-PR-
bragelonne

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
  • 回答数66
  • 気になる数0

Aみんなの回答(全66件)

質問者が選んだベストアンサー

  • 2011-10-08 20:57:13
  • 回答No.16
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。


 了解致しました。


> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
 
(1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。

  * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。

(2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
 
  * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
 
  そうすると 言えることは 次である。

 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?
 (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。

 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?

 (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。


 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。



> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。

  * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。

 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。



> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
 
 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。


 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・



> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
 
 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。


 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。


> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。

  * 独我論が いちばん当たっていると思う。


 仰られる通りかと存じます。



> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
 
 * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。


 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。



> ▲ (同上) ~~~

 (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。

  * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。

 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。

  * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。


 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。



> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。


 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。



> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。

  * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。


 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。



> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)

  * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
  
  《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。

 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。

 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? 
 そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。

 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。

 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~
 (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。

 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り
 方でしょうか。

  たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで
 なのだと思われます。
  もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい
 う可能性は 見ようとしている。

  あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か
 らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。

  とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と
 いう存在を基軸にして 理論をつくるか。

 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。

 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /
 すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら
 れるほどの推論が成されうるとは思えない。

  別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない
 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ
 って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が
 潜んでいるかも知れない。

  言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨
 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを
 示していることになるかも知れない。

  よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい
 ると解する。

 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。

 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。
  それはそれとして 次へすすむ。

 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)

 * さらに次へすすもう。別の段落だ。

 ▼ (同上) ~~~~
 (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。

 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど
 りつくはずだと言おうとしている。

 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)

 * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考
 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言
 うと それほど確かであるようには思えない。

  《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が
 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな
 いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし
 ていないか。

  仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や
 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。

  さらに次へすすみたい。

 ▼ (同上) ~~~~
 (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。

 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを
 起こそうという議論に見える。

  ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的
 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止
 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて
 いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。

 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)

 * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか
 れていることは 見て取れる。
  言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり
 着かない。
  方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ
 とすれば その応用編で勝負となるはずだ。

 ▼ (同上) ~~~
 (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?

 * これが 読者が初めから知りたかったことだ。

 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。

 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に
 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう
 としていることは 見て取れる。

  その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実
 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと
 しているようだ。

  それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな
 い。

 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)

 * 次へすすもう。

 ▼ (同上) ~~~
 (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。

 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世
 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。

 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。

 * パス。

 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。

 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。

 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。

 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう
 か?

 (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)

 * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには
 おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが
 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ
 うか?

  それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて
 いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。
  他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸
 であることに変わりはないと。
 ~~~
投稿日時 - 2011-10-09 06:43:31
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0

その他の回答 (全65件)

  • 2011-09-30 23:29:01
  • 回答No.7
まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。 明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思い ...続きを読む
まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思います。

ブラジュロンヌさんの感性ですと、現象学ではなくて、中世のいわゆる【普遍論争】に興味をひかれるでしょう。普遍は存在するかというあれです。一応詳しい内容を確かめるために哲学用語辞典をひらいてみました。そこには、発端はポルフュリオスの『アリストテレス範疇論入門』に提起されていると書いてあり、プラトン、アリストテレス、カトリック教会、三位一体、風としての声、概念実在論、へと話が延びていました。

それからまた、プラトンのイデアとアリストテレスのイデア、カントおよびヘーゲルのイデー(理念)とを学びわけることが、疑問の整理に必要だと思います。
ブラジュロンヌさんの感性はデカルトの時代に馴染んでいる思いますが、カントのイデー(理念)まで学習の駒をすすめるとよさそうです。カントにおいては、イデー(理念)は理性的推論(悟性的判断に対して)によって導き出されるものだからです。

カントは、イデー(理念)とは認識にとっての目標だといい、フッサールはそのようなイデー(理念)を「実現不可能な十全的明証」とし、数学の漸近線になぞらえます。

それから、現出の同一性とは、瞬間的時間を問題として、今しがたも今もこれからも、見えたものが時々刻々イコールで結びつくということです。このように結び付けられる働きただそれのみによって(同一化統合)、対象の知覚経験が成り立っているということです。

ブラジュロンヌさんの口から主観の共同性といった言葉が出てしまうのは、かなり視点がくいちがっているためです。まず、みんながリンゴをリンゴと分かるという話ではまったくなくて、1人の人間にとって、リンゴの物自体があるからリンゴを見る経験をするのではないという話です。今しがた黄緑の表皮に斑点のあって丸く、たった今へこんだ一方からは軸のようなヘタが突き出し、まさに今へこんだもう一方は尻の穴のような形であり、ああ「これは、、、何かな」と今しもこれから対象が結節するであろう、という話なのです。
この先には、記憶、想起、連合、類型にかかわる言語の諸問題があり、それゆえに現象学は、精神医学、認知心理学、認知科学、脳科学に吸収されている学問なのです。

「現象学の本質直観とはなにか」と検索する方々が今後いた場合にお役に立つと思い、投稿しました。
あとはひどっちさんとお楽しみください。
補足コメント
 ★ 普遍論争
 ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。
 つまり むろん 神の問題です。
 《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。
 
 ▲ (超越論的領域) ~~~~
 ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり

 ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。

 ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。

 ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
  (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』1976)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。

 2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。

 3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。
 
 4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。

 5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。

 6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。


 ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。
 ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。
投稿日時 - 2011-10-01 21:59:41
お礼コメント
 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 このたびは ひょんなところから この質問へのご投稿を 実質的に申せば 依頼することになってしまい お手数をおかけしました。お世話になりました。
 
 哲学カテの質疑応答という見方をしてみるならば もっとも傲慢になり心を鬼のようにして高ぶり尽くしてものを言うとすれば その哲学談義としての内容は ここのところ きわめてとぼしくなって来ております。
 これは 初歩の談義をけなしたり蔑んだりしているのではなく――なぜなら 何ごとにも萌芽には それがみづみづしい新鮮なちからを宿すというだけではなく 見方としてのような内容としてなら じゅうぶん高く飛んで伸びてゆく翼のちからを持っていると見られることが少なくないからですが―― それにしても 世界の最先端を行く談義もあってしかるべきというものです。
 (その意味では 学問のため ひいては日本の復興のためと――ついでにのようでしたが――申しました)。

 ▲ 厳密な学
 ☆ といった表現〔だけ〕をフッサールについて記憶していますが その観点から 次のように最後にですが(お答えを要請せずに) お尋ねしてみます。

 ★ まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
 ☆ 問い返しになります。

 1. この命題について真であると判断なさったその根拠は どこにあって それは何なにか?

 2. 《類》あるいは《普遍》という言葉ないし概念の普遍性は どこにあってそれは何か?

 3. 形式論理学の 科学行為としての・そしてまた人間存在にとっての 有効性・明証性は どこにあって何であるか?



 ☆ これについて 答えは《ない》。言いかえると 相対性の世界においては 有限なる証明しか出来ないのだと思われます。
 斉一性の原理あるいは人間原理 これらに――経験的な真としての公理にもとづき――寄りかかってのように 科学行為はおこなわれるのだと。


 現象学について 初めからこのような批判的な見方をしていたわけではありません。また それゆえにも 中身がどうもあいまいであると分かって来たときには 怒りを押さえることができませんでした。



 だいたいこんなところでしょうか。
 具体的な主題や論点について さらに見直してみて必要だと思ったところは 補足欄にておぎなうこととします。


 図書館の本をきょう早いうちに返しに行きたいものですから ここまでをしたためます。ひどっちさんへも お応えはきょうおそくなりますが よろしくお願いします。





 * ご訪問になるみなさんのために:

 ○ 斉一性の原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7


 ○ 人間原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86
 (この内容を わたしはひどっちさんとのやり取りにおいて かなり勝手に解釈して述べていたようです。そのゆえにもかかげます)。
投稿日時 - 2011-10-01 12:11:21
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-15 01:55:24
  • 回答No.37
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 


> ★ 生活世界
   ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。
  概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っておりま ...続きを読む
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。




> ★ 生活世界
 
 ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。


 概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っております。


> ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」

 ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか?
 炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。

 でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
 

 まず、温暖化問題を外させていただきますが、そもそも数式を用いたシミュレーションなるものが、嘘っぱちであったというものと考えております。つまり、温暖化が大前提のまま、それに合致するように作成されてしまった可能性があろうかと推察しております。実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。

 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼コメント
 つづくご回答をありがとうございます。

 ★ 実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 ☆ そういう問題でしたか。《誤差範囲を±5℃等にしてしまえば》 予測とは言わないということですね。

 ★ そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。
 ☆ あらためて留意してまいります。


 さてフッサールについてしばらく放ったらかしにしていました。
 原文を翻訳で読んでみたいと思います。

 ▼ (世界の構成) ~~~~
 1. (最も広い意味での しかし純粋に生活世界的な意味での)世界の意識と事物ないし客観の意識とは一面において不可分な統一をなしていながら しかも両者の意識の仕方には根本的な相違がある。

  ☆(ぶらじゅろんぬ) ふむふむ。世界と事物ないし客観との比較ですか。同じようなものに映ります。事物は事象としてその全体が 世界であるように見えますし それらについての客観ということになりましょうし。

 2. 諸事物ないし諸客観(常に純粋に生活世界的な意味に理解されたこれら)は われわれにとってそのつど(何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして《与えられている》のであり しかもそれらは原理的に 世界地平のうちにある諸事物 諸客観としてのみ意識されているのである。

  ☆ 特に何かが言われたという感覚が起きない。
  ▼ 《与えられている》
  ☆ これは 受動性を言うのだろうか? すなわち 能動性は その所与のものごと〔の意識〕にもとづき そのあとまさに生活として一歩を踏み出すというかたちなのだろうか?
  ▼ (何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして
  ☆ この表現がよく分からない。明証性があるものとして という意味だろうか?
  ▼ 世界地平
  ☆ これも分かるようで 必ずしもはっきりしない。《わが視野》といった意味だろうか? だがそれだと視覚に限られてしまう。心の・概念世界の視野もふくめればよいのだろうか?

 3. それぞれの事物は何ものかであり しかも常に地平としてわれわれに意識されている世界《に属する何ものか》なのである。

  ☆ そりゃあそうだろうと反応してはいけないのだろうと思われる。が・・・。

 4. 他方この地平もまた存在する諸客観に対する地平としてのみ意識されているのであり 従って特別に意識されている諸客観がなければ 地平もまた顕在的には存在しえない。(『危機』H.VI,146)

  ☆ 《事物の意識》は すでに早いうちから 《客観の意識・客観としての意識》であるのだろうか? つまりむろん この客観は 主観のうちにおさめられているのだと思われるのだが よく分からない。

 ▼ (同主題) ~~~~
 5. 意識は これを純粋に考察すれば それ自身に完結した存在関連 すなわち何ものの侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連であると見做さなければならない。(・・・)

  ☆ 必要がないと思うのだけれど。
  (あ) 《純粋》の度合いが 定まるとも思えない。
  (い) 《意識自身に完結した存在関連》・・・何とも奇妙なもののように感じる。
  (う) すなわち《何者の侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連》・・・同じく分からない。侵入や逸脱を許しても もし存在の核としての《わたし》――その意識――であるならば ほぼ絶対的な存在の動態であるように推し測られるというのに。

 6.他方 人間や人間としての自我を従属的な個別的実在者(レアリテーテン)として包含する空間‐時間的世界の全体は それ自身の意味からみて 単なる志向的存在であり 従って《意識に対しての存在》という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない。(『イデーン』H.III,117)

  ☆ 《世界》が 《〈意識に対しての存在〉という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない》とは どういうことか? 《それ自身の意味からみて》なら むしろ志向性なる意味関係として 一次も二次もないと思われるのだが。
 主観が 第一次ないし基本だというとしても だから世界は二次だというのだろうか? そんなことを言っても どうなるものでもないように思われるのだが。

 ▼ (〃) ~~~~
 7. しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり その固有の意味での客観的世界としての世界は 単に私に対してだけではなく 誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・〕

  ☆ こうなると 主観は その基本的要素としての《わたし》において 互いに共通である(あるいは 通底している)ということになる。のではないか?

 8. 構成的な経験としての世界の経験というのは ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく 共同体的経験 Gemeinschaftserfahrung のことであり 世界それ自身は意味的には 《原理的にわれわれの経験を〈交換〉することによって すなわちわれわれの経験を共同化することによって それについての相互理解を獲得できるような同一の世界》である。

  ☆ 主観の共同化 共同主観であるにほかならない。ではないか? これは 感性の次元における共通感覚を基礎とすると言ってよいと思われる。
 ただし 主観の共同化は なかなかむつかしいはず。ひとつには おそらく時代や地域による制約が まだまだ まだまだまだまだ 大きくのしかかる。
 ひとつには 共同化を果たす前に そもそも人びとの意思疎通が成り立つと言えるのかの問題がある。
 ひとつに 意志疎通が成ったとすれば 確かにそのあと細かいところまでを共通の認識および判断形式としなくてもよいかも知れない。
 ひとつに それにしても まだまだ いわゆるふるい共同観念ないし共同幻想が あたかも観念の共有として共同主観と同じであるかのごとく錯覚する壁がある。
 共同観念とは 地縁および血縁によって仲間となるそのかたちを言う。早く言えば ナショナリズムである。《何々人》あるいは《どこどこの人》を 言わば《生活世界の客観》と見做しそれを言わば人びとのきづなとするかたちである。この共同化に従うならば けっきょく一人ひとりの主観が生かされるのではなく 主観は 誰か一人(あるいは上層の人びと)の主観糾合とその空気によって どこかへみちびかれる。ことになる。

 9. 《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(『論理学』FTL.209)

  ☆ 共同観念の壁を突き破り 互いに主観を共同化してゆかねばならない。それは 一人ひとりの主観を大事にするという意味での民主制において つねにどこまでもつづく道のりだと考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
投稿日時 - 2011-10-15 17:29:34
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-15 01:52:45
  • 回答No.36
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ★ 共同感覚  ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。  ○ (共通感覚) ~~~ カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意 ...続きを読む
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ★ 共同感覚
 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。
 ○ (共通感覚) ~~~
カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98
 ~~~~~~~~~~~~

