は構想的実在と訳しているんですね。 空想物=実在なのでしょうか? 間違いがあったら何方か指摘していただければありがたいですね。 と言いつつ本日はこれにて失礼いたします。

fishbowl66
質問者

お礼

酔いが醒めてしまいました。 あれ、さっきまでしらふのはずが・・・ 質問文の中に、存在と実在と言う言葉か、両方使われていることは、承知していました。しかし、それは既に、中島さんの引用文の中に含まれているものですから、質問の文面からは、悩んだのですが、時節柄、意図的に外しました。 そこまで考えるられるとは、私の負けです。 >と言いつつ本日はこれにて失礼いたします。 うむ~声なし。変則ですが、お礼は補足にて。

その他の回答 (13)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.13

mmkyからの追伸 fishbowl66さん、酒飲みの論議は見ていて楽しいですね。ゲーデルが出てきたり、シュレデインガーが出てきたりでまことに竹林の七賢風でいいですね。観念論はある意味哲学者のロマンなんでしょうね。現時点でも時空間観念論は数学でもないし、物理でもないのでしょうね。物理数学的に証明されればそちらの領域でしょうが、おそらく霊科学のような新しい分野になりそうですね。 証明できてないから言いたいこといってもしかられないですしね。 七賢風論議になってますから私も七賢風なものも書き込んでおこうかなと、暇ボケでつれずれに! 遠い遠い昔、この宇宙ができる前のことです。想像もできないような巨大な意識エネルギーは、寂しさのあまりおもちゃを創って遊ぼうと考えたのですね。自分のエネルギーの一部でいろんなものをつくり具現化しよう。ただあるだけでは面白くないので動くような流れをつくろう。この二つがあればなんとかなるだろう。細かい設計図をつくって、さあやるぞと作り始めたのも気が遠くなるほど前のことでしたね。 この話を元にすると、空間と時間の流れは独立なものなんですね。源から永遠と裾野が広がる広大無辺の時間の大河の中の小船が空間のようにみえますね。アインシュタインは空間はエネルギーといいましたが、小船の乗組員としては立派な認識ですね。でも時間の流れはもっと巨大なエネルギーの流れですね。時間の流れから見ると地球など水の分子の1個にしかみえないですね。小船は時間の流れに逆らうことはできないように見えますが、なんとかさかのぼる事もできるようですね。川の流れのようにあるところは渦巻き、滝のようになり、しかし滔滔とした大河ですね。ちなみに渦巻きの部分では過去・現在・未来(の私)は隣同士ですね。 全てがエネルギーなんですね。空間も時間も元は同じエネルギーなんですね。それを2つの性質に分けてるのですね。2つの性質ですから3つの自由度があるということでしょうね。時間の私、空間の私、時空間の私、これはどれも独立で等価ですね。これが七賢風の回答ですね。 アインシュタイン君はえらいねでもまだ一つを明らかにしただけだよ。シュレデインガー君? 顔あらって出直して来い。ゲーデル君、素直でよろしい。わからないものはわからないでいいんだよ。 と朝から与太ってますね。

fishbowl66
質問者

お礼

mmkyさん、酔っ払いに、お世辞は禁物ですよ。 つい、調子に乗ってしまう。 幸い、まだ、暗くならないので、今のところ、かろうじて、しらふ。 実は、お昼に、久々にドイツの黒ビールに遭遇しましたが・・ 成る程、空間が先にあって、その後、時間が作られたのですか。 それゆえ、空間と時間は別のものである。非の打ち所がありません。 論理的には、完璧。 そこで、フーコやシモーヌ・ヴェイユのように、知の権力批判しても、かの、ゲーテルの刀で首を切られてしまうのですね。 とはいえ、アインシュタインは、ベルクソンにとっては躓きの石、シュレティンガーは私の愛読書の著者、ゲーデルは、私にとってはUFO、それでも、今夜も美味しいお酒が飲めそうで、暗くなるまで待って? 有難うございました。

