フッサールの純粋意識とは?エポケーともののあはれについて

このQ&Aのポイント
  • フッサールは「エポケー」という概念を使って世界の自然命題をカッコに入れることを提案しました。
  • エポケーにより純粋な現れとして現象を研究し、純粋意識が得られると述べています。
  • フッサールの方法は現実に帰って来た時にももののあはれを感じる状態だと言い、それは幼児の聖なるあまえと同じ筋の状態であると述べています。
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フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

 《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

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noname#207067
noname#207067
回答No.1

<<あは!>> かどうかはわかりませんが タウマゼインはどうでしょうか。 タウマゼイン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%82%A4%E3%83%B3 でも、ブラジュロンヌさんは無意識を否定していたような気がするけれど、 いくら意識を遡っても、 意識の下に無意識があるとすれば 根底が揺らいでしまうのではないでしょうか。 無意識ではなくても、社会的な制度とかの構造でもいいですが。 でも、これは要素還元主義か。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (ヰキぺ:タウマゼイン) ~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%82%A4%E3%83%B3  タウマゼイン(希:θαυμάζειν、thaumazein)とは   「驚き」、「驚異」、「驚愕」といった意味を持つギリシャ語。   主に哲学の領域で「知的探求の始まりにある驚異」を表す言葉として使用される。  身近な日常の中にある些細な出来事の中に知的理解が及ぼない物事を見いだした時、人は自分の周囲すべてが謎・困惑(アポリア)に包まれている感覚を覚える。このとき体験される驚き、驚異、驚愕のことをタウマゼインと言う。  こうした驚異は精神的高揚を伴う。しかし同時にそれは日常的世界観の崩壊を予見する不気味さも併せ持っている。それゆえこうした驚異と向き合い続けることは、時に精神的な苦痛を伴う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 《おどろき》は 《えっ? あれっ? なんだろう?》という感じでしょうか。そしてそこから ううーん これは どうしたことか しらべて見ようとする。ようには思います。《「知的探求の始まりにある驚異」を表す言葉》だとすればです。  ただし  ▲ 些細な出来事の中に知的理解が及ばない物事を見いだした時  ☆ とも言っていますから 《あは!》とじゅうぶん重なるとみるべきでしょうか。タウマゼインは 範囲が広いのでしょうか。  《あはれ》は おそらくすでにその光景を受け容れじゅうぶん胸の奥におさめているといった感じもあるのではないでしょうか。   こころなき   身にも   あはれは   知られけり   鴫立つ沢の   秋の夕暮れ  それに対して 《あっ? あれっ? 何だろう?》とおどろく場合には まだ腑に落ちないといった探究心をうながしつつ その光景などに見惚れている。のでしょうか。  その点でエポケーは 腑に落ちないとしても一たんは判断を打ち捨てているのではないか。  わたしの感触では そのとき 《思考》はおこなっていてもよいというようにさえ感じます。つまりは 感性の中断というようなことはないわけで・出来ないわけで いくらかそれと同じように理性のハタラキを中断することも あまり必要はなく ただ結論を急ぐことなく判断(つまり理性の知解行為ではなく 意志の判断行為)を中断するということ。こういったニュアンスもあるようには思いました。  さて フッサールについては コメント無しでしょうか。  ★ でも、ブラジュロンヌさんは無意識を否定していたような気がするけれど、  ☆ これは フロイトの精神分析が 《ムイシキ》という独立した神経組織の部位を立てていることに反対するものです。  意識していないことと 《ムイシキ》という脳の作用領域があることとは 別です。後者は《意識していないこと》をふくむでしょうが その《ふくむハタラキの独立存在》を言うのは すでに科学的に否定されているようです。   したがうならば:  ★ ~~~~~~~~~~~~~  いくら意識を遡っても、  意識の下に無意識があるとすれば  根底が揺らいでしまうのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということにはならないでしょうね。意識していないことが起きたとしても そのコトを事後的に大きく《わたし》の意志行為であると認めればよいだけです。満員電車で隣の人の足を踏んでしまったとき ごめんなさいというのは そういう場合です。  もしフロイトのムイシキを認めてしまうなら 犯罪をおかしてもそれは わたしの中の自分では制御できないムイシキがおこなったものですと言って 罪を逃れようとするでしょう。     あるいは あなたはマザコンですと言われて それを否定したときには いえいえ マザコンであるのはムイシキの成せるわざですから ご自分では分からない ゆえに否定されるのがふつうなんですと言う話が 通って行ってしまいます。  ★ 無意識ではなくても、社会的な制度とかの構造でもいいですが。  ☆ これは 構造主義の思想でしょうね。  《主体無き過程》とか《無主体》とか あるいは《関係主義として あたかもその関係のネットワーク(人間関係でもあれば 社会的な仕組みの相互関係でもある)の中から〈権力〉が現われて来る》のだとかという思想ですね。  これは 言語学でソシュールが 《言語記号の恣意性》を言ったことを援用して出来た思想でもあるようです。言語記号つまりは 《人の声などとしての 音》には独自の意味はなく ただただ《互いにほかの音韻との関係において それが語として成るときに意味を持つことになる。つまりは ほかの音韻ないし語との関係たる差において 意味が成立する》のだと。  これは マチガイです。音韻そのものに何らかの意味があるからには。  したがって 《関係構造こそが 歴史の主体である。人間は いかに自由意志を持つと言っても 行為主体ではない》という主張に対しては 《関係も 縁起としてのようにものごとの直接間接の原因となるが それだけではなく 一人ひとりの人間のそれぞれのやはり意志行為が 原因としてもはたらく》という反論になると考えます。網の目を成すネットワークには その一つひとつの結び目もあります。この結節点が いわば個人としての人であり 意志行為の発進(ないし発信)の主体であると考えられます。  人間という存在にかんして すべては量子相互作用から成る。ゆえに歴史も社会も そのような物質の自己運動のみである。という見方もあるかと思います。  ぜひ証明して欲しいところです。

