解決済みの質問

質問No.7034634
すぐに回答を!
すぐに回答を!
お気に入り投稿に追加する (0人が追加しました)
回答数66
閲覧数3395
現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。
 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
投稿日時 - 2011-09-26 00:15:12

質問者が選んだベストアンサー

回答No.16
 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。


 了解致しました。


> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
 
(1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。

  * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。

(2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
 
  * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
 
  そうすると 言えることは 次である。

 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?
 (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。

 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?

 (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。


 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。



> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。

  * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。

 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。



> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
 
 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。


 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・



> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
 
 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。


 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。


> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。

  * 独我論が いちばん当たっていると思う。


 仰られる通りかと存じます。



> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
 
 * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。


 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。



> ▲ (同上) ~~~

 (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。

  * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。

 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。

  * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。


 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。



> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。


 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。



> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。

  * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。


 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。



> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)

  * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
  
  《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。

 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
投稿日時 - 2011-10-08 20:57:13
この回答を支持する
(現在1人が支持しています)
お礼
 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。

 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? 
 そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。

 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。

 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~
 (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。

 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り
 方でしょうか。

  たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで
 なのだと思われます。
  もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい
 う可能性は 見ようとしている。

  あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か
 らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。

  とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と
 いう存在を基軸にして 理論をつくるか。

 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。

 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /
 すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら
 れるほどの推論が成されうるとは思えない。

  別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない
 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ
 って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が
 潜んでいるかも知れない。

  言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨
 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを
 示していることになるかも知れない。

  よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい
 ると解する。

 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。

 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。
  それはそれとして 次へすすむ。

 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)

 * さらに次へすすもう。別の段落だ。

 ▼ (同上) ~~~~
 (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。

 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど
 りつくはずだと言おうとしている。

 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)

 * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考
 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言
 うと それほど確かであるようには思えない。

  《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が
 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな
 いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし
 ていないか。

  仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や
 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。

  さらに次へすすみたい。

 ▼ (同上) ~~~~
 (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。

 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを
 起こそうという議論に見える。

  ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的
 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止
 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて
 いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。

 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)

 * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか
 れていることは 見て取れる。
  言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり
 着かない。
  方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ
 とすれば その応用編で勝負となるはずだ。

 ▼ (同上) ~~~
 (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?

 * これが 読者が初めから知りたかったことだ。

 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。

 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に
 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう
 としていることは 見て取れる。

  その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実
 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと
 しているようだ。

  それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな
 い。

 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)

 * 次へすすもう。

 ▼ (同上) ~~~
 (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。

 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世
 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。

 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。

 * パス。

 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。

 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。

 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。

 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう
 か?

 (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)

 * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには
 おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが
 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ
 うか?

  それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて
 いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。
  他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸
 であることに変わりはないと。
 ~~~
投稿日時 - 2011-10-09 06:43:31

ベストアンサー以外の回答 (65)

回答No.65
しばらくぶりに失礼します。rearerugenです。
自分なりに考える現象学を哲学史にそって?整理してみました。

今までの議論の流れに乗った回答ではないのでかえって混乱させてしまうかもしれません。その場合は無視してやってください。何らかの議論のたたき台にでもなれば幸いです。


※そもそも西洋哲学は観る学問でした。客観世界をただただ観察して存在の発見に驚く。こんなものがあったのか。あんなことが起きるのか。ヒラメキというより発見の驚きや喜びが基盤にあります。

でもガリレオが望遠鏡を通して地動説を立証すると学問に革命が起きます。この立証は決定的なのです。なぜならガリレオはただ観ただけではないからです。望遠鏡を「作って」観たのです。そうしたら、ただ観た世界と全く逆の世界が発見された。

衝撃です。キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。でも望遠鏡を使って観ると肉体感覚と真逆の真実が現れた。それは、人間の観る能力はもちろん、その能力を与えた神の善性まで疑わざるを得ない発見なのです。キリスト教会がガリレオを異様に敵視した理由はここにあります。

そこでデカルト懐疑です。彼はとにかく観るもの、感じるもののすべてを疑って疑って疑いぬいた。そうしたら、「疑っている」という理性の動きだけは疑いえないことを発見した。理性は確実に存在し、なにより神から分け与えられたすぐれものだと。

ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。

この当然の客観世界が初めて疑われたのはニーチェの時代です。ニーチェの「神は死んだ」は形而上に対する信頼が失われただけでなく、客観世界の存在そのものが死んだことを示しているのです。

ニーチェ以前の哲学は客観世界を観て分析するのが仕事でした。真理に満ちた客観世界は現実世界とは別個に存在していて、我々は現実を観て真なる世界を想起し、まねるだけだというプラトン型。または、真理は現実世界にDNAのように組み込まれているから、現実に従って生長していけば、真理にたどりつけるというアリストテレス型。このどちらかに西洋哲学は分類することができました。でもニーチェ以後はそれができないのです。なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。

対策は大きく3つに分かれました。まず、世界は存在しなくても理性の「運動」が在ることは確実なのだから、その因果の流れを分析して人間にとっての利を追求すればよいというプラグマティズム。次に、理性の考える仕組み「論理」を分析すればよいという分析哲学。そして現象学です。

現象学は客観世界の存在をとりあえずエポケーします。客観世界なんてないと決め付けるのではなく、一時的に判断を停止します。そして、世界があろうとなかろうと、どちらにしても我々がその存在を感覚として感じているという事実は疑っても疑いえないことに注目するのです。デカルトは感覚の正確性、その真なる世界を見抜く精度を疑いました。でも、客観世界の存在を一度判断停止にすると、その正確さはどうあれ「感覚がある」ということ自体は確実だという点が浮かび上がってきます。我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。

この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。

さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。

ニーチェ以後、客観世界を失った西洋哲学は観ることをやめてしまった。「世界を観て考えて」行動していたのに観ることをやめてしまった。その後はただ「考えて」行動することが正義となった。考えて行動して考えて行動して…。まるで自分の精神パターンや考え方を探っているようだ。永遠の自分探し。そこから学べることは理性が「できる」ことだけであって「なぜ生きるのか」「なぜ世界は存在するのか」については何も学べない。

思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。

フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって?だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね?世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう?それを「観たら」どうかね?そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。
投稿日時 - 2011-10-30 23:51:11
この回答を支持する
(現在2人が支持しています)
補足
れあれるげんさん こんにちは。ようこそ。ご回答をありがとうございます。

 § 1 余分なことですが 《 atman 》の語源は?

 あまがっぱさんの質問【Q:本質観取と仏教】( a )への投稿でわたしは 《息 breath 》としています。

 *( a )http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7011950.html 回答No.1

 つまり次の資料( b )などにもとづいていますが そのあとに掲げるウィキペ( c )では 《最も内側( innermost )》なる意味が原義だと言います。

 ▼( b )( Online Etymology Dictionary: atman ) ~~~
http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=atman&searchmode=none

 1785, from Skt. atma "essence, breath, soul,"

 from PIE *etmen "breath" (a root found in Sanskrit and Germanic, cf. O.E. æðm, Du. adem, O.H.G. atum "breath," O.E. eþian, Du. ademen "to breathe").

 ▲( c )(ウィキペ:アートマン) ~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

  [概要] 最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、
 ~~~~~~~~~~