  • cyototu
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回答No.12

#11です。 酔っ払いは始末に負えないですね。 人間には耳たぶが在る。これがなかったら前後は分らないですね。 私は、#9さんの詩が気に入りました。 試行錯誤は思考錯誤だ、なんて、新幹線は感心せん、に匹敵する歌心がある。 嗜好錯誤や、志向錯誤、指向錯誤、施行錯誤、至高錯誤、私行錯誤なんて言うのも在りますね。

fishbowl66
質問者

お礼

ほんと、酔っ払いは困ったものですね。 そうか、耳たぶですか、成る程と、耳たぶに触れてみる。 え~と、水羊羹、違う、羽二重もちでもない、あの無知無知・・・ cyototuさんお茶請に、一つ送ってくださいな。 おゃ、もう届きました、ワラビもち。

  • cyototu
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回答No.11

#9さんへ、酔っ払いが横入りしてしまいます。悪しからず。 >「物質が時間軸上でも幅を持つ」ものかどうかを証明できなければ、未来の人類や宇宙人がUFOで地球探索したり、幽霊が(質量や体積を持った生命体として実在するなら)出現可能な証明にならないからです。 ななんと、時間て幅が在るんですね。貴方一人をとっても、貴方の足は40才、貴方のお腹は45才、貴方の顔は35才、皮膚なんか30才、でも生まれてこのかた43才(違っていたらお許し下さい)、だから貴方は決して時間軸上の時々刻々の一点に存在しているわけではなく、幅を持った、専門用語で言うと波束のような存在なんですね。 物理学で未だに良く判っていないことに、この時間の幅が在るんですよ。物理学では、物理量の間に特別なペアが在るんです。(座標、運動量)、(角度、角運動量)、(時間、エネルギー)、、、。このペアを掛け算すると、必ず「作用」と呼ばれる特別な物理的次元を持ちます。物理的な次元とは、長さの単位mとか、時間と単位secとかの単位の事です。作用の単位がどういう物かどうかはここ話では重要では在りませんが、このペアは必ずいつも同じ作用の次元を持つ事が重要なのです。そして、物理学の基本原理によると、このペアは量子力学では各々必ず演算子と呼ばれる数学的な量になる。そして、数学によると演算子の測定値は一般に幅を持っているのです。 ところが、このペアの中に一組だけ例外が在る。それは(時間、エネルギー)のペアです。エネルギーは演算子なのですが、もしシュレーディンガー方程式が本当にこの世界を記述する最も基本的な方程式だとしたら、このエネルギーとペアになっている時間に対応する演算子は存在しないことが証明できるのです。他のペアではそんなことがないのにです。この定理はパウリという物理学の超天才が証明した定理です。 もし、本当に時間に対応する演算子がないなら、時間に幅がないことになってしまう。ところが上でも説明したように、貴方は時間の幅の中に存在していることも事実なのです。貴方の存在を説明できない量子力学なんて、もしそれが本当だったら、それを自然科学と呼ぶなんて烏滸がましいですね。だから、そのことに気が付いている物理学者の一部では、そのことを深刻に受け止めて、時間演算子が導入できるような量子力学の体系を作ることが出来ないかどうか遊びまくっている、なんか霞を食って生きているような連中もいるのですよ。 そんな時間演算子が見つけ出された暁には、いよいよmiko-desiさんの出番がやって来て、幽霊の質量とか体積なんて講義を、日本中のいろいろな所で報告されてる幽霊の足跡の話と絡めて、やってもらいたいですね。

fishbowl66
質問者

お礼

やや、これは困った。miko-desiさん、酔っ払いの物理学者にたぶらかされないで下さい。 私たちは、認識における形式として、私たちの内にある、あくまでも、形式としては私たちの意識のうちにある、時間・空間の概念の中で、酔っ払い同士の、戯言を、ほざき合っているのです。私たちの認識能力の外部にあって、すなわち、直観的に時間・空間の中で認識できない、量子力学や波動力学のごまかしに、目をくれてはいけません。 時間の幅は、生命体における持続、つまり、物質間の作用反作用の間に、待機・間を作り出した、生命・生態的見地で、時間・空間を考えるべきです。 ですから、心とか、心理的作用が、純粋に時間だけのものなのか、少なくとも少しは、空間的要素を必要とされるのか、その場合、その少なさが、比喩的物質的統計的意味合いで、時間の内にのみ存在すると、表現することが、妥当かどうか、と言うことです。 くれぐれも、此処の回答に、幽霊の質料に関する、試論を披露しないで下さいマシ。 あっ、ついですが、「ご回答者様」有難うございました(笑。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