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回答No.3

なにか現象学が何であるか、純粋意識が何であるかを教科書に書いてあることをズラズラっと並べた感じですが、現象学を本当に理解しているのか疑問です。 たぶん、私の判断が間違いでなければ、フッサールの著作をあまり読んだことがないのではないかと思います。 純粋意識という言葉をフッサールが使ったのは初期だけで、後期になるとその意識というものの位置づけが変化します。 むしろ意識が発生してくる基盤の方に観点を移し、「発生的現象学」というのを唱え、初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、意識は受容的なもの、そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。 フッサールはそれを初期の「デカルトの道」から、「反・デカルトの道」と考えていました。 つまり近代哲学の自我とか主体による世界の構成から離脱してゆき、近代哲学の向こうに乗り越えて行きました。 フッサールは近代哲学の終焉を生きた哲学者であり、フッサール以降はもう近代哲学ではなくなったという意味では、近代哲学とポスト・モダンの哲学の分水嶺に立つ哲学者というべきです。 デカルトは「方法叙説」で、この世界が存在する、という信念に対して懐疑を抱き、この世界が存在しない可能性もあるのだから、世界の存在を前提に哲学を始めてはならないといい、「われ思う」という私の内観・内的体験に立ち戻り、その内観・内的体験は絶対に疑うことのできない確実性があるのだから、哲学はそれを出発点にとり、あたかもユークリッドの原論のように数学的に推論して外的世界を構築してゆくべきだといいました。 デカルトは外的世界の存在を懐疑はしましたが、否定したわけではなく、あくまで内観・内的体験を見出すための「方法的なもの」だったわけです。 フッサールが初期にとった方法、それが「デカルトの道」でした。 外的世界が存在しているという信念・信憑を私たちは持っています。 それは私たちが物事を考える時に無意識に前提にしているもので、もし、世界が存在していなかったら、私たちは生きていられない、だから人間に限らず、すべての生物は世界が存在しているという暗黙の前提の上に成り立っているのです。 だけど生きる上には必要である世界も、哲学的に思考する場合、それは障害です。 そのためには、世界が存在することを否定しないまでも、私たちの世界が存在するという信念・信憑を判断停止に置き、信念・信憑を「中和」する必要があります。 世界が存在しているという信念・信憑がプラスの信念だとしたら、それに対してマイナスの信念を対抗させれば、中和されます。 そのためには、世界が存在しない、同じように世界の中に存在するすべての物も物事も存在しない、という信念を対抗させるのです。 それが「エポケー・判断停止」であり、現象学的還元でした。 還元とは外的世界の存在を「判断停止」におき、世界が存在するという判断を「宙づり」にし、「中和」する、だからフッサールはそれを「中和性変様」とも言っています。 これはデカルトがやったことの再演です。 そうして私の認識、信念から外的世界の存在を一切排除し、その外的世界を成り立たせている「志向性」としての意識に立ち帰り、その意識による世界の構成という現象学を構想したのです。 意識というものの本質は「志向性」にあるという考えを彼はフランツ・ブレンターノから引き継ぎました。 意識というのは作用であるノエシスとその「志向的」対象であるノエマからなる。 ソシュール言語学でいえば、言語はシニフィアンとシニフィエからなる。 この場合のノエマを現実の対象と混同しないことです。 ソシュールにとって、イニフィエが音声であるシニフィアンからイメージされる像であったようにノエマもノエシスからイメージされる像です。 そのノエシスとノエマを結び付けているのが「志向性」です。 意識と外的世界を結び付けているものではなく。 意識は「何ものかへの意識」と言われますが、それを外的対象と勘違いする人がいますが、「志向性」は心理学者・ブレンターノがそうであったようにあくまで意識の中の話です。 そして「志向性」には強い志向性、弱い志向性という具合に「度合い」というものが存在します。 もっとも強い志向性が知覚とすれば、弱い志向性が、たとえば「気分」とか「不安」と言われるものです。 知覚は対象が目の前に現前していますが、「不安」というのは明確な対象がありません。 「気分」も同様です。 「気分」は私たちが否応なく、包まれているもの、雰囲気みたいなもの、日本でいえば「空気」と言われるもの、「空気を読みなさい」といいますね。 それが、フッサールのいう世界であり、ハイデガーのいう「世界」です。 フッサールは純粋意識を「分析」し、記述する方法を見出したわけではありません。 純粋意識は世界の存在を「判断中止」において見出された残余にすぎません。 それを分析しようとしても「志向性」が見いだせるだけで、「志向性」は作用ですから、中身が何も無く、分析しようがありません。 たぶん、意識という言葉が錯覚をもたらすのだと思いますが、純粋ということはカントと同じように「形式」ということですから、「内容」が何も無いのです。 内容が何も無いのに、分析したり、記述することは出来ません。 私は純粋意識なんて存在しないと思います。 ちょうど、西田幾多郎が「善の研究」で、純粋意識があると言ったのが、単なる言葉でしかないのと同じように。 あなたは「一般にヨーロッパ人は、ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします」といいますが、フッサールの純粋意識は「分析」の結果得られたものではないし、要素でもありません、世界が存在するという信念・信憑を中和して残った残余であり、フッサールは残余としての純粋意識があるといいましたが、私はそんなものは存在しないと思います。 だからあなたの言う「一般にヨーロッパ人は・・・・・要素に還元しようとします」というのは誤解です。 それはデカルトの「コギト」が、世界に対する私の「視点」であり、自我とか意識とかいうものとは違う、デカルトが勘違いしたものだと思うからです。 デカルトはせっかく自分が見出した「コギト」を自我と勘違いしました。 それは「コギト」を「コギタンス」と混同したものでした。 「ものの哀れ」は感情です。 そのことと、フッサールのいう哲学、認識の問題を混同すべきではありません。 感情には境界線がないから、全体だというのは分かりますが、だからと言って感情が知識に先行する、認識によりも大事だ、ということにはなりません。