 § 2 現象学は 東西と古今にわたる哲学思想の原点をめぐって展開されているか?

 コギト(思考)だけに限らず インスピレーション(直感および直観のヒラメキ)をも扱い なかんづくその《主観》の扱いは 《わたし》とは何か? である。つまりは存在論であることにおいて世界史を 思想の原点として つらぬいている。か?
 《存在 ないし〈わたし〉》は 古代には 《かみ》一般とつらなって捉えられた。このつながりは――絶対的な隔たりを介してのつながりは――現代にまで インスピレーションという見方に残る。

  ☆☆上記( a )を参照されたい。
   ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。
   ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)

   ・主宰神ブラフマンとアートマン我との一体(梵我一如)

   ・諸法無我ととなえつつ《無い神》の想定による世界についての空観(縁起共生)
   ・その空観のまま 人(有情)には仏性というアートマン霊が宿るとした。

   ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》
   ・《エフヱフ アシェル エフヱフ》
     =《 〈 I am. 〉――that is who I am.》。
     《〈わたしはある〉 それがわたしだ》。
   ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。
     《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。
   ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》

 § 3 タウマゼイン:《観る――驚く》!!

 タウマゾー(おどろく)は タウマイ(見る・見つめる・不思議がる)から来ているそうです。
 けれども――よく引き合いに出すのですが―― 雨の落ちる暗い空から光を発し大きな音をとどろかせるなら そりゃあ昔の人びとは 《かみ》だと思ったことでしょう。
 ただ良いほうに解釈しようとしただけなのか分かりませんが この神鳴りという現象は――あたかも現象学的還元をほどこすなら―― われらが生活の糧である米を成らせる力だと見た。稲光であり稲妻なのだと。つまりその光の射すことによって 光と稲とはつるむのだと。かくして神鳴りを 稲つるび( b ∽ m ;さびしい∽さみしい)と呼んだ。

 《タウマゼイン》には おどろきのほかに 実質的に言って ヒラメキも伴われていてよいと思いますし あるいはその前にやはり《おそれ》があり得たはずです。《神をおそれること(イーラフ;フォボス)は 知恵の初め》とさえ言われました。

 § 4 タウマゾー(われ見る / おどろく) ―→ファロール(われあやまつ)―→コギト(われ考える)―→?