#8です。 私は酔っぱらっている時でもいつも冷静で、自分を含めて周りの酔っぱらいの行動を観察しています。酔っぱらいって、刹那刹那に生きているみたいで、話の流れが連想ゲームになっており、話している本人も聞いている連中も、今なんでそんな話になったかなんてとっくに忘れながら話してますね。そのくせ本人は、自分ではいつも冷静に周りを観測していると思いこんでいる。何とも支離滅裂な、まるで私が酔っぱらっているとき見たいな連中なんですね、と酔っぱらっていても冷静な私は考えるわけです。 >物理学者さんは、これで、多くの人々が、真実に関して、共通の理解が得られると思われますか。 ゲーデルの定理って理論物理学で数学を使う時に、すごく役に立っているのですよ。私が、持ち前の例の天才的な物理的洞察で、 「ちちんぷいぷいのえいっ」 と出して来た宇宙の深遠な真理に関するキーワードを数学好きな連中に説明していると、いつもの事ながら、 「お前の計算は矛盾だらけだ、ここがおかしい、あそこの部分が数学的に厳密に証明されていない、云々」 とケチを付けて来る未熟な連中が必ずいるのです。そんなケチがつくと私はニヤっと笑って、 「数学数学とほざいておるが、<公理系が無矛盾な場合、その公理系の中で形式化できる論法によってその公理系が無矛盾であるという事実は証明できない>ちゅう定理がゲーデルによって証明されていることを、お前は知らんのか。わしが言っていることは、昨日の夜中の3時頃に、いつものようにわしの女神様が夢枕で微笑んでくれて『お前や、これが正しい宇宙の真理なんだよ』と尊くも忝くも宣って下さったのじゃ。かのハイゼンベルグ大権化様もおっしゃておるではないか、『あんたの話は、余りに数学的にきちっとしておる。そんな言質は仮令正しくとも、大して重要な発見ではない。重要な発見はその言質の中に必ず不可解な神懸かりがあるものじゃ』とな。厳密厳密とほざくような奴は、人のやったことを勉強して、なるほど判ったと悦に言っていられるようになれるかも知れんが、こちとら、人のやったことのない創造的な営みで、この宇宙を創造している神にも例えられる営みをしているのが判らんのか、喝。」 と捲し立てております。こんなとき、ゲーデルさんに心から感謝してしまうわけです。 ゲーデルさんに乾杯!

fishbowl66
質問者

お礼

ていへんだ、てえへんだ。 どうした熊さん。 ご隠居さん、あっちで、お侍様が、すげい刀振り回して。 おお、熊さん、落ち着いて、でどんな刀だい。 それが、ご隠居さん、金ぴかの刀身に、あのロゼッタストーンのような、変な記号と数字が並んでいるんですよ。 なんだって、ちょっと見せて御覧。 これは、ヒエログリフでなくて、蘭学系のアルファベットによく似ているな。 ふむふむ、 <公理系が無矛盾な場合、その公理系の中で形式化できる論法によってその公理系が無矛盾であるという事実は証明できない> と書いてあるな。 で御隠居、どんな意味なんですか? う~ん、まぁ~兎に角なんでもスパッと切れちゃうってことさ。 て~いうと、あれですかい、中国の古い諺、 使用売人の口上みたいなもんですか。 いゃ~それともちょっとちがうなぁ~ 何しろ、素人が使うと、自分を切っちまうんだから。 ・・・お粗末様。

noname#91067
noname#91067
回答No.9

>「嘘は、時間空間の中にあるのでしょうか」  まだ難しい、「嘘はどこにあるの」これでよいかな? 嘘は疑えることから、当たり前でなかったと気付けてから出発しますね。誰もが疑いようのないこと、気付けなくても信じていることで嘘の必要がないからです。(色んな思考構造があったとしても) 嘘は出発点にあり待てど暮らせど到着しないものでもあります。 証明にならないなぁ。もっと練らねばならない? 例えば「タイムマシン」を理論的に構築するには、相対性理論よりもっと重要な証明が要ります。「物質が時間軸上でも幅を持つ」ものかどうかを証明できなければ、未来の人類や宇宙人がUFOで地球探索したり、幽霊が(質量や体積を持った生命体として実在するなら)出現可能な証明にならないからです。 日常の感覚として嘘(過ち、誤り)と時間は不可逆ですが人間の責任能力は不可能なことでも何とか体裁を整えたり、上手くリセットするために思考錯誤、学習能力がある。物質としての人間の時間は刹那的だけれども精神的な実在としては時間軸上でもかなり幅がありますね。