 コモン・センス哲学、いわゆる、社会のなかで人々が共通にもつ、正常な判断力という意味での”常識”と、アリストテレスにまで遡るもう一つの意味、つまり、五感を統合する第六感としての”共通感覚”(異なった種類の感覚を比較したり識別したりしつつ、感覚のすべての領野を統一的に捉える感覚能力のことです)があります。
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。


> ★ ~~~ 
 第二章 美的判断の演繹論
 ~~~~
 ☆ すなわちここで
 ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」
 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。
 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。
 この点 気になりました。
 
 すごい着眼点かと拝察致しました。もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。


> ★ 美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。)
 ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。

 まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 「快なるもの」につきましては、関心が存在してしまいますと、それへの欲求が刺激されてしまい、感覚・悟性が客観性を持つように仕向けられてしまうからだと考えております。この点で、趣味判断は、一切の関心を欠いている(あえて欠如させたとしている)と考えております。


> ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論)
 ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。
 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。
 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。
 
 そこで、カントの意見を述べさせていただきます。
 美に「概念」が伴うか否かの問題にはどう対処すべきなかをカントは考えました。以下は、「判断力批判」訳篠田英雄 p.310-317 からの要約でございます。
 一般に二つの判断の普遍的原理が対立し合うとき、そこに「弁証論」が生じます。美を例に挙げますと、趣味判断は「概念」に「基づかない」とする立場と、「概念」に「基づく」とする立場とが相対立します。カントは趣味のアンチノミーとして以下のものを挙げました。

趣味のアンチノミー
正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。” もしそうだとすると、趣味判断は証明によって決定されうることになるからです。
反対命題:”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。

 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。


> そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。

 共通感覚が及ぶ”範囲・程度”と致しましては、そもそも、”共通感覚”とは、(アプリオリに共通して備わっている)構想力と悟性[認識能力]の活動によって、共同体における共通性を作り上げる能力、だと解しますと、共同体内部の人間にコミュニティ能力と共通性を作り上げる個々の感性の二つに依存するものと考えております。


> 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。
 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。

 もちろん、主観内のことでござますし、そして、認識作用を担う悟性のみでの”認識・把握”ではございませんため、当然異なってきます。ですが、かような感ずる”感覚”といったものは、ほぼ共通にアプリオリに備わっているものと考えております(程度の差はあるかもしれまえせんが)。
 なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。


 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづ ものごとの把握として第一次は知覚のみという見方は 舌足らずというより まちがっていました。その第一次にも――つまりそこには知覚したものの知覚像(視像や聴像など)だけではなく――その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。

  現象の第一次把握:知覚とそれの認識(感性⇒記憶⇒知解)
  〃  第二次把握:認識一般として整理(知解行為)と判断(意志行為)

 すなわち 次のご見解について 上のように捉えたのですが どうでしょう?
 ★ ~~~
 もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。
 では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。
 ~~~~~

 ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。
 ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 
  【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。