 その以前に ともかく世の中を見渡して 逆に言えばおどろきを重ねた結果 それらの驚きを超えて わが身とわが心を捉える。わが存在を見つめる。そこで 《エフヱフ アシェル エフヱフ》あるいは《すでに何ものかナゾの力によってあらしめられたわたしは ある》を得て その表現のかたちが来ていたかとも思います。
 あるいはさらにその前には ただ《行け。親の里を去って 行け》という言葉を受けた《行くわれ》がいるかも知れません。
 その前には 素朴に《われ かみをおそれる(ヤレー ハ・エローヒーム)》が来ていたかも。

 あるいは ただ《あはっ!》と言って世界を知る《もののあはれ》が来ていたかも知れません(*)。すべてをエポケーしたところには――ワビ・サビに到達したところでは―― むしろ神々しきわれが見出されたこともあるかも知れません。《所を追われ 漂白する神(人)》。これは 人の存在じたいが社会からエポケーされた(もしくは 自分からエポケーした)事例であるかも分かりません(**)。
 確かに《タウマゾー》から発しているように思われます。

  * cf. ( d )【Q:日本語とはどういう言語か。】
   その趣旨説明では 《あはっ》もしくは《はー》という息の音
  ないし声から 言葉つまりは自己表出と自己表現が生まれたと見
  るその過程を仮説しています。
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html
 
  ** 漂白の人:~~~
    心なき
    身にも あはれは
    知られけり
    鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
   ~~~~~~~~~

 § 5 デカルトを出すなら クリスチアニズムについてその神学を明らかにせねばなるまい。

 キリスト教という組織宗教が・つまりローマ教会などの団体が出す見解と 聖書が伝える信仰ないし神学とは 区別せねばならないと考えます。
 ★ キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。
 ☆ 《真実を見抜く力》とは何か? 経験世界の事象がすべて その人間による事実認識というかたちにおいてである限りは 知り得るということでしょうか? あるいはその事象や現象が 神の秩序としてあるはずだといったことを言おうとしていましょうか?
 経験合理性にもとづき 事象認識とその思考は限りなく続けられていくと考えます。神の秩序にかんしては 知り得たとしてもそれは ヒラメキ直感においてのみだと考えられます。それ以上・それ以外のことを含むというのは クリスチアニズムではないと言ってよいのではないでしょうか?
 つまりもしそうなら 間違った内容としてのキリスト教教義を前提としていて 人びとはこれに振り回されていた。ただこれだけのことだと見ます。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 ☆ この内容を図式において示したものです。

 ○ (三位一体なる神とひとと社会とについての図解) ~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あとは――つまりこの図式は 《志向性》として中立な認識ですから―― 人それぞれの意志行為がどうあるか といった問題だと見ます。
 つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。
 
投稿日時 - 2011-10-31 15:50:18
お礼
 〔つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。〕
 一般的には ヒトの自然本性(身と心――心つまり精神は 記憶・知解・意志の三つの行為能力――)とそして もし言うとすれば 非経験の領域としての《霊》が来ます。

  * cf. 【Q:魂の存在について】回答No.5
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html

 経験世界にある身体と精神とは 分けたとしても 二元とは言わないはずです。旧くはマニケーイズムの善悪の――善神と悪神との――二元論がありますが そしてこの二元論が あり得ない議論として典型だと思われます。善と悪とが相容れないなら 根源(非経験の領域つまり神)がふたつあるとは考えられません。互いに対等であるなら 善と呼んでも悪と呼んでもまったく変わらないことになります。
 身と心が そんなふうに相容れないふたつの根源でありましょうや? と言いますか  もしそうなら どちらもけっきょく二つにして一つだということにもなります。
 デカルトは 歴史に必要だったとは思わないのです。

 ★ ~~~~
 ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。
 ~~~~~
 ☆ 心身二元論のほかにこの《主観と客観世界との分裂》というのは どうも解せないのですが どうなのでしょう? むしろ一体だと見る系譜もあったのではないかと。
 ☆☆(上記§ 2) ~~~
   ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。
   ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)

   ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》
   ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。
     《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。
   ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 経験世界における《主観と客観との分離》はあり得ても それらを覆い包む《かみ》の想定は 活きていたのではないかと単純に思われます。ですから決して 永遠の決裂としての溝を見ているのではないと考えられるにもかかわらず わざとその乖離をもっぱら探究したかったのでしょうか?
 だって 《確実な主観》が得られれば そこから《客観世界》を見るわけですから 出来るところから科学認識を行なって行けば 問題ないと思われます。

 客観世界がもし《絶対》だとでも思い込んでいたとしたら それはおそらく非経験の《かみ》と経験世界(そのイデア化・偶像なる神)との錯視であるに過ぎない。

 と考えるその理由は 例のニーチェの《神は死んだ》なる宣言にあります。その《絶対なるものの相対世界への引きずり下ろしという錯視》なる神は死んだ。あるいは《観念の神》のことです。つまりそんなものは はじめから 死んでいます。ただ移ろいゆくものであるに過ぎません。
 ★ 〔* ニーチェ以後は〕なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。
 ☆ これは まったくと言ってよいほど 《観念》によってあたまが雁字搦めに絡め捕られていると見ざるを得ません。

 ☆☆(§ 4) 漂白の人:~~~
    心なき
    身にも あはれは
    知られけり
    鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
   ~~~~~~~~~
 ☆ この西行のばあいは わびしさの極みにあり《観念》も錆びついてしまっているはずです。かなり《主観》の世界に閉じこもっていますが そろそろ突き抜けつつある。のではないでしょうか? 《タウマゾー あるいは ヤレー(もののあはれからの きよらかなおそれ)》と叫んでいないでしょうか?
 デカルトやニーチェは みづから蛸壺のなかに入って行ったのでは?

 § 6 あぁ フッサール!?

 ★ ~~~
 ・・・我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。
 ~~~~~
 ☆ ただちに批判するなら どうして《身と心》をなおも分けて考える座標しか取り得ないのか?
 《あやまつなら われあり》のわたしは 感性であり理性である。あるいは ヒラメキ直観である。分かり切ったことではなかったか? なぜ分割せねばならぬか?

