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超越論的観念論
「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道) 実は、この本を読む前から、存在に関する「この三種類」存在様式について、あれこれ考えていました、勉強不足なのでしょうが、書物にはっきり書かれているのを見るのは初めてです。 ところで、中島さんは「観念論者」ですから、問題ないのですが、私の中には、唯物論・観念論・二元論から、マルクス主義、果てはアナーキーまで、混沌と同居しています。 そうすると、3)は当面問題ないのですが、1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、と言う、この二つの表現は、比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 連休中、暇でお金のない、同志の皆さん、此処のところ額に汗、脳ミソに皺を刻んで、深刻に考えるような難問が見当たりません(酔っ払いの戯言ですから、各質問者の皆さん、さらっと流してください)。 さて、皆様、心は完全に、時間だけの中、空間には存在しないでしょうか。 酒の抓みにでもなれば、幸いです。
- fishbowl66
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fishbowl66さん、こんにちは。 >比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 カントに則して言うと、 ここは中嶋先生のおっしゃる時間のみの存在、つまり心理的実在だけが可能となる、でしょうか。 なぜならカントはこう言っているからです。 「すべての表象は、それらが外的な諸物を対象としてもつにせよ、あるいはもたないにせよ、それ自体そのもので、心の規定として、内的状態に属するが、しかしこの内的状態は、内的直観の形式的条件、したがって時間に属するゆえ、時間は、すべての現象一般のアプリオリな条件であり、しかも内的現象(私たちの魂)の直接的条件ではあるが、まさにこのことによって間接的には外的現象の条件でもある。私が、すべての外的現象は空間のうちにあり、だから空間の諸関係にしたがってアプリオリに規定されていると、アプリオリに言いうるなら、私は内的感官の原理にもとづいてまったく一般的に、すなわち、すべての現象一般、言い換えれば、感官のすべての対象は、時間のうちにあり、だから時間の諸関係のうちに必然的に立っていると。」 つまり空間のうちにあるものは必然的に時間のうちにもある。 ところでfishbowl66さんなぜ実在ではなく存在と書かれたのでしょうか? 中島先生のお話では、「実在」というのは直観されうる対象のみということになりそうですね。 しかしカントを読むとこの「実在」について疑問が湧いてくるんです。 カントは原則の分析論の付録の最後の無の区分表のところで「実在性」についてこう述べています。 「実在性は何か或るものであり、否定性は無である。」 さらに続けて純粋空間および純粋時間について、 「これらは、なるほど直観作用の形式としては何か或るものではあるが」 ご覧になっていただければすぐ分かりますが、3番の「ens imaginarium」を篠田英雄は想像物、原佑は空想物と訳しています。 しかし天野貞祐は構想的実在と訳しているんですね。 空想物=実在なのでしょうか? 間違いがあったら何方か指摘していただければありがたいですね。 と言いつつ本日はこれにて失礼いたします。
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「三種類の存在様式」は点と線と立体、そして時間の次元の存在様式とは違っているかもですね。 観念だと場や時間も無視できますから「状態の自由度」と「抵抗力」を物差しにしているかもしれません。 固体、液体、気体というふうな実在状態の自由度です。常識は安定しているのが望ましい。想像力は感化されたり膨らむのを期待する。どちらも意志があるとするものへ抵抗があって示される自由度。温度差かもしれません。数学自体に質量や場や温度はあるものでしょうか? 観念論詳しくないのでアテになりません。カントや中島さんの本を読んでおらないし、一応飲んでたので混ぜてもらいに来ました・・・。適当な話ばかりですスミマセン(飲んでなくてもだが)
お礼
miko-desiさん、そういえば、ご無沙汰でした。 今回の質問、見透かされていますが、わざと、難しそうにしてあります。 miko-desiさんには、裏返して、わかりやすく聞いてみましょうか。 「嘘は、時間空間の中にあるのでしょうか」 まだ難しい、「嘘はどこにあるの」これでよいかな? つまり、こんなつまらないことを考えて、楽しんでいただければ幸いです。ほんと、酒の肴です。 有難うございました。
- cyototu