fishbowl66
質問者

お礼

miko-desiさん、失敗してしまいました。 酔っ払いの話は、酔っ払いの話ですから、あまり、真面目に考えてはいけません。 考えることは、もっと大切なことを考えましょう。 基本的に「嘘」が問題だったようです。何でも良かったのです。 「愛」でも「真」でも、認識における、時間空間と言ったカントの直観とずれているかもしれない、対象(嘘・愛・真なんか)を使って、嘘ではなくて、時間と空間について、考えて欲しかったんです。もぅ、酔っ払ってから答えてください(笑。 とはいえ、この回答、美味しかったですね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

#7です。 やはり酔っぱらっていると計算違いをやってしまいますね。右斜め前から来た時の時間のずれは500分の1秒じゃなくて、2000分の1秒でしたね。2で割る所を2倍してしまいました。実は、こんな間違いはしらふの時でも日常茶飯事なのですが、プラスとマイナスを間違えたり、2乗と平方根をまちがえたり。孰れにしても、2000分の1秒の違いを区別出来るなんて、もっと驚異的ですね。

fishbowl66
質問者

お礼

ゲーデルの有名な論文(Godel1931)では、数理論理学におけるある種の(自然数の体系を記述できる程度に複雑な)形式的な公理体系の不完全性についての二つの主要な定理が証明されている。その内容は、完璧な厳密さにこだわらずに述べれば、おおよそ次の通り。一つ目の定理では、無矛盾な形式的な公理体系においては、真であることを証明することも、偽であることを証明することもできないような命題が存在することが示されている。(それにもかかわらず、その公理形の中では形式化できないような推論を用いて、その命題が真であると示せる。) 二つ目の定理では、公理系が無矛盾な場合、その公理系の中で形式化できる論法によってその公理系が無矛盾であるという事実は証明できないことが示される。 他方、矛盾を含んだ公理系を書き下すのはきわめて容易である。そして、ある公理系が矛盾を含んでいるとき、その公理系の中で形式化できる手段のみによる、この矛盾の証明が存在する。この証明をみつけるのはときには難しいかもしれないが、ほとんど「矛盾」と言う言葉の定義からして、証明は存在する。 「知の欺瞞」の一説です。ゲーテルの証明に関しては、解説書を3~4冊読みましたが、ほとんど、一字一句、違わないように感じてしまいました。 物理学者さんは、これで、多くの人々が、真実に関して、共通の理解が得られると思われますか。と、酔っ払いは言っています。有難うございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

#2です。 >音にも方向があるぞ、これは、どう噛み砕きましょうか。 酔っぱらいの戯言ですから、音がどんな方向に行っても酒のせいにしておきましょう。左右の耳の距離は20cm位しか離れていませんね。ところで音速は秒速330m位。これを計算を簡単にするために大胆に秒速200mと欺瞞に置き換えてしてしまうのが、優れた物理学者としての条件なのです。そうすると、完全に右から音が伝わって来る場合には、左の耳に到達するのに、右の耳より1000分の1秒遅れて来ますね。もし前方斜め右45度の角度からやって来ると、またまた大胆な欺瞞計算によると500分の1秒程の遅れで左の耳にやって来ますね。何とも驚きなのは、我々の脳味噌は、この時間的な遅れの大きさを区別出来ているのですね。たぶん貴方の腕時計にストップウォッチが付いているでしょうけど、100の1秒の文字を読み取れますか? それよりもっと驚くべき事は、我々動物の脳味噌はこの時間のずれを何と、時間のずれとは感じずに、その音が右から来たのか右斜め前方から来たのかと言う空間の方向として認識してしまうのですね。すなわち純粋に時間の中で起こった出来事の違いを、我々の脳味噌は純粋に空間的な方向の違いとして感じてしまうのですね。そんな脳味噌に取って、時間の中のみの存在とか、空間の中のみの存在って何なんですかね。ありゃ、これは質問者さんの元の質問でしたね。酔っぱらって来ると何が何だか分らなくなって来ますね。 酔っぱらいついでにもう一つ、 >ただ、物理学の方でも、哲学者を批判するだけでなく、もう少しやさしく説明できないものかと、いつも思っています。 そうですね。私の経験では、自分で何を言っているか判りながら物を言っている人って、誰にでも噛み砕いて判るように言えるものだと思っているのですが。きっと易しく説明できないのなら、その人も自分で何を言っているのか判っていないんじゃないですか。おっと、その人ってもしかしたら私のことだったんですね。じゃあやっぱり私は自分で何を言っているのか判ってないのか。

