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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

amaguappaの回答

  • amaguappa
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回答No.2

以下叩き台としてご利用ください。 フッサール、シェラー、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスの読者からの反応は考察のお役に立つと思います。 それから、竹田の学生や読者がどういう反応を示されるのか楽しみです。 手抜きですみませんが、愚拙の設問のお礼欄で複数回書きましたので転載させていただきます。 http://okwave.jp/qa/q7011950.html 【「事物があると経験できる」から「経験すると事物があらしめられる」へ切り替えるときに(還元)、何かを意識するのではなく流れそのものである意識が志向性を保っていたり同一性の定立を目指していたりするという特質をもって何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】 【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】 【現象学って経験しかみつめないんです。それで、時間をみつめることになったり、志向性そのものを見つめることになったり、意識や認識をみつめることになってしまうんです。】 【赤は色覚だから見る体験ですが、例えば熟し実や夕焼けや花を見て経験するカテゴリに関連付けされ、見ている意識の持続においてぶれなく現出してくるので、存在として認識した像を結ぶことができるんでしょうね。初めにあったものごとのことなんてわかりませんでしょう、現象学では。】 【知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず、経験の対象について一個別的なものにとどめず、総称的な全体概念を把握できるということなんです。】 【たとえば、シャツのボタンが、あなたの知っているボタンの具体物一つ一つであることを棚上げして、 ボタンという形相と結びついているということ、 あなたの知らないボタンがどれほど無数にあるか知れないのに、存在するボタンの全てを一つずつ確かめなくても、ボタンをわかっていること、 これが、全体の明証性を問わずにいられる本質観取という出来事です。 そして、さらに言えば、経験において時間の過程であるボタンの現出がずっと同一のボタンでありつづけるための志向性があること、これが本質観取という、明証なき実在の知覚の事態です。】