 ★ ~~~~~~
 この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《わたしはある》のわたしは 感性からの情報を得ましょうし それらを認識したものを概念としていわば純粋化することも出来るかも知れません。場合によっては――神あたえたまうなら―― ヒラメキを得て その純粋意識なるわれをも超えて しづかにわれと世界を見つめるわたしに成っていることが出来るのではないか。
 その境地にあるわたしには やがてさまざまな生活世界の地平が見えて来る。それは § 5における《(三位一体なる神とひとと社会とについての図解)》に示すごとく 世界の分業=協業するそれぞれの分野について 《ものの見えたる》境地に到ることを示すであろう。《潜在・顕在》のあり方が 《地平》の問題としてあるかも知れないとしても。
 
 かくして――あぁ フッサールよ――
 ★ さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。


 § 7 フッサールよ フッサールよ

 ★ ~~~~
 思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。
 ~~~~~~
 ☆ 《かみをおそれることが 知恵のはじめなり》。これは かみを信じよとか言うためではなく 《すべてをエポケーしてしまえ》と言っていまいか?

 ★ ~~~~~
 フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって? だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね? 世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう? それを「観たら」どうかね? そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。
 ~~~~~~~
 ☆ えっ? まだエポケーし足りないですって? だったら《ヤレー ハ・エル。(われかみをおそれる)》もしくは《われもののあはれを知る》に就きたまえ。《世界》も《見る》じたいをもエポケーしちゃってさ。
 ふところに抱かれつつ。聖なる甘え。究極の完全なるエポケー。だいじょうぶ。《心なき身にも あはれは 知られけり》。どん底にこそ 限りなき愛が・・・。知の原動力として。世界大のいづみ。



 たいへん失礼しました。
投稿日時 - 2011-10-31 17:21:35
回答No.27
またまた思うことを少し。


※根源的地盤から表層の世界へということでなければならない理由

現象学は独我論ではない。このことを示すために直観で開かれる世界が二重になっているのかなと思います。
「認識の地盤」とか「大地」といった無意識に直観が訪れて開く「主観世界」の上に、意識的な直観、他者への配慮をしてはじめて訪れる直観(志向性)によって開く「間主観世界(生活世界)」がある。
現象学は生の経験に還元しますから、どうしても独我論のそしりを受ける。生活世界を開いた意識的な直観(志向性)ならば、どんな生の経験が直観をもたらしたのか条件を探ることはできるけど、無意識な直観はどんな生の経験が直観をもたらしたのか分からない。還元できない。現象学で還元できるのは、意識的な直観(志向性)までだ。他者の存在は無意識下で開かれた根源的なものなので、意識的直観(志向性)では常に他者に配慮せざるを得なくなっている。現象学で還元しているのは、他者も確信しているに違いないと確信して訪れる直観つまり意識的直観(志向性)までなので、独我論でない。

「イデーン」を書いたころのフッサールは世界のすべてを生の経験に還元できる。厳密な学は可能だと考えていたようです。でも晩年「危機」を書いたころは、すべてを還元することは不可能だと考えて「生活世界」という概念を導入したんだと思います。還元しきれない根源的臆見があるようだと気づいたようです。「厳密な学は見果てた」という有名な文句はそのことを言っているのではないでしょうか。現象学的手法を徹底すれば、すべてを個人の生の経験に還元するのですから独我論です。でも還元できるのは間主観的世界(生活世界)だけであって、主観世界(地盤・大地)は還元できないとすれば、独我論ではなくなります。

※「自我」について

思うにデカルトの方法的懐疑を徹底すると、実は我(自我)は出てこないのではないでしょうか。あらゆる存在を疑って疑い抜いた後に残る疑いえないものは「考えている我」ではなく、「考えている」という思考の「動き」だけです。自我なんて出てこない。存在確実なのは「自我」ではなくて「動き」だけ。常に「変化」があるだけ。「無常」だけが確実に存在する。本当は「我」なんて見出していないのです。だからデカルト以降西洋哲学は自我はどこにあるのかについて喧々諤々の議論を展開しています。フッサールも志向性の集積によって自我が形成されてくる。とか言っています。「我」がないのならば独我論なんかないのか?あれ?むずかしいです。

すべては「動き」「変化」「エネルギー」だというのが西洋近代思想の骨子なんだと思います。「我」じゃなくて。だから、あらゆる存在はエネルギーに変換できるのです。E=MC二乗というやつです。デカルトがアインシュタインを生んだんだと思います。私見ですけど…。

※真善美論について
カントが真善美を分けて考えたので、現象学においても、カトリック教会もように真善美を一括して考えなくてもよいのではと思い、述べたものです。善はヒラメキか?そもそも「我」がどこから来ているのか?自由意志の根拠は?これについて西洋思想は答えているように見えて答えてないと思います。自由の深淵です。でもこれを認めちゃうと自由主義で組み立てられた法秩序に根拠がないことになってしまいます。あまり大声で言えないのではないでしょうか?