fishbowl66
質問者

お礼

>酔っぱらいの戯言ですから、音がどんな方向に行っても酒のせいにしておきましょう。 賛成。 しかし、音に方向がある、と言ったのは、いつもの体験。 今日も今日とて、自転車トレーニング、本日は、持久力、ノンストップで走り続けられる堤防沿いの道を走るのですが、偶に、車が走ってきます。後ろから車が来たときに、Aくそ、じゃまな車が来たな。対、えぃ、じゃまな自転車脅かしてやろか。と、Bおや、後ろから車が来ているのが背中で見えるぞ、来た来た、と左により減速。やや、この自転車、振り向きもせず減速して左に寄ったぞ、お主やるな。 このBのパターンが理想ですが、向かい風の時に、まだ、私は未熟のようです。 あれ、真正面と真後ろの区別はどうして付くの。 ひと汗かいた後の、冷酒は利きますね、ビールにしておけばよかった(笑。 こんなお礼は、刺身のつまにもならないですね。 >おっと、その人ってもしかしたら私のことだったんですね。じゃあやっぱり私は自分で何を言っているのか判ってないのか。 半分、当たり、後の半分は、省エネのために、つぎのお礼で。 有難うございました。

回答No.6

自分の勝手な推測で申し訳ないのですが。 今在る世界に照らし合わせてみると、空間と時間はそれだけでは、存在しないと思うので1.)2.)の存在は無いのかなーと思います。 個人的な考えで言うと、極端な話、空間とは物質化した過去及び現在であると思います。 なので、物質としての存在はないが、物質としての形態をとらない、概念とか、思考、文章としては存在できると考えます。 空間が動く事を時間だと考えると、空間の中に在る物質として存在している人間、その中に存在する心もまた、時間の中だけに存在している訳ではないと思います。 人間が頭の中でそう言った、考えや感覚を持つのは、作用する時間の関係であると思います。 例えば、地球の回転、太陽系の回転と言うように世界は多くの作用時間が重複し存在していると考えられ、空間に存在する、力の種類や性質によりその作用時間が変わってくると思われます。 人間や動物はただの鉄とか石ととかとは違い、自ら動く事により別の時間軸を持つゆえに、感覚的にそう言う捉え方が出来るのではないでしょうか。 大雑把な説明ですいません。まあ、自分の妄想なんでこんな考え方もしている奴がおる位に思って下さいまし。

fishbowl66
質問者

お礼

maimaisusさんのご回答が、正解かもしれませんね。 私自身は、この三分割を、一種の比喩的表現として考えていたのですが、比喩的と言って、それで実は納得できる訳ではないですね。ですから、厳密に考えると、どうなんだろう。 瑣末な問題と、些細だが重要な問題を、今回見分けられればと思って質問してみました。 有難うございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