bragelonne
質問者

お礼

 (重複回答のどちらかが削除されるかと思います。なので 両方に返答をかかげます)。  ★ たぶん、私の判断が間違いでなければ、フッサールの著作をあまり読んだことがないのではないかと思います。  ☆ そのとおりです。    ご回答をありがとうございます。  ですから 質問しています。それと もうひとつには じつは横着にも フッサールないし現象学そのものにねらいはなく それの応用が出来るかどうかに焦点を置いています。そういう事情です。  応用とは たとえば次のように理解された内容について その次にわたしが述べるような理解の仕方を言います。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  純粋意識という言葉をフッサールが使ったのは初期だけで、後期になるとその意識というものの位置づけが変化します。  むしろ意識が発生してくる基盤の方に観点を移し、「発生的現象学」というのを唱え、初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、意識は受容的なもの、そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) まづ《あはれ》は そのように言葉として捉えたときには 概念としてありこれを意識をしてもいます。けれども 《あは!》と言ったそのときには まだ感性の問題として問題があります。すなわち 《意識以前》のヒラメキのようなもの・イメージのようなものだと考えます。  (2) たとえば 西行が    こころなき      身にも    あはれは    知られけり    鴫立つ沢の    秋の夕暮れ  と詠んだとき これはすでに言葉にされ概念を持ち得ていますが しかもその《あはれ》の中身は必ずしも明らかではない。それは あいまいであるという負の内容にもなりますが ぎゃくに言えば 西行本人の心の中には 何かの感覚がイメージとしてのごとくのこっている。はずです。  つまりは もののあはれは 感覚なり《あはれ》という概念なりが意識されて来るとしても その意識がそのままこのうたを歌った人の捉えたものであるとは限らない。むしろ早く言えば この意識や概念は 西行が捉えた〔と思った〕イメージを媒介として指し示すシルシに過ぎない。――こういう事態を言おうとしているのが この質問です。  観念論に落ち入らないようにタトエを出すなら 単純に言って西行は 人生のきびしさとそれにも向き合って行こうというおのれのチカラをさとったかも知れない。あるいは 世界はなかなかおもしろいことが なおあるかも知れない。うんぬんといった感慨であり得ます。  (3) このようにすでに基礎となる前提を置いているとき たとえば《純粋意識》という語を用いていても その《意識》はその意識じたいにではなく 容易に《その意識がシルシとなって指し示すもの》のほうに重きがおかれている。そういう問題です。  (4) もののあはれを知るという概念を打ち出した人間は フッサールの純粋意識や本質直観のことに触れ得たか? という問いではないのです。自由勝手にフッサールをこき使おうというコンタンにもとづきます。  (5) ★ 初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、――☆ というとき 西行にしてもこの《もののあはれ》なるナゾのさとり――と言ったほうがよいでしょうか――のことを大事にすると同時に 決して・決してそのナゾやさとりにかかずらわり続けるということでもない。自分は 彷徨の身であり続けたとしても 生活世界をないがしろにしたとは思えない。そこは     こころなき      身にも    あはれは    知られけり  と・つまりは《こころなき身にも》と言って自覚しているところでしょう。現実の生活者をとうとんでいます。  (6) ★ そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。――☆ この《ムイシキ》論については 摂りません。脇に置いておきます。  《無意識の「能作」》は――直前の回答No.1でもやり取りしましたが―― 人間としてはあり得ません。ムイシキが独立した作用部位であることはありません。意識していなかったというだけの話です。  《無意識の「能作」によって既に構成されたもの》が いわゆる構造主義の《主体なき過程》を言うのでしたら それもあり得ません。摂りません。関係構造の結び目 そしてそれとしての個々の人間 さらにはその自由意志 これが 社会の関係を形成することをも見なければならない。と考えるからです。  (7) つまり その場合にはむしろ《志向性》が問題だと見る立ち場です。《主体》をしりぞけるのは 《神》について何も知らず 神をただ精神ないし観念として捉え この観念としての人間主体を いちど主知主義の流れに乗って あたかも別の神のごとく後生大事にしていた時期があった。というだけの話です。  有限なる主体 あるいはその志向性 これはある。という立ち場ですので フッサール利活用には ムイシキ説を捨てます。  ☆ あぁ ちょうどこの(6)(7)は 次のご議論につながりました。:  ★ フッサールはそれを初期の「デカルトの道」から、「反・デカルトの道」と考えていました。 / つまり近代哲学の自我とか主体による世界の構成から離脱してゆき、近代哲学の向こうに乗り越えて行きました。  ☆(8) おそらくその《乗り越えた行き先》は フッサールをも超えて 振り子のもう一方の極に振り切るかのような行き過ぎになったのでしょう。つまり筋が別だとしても ポストモダンないし構造主義のような流れです。  ★ デカルトは「方法叙説」で・・・「われ思う」という私の内観・内的体験に立ち戻り、その内観・内的体験は絶対に疑うことのできない確実性があるのだから、哲学はそれを出発点にとり  ☆(9) コギト・エルゴ・スムは 《われあやまつならば われあり( Si fallor, sum. )》を打ち出したアウグスティヌスの二番煎じだということは 最近になってですがつとに知られています。(熊野純彦や神崎繁)。(そういう意味でも 近代と中世との突き合わせだけではなく 古代人の人間観をも参照すべきだと考えています)。  ★ 世界が存在しているという信念・信憑がプラスの信念だとしたら、それに対してマイナスの信念を対抗させれば、中和されます。  ☆(10) 《世界が存在するか? 神は存在するか?》といった命題ないしその観念から初めから自由であれば 済むことです。ヨーロッパ人は もしそのような観念の遊戯にこだわっているとしたら 阿呆です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そのためには、世界が存在しない、同じように世界の中に存在するすべての物も物事も存在しない、という信念を対抗させるのです。  それが「エポケー・判断停止」であり、現象学的還元でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(11) フッサールを酷使しようと思えば そういう文脈は無視します。ただただ 世界を前にしておのれが何を見て取るか この判断を中断するという意味で エポケーをパクルということ。これだけのことです。  そうすると あんがいフッサールの思想も生き返らせることが出来るというものです。そういう意図もあります。  つまり《存在〔論〕》を肯定する側にいることも否定してみる側に立つことも そのようなバランスを採るといったことにさえ見られるような観念の操作 このような観念の操作なるいとなみから われらは自由になろうという意味合いが出て来ます。観念の操作は 哲学ではないとわれわれは言っています。  そのとき フッサールは もののあはれを見たか? これが 問いです。同じ人間なら 今からでも歴史をさかのぼって フッサールの人間に即して どうあなたは考えるか? これです。これが 言うとすれば 哲学です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  世界が存在するという判断を「宙づり」にし、「中和」する、だからフッサールはそれを「中和性変様」とも言っています。  これはデカルトがやったことの再演です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(12) ままごと遊びでしょうね。お医者さんごっこかも。松果体がどうとかこうとか言っていましたっけ。  現実に生活しているふつうの人間にあっては すでに初めから《中和》は成っています。完全に成っています。よほど要らぬことを考えたのは 阿呆です。  (つづく)