以上です。言いたい放題に書きこんですみません。回答になっていればいいのですが・・・。
投稿日時 - 2011-10-10 14:35:57
この回答を支持する
(現在2人が支持しています)
お礼
 れあれるげんさん――まづは ご回答をありがとうございます―― だから 神の哲学も前提として必要になるとわたしは思っていました。

 ここらあたりからは もろに質問者自身の見解が出てまいりますが 
 ☆☆(No.23お礼欄の中ほど) 神は 《無い神》と同じです。
 ☆ と書いて――あとから この途中の段落に書き込んだのです―― そのあとおぎなうことは しませんでした。(補足欄を使うということまでは しませんでした)。
 すなわち

 ○ 有神論と無神論とは 類型として同じである。それは 思考に非ずの次元において・つまり非思考として 信仰である。神は 有ると言っても 無いと言っても 〔神は〕痛くもかゆくもない。《絶対》とは そういうものだ。

 つまり カントの《もの自体》についてフッサールが触れなくても――そしてそのことを 無神論だと捉えるならば―― それでも 両者は 《わが心に非思考の庭が成る》というひとつの類型において どちらも同等に信仰である。
 こう言おうとしていました。

 このことについても じつはいま 問うています。  
 【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6951345.html
 趣旨説明だけでも お読みいただくとさいわいですし 分かりやすいと思います。神の定義を述べて みなさんに問うております。

 ★ 自由意志の根拠は?これについて西洋思想は答えているように見えて答えてないと思います。自由の深淵です。
 ☆ ずばり 答えは 無根拠です。絶対ないし無限ないし非経験の領域における《かみ》を――それとの関係としては 人間の心における非思考の庭なる動態において―― 《無根拠》と名づけます。
 自由意志の根拠は 無根拠です。無神論でも有神論でも 同じくです。

 これは ひどっちさんにおしえてもらったのですが 無根拠説を言いかえると 《人間原理》説になると思います。いくらか自分勝手な解釈が入っているかも知れませんが 《相対的で経験的で有限な存在としての人間 しかも類を成している人間 この不確かな存在を根拠とする》という意味になろうかと考えます。
 もっと単純に言えば だれもが《わたし》と自称して生きているという事実 ここに自由意志の根拠があります。言葉でしゃべる そして生きる そのことが誰もが《わたしと自称する人間》であることにおいて成り立っているということ ここに根拠があります。
 《わたし》の自称という事実のその根拠は 無根拠です。だれもが《かみ》と向き合っているという非思考の場のことです。雲をつかむような無根拠です。

   *

 ですから この《わたし》の自称の普遍性 これは 案外 有効だと見ます。
 この類型的な《話す人間》にすでに 相互主観性は宿っています。生活世界が すべてだと言ってもよいはずです。
 その世界を抽象すれば 《わたし》に行き当たります。
 これは 前回は《わたしがわたしである》という基礎を持ち出しましたが それはただ定義しただけと見られやすいので やはりアウグスティヌスの命題を持ってきたほうがよいと考えます。

 ○ われあやまつならば われあり。 Si fallor, sum.

 これです。あやまちに気づくなら 気づく過程ですでに考えることをしていますし 気づいて《われに還る》瞬間をも持ちますから そこで《わたしがわたしである》を自覚します。この一連の過程における思考の部分を取り出したのが デカルトだと見るわけです。
 このアウグスティヌスからデカルトへの移行については 次の回答No.6をごらんください。
 【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html

 《 fallor (われあやまつ;われあざむかれる)》の中に 《 cogito (われ考える)》が含まれるという寸法です。

 ですから この絶えず《わたしがわたしする》というように自乗しつつ自己の冪をつくりながら生きる動態としての《わたし》であれば 生活世界においても根源的地盤においても 同じひとつの基軸としてあり そのもとに相互主観性が築かれているからには 独我論に落ち入るきづかいはない。こう思われます。根源から表層へ あるいは表層から根源へ これらどちらの向きであっても 自由自在です。


 ★ あらゆる存在を疑って疑い抜いた後に残る疑いえないものは「考えている我」ではなく、「考えている」という思考の「動き」だけです。自我なんて出てこない。存在確実なのは「自我」ではなくて「動き」だけ。常に「変化」があるだけ。
 ☆ つまり あやまちや だまされたといった《気づき》があるだけだとも確かに見られます。と同時に おそらく《言葉生活において自称するわたし》がいるからには 《気づくわたし》もいるはずなのです。《われに還るわれ》もいるはずなのです。と思います。