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一酔っぱらいの戯言を述べさせてもらいます。 >1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、 中島さんがどう考えているかは私には見当がつきませんが、私は1)は絵画的存在、2)は音楽的存在と理解して来ました。私はこれを、論理を理解する時に使っています。そう言う時には1)絵画的論理、2)音楽的論理と言います。音楽は解析的な数学のように時系列的論理を持っており、Aの音階を持った音がBの音階を持った音を導き、Bの音がCの音を導き、、、と論理が展開されます。一方絵画では、決して山が東屋を導き、東屋が月を導きと論理が展開されては居らず、全体が収まる所に収まっていると言う、空間的な相関を把握することで論理の全体が時系列を通すことなく空間的に一気に見る者の中に入って来ます。 もちろん、音楽にも単に隣の音との関係ばかりではなくて、数秒前、数分前に聞いた音や旋律を頭が覚えていて、今聞いている音とその記憶の音との長距離相関を認識して、その全体を一瞬に味わうと言う高度な楽しみ方が必要になるのですが、それでも、現在と過去の相関を認識し、未来の音を予測し、その予測通りになったり外れたすることを楽しむ芸術ではありますので、一向だけを流れる単純な時系列だけを楽しんでいる訳では在りませんが、やがり時間的にのみ意味のある存在です。 物事の認識には、時間なら時間、空間なら空間に限った同類の間にある因果的論理や、あるいは時空の中に在る因果的論理を通してなされる認識法も在りますが、その他に、それらをゴチャゴチャに混ぜながら短距離相関や長距離相関を感じ取り、自分の脳の描いている世界の在り方を認識する方法も在ります。物理学ではこの相関と言う言葉なり概念は、単純な時空の中の相互作用と言う形で表現される物ではなく、確率と言う概念、すなわち、ここに具体的に起こっている事象ばかりではなく、それが起こり得る事象の集合の全体の中に在る関係を指す量的な概念として、専門用語では確率過程として定義させるものです。私は中島さんの本は読んだことが在りませんので、この質問欄の表現だけで判断してしまいますが、中島さんの存在に対する認識の仕方は観念論だか何だか知りませんが、我々の埋め込まれているこの世界を我々の脳味噌が実際に見ている見方を余りにも狭めてしまっているようで、折角人間の認識の仕方の持っている多様な自由度を制限した物の見方になっているように思えてしまいました。
お礼
cyototuさん、流石に難しいお話ですね。 今晩の、酒の肴にはもってこい、お酒を調達しておきましょうか(笑。 難しすぎて、噛み砕くのに時間のかかるスルメのような、 取り敢えず、こちらからも、酒の肴を送っておきます。 音にも方向があるぞ、これは、どう噛み砕きましょうか。 有難うございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>>連休中、暇でお金のない、同志の皆さん。 見透かされてますね。その一人ですね。 >>比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 可能ですね。 まず空間のみですが、野球で百キロ以上の速度のボールが止まって見えたり、剣道で目にもとまらぬ速さで打ち込まれる竹刀が止まって見えたりしますね。心が事象を捉えているのでしょうが時間は限りなくゼロで静止画のように見えるのですね。この現象は訓練すればおそらく誰しも経験できるものでしょうから、意識が空間のみにありうるということは正しいですね。 次に時間ですが、意識が光りの速度で飛んでいるという経験をする人がいますね。時間は動きですから動きが意識という場合ですね。 そのほかに、過去から現在までの自身の意識を全て時系列に思い出すという現象もありますね。これも特徴的な時間のみの意識ですね。 どちらも極端な例のようにも思えますが、肉体的にはPCの前にいるようで、意識的にはfishbowl66さんと話しているように感じますから、空間的な存在のみは容易にあるでしょうね。 意識は集中すると時間から外れやすいですからね。 ・・・暇につられて意味不明の書き込みですかね。・・酒の肴程度にお読みください。
お礼
mmkyさん、いらっしゃいませ。 うむ~、二日酔いのオッサンは、 このご回答を読んで、 意識は、空間のみにも時間のみにも存在しているようです。 意識が、空間の中のみを、時間の中のみを移動することは判ります。 では、同じ意識が、時間から空間・空間から時間へ飛躍する事になりますか。 mmkyさんには、質問が簡単すぎたかもしれませんね。 有難うございました。
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お礼
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