bragelonne
質問者

補足

(つづき)――(お礼欄と補足欄との順序をまちがえました)。  ★ ソシュールにとって、イニフィエが音声であるシニフィアンからイメージされる像であった  ☆(13) これは勘違いなさっています。シニフィアンは 聴覚像(要するに 音韻)ですが シニフィエは 《意義》です。語の概念内容です。  ★ そのノエシスとノエマを結び付けているのが「志向性」です。  ☆ (14) いえ。順序がちがうでしょう。志向性が――有限なるであっても意志行為の主体たる人間つまりわれにおいて――持たれるとき その知覚作業としてのノエシスが起きており その対象が ノエマである。というだけのことです。よ。  もうひとつ 揚げ足取りをも交えましょう。  ★ 知覚は対象が目の前に現前していますが、「不安」というのは明確な対象がありません。  ☆ (15) 《不安を感じる》というのは――じつは 対象ないし問題がはっきりしている場合もあるのですが 一般に不安と言えば―― 《対象のないかたちで何らかの知覚がある》状態でしょうね。どちらも 知覚です。感性です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「気分」も同様です。  「気分」は私たちが否応なく、包まれているもの、雰囲気みたいなもの、日本でいえば「空気」と言われるもの、「空気を読みなさい」といいますね。  それがハイデガーのいう「世界」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(16) ハイデガーは どうでもよいですが それは たぶんパスカルの分類した《繊細の精神》が見ている触れているまわりの世界なのでしょうね。しかも じっさいには 《幾何学の精神》がすでに発揮されている意志行為やその結果関係もが 世界をかたちづくっているのは あたりまえです。両方の精神が 大事だと言っているはずです。それと同じように 世界は 感性と理性とから成ります。  (17) しかもここで問い求めていることは これら感覚や認識の経験世界を超えたところのナゾです。このナゾが もののあはれに関係している。あはれの対象としては かたちある経験事物なのですが しかもこのかたちある対象は ナゾを指し示すシルシでしかない。ということ。これを言って 当否を問うています。  (18) その意味と同じことを次の命題は 語っているのかどうか? よく分からない感じでいます。:  ★ この場合のノエマを現実の対象と混同しないことです。  ☆ 《現実の対象》は 目に見える・または形のあるモノゴトです。それが そのまま《知覚として得られるノエマ》なのではないと。言いかえると ノエマとして得られたイメージのようなものは 現実のその対象をシルシとして指し示されたものか? そうなら 同じ議論内容となります。つまり 《ナゾ》の問題なのです。  ★ 純粋ということはカントと同じように「形式」ということですから、「内容」が何も無いのです。  ☆(19) 《形式ないし形相 要するにフォルム》は そのままでは《内容ないし質料》と同じく経験事象に過ぎませんが 《純粋形相》としてなら すでに第一原因とも呼ばれる《ナゾ》を示唆することは出来ます。あるいはつまり 《もの自体》ですね。  ここからも 《もののあはれ》ないし《本質直観 Wesensschau 》が《もののあらはれ》と呼びうるようなナゾの問題に成り得ます。  ★ 私は純粋意識なんて存在しないと思います。  ☆(20) したがって 純粋意識は 経験事象としては 志向性かまたは《白紙状態( タブラ・ラサ)》のことでしょう。経験事象を超えたナゾとしてなら 《もの自体》か要するに《神》かということになるでしょう。  むろん 《もののあはれを知る》というときには 煮詰めた議論としては この《神を見ること》なるおとぎ話になるのでしょう。  ★ フッサールの純粋意識は「分析」の結果得られたものではないし、要素でもありません、世界が存在するという信念・信憑を中和して残った残余であり、フッサールは残余としての純粋意識があるといいましたが、私はそんなものは存在しないと思います。  ☆(21) ですから 《世界が存在するという信念》ないしその命題や信念をもたらした初めが 分析的理性ではないのですか? 存在についての意志行為としてのあやまち(シ・ファロール)を問題にして その存在(スム)をみちびいているのに対して わざわざその意志行為の内のあやまち〔であれそうでないものであれ〕にかんする思考ないし理性を 特別に持ち出して来た。これが わざわいの元です。《分析》ぢゃないですか。  しかも あろうことか この理性を身と心(精神・理性)から成る存在より取り出して 単独分立させてしまった。独立させた。帝国主義を歩ませるまでに走って行った。理性ないし思考は 単なる《要素》ではないですか?  (22)  純粋意識が ノエマであるなら それがシルシ(媒介)となってさらに指し示す別のものがあるはず。しかもこの場合の別のものは そんじょそこらにあるというモノのではなく ナゾと来ている。だからこそ 日本人は《もののあはれ》と呼んだ。おそらく そこに見えているかに思えるものは 《物自体》のことでしょう。つまり ナゾでしょう。  しかもわれわれは わざわざ物自体というように そのものをズバリとはあまり言わない。なぜなら ナゾだと知っているから。こういうお話ではないのでしょうか。  (23) 大勢に影響しないと思いますが:   ★ それは「コギト」を「コギタンス」と混同したものでした。  ☆ 同じものではないのですか? 主体が特定されているかいないかで違うということでしょうか?  (24)  ★ 「ものの哀れ」は感情です。  ☆ そういう見解もあるかも知れませんが いまや浅く狭いとわたしは捉えます。  (25)  ★ そのことと、フッサールのいう哲学、認識の問題を混同すべきではありません。  ☆ もとより混同すべくもありません。大したものだとは見ていません。    ★ 感情には境界線がないから、全体だというのは分かりますが、だからと言って感情が知識に先行する、認識によりも大事だ、ということにはなりません。  ☆ たとえば不倫という自分の配偶者への裏切り行為があります。これをいち早く感じ取るのは 感性です。ふつうなら 胸の動悸を速めてしまうはずです。ヤマシサ反応が起きます。  この感性からの《認識およびすでに判断》を いや待てよ おのれの正直な感情に従うことは 何もわるいことではないのだ この考えを行ないうる理性こそが ただしいと言って 強行するのは 理性という犯罪者です。  もっとも感性が いちばんだと言っているのではありません。感性をも理性をも超えているナゾの何か これを指し示そうとしたのが もののあはれである。こういう問題提起です。