 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。

 3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。

   * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます。

 4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。

 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。

 6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。

 7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。

  * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》

  ~~~~~~

 ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。
 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。

 さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、
 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか?
 つぎには
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し
 ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか?
 たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか?


 さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては:
 ★ ~~~~
 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。
 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。

 1. まづ厚かましくもですが 先に提出した次の考えにはまだ未練があります。

  ○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。

 2. この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか?

 3. これを《不定の概念》と見るかどうか? 

 4. 少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか?

 5. それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?

 6. わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。

  *

 ☆ 《快不快》を美をめぐって持ち出すという感覚が いまだによく分かりません。かかわっているとしても 何故この概念を用いて説明しようとするのか? これは 理解できても ピンと来ないというわたしの状態を言ったまでですが。
 ★ まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。


 ★ なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。
 ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか?
 だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。

 すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては
 ★ 「醜いものの中にも美が存在する」
 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。
 広義の美は 個別の美醜を包含すると。

 いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。
 ★ ~~~
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。
 と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。
 ~~~~~
 ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう? 
投稿日時 - 2011-10-15 12:34:28
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-09 03:32:29
  • 回答No.17
思ったことを少し。 ・直観=意志でどうにもできないほどの確信が訪れること ・個別直観=意志でどうにもできないほどに、ある物や概念の存在に対する確信が訪れること ・本質直観=意志でどうにもできないほどに、ある言葉が個別直観した存在を表現するのにぴったりであるという確信が訪れること ※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れな ...続きを読む
思ったことを少し。

・直観=意志でどうにもできないほどの確信が訪れること
・個別直観=意志でどうにもできないほどに、ある物や概念の存在に対する確信が訪れること
・本質直観=意志でどうにもできないほどに、ある言葉が個別直観した存在を表現するのにぴったりであるという確信が訪れること

※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。

※現象学以外の哲学は思考によって本質(理論)を作り出そうとする。一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。

※イデアは思考の産物。一方、本質直観は直感の産物。東洋的。考えてはダメ。他者に配慮しつつ感じるもの。個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。

白熱する議論の中、突然書き込んでごめんなさい。気まぐれで書きこんでしまいました。
お礼コメント
 れあれるげんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 〔本質直観は〕 個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。
 ☆ このカントについて明るくないので はっきりしませんが 直感および直観としてのヒラメキ――あるいはつまり インスピレーションですね――のことを言っているとのご回答でしょうか?

 ただし
 ★ 一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。
 ☆ だとしますと 意志による意図的なそして意識的に既成概念やら先入見やらを中断させておこなうヒラメキ行為なのかなと思われて来ます。
 人為的なヒラメキ? これはないですよね。
 ということは インスピレーションの起こるためのお膳立てを 自分の作業としても おこなっておく。といったことでしょうか?

 すなわち
 ★ ※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。
 ☆ 人間の側の意図的な準備作業とそしてそのあとにおとづれる直観なる現象 でしょうか?

 独我論の要素があると思ったのは すべての知覚や認識したものごとについて判断中止するというとき 他者のことをもすでに捨象してしまうというかたちでおのれの主観を打ち出して来るその姿勢に関してです。

 これは あとで 間主観性ないし相互主観性という概念を導入して そこに他者を持ち込むかたちを採用しているようです。しかも この他者〔の主観〕は あくまでおのれの主観がおのれの主観のうちに捉えた内容(つまりその相関関係ないし意味)であるようです。その点では 独我論の要素を引きずっているようにも見えるのですが どうでしょう?



 なお ヒラメキに関する次の見方は 参考にならないでしょうか?

 ○ (ロゴスの階層・・・No.8お礼欄) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~
 
投稿日時 - 2011-10-09 07:02:36
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-06 20:15:56
  • 回答No.14
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ★  愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。 
 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客 ...続きを読む
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ★  愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。

 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客観であると思われます。
  はじめに排去した客観が よみがえるように思われます。

 はい、 その内容に普遍性が伴われれば、客観とみなされてくるかと思われます。
 排去したはずの客観が戻ってくることも、もちろんありうるものと考えられます。
 なお、英訳名は、"Eidetic seeing" (Translator: F. Kersten)となっておりました。




> というよりも 排去したのは 世の中の既成概念や先入見としての《現象》観であって 普遍的な観点というものは 排除していなかった。(はじめにはまだ持っていなかった)。

 客観は 作業仮説として想定されているだけの概念かもしれません。だとすると 《 essence 本質》は――客観は別とすれば―― ふつうに類概念または普遍性のことだと思われますが どうでしょう?


 仰られますように、客観とは想定されているだけの概念かと考えております。
 本質とは、まだ主観内(内省)のできごとでございますので、普遍性をそのまま持つとまでは言い切れない、と考えてございます。



> ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。


 ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。



> そこで 主観と客観との一致だという見方を出すと どうなるか? 現象学的還元は はじめから主観のほかに客観をも想定していると見られてしまいます。言いかえると 《超越》とは 客観化のことだと。



 原則、客観なるものの存在は認めておりませんので、少々異なるかもしれません。


> ☆ 《純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法》は ひとつに エポケーなる操作をおこなって行けば 要らないもの(見方)は捨象されますし たしかに言わゆる本質にまで抽象されて行くと思われますが もうひとつに 現象学的反省を加えて行けば やがてその事象観としてはほかの人の主観と共同化を成せるまでになると見られます。