 《動き》論のつてで こう述べておられます。
 ★ すべては「動き」「変化」「エネルギー」だというのが西洋近代思想の骨子なんだと思います。「我」じゃなくて。だから、あらゆる存在はエネルギーに変換できるのです。E=MC二乗というやつです。デカルトがアインシュタインを生んだんだと思います。私見ですけど…。
 ☆ これにつきましては わたしはいまは保留です。まだ めぼしい議論ができません。ひどっちさんは どう受け止められましょうか? よろしかったら おしえてください。

 フッサールの晩年の思想ないし境地についても 留意してまいりますが しゃれた反応は いまは無理です。


 ★ 「認識の地盤」とか「大地」といった無意識に直観が訪れて開く「主観世界」の上に、意識的な直観、他者への配慮をしてはじめて訪れる直観(志向性)によって開く「間主観世界(生活世界)」がある。
 ☆ この構造を ぜひ《ヒラメキの構造》において取り扱ってくださいませ。理由は 一点。《わたし》を基軸として つながっているかたちになるからです。相互主観性が じつは 混沌とした場に起こると思われるイメージ直感にまで 《わたし》をとおして つながっている。
 言いかえると――《自我》が面倒な用語であるのと同じように―― 《無意識》 これもまた扱うのに厄介です。
 ですが 《ヒラメキ構造 または ロゴスの階梯》なるひとりの《わたし》の中におさめれば まったく問題ありません。イメージ直感の場は 意識も理性さえも及ばないところであるが ロゴスの階梯の中にちゃんとおさまっていると見れば すっきりします。
 (その明証性は 《かみ》という無根拠に頼っています。言いかえると 人間原理という不確かな事実の上にさえも《ロゴスの階梯》が 見通された。こう思われます)。


 こういった感じになりましょうか。
 かなり出しゃばりで 自己顕示欲の強いおっさんぶりを やはりここでも発揮するようになってしまいました。
 ただしこれも それも きちんと問い続けています。その過程です。
投稿日時 - 2011-10-10 16:33:31
回答No.7
まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思います。

ブラジュロンヌさんの感性ですと、現象学ではなくて、中世のいわゆる【普遍論争】に興味をひかれるでしょう。普遍は存在するかというあれです。一応詳しい内容を確かめるために哲学用語辞典をひらいてみました。そこには、発端はポルフュリオスの『アリストテレス範疇論入門』に提起されていると書いてあり、プラトン、アリストテレス、カトリック教会、三位一体、風としての声、概念実在論、へと話が延びていました。

それからまた、プラトンのイデアとアリストテレスのイデア、カントおよびヘーゲルのイデー(理念)とを学びわけることが、疑問の整理に必要だと思います。
ブラジュロンヌさんの感性はデカルトの時代に馴染んでいる思いますが、カントのイデー(理念)まで学習の駒をすすめるとよさそうです。カントにおいては、イデー(理念)は理性的推論(悟性的判断に対して)によって導き出されるものだからです。

カントは、イデー(理念)とは認識にとっての目標だといい、フッサールはそのようなイデー(理念)を「実現不可能な十全的明証」とし、数学の漸近線になぞらえます。

それから、現出の同一性とは、瞬間的時間を問題として、今しがたも今もこれからも、見えたものが時々刻々イコールで結びつくということです。このように結び付けられる働きただそれのみによって(同一化統合)、対象の知覚経験が成り立っているということです。

ブラジュロンヌさんの口から主観の共同性といった言葉が出てしまうのは、かなり視点がくいちがっているためです。まず、みんながリンゴをリンゴと分かるという話ではまったくなくて、1人の人間にとって、リンゴの物自体があるからリンゴを見る経験をするのではないという話です。今しがた黄緑の表皮に斑点のあって丸く、たった今へこんだ一方からは軸のようなヘタが突き出し、まさに今へこんだもう一方は尻の穴のような形であり、ああ「これは、、、何かな」と今しもこれから対象が結節するであろう、という話なのです。
この先には、記憶、想起、連合、類型にかかわる言語の諸問題があり、それゆえに現象学は、精神医学、認知心理学、認知科学、脳科学に吸収されている学問なのです。

「現象学の本質直観とはなにか」と検索する方々が今後いた場合にお役に立つと思い、投稿しました。
あとはひどっちさんとお楽しみください。
投稿日時 - 2011-09-30 23:29:01
この回答を支持する
(現在2人が支持しています)
補足
 ★ 普遍論争
 ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。
 つまり むろん 神の問題です。
 《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。
 
 ▲ (超越論的領域) ~~~~
 ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり

 ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。

 ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。

 ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
  (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』1976)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。

 2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。

 3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。
 
 4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。

 5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。

 6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。


 ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。
 ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。
投稿日時 - 2011-10-01 21:59:41
お礼
 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 このたびは ひょんなところから この質問へのご投稿を 実質的に申せば 依頼することになってしまい お手数をおかけしました。お世話になりました。
 
 哲学カテの質疑応答という見方をしてみるならば もっとも傲慢になり心を鬼のようにして高ぶり尽くしてものを言うとすれば その哲学談義としての内容は ここのところ きわめてとぼしくなって来ております。
 これは 初歩の談義をけなしたり蔑んだりしているのではなく――なぜなら 何ごとにも萌芽には それがみづみづしい新鮮なちからを宿すというだけではなく 見方としてのような内容としてなら じゅうぶん高く飛んで伸びてゆく翼のちからを持っていると見られることが少なくないからですが―― それにしても 世界の最先端を行く談義もあってしかるべきというものです。
 (その意味では 学問のため ひいては日本の復興のためと――ついでにのようでしたが――申しました)。

 ▲ 厳密な学
 ☆ といった表現〔だけ〕をフッサールについて記憶していますが その観点から 次のように最後にですが(お答えを要請せずに) お尋ねしてみます。

 ★ まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
 ☆ 問い返しになります。

 1. この命題について真であると判断なさったその根拠は どこにあって それは何なにか?