回答No.2

なにか現象学が何であるか、純粋意識が何であるかを教科書に書いてあることをズラズラっと並べた感じですが、現象学を本当に理解しているのか疑問です。 たぶん、私の判断が間違いでなければ、フッサールの著作をあまり読んだことがないのではないかと思います。 純粋意識という言葉をフッサールが使ったのは初期だけで、後期になるとその意識というものの位置づけが変化します。 むしろ意識が発生してくる基盤の方に観点を移し、「発生的現象学」というのを唱え、初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、意識は受容的なもの、そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。 フッサールはそれを初期の「デカルトの道」から、「反・デカルトの道」と考えていました。 つまり近代哲学の自我とか主体による世界の構成から離脱してゆき、近代哲学の向こうに乗り越えて行きました。 フッサールは近代哲学の終焉を生きた哲学者であり、フッサール以降はもう近代哲学ではなくなったという意味では、近代哲学とポスト・モダンの哲学の分水嶺に立つ哲学者というべきです。 デカルトは「方法叙説」で、この世界が存在する、という信念に対して懐疑を抱き、この世界が存在しない可能性もあるのだから、世界の存在を前提に哲学を始めてはならないといい、「われ思う」という私の内観・内的体験に立ち戻り、その内観・内的体験は絶対に疑うことのできない確実性があるのだから、哲学はそれを出発点にとり、あたかもユークリッドの原論のように数学的に推論して外的世界を構築してゆくべきだといいました。 デカルトは外的世界の存在を懐疑はしましたが、否定したわけではなく、あくまで内観・内的体験を見出すための「方法的なもの」だったわけです。 フッサールが初期にとった方法、それが「デカルトの道」でした。 外的世界が存在しているという信念・信憑を私たちは持っています。 それは私たちが物事を考える時に無意識に前提にしているもので、もし、世界が存在していなかったら、私たちは生きていられない、だから人間に限らず、すべての生物は世界が存在しているという暗黙の前提の上に成り立っているのです。 だけど生きる上には必要である世界も、哲学的に思考する場合、それは障害です。 そのためには、世界が存在することを否定しないまでも、私たちの世界が存在するという信念・信憑を判断停止に置き、信念・信憑を「中和」する必要があります。 世界が存在しているという信念・信憑がプラスの信念だとしたら、それに対してマイナスの信念を対抗させれば、中和されます。 そのためには、世界が存在しない、同じように世界の中に存在するすべての物も物事も存在しない、という信念を対抗させるのです。 それが「エポケー・判断停止」であり、現象学的還元でした。 還元とは外的世界の存在を「判断停止」におき、世界が存在するという判断を「宙づり」にし、「中和」する、だからフッサールはそれを「中和性変様」とも言っています。 これはデカルトがやったことの再演です。 そうして私の認識、信念から外的世界の存在を一切排除し、その外的世界を成り立たせている「志向性」としての意識に立ち帰り、その意識による世界の構成という現象学を構想したのです。 意識というものの本質は「志向性」にあるという考えを彼はフランツ・ブレンターノから引き継ぎました。 意識というのは作用であるノエシスとその「志向的」対象であるノエマからなる。 ソシュール言語学でいえば、言語はシニフィアンとシニフィエからなる。 この場合のノエマを現実の対象と混同しないことです。 ソシュールにとって、イニフィエが音声であるシニフィアンからイメージされる像であったようにノエマもノエシスからイメージされる像です。 そのノエシスとノエマを結び付けているのが「志向性」です。 意識と外的世界を結び付けているものではなく。 意識は「何ものかへの意識」と言われますが、それを外的対象と勘違いする人がいますが、「志向性」は心理学者・ブレンターノがそうであったようにあくまで意識の中の話です。 そして「志向性」には強い志向性、弱い志向性という具合に「度合い」というものが存在します。 もっとも強い志向性が知覚とすれば、弱い志向性が、たとえば「気分」とか「不安」と言われるものです。 知覚は対象が目の前に現前していますが、「不安」というのは明確な対象がありません。 「気分」も同様です。 「気分」は私たちが否応なく、包まれているもの、雰囲気みたいなもの、日本でいえば「空気」と言われるもの、「空気を読みなさい」といいますね。 それがハイデガーのいう「世界」です。 フッサールは純粋意識を「分析」し、記述する方法を見出したわけではありません。 純粋意識は世界の存在を「判断中止」において見出された残余にすぎません。 それを分析しようとしても「志向性」が見いだせるだけで、「志向性」は作用ですから、中身が何も無く、分析しようがありません。 たぶん、意識という言葉が錯覚をもたらすのだと思いますが、純粋ということはカントと同じように「形式」ということですから、「内容」が何も無いのです。 内容が何も無いのに、分析したり、記述することは出来ません。 私は純粋意識なんて存在しないと思います。 ちょうど、西田幾多郎が「善の研究」で、純粋意識があると言ったのが、単なる言葉でしかないのと同じように。 あなたは「一般にヨーロッパ人は、ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします」といいますが、 フッサールの純粋意識は「分析」の結果得られたものではないし、要素でもありません、世界が存在するという信念・信憑を中和して残った残余であり、フッサールは残余としての純粋意識があるといいましたが、私はそんなものは存在しないと思います。 それはデカルトの「コギト」が、世界に対する私の「視点」であり、自我とか意識とかいうものとは違う、デカルトが勘違いしたものだと思うからです。 デカルトはせっかく自分が見出した「コギト」を自我と勘違いしました。 それは「コギト」を「コギタンス」と混同したものでした。 「ものの哀れ」は感情です。 そのことと、フッサールのいう哲学、認識の問題を混同すべきではありません。 感情には境界線がないから、全体だというのは分かりますが、だからと言って感情が知識に先行する、認識によりも大事だ、ということにはなりません。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ ソシュールにとって、イニフィエが音声であるシニフィアンからイメージされる像であった  ☆(13) これは勘違いなさっています。