 これが ものごとをどう見るかについて その普遍性を問い求める姿だと思います。


 はい。普遍化、さらには、客観化を求める姿勢かと存じます。




> ☆☆(上述) ~~~

 ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。

 しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観ないし科学的真実だと見られて来ます。

 ~~~~~~~~~

 そうでないと 間主観性は そなわって来ないと思われます。


 はい。その本質が普遍性を持つという条件がクリアされたならば、もはやそれは誰もがそう見るであろうような客観になりうるものと考えております。
 また、仰られますように、(間主観性の十分条件は満たさないかもしれませんが)必要条件かと察せられます。



> でもそうではなさそうなので どういう知解のあり方なのかと考えます。つまり さらに考え続けます。

 ★ “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。

 ☆ 確信を抱かせるには 普遍性をともなって間主観性であることを条件とすると思われます。
そういう主観は 類概念や共同主観のほかに どういうかたちがあるか?



 ここではまだ初期フッサールの概念でございます故、間主観性はまだ出て来ていないかと考えております。従いまして、「確信」を抱かせるのは、主観内において、その現象学的還元を施した本人のみ(自分自身のみ)に限定されるものと考えております。しかし、それらが重なり合って、間主観性が生じるやもしれません。




> 足踏みしていると見られましょうが 必要なステップであるように思いましたので よろしくお願いいたします。

 いえいえ。こちらこそよろしくお願い申し上げます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 今回は ドンキホーテ的質問は不発に終わったかも知れません。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 質問として考えついた内容が だいたい可能性として まちがった方向には行っていないという結果だったのではないかと思います。

 今回はふたたび 原文についてお聞きします。
 長い一文から成る文章ですが その文章の中へ 疑問をはさむ形を取ります。よろしくどうぞ。

 ▲ (現象学的還元) ~~~
 ( a )現象学的還元とは いっさいの超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効(ヌリテート)の符号をつけることである。

  *(ぶらじゅろんぬ評)(1) この超越者の規定は 変。《私にとって外部と
  して知覚したもの(事象)》といえばよいのに。

   (2) 要らない要素を捨象し要るものを抽象する(抽き出す)ことを《無
  効の符号をつける》と表わすのはよいとしても でもそこでは《本質》として
  捉えられるかも知れない要素については 抽き出す つまり私の内部に受け
  留めて行くのではなかったかと疑われる。

 ( b ) すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま措定しないで せいぜい妥当現象として措定することである。

  *(3) というのなら 《無効の符号をつける》と言っても 《妥当現象とし
  て措定する》ことの中には 要ると思われる要素の取り出しも含まれるという
  ことらしい。

 ( c ) たとえばいっさいの心理学や自然科学など あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず 従ってそれらを 私にとって〔認識批判学〕の手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては まだ前提としても 仮説としてさえも 利用してはならない。

  *(4) それは そうだ。知覚したものごとを資料として受け止めるに当たっ
  て 参考にならないものを捨て なるものを資料とする。当たり前だと思われる。

 ( d ) 要するにこの原理の本来の意味は この認識批判学で問題になっている事象から離れず ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。(『現象学の理念』H.II,6)

  *(5) 《原理》とは 現象学的還元のであると読む。全体として 当たり前
  だと思われる。

 ▲ (同上) ~~~
 ( e ) われわれは 経験の中で素朴に生活し 経験されたもの ないし超越的な自然を理論的に研究することを止め その代わりに《現象学的還元》を遂行する。

  *(6) こうなると 独自の行き方があると見られる。だとしても 《理論的
  に研究する》ことから離れるとは思われないのだが。
   《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見
  られるような自然》のことらしい。

 ( f ) 換言すれば 自然を構成する〔*諸作用で〕意識に属する諸作用(現実的な諸作用やあらかじめ示された潜在性の中で実現されうる諸作用)とそれらに付随する超越的な措定を素朴な態度で遂行し かつまたそれらの作用に伏在する種々の動機づけに誘発されて 次々に新しい超越的措定を続行する代わりに――われわれはそれらの措定のすべてを 顕在的な措定はもとより 潜在的な措定をもあらかじめ《作用の外》におき それらを行なわないことにする。

  *(7) 分からなくなった。たとえば そこから資料を取り出す与件について
   知覚および認識の《作用の外》に置くということか? もともとこれらの与件
   については 《私にとっては外部にある》ものではなかったか。わざわざまた
   外に置くのだろうか?

 ( g ) そうすることによってわれわれは われわれ自身の理論的研究の把握のまなざしを 純粋意識とその絶対的な固有の存在へ向けるのである。

  *(8) 独自の《理論的研究》が始まるということらしい。
    あらかじめながら《絶対的な固有の存在》という表現は 仰々しい。うたが
   い得ない《われ》の存在が見い出されたのならそう言えば済むと思われる。
    《純粋意識》と言っても たかが人間の意識ないし存在の基本要素といった
   ところではないのか。

 ( h ) しかしてこの純粋意識こそ われわれが求める《現象学的残留物 Residuum 》として残留しているものであり この純粋意識は たとえばわれわれが全世界を 従ってあらゆる事物と生物を そしてさらにはわれわれ自身をも含めたすべての人間をも《排去》したとしても あるいはもっと適切に言えば それらのすべてを括弧に入れたとしても それとは係わりなく残留しているのである。

  *(9) 《独自》と言っても ここまで来ると 特殊すぎやしないだろうか。
   いちいち《排去》などしなくても われなる存在の基本要素を取り出すのだ
   と言えば 済むのではないか。
    そのようにして それについての思索や把握は出来ようものを。わざわざ
   なんで《残留》させるという形にするのか。

 ( i ) 厳密に言えばわれわれは〔この還元によって〕何一つ失ったのではなく むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり しかもこの絶対的存在は 正しく理解されるならば すべての世界的超越を《理念的に実現され整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成している》のである。(『イデーン』H.III,118f.)

  *(10) 《何一つ失ったのではなく》――そりゃあそうだろう。もともと抽象
  という作業をしていただけ。
   《絶対的存在》――よくもこんな表現を使うと思う。人間存在の或る部分と言う
  に過ぎないと思われるのに。
   それを《獲得した》のならば それを見せて欲しい。それ自体は見せられない
  とすれば それを獲得した状態になれば 何ができるのか? 何が見えるのか?
  その世界観を示して欲しい。つまりは この文章をこの今表わした時点で その
  ことに留意をしてしかるべきなのだ。読む人をおちょくっている。もっとも
   ▲ ~~~~~~
    しかもこの絶対的存在は・・・すべての世界的超越を《理念的に実現され
   整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志
   向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成
   している》のである。
    ~~~~~~~
   ☆ ということらしい。そこまでは言っている。
   《私にとって外部であった与件が 参考資料として選り分けて行った末には 
   そのうちの基本要素らは 私の内部に整然と互いにその相関性が明らかに見
   て取れるように 位置づけられている》ということか。
    《われは わが心に世界を捉えた》ということだろうか?
    ところで その中身は?

 ▲ (同) ~~~
 ( j ) そのつどの諸客観を現象学的に排去する Ausschalten とか それらを働かせないようにするという表現(これは作用や関心を働かせないようにするという言い方と相関的な正当な表現である)を誤解しないよう 用心しなければならない。

  *(11) アウスシャルテンは スイッチを切りオフにすることでしょうか。
   ならば あとではオンにすることもあるということなのだろうか。
    《正当な表現》であるらしい。

 ( k ) 現象学的考察者としての私は 存在や価値や目的をもはや普通の意味では所有していないが しかしそれとは別の変様された意味では やはり依然としてそれらを所有しているのである。

  *(12) その違いを早くおしえて欲しい。

 ( l ) 私に対する妥当性とそのような妥当性に対する私の関心一般から排去されたものも そのために私の意識野から消え去ったわけではない。

  *(13) 早く言ってくれなきゃあ。オフとオンとがあると。

 ( m ) ただし《自然的な見方で考察し 認識し 評価し 職業に従事する者としての私とは対照的な》現象学者としての私にとって いまやそれは 私を現象学者に変えた〔還元の〕方法によって 通常とは本質的に異なる仕方で与えられているのである。

  *(14) だから それは何? どういう仕方なの?

 ( n ) 私はこの方法を 客観的なものに対しては括弧入れの方法と呼んでいる。

 ( o ) われわれは客観を いわばそれを排去する括弧に入れ 一つの符号をそれに付与するのである。

 ( p ) すなわち《私はここでは妥当性の承認や 存在や価値への関心などをすべて禁止したい。私はこの客観を これに妥当性を付与する自我の作用の志向的客観としてのみ妥当させ そしてその作用と その作用自身がそのように主題化された客観として措定しているものとに対してのみ関心をもつことにする》という私の意志を表わすための符号を付けるのである。

  *(15) 《与件についてその諸要素をわが判断に従って取捨選択する》と
   言うだけぢゃん。

 ( q ) 私はこのような操作を行なうことによって 現象学的に純粋な主観的なものを獲得し そしてその内部に その主観の作用の単なる志向的客観という 変様された妥当性の形態において 客観を所有するのである。(『第一哲学』H.VIII,110f.)
 
  *(16) ご自由にどうぞ。
 ~~~~~~
投稿日時 - 2011-10-07 04:58:37
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-16 23:29:10
  • 回答No.40
noname#143207

もありがとうございました。 > ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。 
 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。
  ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに ...続きを読む
もありがとうございました。


> ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。

 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。

 ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]
 


 実を申しますと、愚生にはわかりません。もしかしますと、そもそも、これらの比率等は、自然に由来するもののため、人類の歴史以前から存在するものかと推察されます。従いまして、これら比率等から、安定感を感ずるというのは、アプリオリなるものなのかもしれません。


> ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。

 ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。


 はい、一般論と致しましては、愚生もそのように考えております。自分がその美しさに魅せられたならば、他人ともその美を分かち合いたいという衝動が出てくるというのは、自然と思うからでございます。


> そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。

 ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。


 愚生は分かれるものと解してございます。
 例えば、カントの言葉を借りますと、あえて、こちらからの積極的な美の探究心を持たずとも、美はやってくるのに対しまして、後者は、むしろ、積極的に、分析を試みる作業であるからでございます。


> では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?


 19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。

 
> ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。

 ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?


 ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。


 
> ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。
 についてさらに話を伸ばします。あるいは

 ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?


 ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~ 

 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。



 かなり、端折りましたが、1から8までは当然のことと考えております。そして、以降の問題でございますが、


>  9.そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。

 10.これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。

 11.この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?
 
 うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーされ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰ることとなる。

 ~~~~~~~~~~~~~


 これらの問題につきましては、形而上学的問いが含まれておりますが、突き詰めますと、どうしましても、形而上学的なものも含まれてくるように考えております。
 「既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る」、意見を等しく致します。さらに申しますと、本当に美と感ずるものは、既成概念や先入見を飛び越えて人に訴えかけてくるものと考えております。そして、これは、もちろん、主観内での受け止めでございます。10に関しましては、評論等の第二次作業もふくまれるかもしれませんが、内なる心において、さらに深化されることは当然ありうることかと考えております。


> 《わたしがわたしであること》。
 《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?

 普遍的”美”に至ことはないかもしれません。しかし、少し基準を緩和させ、「ほぼ美しいとされるもの」につきましては、おおやけに通じる可能性はじゅうぶんにあろうかと推察してございます。




> つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?
 アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
 


 アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。
 もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。
 そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。



> エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
 タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。

 愚生が知らないだけかもしれません。ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。





> ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。



 実を申しますと、”美”を、フッサールのイデア視したもの、という単純なものでございました。申し訳ございませんでした。




> ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。


 そうでございましたか。了解致しました。



> 《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?


 これは、”実験”の変換ミスによるものでございました。深くお詫び申し上げます。



 以降、続きを述べさせていただきます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼コメント
 次のNo.41のご回答のほうでは この上ないお褒めをいただいたと言ってもよいように思うのですが こちらでは 基礎についての認識でおおむね一致し 応用編ではまだまだ 考えを練って行かねばならないと思いました。

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 次の表現によくないところがあったと思います。

 ☆☆(No.38補足欄) ~~~
 7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?
    
     《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》
     とイエスは言う。

  ・・・
 11. この単純な推理とその薄い根拠〔* つまりは イエスなるナゾの無根拠の問題〕にもとづき こう言えまいか?

    うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が
   大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知
   覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向
   性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ
   れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ
   ととなる。

 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人びとが《わが宝あるいは美》へとおもむくところに 《わが心》があり そこには キリスト・イエスがいるというのは そこでわれは 神に出会うという意味です。
 むろん 主観内の ヒラメキとしての――マボロシのような――直感および直観においてという意味ですから 明証性はないのですが それでも 当人にしてみれば その《出遭い》によって――マボロシのうちに―― その美が わが心にかなうものだと確認できたり いや それは美でも宝でもなく むしろ醜悪であり負債であるとさとることが出来たりする。のではないか?
 この話のキモは 《美を見るところに わが心があり わが心があるところには キリスト・イエスがいる》ということ つまりは 《ほんとうにわが心にかなった美であるかどうかは 初めは分からないが たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる》にあります。

 なにやら 同行二人のようになってしまいました。イエスに出遭えるというところを ご同朋つまり人間としてもよいようにも思えます。
 おそらく 現象学プロパーとしては あくまで一人のわたしとしての主観の内部でそのような気づきや見直しや練り直しが 反省の繰り返しとしておこなわれると主張するかとは思われます。
 ただ 一人のひとの能力は限られているとすれば そして出遭う相手は神でもなく仏でもなく同朋でもないとすれば ちょうどまだ湯気が立っているところの・《地平》という概念装置をおそわったように 環境における何らかの事物や事象が まだ見えていなかったのに見えて来るというかたちにおいて きっかけになるのではないか? こう考えました。
 (それを ふるめかしい言い方では そこにイエスがいて ひとはかれに出遭うのだと――あぁ 抹香臭いですね―― 言っていました)。


 ★ ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。
 ☆ この用語は もうあまり伸展性はありませんか? どうでしょう? エポケーとかけ離れているわけではないと思われるものですから。



 ★ ~~~~~
  アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。
 もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。
 そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。
 ~~~~~~~
 ☆ お叱りを受けました。
 つまりもし未練があるとすれば 例のブディズムに出てくる蓮の花のたとえのように あやまち得る自由にしてむしろ自由奔放なるスサノヲ人間語の中から その根としては アマテラス科学語およびアマテラス人格語が 生じてくるのではないか? こういう見通しを持てないかというものでした。
 ぎゃくに言いかえると スサノヲ人間語に根を張らないから アマテラス人格語も科学語も とんでもない陥穽が作られてしまうのではないか? (科学語は どうなのでしょう? 根を張る必要はないでしょうか?)


 ★ ~~~
  ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。

 ~~~~~
 ☆ 確認しました。


 ★ ~~~
  > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?


 19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。
 ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。
 そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。
 ~~~~~
 ☆ なるほどですね。文芸評論でしたら 評論とそれが対象とする作品と 両者とも 文芸であると思われます。音楽評論は 作品じたいの評価と 作品の再現(演奏)についての評価とに分かれるのですね。同じ曲についてピアノかバイオリンかといった楽器の違いによっても 評価が別のものになりましょうか?



 比率などについて 美と感じるアプリオリなものがあったとしたら――つまりそれが 科学によって分かったなら―― おもしろいかも知れません。
投稿日時 - 2011-10-17 14:44:54
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-22 03:38:14
  • 回答No.49
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どうも あとは 虚無主義と科学万能教との二方面作戦であるようにも思われます。  確かに仰るとおリかもしれません。 > ☆ コロンブスが出遭わなかった(発見しなかった)としても ほかにも誰かによって アメリカ大陸は見い出され得た。というような見方なのでしょうか? それが 音楽の分野では そう ...続きを読む
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> どうも あとは 虚無主義と科学万能教との二方面作戦であるようにも思われます。

 確かに仰るとおリかもしれません。


> ☆ コロンブスが出遭わなかった(発見しなかった)としても ほかにも誰かによって アメリカ大陸は見い出され得た。というような見方なのでしょうか? それが 音楽の分野では そうは行かないと。

 まさしく、そのとおりでございます。


> ★ ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。
 ☆ すんなりと分かり得たならば どれだけうれしいことでしょう? と告白しつつ お礼を申し述べます。その視点をありがとうございました。

 ご参考としていただきましたこと、光栄に存じます。


> ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? それによって音楽の種類ないし特性が異なるものに感じるということですね?

 いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。


> ★ [端的考察的知覚]
 ☆ これは 音の知覚なる現象を詳しく分析して捉えたものと受け取りました。それとして過不足がないように受け留めました。

 ご一助となりえましたこと、幸甚に存じます。


> ☆ 《自我》とそして上記の《わたし》とを ひどっちさんには是非対照させていただきたいと思いますが どうでしょう?

 愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。

・わたくしなる固有の意識を持つ存在
・外部の表象を捉える存在
・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在
・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在
・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在
・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない

 これは、以下のご質問( b )との関連性があろうかと推察致しましたので、( b-1 )にも少しだけ触れておきたく存じます。

 ( b ) 《自我・他我》という〔わたしには〕分かりにくい用語を使っているけれども 要するに人間にとって《わたし》とは 何か? どういう成り立ちで どういう動態か?

> ( b-1 ) 自我と他我とでは 世界について見える位相が違うという。
 ● それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。
 ☆ 知覚的志向性が 人によって違うであろうことは そのまま受け止められる。では 《言語行為の志向性》とは 何ぞいや? 同じ言葉を使っていても その意味の取り方が人によって 多少は違うことか? 
 多少は違っても おおむね共通の概念を持ち得て意志疎通は出来ると言えるのかどうか? 
 
 例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。  
 さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。
 この言語によって表される概念や知は、その物の意味としての側面を担っている訳でもあります。そうしますと、リンゴの赤さを知覚する場合、リンゴの「赤い」像が知覚として直観されると同時に、「赤い」という言語そして、その意味(本質)も直観(認識)されていることになろうかと考えられます。そして、この直観が、タイトルにてお示しになられました「本質直観」になろうかと存じます。
 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。


> 意味論一般に広がりましょうか?

 いえ。そこまでは及ばないと考えております。


> ★ 意志疎通にとっての障害は、おそらく、各々が、まず自己を知らないこと(見つめないこと)、そして、他の人たちにおけます善性(仏性)を否定しまうことかと考えております。
 ☆ これは 美の感受において 一般に醜悪とされるものにも美を感じるというその現象の解明と 相い携えてすすめるとよいように思いますが どうでしょう? 
 
 はい、全く異論はございません。
 ただ、純粋に「醜悪とされるものにも美を感じる」のでしたら、問題はないかとも考えております。ですが、(現代)音楽評論を聞きましても、同じ内容のことばかりです。そのままコピーペーストしたかの文章のようでございます。純粋にそこから美を感じ取れたのなら、もう少しぐらいは気の利かせた作文はできないのかと、不思議に思っております。


> 善性の否定としての自由意志の行使 これは たとえばこれまで考えたところでは おのれの目指し求めた意志行為の挫折をきっかけにしてではないかでした。――今後に課題としたいと思います。

 了解致しました。


> しかも哲学として 経験思考を超えた直観において得られるような 次のような命題を提出し得るだろうか?
 ★ ~~~~~
 ▲ 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。
 大乗仏教におきましては、そのようになった、と解してございます。
 ~~~~~~~
 ☆ 《永遠の現在》を《生けるわれ》は――つまりは さとりは―― 哲学の主題であり得ましょうか?

 回答になっていないかもしれませんが、愚見を述べたく存じます。
 (おそらく)わたくしたちは生なるものを授かっている以上は、この経験世界と直面しているわけでございます。そして、この経験世界の原因・根拠を遡っていきますと、結局は“無根拠”にたどり着いてしまいます(当然、科学もそうであります)。では、根拠がなければ、生を享受できないかと問われようとも、生の営みは可能と言えるかと思われます。つまり、無根拠と隣り合わせにわたくしたちは生を営んでいるかと。そして、一方ではこの無根拠なるものも、わたくしたちの想像力を掻き立ててくれます。たとえ、それが“仮像”とも呼ばれようともでございます。
 少し歴史を振り返りますれば、この“仮像”なるものも、案外役に立ってくれるものとも考えております。物質の最小単位は何か?、宇宙の果てとは? ほとんど答えようのないこれらの問題につきましても(カントはこれをアンチノミーにて、認識不可能としておりますが)、わたくしたちは想いをめぐらすことができますし、多少なりとも、実際科学なるものの発展に寄与してきたものと考えております。
 そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
補足コメント
 意味論についてです。

 ですが じつはよく分かりません。そのわけは 意味論という分野があってそれがどういう仕事をしているか という問題よりも 意味論のその仕事が どういう志向性のもとにおこなわれているか という問題でよく飲み込めません。しかも 現象学にかかわっての問題です。

 わたしに分かるのは たとえば今回のご回答の文章に即して考えるなら 次のようです。
 (なお 数学のほうでも意味論があるようですが それについてはよく分かりません)。

 ★ ~~~~~
 例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。 
 さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。
 ~~~~~~~
 ☆ ここでの意味論は こういうことかと思います。つまり 色は赤のほかにも緑や黄色もあるのに《赤》をリンゴの概念を表わす特徴として取り上げるのは ある種の仕方でその赤で代表させている。そういった《意味》の社会的な用法だと見られると思うからです。
 そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。