bragelonne
質問者

お礼

 催促してしまってすみません。ご回答をありがとうございます。  竹田青嗣が そんなにかかわっているのですか。  シェラーという名が ヰキぺには見られない名ですね。  いちど目を通しているご文章ですが あらためてまなびますので まづは前もってのお礼の言葉を申し述べるまでとします。  ありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 すみません 不勉強を省みず――もしくは 不勉強であるゆえに―― 大胆な尋ね返しをおこないます。  ご説明にしたがうならば その内容は 例のプロティノスの弟子であったポルピュリオス(234~305以前)の書いた『イサゴーゲー』における分類論(カテゴリア論)と同じであるように思ってしまうのですが いかがでしょう? (新プラトン主義の系譜ですね)。  ▲ (ポルピュりオス:イサゴーゲー) ~~~~~   類とは何か 差異とは何か 種とは何か 特性とは何か 付帯性とは何かを知ることは・・・定義を下すためにも また総じて区分と論証の仕事に対して これら(五つのもの)の考察は有益でありますから・・・手短に いわば入門書(イサゴーゲー)風に・・・試みましょう。   ・・・  1 類(ゲノス)について  ・・・  種を異にする複数のものに対して 何であるか〔という問いに対する答え〕の中で 述べ帰せられるものが 類である。例えば 動物がそうであると。  というのは 述べ帰せられるもののうちで あるものは一つのものだけについて述べられる。例えば ソクラテスやこの人やこのものなどだけについて述べられる。  しかし他のものは 複数のものについて述べられる。例えば類や種や差異や特性や付帯性は 特定の何かにではなく 〔多数のものに〕共通的に帰せられる。  類とは例えば《動物》 種とは例えば《人間》 差異とは例えば《理性的》 特性とは例えば《笑える》 付帯性とは例えば《白い》《黒い》《坐っている》である。  このように類は一方において 複数のものに帰属せしめられ述べ帰せられるという点で ただ一つのものだけに対して述べ帰せられるものとは異なるものであるし  他方において 複数のものに対して述べ帰せられるものに比較するならば  まづ種とは なるほど種も複数のものに対して述べ帰せられるのではあるが しかし種において異なるものにではなく数(* 個・個体)において異なるものに対して述べ帰せられるという点で 異なっている。  例えば人間は種であって ソクラテスやプラトンに述べ帰せられるが この両者は種において相互に異なるのではなく 数において異なるのである。  また動物は類であって 人間や牛や馬に述べ帰せられるが これらは単に数においてだけでなく 種においても相互に異なっている。  次に特性と比較すると 特性はただ一つの種――つまり特性がそれの特性であるところの種――と この種の下の個に対して述べ帰せられる。〔例えば《笑える》は人間という種だけと 個々の人間に対して述べ帰せられる〕のに反して  類は一つの種にではなく 複数の異なる種に対して述べ帰せられるという点で 類は特性と異なる。  さらにまた差異および共通的付帯性と比較するならば この二者が種を異にする複数のものに対して述べ帰せられるけれども しかし《何であるか》〔という問いへの答え〕の中で述べられるのではないという点で 類はこの二者とも異なる。  というのは この二者が述べ帰せられる当のものが――今言ったように――《何であるか》の中でではなく むしろ《どのようなものであるか》の中で 述べられるからである。例えば《人間とはどのようなものであるか》という問いに対して 《理性的な》とわれわれは答えるし また《からすはどのようなものか》に対して《黒い》と答える。  このばあい《理性的》は差異で 《黒い》は付帯性である。他方《人間とは何であるか》と問われたばあいは 《動物》とわれわれは答える。動物は人間の類であった。  かくして類は 複数のものについて述べられるという点で ただ一つの個体だけに述べ帰せられるものから区別され   また種を異にする複数のものに述べ帰せられるという点で 種としてあるいは特性として述べ帰せられるものから区別され   さらに《何であるか》の中で述べ帰せられるという点で 差異および共通的付帯性から区別される。  この両者は 両者が述べ帰せられるところのそれぞれのものが《何であるか》の中でではなく 《どんなものであるか》 あるいは《どのような状態のものであるか》の中で述べ帰せられるのである。  したがって 上であたえられた類の粗描は 少しも余計なものを含まず また欠けたところもないのである。   2. 種(エイドス)について   ・・・     (水地宗明訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~  【現象学では・・・  微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】  ~~~~~  ☆ というようですと 知覚をも引きこんで本質観取すると考えられますが その点ではポルピュりオスの場合 イサゴーゲーなる小冊子では そのことに無頓着のようです。  ▲ (ポルピュリオス 前掲書・まえがき) ~~~~  例えばそもそも 類と種に関して   1. それらが客観的に存在するのか それとも単に虚しい(対応する実物のない)観念としてのみあるのか   2. また存在するとしても 物体であるのか非物体的なものであるのか また〔非物体的であるならば〕離在可能な〔物質から独立して存在しうる〕ものなのか  3. それとも感覚対象の内に これらに依存しつつ存在するのか  という問題については 私は論じることを回避するでしょう。このような仕事はきわめて深遠で もっと大きな探究を必要とするからです。  ~~~~~~~~~~~  ★ ・・・何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】  ☆ ポルピュりオスらは この純粋意識と呼ぶこともなく 概念整理のために類・種・特殊・個といった分類論を得ているのでしょうね。  次の知覚の問題にも触れないということのようです。  ★ ・・・ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】  ★ 明証なき実在の知覚の事態  ★ 知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず  ☆ この中で 《明証性》の問題については 議論が分かれましょうか?  類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。  リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?  もし詳しく細かくみれば フッサールもこうした分類理論についてとうぜん触れているということでしたら どうぞお見逃しのほどをお願いいたします。  * 何だか このような《返り討ち》をねらって ご回答を要請したかたちになったかにさえ見えます。  * 《志向性》が扱われることは おおきな違いでしょうか?  * 《直観》というよりは ふつうの概念整理であるように捉えられます。それゆえにも《観取》といった表現を用いるのでしょうか?  * せっかくの修復にふたたび傷が入るようでしたら 削除しようかとも思いましたが すべては学問のため ひいては日本の復興のためとお考えいただくわけにはまいりますまいか? (でもわたしのこの物言いは すでにいやというほど浴びせられているのでしょうね。わたしが知らないだけで。だとしたら その辺のことをご説明願えるかとも)。  * あぁ 最後の決断としまして 清水の舞台から飛び降りましょう。  

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