シニフィアンは 聴覚像(要するに 音韻)ですが シニフィエは 《意義》です。語の概念内容です。  ★ そのノエシスとノエマを結び付けているのが「志向性」です。  ☆ (14) いえ。順序がちがうでしょう。志向性が――有限なるであっても意志行為の主体たる人間つまりわれにおいて――持たれるとき その知覚作業としてのノエシスが起きており その対象が ノエマである。というだけのことです。よ。  もうひとつ 揚げ足取りをも交えましょう。  ★ 知覚は対象が目の前に現前していますが、「不安」というのは明確な対象がありません。  ☆ (15) 《不安を感じる》というのは――じつは 対象ないし問題がはっきりしている場合もあるのですが 一般に不安と言えば―― 《対象のないかたちで何らかの知覚がある》状態でしょうね。どちらも 知覚です。感性です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「気分」も同様です。  「気分」は私たちが否応なく、包まれているもの、雰囲気みたいなもの、日本でいえば「空気」と言われるもの、「空気を読みなさい」といいますね。  それがハイデガーのいう「世界」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(16) ハイデガーは どうでもよいですが それは たぶんパスカルの分類した《繊細の精神》が見ている触れているまわりの世界なのでしょうね。しかも じっさいには 《幾何学の精神》がすでに発揮されている意志行為やその結果関係もが 世界をかたちづくっているのは あたりまえです。両方の精神が 大事だと言っているはずです。それと同じように 世界は 感性と理性とから成ります。  (17) しかもここで問い求めていることは これら感覚や認識の経験世界を超えたところのナゾです。このナゾが もののあはれに関係している。あはれの対象としては かたちある経験事物なのですが しかもこのかたちある対象は ナゾを指し示すシルシでしかない。ということ。これを言って 当否を問うています。  (18) その意味と同じことを次の命題は 語っているのかどうか? よく分からない感じでいます。:  ★ この場合のノエマを現実の対象と混同しないことです。  ☆ 《現実の対象》は 目に見える・または形のあるモノゴトです。それが そのまま《知覚として得られるノエマ》なのではないと。言いかえると ノエマとして得られたイメージのようなものは 現実のその対象をシルシとして指し示されたものか? そうなら 同じ議論内容となります。つまり 《ナゾ》の問題なのです。  ★ 純粋ということはカントと同じように「形式」ということですから、「内容」が何も無いのです。  ☆(19) 《形式ないし形相 要するにフォルム》は そのままでは《内容ないし質料》と同じく経験事象に過ぎませんが 《純粋形相》としてなら すでに第一原因とも呼ばれる《ナゾ》を示唆することは出来ます。あるいはつまり 《もの自体》ですね。  ここからも 《もののあはれ》ないし《本質直観 Wesensschau 》が《もののあらはれ》と呼びうるようなナゾの問題に成り得ます。  ★ 私は純粋意識なんて存在しないと思います。  ☆(20) したがって 純粋意識は 経験事象としては 志向性かまたは《白紙状態( タブラ・ラサ)》のことでしょう。経験事象を超えたナゾとしてなら 《もの自体》か要するに《神》かということになるでしょう。  むろん 《もののあはれを知る》というときには 煮詰めた議論としては この《神を見ること》なるおとぎ話になるのでしょう。  ★ フッサールの純粋意識は「分析」の結果得られたものではないし、要素でもありません、世界が存在するという信念・信憑を中和して残った残余であり、フッサールは残余としての純粋意識があるといいましたが、私はそんなものは存在しないと思います。  ☆(21) ですから 《世界が存在するという信念》ないしその命題や信念をもたらした初めが 分析的理性ではないのですか? 存在についての意志行為としてのあやまち(シ・ファロール)を問題にして その存在(スム)をみちびいているのに対して わざわざその意志行為の内のあやまち〔であれそうでないものであれ〕にかんする思考ないし理性を 特別に持ち出して来た。これが わざわいの元です。《分析》ぢゃないですか。  しかも あろうことか この理性を身と心(精神・理性)から成る存在より取り出して 単独分立させてしまった。独立させた。帝国主義を歩ませるまでに走って行った。理性ないし思考は 単なる《要素》ではないですか?  (22)  純粋意識が ノエマであるなら それがシルシ(媒介)となってさらに指し示す別のものがあるはず。しかもこの場合の別のものは そんじょそこらにあるというモノのではなく ナゾと来ている。だからこそ 日本人は《もののあはれ》と呼んだ。おそらく そこに見えているかに思えるものは 《物自体》のことでしょう。つまり ナゾでしょう。  しかもわれわれは わざわざ物自体というように そのものをズバリとはあまり言わない。なぜなら ナゾだと知っているから。こういうお話ではないのでしょうか。  (23) 大勢に影響しないと思いますが:   ★ それは「コギト」を「コギタンス」と混同したものでした。  ☆ 同じものではないのですか? 主体が特定されているかいないかで違うということでしょうか?  (24)  ★ 「ものの哀れ」は感情です。  ☆ そういう見解もあるかも知れませんが いまや浅く狭いとわたしは捉えます。  (25)  ★ そのことと、フッサールのいう哲学、認識の問題を混同すべきではありません。  ☆ もとより混同すべくもありません。大したものだとは見ていません。    ★ 感情には境界線がないから、全体だというのは分かりますが、だからと言って感情が知識に先行する、認識によりも大事だ、ということにはなりません。  ☆ たとえば不倫という自分の配偶者への裏切り行為があります。これをいち早く感じ取るのは 感性です。ふつうなら 胸の動悸を速めてしまうはずです。ヤマシサ反応が起きます。  この感性からの《認識およびすでに判断》を いや待てよ おのれの正直な感情に従うことは 何もわるいことではないのだ この考えを行ないうる理性こそが ただしいと言って 強行するのは 理性という犯罪者です。  もっとも感性が いちばんだと言っているのではありません。感性をも理性をも超えているナゾの何か これを指し示そうとしたのが もののあはれである。こういう問題提起です。