 ★ 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。
 ☆ 言葉は だいたい人びとに共通の一般的な意味があり しかも実際の用法においては使用する人の主観がそこに込められ 或る程度意味が広がる(または ちぢまる・ゆがむ)といった慣用があります。つまり そういう意味論もあると思います。


 この意味論は 質問者つまりこのわたしが持ち出した論点なのですが 的を射た指摘ではなかったかも知れません。
 
 あとは ご指摘のあるのを俟ちます。なければ 保留としておきます。
投稿日時 - 2011-10-22 19:31:05
お礼コメント
 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
  > ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? 

 いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。
 ~~~~~~
 ☆ あぁ そういうことでしたら もう少しおつむをめぐらしていれば・・・という悔いの残る思考でした。
 要するに頭に――聴覚をはたらかせる作業のほかに―― 詩つまり言葉をつうじて何らかの観念を持ってしまっているということですね。聴覚像の世界と思考(概念像)の世界とがからみ合うことになると。
 としますと 曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。

 考えてみれば 絵画にも言えることかも分かりません。表題はつけられていてもそれにこだわることなく――ということは 作者である画家の思わくをも一たんエポケーして・そしてあるいは 所謂る二次的な鑑賞としての・評論家の批評にも影響されることなく―― 事象に就いて見てみる。

 おそらく直観は 思考をも包み込む(もしくはその導き手となる)ことが出来ても 思考が 直観の源泉であるとは あまり思えません。両者は互いに 《わたし》の中で――身体と共なる精神の旋回にも似た動きとしてのハタラキにおいて―― 入り組んでおりからみ合っているでしょうが 直観が思考に先行する。すでに繰り返して述べていますが こう考えます。


 さて 《自我》論争ですが:
 ★ ~~~~
 愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。

 ・わたくしなる固有の意識を持つ存在
 ・・・ 
 ~~~~~~~
 ☆ わたくしの物言いも 到ってかんたんなんです。

 ( a ) 同じ《 Ich / ego / I / ・・・》なる用語を なぜ《わたし・われ》と《自我》とに分けるのか?

 ( b ) 《自我考える。ゆえに自我あり》とは言わないだろうと思われます。

 これだけでよいと思います。が もう少しつなぎますと あるいは:

 ( c ) われわれは 他者に――実際になりと想像上でなりと――相い対するとき その人と向き合っているのであって・そしてそれをその人の《わたし》というのであって 決してその人の自我つまり他我とではないということ。そんなことをしたら ただただあたまの中で 人間を扱っているだけになります。

 ( d ) 身と心から成るその人の存在全体とまじわり 対話をおこなっています。
 そうでなく 自我などという用語をはやらせたから あの人は 我が強いとか 自我が発達していないとかいうことになります。

 ( e ) 我が強いは まだ《わたし》の全体を相手としてその性格ないし特徴を部分的に言ってみたまでだと考えますが 自我の成長などという概念を持ち出すなら それは存在全体としての《わたし》とはあたかも別個に――それは確かに《わたし》のであろうけれど・もしくは であろうのに 別個に――《自我》が社会の中で育って行くのだというような見方をしているように受け取られます。

 ( f ) おそらく これは《わたし》の人格ないし境地にとって 不幸です。それは 《さとり》を実際の生活世界とは別の世界に求めるような傾向を 人びとのあいだにもたらしていると思われるからです。すべては 根源的所与としての超越論的主観性つまりはけっきょく《わたし》の問題だと考えられるのにです。

 ( g ) 《わたしは わたしの自我と向き合う》とか《わたしは 他者の自我すなわち他我と向かい合う》とかいうふうには言えるようですが――そのようにまで慣習が出来上がっているということだと思うのですが―― これは 厳密には間違いではないでしょうか? もし具体的に向き合う物事は何かと言えば それは人それぞれの思想(生活態度)であり その過程における自己表現の一つひとつの形であろうと思われます。

 ( h ) 先ほどの《我が強い》というときの《我(が)》を取ってみても それは 押しが強いといった意味であり これをわざわざ《自我》という必要はないと思います。特殊具体的には 《思想(生活態度》と向き合うのであり 基本的には互いに《わたし》どうしのまじわりである。と思います。

 ( h )★ ・わたくしなる固有の意識を持つ存在――☆ これは《わたし》です。《わたし》が捉えた《わたし》です。すでに現代人は これを《自我》と言うとそのまま受け容れるまでになっていると思えますが そんな言い回しをした日には 余計に分からなくなるのではないでしょうか? 
 わたしの自我とは何か?――せいぜいが 《意志》といったことを言うのではないでしょうか?

 ( i ) ★ ・外部の表象を捉える存在――☆ 《わたし》ですよね? わたしがわたしの感性において・もしくは意志において 世界を知覚し認識します。《わたし》の感性や意志のほかにそれとは別個に《自我》があるわけではありません。

 ( j ) ★ ・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在――☆ 根源的主観性ですが それも《わたし》の問題でありその範疇に入っているはずです。
 部分的な見方になってしまうものとして 知解力としての理性を言う場合があるかも知れません。が この理性とて《わたし》です。わたしの知解という――精神にとっての第二の――行為能力です。これは明らかに《自我》ではありません。言いたい気がするだけだと思います。これまで作られて来た慣習からの洗脳ではないでしょうか?

 ( k ) ★ ・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在――☆ これも《わたし》とは別個に《自我》がいるという見方にはならないと考えます。

 ( l ) ★ ・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在――☆ 《わたし》とは別個の《自我》が 《わたし》に対して意識を持つという方向へ どういうわけか 持って行こうとしているだけだと考えます。自己意識とは 《わたし》です。分けるゆえに 世界がこんがらがります。

 ( m ) ★ ・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない――☆ これは どうなのでしょう? 別様に議論があるかと思う主題を含むようですが 世界を知覚し認識するそのわたしの存在がなくなれば そのわたしとしての世界は 消失しているとも見られます。
 あるいは 違う見方として すでにこの今 いま・ここにおいて 《わたし》の動態は その自己到来において 時間的な行為であるところの自己表現としてもすでに《源泉としてのわたし》を打ち出している。ゆえにそれは《永遠の現在》である。このわたしの《永遠の現在》はすでに 時空を超えて世界と宇宙に行き渡っている。
 これは《自我》とは言わないほうが 美的に見ても よいと思われます。
 (《アートマン》も 《我》と表現したから ややこしいようです。《わたしの根源》ということのようですから。つまり 仏性にまで通じる概念のようですから)。