 2. 《類》あるいは《普遍》という言葉ないし概念の普遍性は どこにあってそれは何か?

 3. 形式論理学の 科学行為としての・そしてまた人間存在にとっての 有効性・明証性は どこにあって何であるか?



 ☆ これについて 答えは《ない》。言いかえると 相対性の世界においては 有限なる証明しか出来ないのだと思われます。
 斉一性の原理あるいは人間原理 これらに――経験的な真としての公理にもとづき――寄りかかってのように 科学行為はおこなわれるのだと。


 現象学について 初めからこのような批判的な見方をしていたわけではありません。また それゆえにも 中身がどうもあいまいであると分かって来たときには 怒りを押さえることができませんでした。



 だいたいこんなところでしょうか。
 具体的な主題や論点について さらに見直してみて必要だと思ったところは 補足欄にておぎなうこととします。


 図書館の本をきょう早いうちに返しに行きたいものですから ここまでをしたためます。ひどっちさんへも お応えはきょうおそくなりますが よろしくお願いします。





 * ご訪問になるみなさんのために:

 ○ 斉一性の原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7


 ○ 人間原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86
 (この内容を わたしはひどっちさんとのやり取りにおいて かなり勝手に解釈して述べていたようです。そのゆえにもかかげます)。
投稿日時 - 2011-10-01 12:11:21
回答No.66
 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 愚生の文筆力の稚拙さのため、いろいろな誤解を目泣きましたこと、深くお詫び申し上げます。

 おそらくフッサールの主張の大元を辿りますと、誰でもが、可能な方法を提供した、これに尽きるのかもしれません。今は情報化社会でございます。様々な情報が飛び交っております。もちろん、そこでは、発信者にとりましては何かしらの意図があるといってもいいすぎではないものと考えております。
 そんなとき、エポケーして、とりあえず自分がかけている”色眼鏡”をはずしてしまい、純粋に対象からの表象を見つめてみる、これはある意味、現代社会でも有用なものと考えております。

 とりとめのない話となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。

     
 愚生こと ひどっちは、療養に専念致したく、本日をもって、退会させていただこうと思っております。

 誠に勝ってな言い分かとお思いになられるかもしれませんが、他の場所にて、いろいろなことに取り組んで参りたいとそう思っております。

 この場をお借りしまして、 bragelonne様はじめ、皆々様には感謝の気持ちで一杯でございます。
 また、愚生の駄文をお読みいただきました方々にも、お礼を申し上げたく存じます。
 愚生を早く追い出したいとお思いの方々には、これで気が済んだかと。もはや邪魔者はいなくなった訳ですから。

 ですが、わたくしにとりましては、いろんな方達とお話でき、とても楽しかったことは紛れも無く事実でございます。
 ほんとう、ほんとうに愚生は果報者かと・・・
 

 末尾ながら、お世話になりましたbragelonne様、そして応援賜りました皆様には厚くお礼申し上げます。
 どうもありがとうございました。


ひどっち 拝
投稿日時 - 2011-11-05 22:13:36
この回答を支持する
(現在1人が支持しています)
お礼
   それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有し
  ているような賢い人を心で考えてみよう。

 とアウグスティヌスのえがく共同主観者の像を ここで補足しておかねばならない。(ちなみに 《真理の分有》とは すべてを理性的な魂すなわちアマテラス者精神で 律することではない。律する力を得たということを意味しない)。

   その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべ
  きであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真
  理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心
  の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基
  づき或るあわれみの業(わざ)を引き受け 身体を労働によって疲れ
  させ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身
  体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われる
  なら それらの診断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。
  しかし両者共にただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れてい
  るのにすぎない。

   しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労
  働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達
  したのである。その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響
  を与える。ところが それもなお第一の究極的な原因ではないであろ
  う。第一の原因は疑いなく より高いところ すなわち不可変的な知
  恵そのものにあったのである。

   賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するそ
  の知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。
  かくて神の意志そのものが あの病気の第一原因であると極めて真実
  に認められるのである。

  〔しかし もし為すべき敬虔な仕事において この賢い人が善き業に
  協力する他の人の奉仕を採用するとき・・・〕
   (三位一体論 3・3・8)