#2です。 酔っぱらいついでに、普段考えていた時間と空間に関する愚考のクダを撒いておきましょう。 時間と空間と言うと、ついアインシュタインの時空を思い浮かべる方も一杯いると思います。この場合、時間と空間は幾何学の座標軸であると捉えられており、虚数の値を持つ角度の回転を通して、時間軸と空間軸を混ぜ合わせる事ができる静的な実態であると考えられています。ですから、そのように空間と時間を捉えている方には、空間の中にのみ存在するものとか、時間の中にのみ存在するものと言う命題が意味をなさなくなります。 ところが幸運な事に、我々の脳味噌と言う超複雑な物の中ばかりではなく、物質の世界という超単純な世界に限っても、複雑な物が放って置かれると自然に朽ちたり、あるいは単純な構造をした物が自発的に分岐を繰り返してどんどん複雑になって行ったりする現象が、実はこの宇宙の典型的な営みとして存在しています。生物の進化ばかりでなく宇宙の進化などがその例です。このような時の流れは、アインシュタインの時空の単純で静的な幾何学的時間軸として捉えられる時間ではなく、語り部が語り出す動的な時の流れです。本来これらの違った二つの概念にたまたま同じ符号の「時間」という言葉を当てはめてしまったために、今でも物理学者達は大混乱をして居ります。 時間だ空間だとほざく限り、その人は時空としての静的幾何学的な時間(これを慣例に習って「時間」と呼んでみましょう)を述べているのか、それとも、進化や崩壊を通して捉えられる、従ってエントロピーの増減として捉えられる時間(これをここでは一先ず「年齢」と呼んでみましょう)を述べているのか、それとも、そのような人類の到達した貴重な実証的時間概念の他にも、まだ、他の「時間」以外の適切な符号で捉えらられるような実証的な何かがあり、それが、上で述べた時間や年齢とどういう関係にあるのかを論ぜずして、超越論的観念論的な時間だ空間だなどという脅し文句を捲し立てられると、なんだかヤクザのたんかを聞いているような、あるいはソーカルさんのお遊びのポストモダンの論文を読まされているような気になってしまいます。 大分酔いが回って来たので、私のクダもこのくらいにして置きましょう。

fishbowl66
質問者

お礼

再度のご回答、有難うございます。 またまた、難解ですが、 第一段落を読むと、mmkyさんへのお礼は意味をなさなかったのか? 歯が痛くなりそうです。 >なんだかヤクザのたんかを聞いているような、あるいはソーカルさんのお遊びのポストモダンの論文を読まされているような気になってしまいます。 うむ~見透かされてますね、でも買い被りでしょう、『「知」の欺瞞』といった難しい本は、30分も読み続けられませんね、ただ、物理学の方でも、哲学者を批判するだけでなく、もう少しやさしく説明できないものかと、いつも思っています。 折角ですから、cyototuさんにもう一品、酒の肴をお送りしましょうか。え、要りませんか。 飲みすぎないように、二日酔いに気おつけてください。 この地方では、二日酔いには、味噌煮込みうどんが利きます。

noname#91529
noname#91529
回答No.4

観念論を伝統としてとらえるとすると、 時間の範疇には、「意志」が 空間の範疇には、「善」が 存在することになっています。 可能です。 もちろん、それぞれを体現する個が、隠滅してしまう 末法では、これを主張することが、難しいのですが・・・ 真理を捉えつづけようとだけするだけなら観念論は、  信仰の域を出ません。 行動と心について考えてみることが肝要です。 あとマルクス主義・アナーキズムはお勧めしません。 かっこいい人は多いみたいですけど、不幸になるだけですから・・・ 

fishbowl66
質問者

お礼

sanagi01さん、ご回答有難うございます。 善が空間とは、なかなか難しいですね。 マルクス主義といっても、分析派の論理だけですし、 アナーキーと言っても、組織やシステムの機能に関心をもつだけです。 食べられませんが、噛み付きませんから、ご安心下さい。

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    世界は最終的には物質、空間、時間といったものに還元されると思っています。 私は徹底的な唯物論者です。 だから、人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて、人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう。 この考えは変ですか? 唯物論では解明できないことがある、あるいは唯物論は間違っているなどの指摘がありましたらお願いします。