 ( n ) さとりは 哲学の主題であるか? をめぐってですが:
 ★ ~~~
 〔さとり―→無根拠なるもの―→これが想像力を掻き立てる―→《仮像》が得られる―→これが経験科学の発展に寄与したところも大きい。〕
 そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。
 ~~~~~
 ☆ だとしますと ここで提案のようなものですが(項をあらためまして):
 
 ( o ) 《アートマン》と《根源的主観性》とは けっきょくほぼ同じ概念であるのではないか?
 あるいはつまり 《アン‐アートマン(いわゆる無我)》と言っている――つまり 空観においてある――《わたし》 これも 同じではないか?
 そのほか・そのほか 人間存在の《主観ないしその主体》を表わす言葉は すべて 広義の概念として 同じでありそれは《わたし》であるのではないか?


  *

 意味論をめぐっては 少し勉強して考えを述べたいと思います。(補足欄にて)。


 
投稿日時 - 2011-10-22 12:18:39
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-10-17 02:20:39
  • 回答No.41
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 
> §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について 
    (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)
     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html
   大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で ...続きを読む
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。



> §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について 
  
 (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)
   
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html
 
 大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《〔社会ないし人類の〕全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。

 はい。これは、以前にも少し言及させていただきましたが、赤ちゃんが美人とみなす女性には、ほぼ一致が見られる、という心理学の研究に関するものをご紹介させていただきましたが、ある程度の収斂がみられうものと思っております。


> 人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。


 はい。これもその証左かと存じます。


> そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。


 はい。これは「美はいわば道徳的(善)なるものの象徴」と主張したカントも言及しているところでもございます。


> さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。


 人は虚無主義には耐えられないと考えております。必然的に、真なるものを求めていくものかと推察してございます。


> 人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実とふたつの真実》を含むと捉えます。


 これは、愚生も常々ご賛同の意を申し上げておりますように、意見を等しく致します。


 



> §2 美の構成力に内部変化および錯綜や倒錯が起きうるということ
 
(【Q:われらが審美眼は 劣化したか】No.42お礼欄) 
 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html
 
 生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。
 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 善悪の存するのは、せいぜい、”意志”に関してかと考えております。
 また、なぜ自殺がいけないのか? という問いがこの哲学カテゴリーでも時折見かけます。その問いに対しましては、それは、「 生きるこ自体に意味《善》がある」、これ以外に考えようがないとも思っております。


> これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。


 前文を読んでおりますと、カントを読んでいるように思えて来ました。つまり、「我が内なる声に耳を傾けよ」ということでございます。
 そして、個人内の問題をさらに集団にまで拡張した際には、フッサールのような共同主観が生じるものかと考えられます。



> 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。
 《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞と連れ立った)動きだと考えます。


 なるほど!!。そういうことでございましたか。使徒行伝(9:18)ではございませんが、今、鱗が目から落ちるのに気づきました。


> 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。



 ポストモダニズムのときは、真理の否定の方向に一気に邁進致しました。仰られますように、真理は表象しえません。ですが、さらに基準を緩めた「正しいとされるもの」、「よいとされるもの」、これらすら否定の対象となってしまった観がございます。 その反動なのでしょうか、マイケル・サンデル氏の「これからの「正義」の話をしよう」が大はやりのようでございます(別段、新しい思想が込められている訳ではないのですが)。 かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。



> どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが 千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 もちろん、その生が置かれている世界での(過去を含めました)傷跡が、さらには、かつて自己がただひたすらに憧れを抱いたそのものに対しましても、美の受容は様々なものになろうかと思われます。
 もちろん、癒されることはありえるかと存じます。実際、愚生も結構助けられましたし・・・



> これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へそ
の曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
 
 仰られますようなことは、人により無自覚かもしれませんが、存在するものと考えております。


 先程の投稿でもそうでございましたが、誤記が多くございました。この場をお借りし深くお詫び申し上げます。



  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼コメント
 つづくご回答です。

 なんだか過分にお褒めいただいたかと思います。
 基礎の領域では 互いにその見解を共有し得ている。こう思われます。

 ○ 事物や事象におけるかたちの成り立ちとしての比率 これを捉えるときの生得的な傾向として 人びとは互いに共通の――ある程度において幅を持った――見方がそなわっているのではないか。

 ★ これは「美はいわば道徳的(善)なるものの象徴」と主張したカントも言及しているところでもございます。
 ☆ 留意します。(カントは どういうわけか その読みにおいてきわめてあいまいであり続けています わたしの中で)。

 ★ 人は虚無主義には耐えられないと考えております。必然的に、真なるものを求めていくものかと推察してございます。
 ☆ これは これとして ひとつの主題になるかも知れません。留保しますが。

 ★ なぜ自殺がいけないのか? という問いがこの哲学カテゴリーでも時折見かけます。その問いに対しましては、それは、「 生きること自体に意味《善》がある」、これ以外に考えようがないとも思っております。
 ☆ これは 言うなれば客観的な見方ですね。主観をも交じえれば
 ★ 善悪の存するのは、せいぜい、”意志”に関してかと考えております。
 ☆ ということで ひとりの主観の動態としては わが心に従うか逆らうかの選択としての意志判断に 善悪の問題があるのではないかと。善と反善(=悪)と。《わが心にしたがう》ことを 存在することないし生きることの中身だと見ているのですが。

 そこから
 ★ ~~~
 前文を読んでおりますと、カントを読んでいるように思えて来ました。つまり、「我が内なる声に耳を傾けよ」ということでございます。
 そして、個人内の問題をさらに集団にまで拡張した際には、フッサールのような共同主観が生じるものかと考えられます。
 ~~~~~

 ☆ ここらあたりに 強引に 真理も そして美も からませてみていました。善悪の根拠は むしろ無根拠としての真理であり 善悪を概念として認識し判断する以前のイメージ直感において 審美がおこなわれるのであろうと。賛同いただきまして さいわいに思います。

 ★ ~~~
 ・・・かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。

 ~~~~~
 ☆ さらに精緻な理論に向けて 批判的な探究も怠ってはいけないと思いました。(真善美と言えば 何をとんちんかんなと返されるでしょうから 一般においては)。

 行動や心理 あるいは 脳や神経などなど細かい分野や視点において 詳しい研究も進められているのでしょうね。

 ここでは 善とその損傷そしてさらにこの損傷が癒されていく過程 こういった観点に 審美眼のあり方をからめて見ようとしています。
 考えてみれば 亡羊の嘆を吐きつつも 前途洋洋といったところでしょうか。どうでしょう。
投稿日時 - 2011-10-17 15:16:27
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-09-27 00:10:37
  • 回答No.2
以下叩き台としてご利用ください。 フッサール、シェラー、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスの読者からの反応は考察のお役に立つと思います。 それから、竹田の学生や読者がどういう反応を示されるのか楽しみです。 手抜きですみませんが、愚拙の設問のお礼欄で複数回書きましたので転載させていただきます。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7011950.html 【「事物が ...続きを読む
以下叩き台としてご利用ください。
フッサール、シェラー、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスの読者からの反応は考察のお役に立つと思います。
それから、竹田の学生や読者がどういう反応を示されるのか楽しみです。

手抜きですみませんが、愚拙の設問のお礼欄で複数回書きましたので転載させていただきます。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7011950.html

【「事物があると経験できる」から「経験すると事物があらしめられる」へ切り替えるときに(還元)、何かを意識するのではなく流れそのものである意識が志向性を保っていたり同一性の定立を目指していたりするという特質をもって何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】

【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。
微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】

【現象学って経験しかみつめないんです。それで、時間をみつめることになったり、志向性そのものを見つめることになったり、意識や認識をみつめることになってしまうんです。】

【赤は色覚だから見る体験ですが、例えば熟し実や夕焼けや花を見て経験するカテゴリに関連付けされ、見ている意識の持続においてぶれなく現出してくるので、存在として認識した像を結ぶことができるんでしょうね。初めにあったものごとのことなんてわかりませんでしょう、現象学では。】

【知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず、経験の対象について一個別的なものにとどめず、総称的な全体概念を把握できるということなんです。】

【たとえば、シャツのボタンが、あなたの知っているボタンの具体物一つ一つであることを棚上げして、
ボタンという形相と結びついているということ、
あなたの知らないボタンがどれほど無数にあるか知れないのに、存在するボタンの全てを一つずつ確かめなくても、ボタンをわかっていること、
これが、全体の明証性を問わずにいられる本質観取という出来事です。
そして、さらに言えば、経験において時間の過程であるボタンの現出がずっと同一のボタンでありつづけるための志向性があること、これが本質観取という、明証なき実在の知覚の事態です。】
補足コメント
 すみません 不勉強を省みず――もしくは 不勉強であるゆえに―― 大胆な尋ね返しをおこないます。

 ご説明にしたがうならば その内容は 例のプロティノスの弟子であったポルピュリオス(234~305以前)の書いた『イサゴーゲー』における分類論(カテゴリア論)と同じであるように思ってしまうのですが いかがでしょう? (新プラトン主義の系譜ですね)。

 ▲ (ポルピュりオス:イサゴーゲー) ~~~~~
  類とは何か 差異とは何か 種とは何か 特性とは何か 付帯性とは何かを知ることは・・・定義を下すためにも また総じて区分と論証の仕事に対して これら(五つのもの)の考察は有益でありますから・・・手短に いわば入門書(イサゴーゲー)風に・・・試みましょう。
  ・・・

 1 類(ゲノス)について
 ・・・
 種を異にする複数のものに対して 何であるか〔という問いに対する答え〕の中で 述べ帰せられるものが 類である。例えば 動物がそうであると。

 というのは 述べ帰せられるもののうちで あるものは一つのものだけについて述べられる。例えば ソクラテスやこの人やこのものなどだけについて述べられる。

 しかし他のものは 複数のものについて述べられる。例えば類や種や差異や特性や付帯性は 特定の何かにではなく 〔多数のものに〕共通的に帰せられる。
 類とは例えば《動物》 種とは例えば《人間》 差異とは例えば《理性的》 特性とは例えば《笑える》 付帯性とは例えば《白い》《黒い》《坐っている》である。


 このように類は一方において 複数のものに帰属せしめられ述べ帰せられるという点で ただ一つのものだけに対して述べ帰せられるものとは異なるものであるし
 他方において 複数のものに対して述べ帰せられるものに比較するならば
 まづ種とは なるほど種も複数のものに対して述べ帰せられるのではあるが しかし種において異なるものにではなく数(* 個・個体)において異なるものに対して述べ帰せられるという点で 異なっている。

 例えば人間は種であって ソクラテスやプラトンに述べ帰せられるが この両者は種において相互に異なるのではなく 数において異なるのである。
 また動物は類であって 人間や牛や馬に述べ帰せられるが これらは単に数においてだけでなく 種においても相互に異なっている。


 次に特性と比較すると 特性はただ一つの種――つまり特性がそれの特性であるところの種――と この種の下の個に対して述べ帰せられる。〔例えば《笑える》は人間という種だけと 個々の人間に対して述べ帰せられる〕のに反して
 類は一つの種にではなく 複数の異なる種に対して述べ帰せられるという点で 類は特性と異なる。


 さらにまた差異および共通的付帯性と比較するならば この二者が種を異にする複数のものに対して述べ帰せられるけれども しかし《何であるか》〔という問いへの答え〕の中で述べられるのではないという点で 類はこの二者とも異なる。
 というのは この二者が述べ帰せられる当のものが――今言ったように――《何であるか》の中でではなく むしろ《どのようなものであるか》の中で 述べられるからである。例えば《人間とはどのようなものであるか》という問いに対して 《理性的な》とわれわれは答えるし また《からすはどのようなものか》に対して《黒い》と答える。
 このばあい《理性的》は差異で 《黒い》は付帯性である。他方《人間とは何であるか》と問われたばあいは 《動物》とわれわれは答える。動物は人間の類であった。


 かくして類は 複数のものについて述べられるという点で ただ一つの個体だけに述べ帰せられるものから区別され 
 また種を異にする複数のものに述べ帰せられるという点で 種としてあるいは特性として述べ帰せられるものから区別され 
 さらに《何であるか》の中で述べ帰せられるという点で 差異および共通的付帯性から区別される。
 この両者は 両者が述べ帰せられるところのそれぞれのものが《何であるか》の中でではなく 《どんなものであるか》 あるいは《どのような状態のものであるか》の中で述べ帰せられるのである。
 したがって 上であたえられた類の粗描は 少しも余計なものを含まず また欠けたところもないのである。

  2. 種(エイドス)について
  ・・・
 
  (水地宗明訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~
 【現象学では・・・
 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
 ~~~~~
 ☆ というようですと 知覚をも引きこんで本質観取すると考えられますが その点ではポルピュりオスの場合 イサゴーゲーなる小冊子では そのことに無頓着のようです。