bragelonne
質問者

補足

 ★ たぶん、私の判断が間違いでなければ、フッサールの著作をあまり読んだことがないのではないかと思います。  ☆ そのとおりです。    ご回答をありがとうございます。  ですから 質問しています。それと もうひとつには じつは横着にも フッサールないし現象学そのものにねらいはなく それの応用が出来るかどうかに焦点を置いています。そういう事情です。  応用とは たとえば次のように理解された内容について その次にわたしが述べるような理解の仕方を言います。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  純粋意識という言葉をフッサールが使ったのは初期だけで、後期になるとその意識というものの位置づけが変化します。  むしろ意識が発生してくる基盤の方に観点を移し、「発生的現象学」というのを唱え、初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、意識は受容的なもの、そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) まづ《あはれ》は そのように言葉として捉えたときには 概念としてありこれを意識をしてもいます。けれども 《あは!》と言ったそのときには まだ感性の問題として問題があります。すなわち 《意識以前》のヒラメキのようなもの・イメージのようなものだと考えます。  (2) たとえば 西行が    こころなき      身にも    あはれは    知られけり    鴫立つ沢の    秋の夕暮れ  と詠んだとき これはすでに言葉にされ概念を持ち得ていますが しかもその《あはれ》の中身は必ずしも明らかではない。それは あいまいであるという負の内容にもなりますが ぎゃくに言えば 西行本人の心の中には 何かの感覚がイメージとしてのごとくのこっている。はずです。  つまりは もののあはれは 感覚なり《あはれ》という概念なりが意識されて来るとしても その意識がそのままこのうたを歌った人の捉えたものであるとは限らない。むしろ早く言えば この意識や概念は 西行が捉えた〔と思った〕イメージを媒介として指し示すシルシに過ぎない。――こういう事態を言おうとしているのが この質問です。  観念論に落ち入らないようにタトエを出すなら 単純に言って西行は 人生のきびしさとそれにも向き合って行こうというおのれのチカラをさとったかも知れない。あるいは 世界はなかなかおもしろいことが なおあるかも知れない。うんぬんといった感慨であり得ます。  (3) このようにすでに基礎となる前提を置いているとき たとえば《純粋意識》という語を用いていても その《意識》はその意識じたいにではなく 容易に《その意識がシルシとなって指し示すもの》のほうに重きがおかれている。そういう問題です。  (4) もののあはれを知るという概念を打ち出した人間は フッサールの純粋意識や本質直観のことに触れ得たか? という問いではないのです。自由勝手にフッサールをこき使おうというコンタンにもとづきます。  (5) ★ 初期の意識の「志向性」による世界の構成という考えから、「生活世界論」に転じ、――☆ というとき 西行にしてもこの《もののあはれ》なるナゾのさとり――と言ったほうがよいでしょうか――のことを大事にすると同時に 決して・決してそのナゾやさとりにかかずらわり続けるということでもない。自分は 彷徨の身であり続けたとしても 生活世界をないがしろにしたとは思えない。そこは     こころなき      身にも    あはれは    知られけり  と・つまりは《こころなき身にも》と言って自覚しているところでしょう。現実の生活者をとうとんでいます。  (6) ★ そして世界は意識の「志向性」ではなく、無意識の「能作」によって既に構成されたものと見なすようになります。――☆ この《ムイシキ》論については 摂りません。脇に置いておきます。  《無意識の「能作」》は――直前の回答No.1でもやり取りしましたが―― 人間としてはあり得ません。ムイシキが独立した作用部位であることはありません。意識していなかったというだけの話です。  《無意識の「能作」によって既に構成されたもの》が いわゆる構造主義の《主体なき過程》を言うのでしたら それもあり得ません。摂りません。関係構造の結び目 そしてそれとしての個々の人間 さらにはその自由意志 これが 社会の関係を形成することをも見なければならない。と考えるからです。  (7) つまり その場合にはむしろ《志向性》が問題だと見る立ち場です。《主体》をしりぞけるのは 《神》について何も知らず 神をただ精神ないし観念として捉え この観念としての人間主体を いちど主知主義の流れに乗って あたかも別の神のごとく後生大事にしていた時期があった。というだけの話です。  有限なる主体 あるいはその志向性 これはある。という立ち場ですので フッサール利活用には ムイシキ説を捨てます。  ☆ あぁ ちょうどこの(6)(7)は 次のご議論につながりました。:  ★ フッサールはそれを初期の「デカルトの道」から、「反・デカルトの道」と考えていました。 / つまり近代哲学の自我とか主体による世界の構成から離脱してゆき、近代哲学の向こうに乗り越えて行きました。  ☆(8) おそらくその《乗り越えた行き先》は フッサールをも超えて 振り子のもう一方の極に振り切るかのような行き過ぎになったのでしょう。つまり筋が別だとしても ポストモダンないし構造主義のような流れです。  ★ デカルトは「方法叙説」で・・・「われ思う」という私の内観・内的体験に立ち戻り、その内観・内的体験は絶対に疑うことのできない確実性があるのだから、哲学はそれを出発点にとり  ☆(9) コギト・エルゴ・スムは 《われあやまつならば われあり( Si fallor, sum. )》を打ち出したアウグスティヌスの二番煎じだということは 最近になってですがつとに知られています。(熊野純彦や神崎繁)。(そういう意味でも 近代と中世との突き合わせだけではなく 古代人の人間観をも参照すべきだと考えています)。  ★ 世界が存在しているという信念・信憑がプラスの信念だとしたら、それに対してマイナスの信念を対抗させれば、中和されます。  ☆(10) 《世界が存在するか? 神は存在するか?》といった命題ないしその観念から初めから自由であれば 済むことです。ヨーロッパ人は もしそのような観念の遊戯にこだわっているとしたら 阿呆です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そのためには、世界が存在しない、同じように世界の中に存在するすべての物も物事も存在しない、という信念を対抗させるのです。  それが「エポケー・判断停止」であり、現象学的還元でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(11) フッサールを酷使しようと思えば そういう文脈は無視します。ただただ 世界を前にしておのれが何を見て取るか この判断を中断するという意味で エポケーをパクルということ。これだけのことです。  そうすると あんがいフッサールの思想も生き返らせることが出来るというものです。そういう意図もあります。  つまり《存在〔論〕》を肯定する側にいることも否定してみる側に立つことも そのようなバランスを採るといったことにさえ見られるような観念の操作 このような観念の操作なるいとなみから われらは自由になろうという意味合いが出て来ます。観念の操作は 哲学ではないとわれわれは言っています。  そのとき フッサールは もののあはれを見たか? これが 問いです。同じ人間なら 今からでも歴史をさかのぼって フッサールの人間に即して どうあなたは考えるか? これです。これが 言うとすれば 哲学です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  世界が存在するという判断を「宙づり」にし、「中和」する、だからフッサールはそれを「中和性変様」とも言っています。  これはデカルトがやったことの再演です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(12) ままごと遊びでしょうね。お医者さんごっこかも。松果体がどうとかこうとか言っていましたっけ。  現実に生活しているふつうの人間にあっては すでに初めから《中和》は成っています。完全に成っています。よほど要らぬことを考えたのは 阿呆です。  (つづく)