  •  『実体』

     『如来の実体』  『如来の実体は、また法体ともいふ。実体とは全体、何物であると云ふにつき古来、種々の学説がある。実体とは実在を意味することあり。或いは事物の形式を抽象して本質のみを表(ひょう)して実体と名(なづ)くる者あり。また普通の属性や偶性を区別して其の本質を実体とするあり。  また実体とは現象の諸々の性質の奥に在る本体にして、万有の原因なりと云ふあり。神学にては実体を以て神性を表わし、人格的差別を超越するものとす。プラトーがイデーを万物の実体原因とし、デカルトが他に依らずして存在するものを実体とす、即ち神であると。スピノーザは自身に依って存在し無限永久必然なる実態即ち神であると。  ライプニッツは実体は活動し得る存在即ち力であると。カントは経験により来らず即ち純粋なる概念である、また実体は存在の最後の主体であると。或いは実体とは雑多の諸々の性質を総合せる基礎であると云ひ、また実体は現象の物の種々に変化するに拘わらず、内性不変動のものであると。  今の実体とは世界性(せかいしょう)と衆生性(しゅじょうしょう)を超越したる実在の第一義諦の如来性(にょらいしょう)を実体とす。実体は世界と衆生とを超越して而も二性(にしょう)の原因であると共に二性の内存である。  実体の本質なる実在につきての諸説は或いは人間の意識の境(きょう)を超越して不可知的であると説く、吾人は自己の意識に現れ来(きた)るもののみを知る実在は不可知的であると。観念的実在論者は、実在は観念的のものにて可知的にて、吾人の観念と実在とは一体であると。また実在以外に現象なく現象即ち実在であるとの説もある。  今は曰くは実在は吾人の観念と同一本質にして、不断の活動は其の属性にして、吾人の意志に比(ひ)すべく、若し吾人の観念と同一本質ならざれば、吾人は如来性と冥合(めいごう)すること能はざるべし。吾人が甚深の観念に入りて冥合して真如と相応するは本質が同一なるが故である。  起信論に真如の性(しょう)は言語道断心行所滅の体なれども唯、証のみ在りて相応するとは是である。  実体論には古来種々の説あり、物心二元論あり、唯物論あり、唯心論あり、また唯理論あり。唯物論者は謂(おもへ)らく宇宙を構造する本質は、物質の原子もしくは電子が在りて、之が永恒不滅にして且つ其の勢力は常恒存在して、其の自然律によりて万物を造る。  人間の精神の如きも脳髄神経を構造する細胞の作用に外ならずと。故に精神などは物質の副産物に外ならぬ。永恒の存在は物質の原子のみと。観念論者の説によれば心、生ずれば一切の法、生じ心滅すれば一切の法滅す。天地万物の色相は唯心の変現に外ならずと主張す。また唯理論者は云はく、物質いかに精妙なるとも物より精神の派生すべしと思はれぬ。また心質より物質の出現すと云うことも考えられぬ。  故に現象の上にては物と心とは異なれども其の実体は物心不二の理体である。之を仏教では真如と名づけてをる。即ち宇宙を包含する処の普遍的概念は変化極まりなき中に不変の法則が存在し之に依りて万物を生成す。其の物質と心質との原因なる統一的存在が即ち真如である。仏教にいはゆる真如とは、物心不二の理体なれども活動の主体なるが故に、心真如と名づけ物心一如の心である。  真如即ち実在は物心不二統一的存在を、物質に重きを置きて観る者が唯物論者にて、心質に傾く観方(みかた)を唯心論者とす。  心真如、即ち実体の本質は物心無礙超時間超空間的にして、而も偏時間偏空間絶体永恒万物内存の大心霊体とす。万物内存の故に内(うち)に非ず外(そと)に非ずして、而も内外(ないげ)に偏在せる絶対である。物心を統(す)ぶる故に大霊態とす。之を華厳に総該万有心(そうがいばんぬしん)と云う。之を宗教的に云わば法身毘盧遮那、即ち弥陀の法体(ほったい)と名づく。一切万法の本体にして一切生起(いっさいしょうき)の一大原因である。』(弁栄聖者著・人生の帰趣P172~175)  ☆ だいぶ長くなってしまって、あれこれと心配になってきてしまいましたが、以下に質問です。  サラブレッドの御御脚を持つ“帰依者”としましては、深く理解は出来ないものの、なるほど、なるほどと、心に染み入ってくるのです。  だからこれを現代のお経であると捉えているのですが、この思いは幼稚すぎますでしょうか。  ここ哲学カテの住人の皆様の学ばれた知識を以て、御判断を仰ぎたいのです。  また文章の中の「第一義諦(だいいちぎたい)」の意味がよく分かりません。  辞書を見ても出ていませんでした。  分かる方いらっしゃいますでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • 今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いです

    今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いですね。 私の頭の中から現れたというのは間違いです。さて、どこから現れたのでしょうか。 本当の自分は何かということで悩んでいる方をみます。そして、二元論での回答が多いことに驚きました。 私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。「自分」というものがあると思っていることが間違いです。私たちの本性は、実在でも、非実在でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。「色即是空」もありません。「絶対」もありません。「空」もありません。それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。 言葉で考えているものは、すべて幻想となります。言葉を観念を離れてください。ありのままをみてください。「色即是空」、「空」を観念でとらえてはいけません。 外の問いを出してみますね。 質問1「一羽のカラスが鳴きながら飛んでいきました。その鳴き声はどこから現れたのでしょう。そしてどこに消えたのか。」 質問2「両手を叩くとパンと音がするでは片手の音はどんな音か。」(禅の公案) 二元論だと答えがでないでしょう。 もし、分る方は回答してみてください。でも、回答した瞬間に間違いとなりますよ。 私は誰か。これを見ているのは誰か。これを聞いているのは誰か。と常に問うてみてください。 私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。 私・・・は・・・誰か・・・。どこから現れますか。 私は誰か。という問い自体には意味はありませんよ。 さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。