 ▲ (ポルピュリオス 前掲書・まえがき) ~~~~
 例えばそもそも 類と種に関して 
 1. それらが客観的に存在するのか それとも単に虚しい(対応する実物のない)観念としてのみあるのか 
 2. また存在するとしても 物体であるのか非物体的なものであるのか また〔非物体的であるならば〕離在可能な〔物質から独立して存在しうる〕ものなのか
 3. それとも感覚対象の内に これらに依存しつつ存在するのか
 という問題については 私は論じることを回避するでしょう。このような仕事はきわめて深遠で もっと大きな探究を必要とするからです。
 ~~~~~~~~~~~



 ★ ・・・何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】
 ☆ ポルピュりオスらは この純粋意識と呼ぶこともなく 概念整理のために類・種・特殊・個といった分類論を得ているのでしょうね。

 次の知覚の問題にも触れないということのようです。
 ★ ・・・ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
 ★ 明証なき実在の知覚の事態
 ★ 知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず

 ☆ この中で 《明証性》の問題については 議論が分かれましょうか?
 類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。



 リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?
 もし詳しく細かくみれば フッサールもこうした分類理論についてとうぜん触れているということでしたら どうぞお見逃しのほどをお願いいたします。




 * 何だか このような《返り討ち》をねらって ご回答を要請したかたちになったかにさえ見えます。

 * 《志向性》が扱われることは おおきな違いでしょうか?

 * 《直観》というよりは ふつうの概念整理であるように捉えられます。それゆえにも《観取》といった表現を用いるのでしょうか?

 * せっかくの修復にふたたび傷が入るようでしたら 削除しようかとも思いましたが すべては学問のため ひいては日本の復興のためとお考えいただくわけにはまいりますまいか? (でもわたしのこの物言いは すでにいやというほど浴びせられているのでしょうね。わたしが知らないだけで。だとしたら その辺のことをご説明願えるかとも)。

 * あぁ 最後の決断としまして 清水の舞台から飛び降りましょう。
 
投稿日時 - 2011-09-27 07:54:18
お礼コメント
 催促してしまってすみません。ご回答をありがとうございます。


 竹田青嗣が そんなにかかわっているのですか。

 シェラーという名が ヰキぺには見られない名ですね。


 いちど目を通しているご文章ですが あらためてまなびますので まづは前もってのお礼の言葉を申し述べるまでとします。
 ありがとうございます。
投稿日時 - 2011-09-27 00:28:24
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
  • 2011-09-26 18:06:41
  • 回答No.1
noname#143377

素人にも大変わかりやすい竹田さんの本によると、どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。 これはどういうことかと言えば、例えば、私がいま聞いているこの音は「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在である」。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音一般」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものである。この音の前者の側面をわれわれは事実と ...続きを読む
素人にも大変わかりやすい竹田さんの本によると、どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。
これはどういうことかと言えば、例えば、私がいま聞いているこの音は「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在である」。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音一般」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものである。この音の前者の側面をわれわれは事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。もっとわかりやすく言えば、私がある個物を見る。この個物はそれを私が今ここで経験しているものとしては事実である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれうる、電車の音とかピアノの音とか。この言葉それ自体が含む普遍的規性、それが「本質」であると。
要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。
お礼コメント
 あさひさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
 ○ どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。

 ○ 〔事実があって そこに本質がある〕。

 ○ 要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。
 ~~~~~~~~


 ヰキぺを参照しても 《本質直観》の項目はまだなく 《現象学》についても フッサールについての項目は 部分的な記述があるのみです。

 ▲ (ヰキぺ:現象学) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
 
 § フッサールの現象学

   フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近する方法をフッサールは求めたのである。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期と 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。

 §1 前期(記述的現象学)~『イデーン』前まで~

  1900年前後のヨーロッパにおいては、学問が自己の整合性・論理性のみから展開していく一方で、特に数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から論理を基礎付けようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究者から出発したフッサールの関心も、心理学から、論理・数学を基礎付けようとするものであった。

 フッサールは、大学で約2年間師事したフランツ・ブレンターノの「志向性」(独: Intentionalität) の概念を継承したとされる。ブレンターノにおいて、「志向性」とは「意識」が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると「意識」とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目した。

 §2 純粋経験=志向的体験

 §3 現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)

  日常的に、私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っている。この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。

  1.認識の対象の意味と存在を自明的としていること
  2.世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
  3.世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却

 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。

 §4 超越論的主観性

 §5 ノエマ/ノエシス

 §6 後期(発生的現象学)

 §7 生活世界

 §8 キネステーゼ(運動感覚)
 ~~~~~~~~~~~



 ☆ 本質とは ことばの意味のことだという場合には それほど難解ではなく またほかの哲学との違いもあまりないように見受けられます。
 よって もう少し質問を開いていようと思います。あしからずご了承ください。
投稿日時 - 2011-09-26 23:57:33
  • 同意数0(0-0)
  • ありがとう数0
なるほど、役に立ったなど
感じた思いを「ありがとう」で
伝えてください
65件中 1~10件目を表示
  • 回答数66
  • 気になる数0
  • ありがとう数3
  • ありがとう
  • なるほど、役に立ったなど
    感じた思いを「ありがとう」で
    伝えてください
  • 質問する
  • 知りたいこと、悩んでいることを
    投稿してみましょう

関連するQ&A

その他の関連するQ&Aをキーワードで探す

別のキーワードで再検索する
-PR-
-PR-
-PR-

特集


『OKWave AWARD 2015』受賞者発表!

-PR-

ピックアップ

-PR-
ページ先頭へ