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    フッサールのいう「生活世界」は、「内在」なのですか、あるいは「超越」なのですか? つまり、生活世界は、「超越論的自我の中にあるもの」なのですか、それとも「超越論的自我 の外にあるもの」ですか? 生活世界が、人間の純粋意識の領域の外にある、つまり超越的なものとすると、フッサールは 外界=客観的世界の実在定立の判断をさしひかえる判断停止(エポケー)を解除して、外界の実在性 を一定限度で容認したということなのでしょうか? ご回答お願いします。

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。  この仮説をめぐって問います。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわしましょう。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲光のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (たとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることを ここでは エポケーと言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 空観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなおしえのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) 現象学的還元などということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。か?  この問いをめぐっての質問です。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわします。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (つまりたとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることであり ここでは エポケーとも言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 《空》観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなオシエのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび強迫観念にさえ成りかねない固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) エポケーなり現象学的還元なりなどということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

     現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

  • 「クオリア」に関する疑問

    「心の哲学」について、最近Wikipediaなどを読みあさっている者です。 クオリアというのは、「脳という物質による産物」という見方が一般的だと思います。 私は、物質世界は、現象的意識の内容に含むことができるのではないかと思ったのですが(つまり、外界・物質世界・脳という物質の実在を否定し、現象的意識のみが実在、という考え方)、 Q1: 上記のことは、「あり得る」でしょうか? Q2: このような立場を、唯心論、または観念論と言えばよいのでしょうか? Q3: 自分が、今、受け取っているクオリアの実在を疑うことはできるのでしょうか? ※本当に哲学ド初心者なので、わかりやすい言葉でご回答いただけると嬉しいです♪

  • フッサール《生活世界》とはお化けの支配する場ですか

     《生活世界》というのなら 誰もが日から日へおのが人生をおくるその現実の場ではないのですか?  そうではなく すでにその現実の生活に先行して(時間的にではなく考え方として先行して)存在しハタラキを持つ何かなのですか?  ・ 前・述語的判断  ・ 能作  ・ 現象学的還元  ・ 純粋意識  ・ 本質直観  などについておしえてください。

  • 現象的意識と反省的意識

    デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。 反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか? また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…? そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね? 「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか? もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか? あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、 現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか? 質問ばかりで申し訳ありません。 宜しくお願い致します。

  • 心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の・・・

        心なき   身にも あはれは   知られけり   鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ  (1) 文学としての解釈の問題もあろうかと思いますが 哲学として問います。(文学としての問題が 哲学としても重要だというご見解のばあいには そのように述べてくださるよう願います)。  (2) 《こころなき》は 作者の本心か?  (3) すなわちただ自嘲気味に言っているに過ぎなくはないか? その場合にはむしろ世の中の人びとのほうこそが 《心なき》状態に落ち入っているとまで――謙虚の気持ちを保ちつつもどうしてもその気持ちさえをも突き抜けてしまってのごとく―― 言おうとしていないか?  (4) そこまで辿り着くには 言わゆるワビ・サビの境地に到ったという人生の道程があったか?  (5) 言いかえると 世の中の人びとは 一般に世間の義理と人情なるしがらみの中にあって 社会のお二階さんたちの謙虚な威張り散らしの影響を受け 心ならずも《心なき》状態に落ち入っている。だが このナラワシを嫌って・その意味で《心無い》振る舞いをつらぬいて来たわたしにも 《あはれ》は分かると言っているか?  (6) そうだとした場合 では この《あはれ》とはどういうことか?  (7) シガラミを嫌う・避ける・逃れるとは どういうことか? その手段は 出家しかないのか?  (8) シガラミから自由になるとは どういうことか?  (9) その道程に試練があり 言わば巡礼の旅路をたどり やがてワビ・サビの境地に到るというのだろうか?  (10) そうだとした場合 それは どういう道筋であるのか? 哲学はどう答えるか?  (11) とは言うものの 《あはれ》ないし《もののあはれを知る》と言えば 何となくでもわれわれはすでに初めにその道程の行き着く先のことを知っているようにも思われる。そういう直感ははたらくのではあるまいか?  (12) さしあたり質問者の主題としては こんなところです。ご見解を述べて けっきょくのところ日本の社会を基礎にしたご自身の世界観をご披露ください。  (13) そのほか ご自由に西行のうたをめぐって ご投稿をお寄せください。

  • 本質の意味についてご教示お願いいたします。

     本質という言葉の意味がいまいちよくわかりません。 辞書を引くと以下のような解説が出てきました。  (1)あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質    (2)変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的  な   もの。  (3)実在に対する語として、なんらかのものが現に存在しているとい  う事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によって   いわれているもの。     あまりにも抽象的すぎてわかりません。    (1)~(3)までの本質の意味を具体例を交えてご教示いただけまし   たら幸いです。     又、僕なりに(1)と(3)の意味を考えて、具体例を交えて書くの    で、    それが正しいかそうでないかの判断もお願いします。     (1)は、ある物事の定義されている性質の事でしょうか?哲学    の本質を言うならば、「前提や問題点の明確化、概念の厳密     化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な    主題について論じて研究を進める学問」がその本質なのでしょ    うか?(WIKIPEDIAを元にして本質を定義しました。     (3)は、例えば1+1はいくつか?という問題があったとした    らその問題の本質は「足し算」。