  • ビッグバン宇宙論はやはり変である ー その4

      前回からの続き その1 http://okwave.jp/qa/q7827007.html その2 http://okwave.jp/qa/q7835043.html その3 http://okwave.jp/qa/q7836498.html 宇宙の膨張について。 ここではこの1点だけを考察したい。 ビッグバン宇宙論は宇宙は膨張していると主張する。 では宇宙の膨張とは何を意味するのか。 宇宙の膨張とは空間の膨張を意味するのか。 しかし全てのものが一様に膨張したのではそもそも膨張の概念が成立しない。 少なくとも膨張するものと膨張しないものがなければならない。 この観点からすると空間には少なくとも2種類なければならない。 膨張する空間と膨張しない空間である。 宇宙が膨張しているのであれば膨張する空間とは宇宙の空間を意味し、これとは別に膨張しない空間がなければならない。 その膨張しない空間とは宇宙でない空間を意味することになる。 では宇宙でない空間とは何なのか。 それは数学的空間のことではないのか。 数学的空間と宇宙的空間は別物であるとゆー考え方なのであろーか。 数学的空間の中で宇宙的空間が膨張していると主張しているのであろーか。 つまり宇宙的空間が膨張していよーと、膨張していまいと数学的空間は独立に存在するとの考え方なのであろーか。 そして数学的空間と宇宙的空間の間に境界が存在することになるのか。 ビッグバン宇宙論は何を想定しているのか。  

  • 独我論と日常感覚

    はじめまして。 似たような話題は「主観客観」等の トピックスにて今までも議論しつくされて いるのかもしれませんが、 この世界で現象することは全て 自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、 自分の外に実在する存在者などない、とする 独我論は、 私がいままで経験してきた、自分と世界のあり方の 一つの説明としてある説得力をもつのですが、 日常的な感覚では、 自分と同じような「独我」が自分の外に存在していることを 前提してこのような質問などしており、 思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。 このような乖離に対して、どのような調停、 が可能でしょうか。 よろしければ、ご教示ください。

  • 相対論の問題なんですが。

    相対論の授業で問題を当てられたのですが、 問題の意味すら分からないので、どなたか 詳しい方の助言をお願いしたいです。 空間的に離れている2点A,Bで起こる事象x、yは、 常にこの二つの事象同時に観測するような慣性系が 存在し、それゆえxを先、yを後、またyを先、 xを後に観測するような慣性系が存在することを、 空間1次元(時間も1次元)のMinkowski空間で 解説する、 という問題です。 回答としてどのようなことを導いていくべきかが 分かりません。 どなたか分かる方がいらっしゃいましたら助言、 また参考書などを教えていただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?

     または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?  つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。  質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。  主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が  有なのだ。  無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、  現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)  と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)  『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として  の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい  う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)  としての量子(感受表面~超弦)。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?  (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?  (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?  (4) ですからたとえば:  ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。  ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?   (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?  (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?  (7) さらに畳み掛けるようにですが:  ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。  ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?   (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。  ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。  ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。  それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。  (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。  (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。  ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。  ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。  (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。  (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 勉強をしなければいけないという強迫観念?がある

    現在大学3年生ですが、どうも勉強をしなければいけないという強迫観念のようなものがあります。大学に入る直前くらいからこのようなものがありました。 遊んではいけない、と何をしてても勉強をしなくてはいけないような気持になってしまい、遊びたいけど、遊ぶ時間があったら勉強をしなければいけないと思ってしまいます。 大学3年生になりそろそろ就職活動も意識しなければなりません。 勉強ばかりやっているというよりはもっと外での活動をしたほうがいいのではないかとは思いますが、どうも勉強しなければという思いが消えません。 どうしたらこのような思いが消えるでしょうか? みなさんにもこのようなことはありましたか?