 ここでアウグスティヌスは 《病気にかかる》といったネガティヴな現象を例にあげて アマアガリするスサノヲ者の共同主観行為過程を指し示した。
 しかもそれは 方法としてであるだろう。誰も 病気に罹れとは言っていない。必然の王国をわたりゆく愛の王国を例示しようとしている。
 《もし人間的なものの支配と管理とが この賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら――この状態はまだ存在していないが―― このような人びとの交わり(革命的な連帯)が存在する家についても あるいは都市 または世界についても考え得る》とかれは考えたことになる。

 けれども このような共同主観国というほどの形態的な・或る意味で独尊的な資本関係=やしろの生活については それが《とこしえより据えられて》おり すでに現在するからと言ってのように その実現が 保留されているのだと考えられる。微妙な・また誤解を生むような言い方ではあるが この認識が 神の国の歴史的な進展にかんする後退ではなく 前進なのである。どういうことか。

 なぜなら実際 この《賢い人びと》の内なる秘蹟――第一の死の引き受け→復活(ほんとうのアマアガリ。その約束)なる回転――と 外なる模範――必然の王国を含めて他の人びとの協力を採用するという仕事――としての《キリスト・イエス》は 人間として すでに 出現しているからである。

 わたしたちは 

   神の国と地上の国これら二つの国は この時間的な世界にあっては
  絡み合い 相互に混じり合っている。(神の国について11・1)

 ことを知った。しかも人間キリスト・イエスは 

   《わたしの国は この世に属していない》(ヨハネ18:36)

 と言った。この二つの視点がただしいとわたしたちは考える。そうでなければ 神の国の歴史的な進展(《お前たちは出かけて行き すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そしてかれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け・・・なさい》(マタイ28:19)は 起こらなかったし 必要ではなかっただろう。

 それでは なぜ 《賢い人びとの交わりの存在する家 都市また 世界》の実現が保留されているとわれわれは認識するのか。自由の王国は 必然の王国に取って代わる新しい歴史的な世界なのではなく 《この世に属していない》愛の王国が 同時に《この世》に寄留しつつ この必然の王国をわたるための必要な限りでの理論なのであるというのは どういうことか。

 思うに 

   主(復活した人間キリスト・イエス)は 《私に触れるな。また私
  は父の御許(みもと=神の国)に昇っていないから》(ヨハネ20:
  17)と言われるのである。それは 接触は いわば認識の目標をつ
  くるからである。(三位一体論1・9・18)。

 ここで 形態的な自由の王国の認識が 《接触》であり それは 自由の王国〔なる理論体系〕が われわれの信じるべき対象なのではなく われわれの信じているのは 神(もしくはなんなら自己)であるのだからと言われているようなものである。

   それゆえ 主は ご自分に向けられた心の目標が 見たものだけを
  思うというようにご自分に置かれるのを欲せられなかったのである。
  〔しかし 御子が御父の許に昇られることは 私たちの心を満たす直
  視の目標が そこで達せられるために御父に等しくあり得るようにみ
  られることであった。〕(三位一体論 承前)

 と言われる。これは 愛の王国を 自由の王国として経験科学的に理論しようがしまいが 愛の王国(その信仰)に立って むしろわれわれが 後ろ向きに 前進することを促されていることであると思う。

 それゆえ 自由な人びとのやしろにおけるかつ資本関係としての連合は 《正義が裁きに変えられるまで》 留保されているのである。それは つねに保留されていると認識するまでに つねに前進を見ているものであり かつそれは すでにその実現を見たかのごとく後ろ向きに 進んでいると解しなければならないのだと思う。

 だから 《ここがロードスだ。とべ》と言って 前向きに進むのではなく ましてや前向きに後退する(先送りする)のではなく 《ここがロードスであり わたしはすでに跳んだ》と言ってのように その後の地点に立って 後ろ向きに前進を開始するであろう。
 

   *

 勝手ながらにて。

 
投稿日時 - 2011-11-05 22:58:58
回答No.64
 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> ☆ それでは デカルトは どの思想的系譜から来ているのか? と問いたいという意味合いを この質疑応答の中ほどあたりから質問者としてながら 持ち出して来ていましたでしょうか。
 古代も案外 重要です。全体観がありましょう。

 はい。もちろん、アリストテレス等も含まれます。通史としての全体観も重要かと考えております。



> あるいはつまり フッサールのあとの思想の継承や批判についても 出来れば大筋においてでよいから明らかにして把握したい。ということは すでに現代・現在のわたしたちの――ということは ヨーロッパだけではなくアジア諸地域を含めた世界史という大きな諸系譜のなかにあっての――観点からも捉えたい。こういうことでした。
 ですから早とちりもしくはチョンボの危険を冒してでも いちど《心身二元論》というのは 要素に還元しすぎたところからのチョンボであったに過ぎないという物言いをも差し挟みたい。こういう心つもりです。


 そうでございましたか。納得致しました。



> ★ ~~~~~
 例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。
 また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。

 ~~~~~~~

 ☆ 今ではこの論争・確執は 問題にならないという見方も出来ませんか? 
 仏性は けっきょく霊性のことであり 神の霊がひとに宿るという見方と同じものだと考えます。しかももしこの仏性を認めないとしても そこには 《無い仏性=無い霊=無い神》が代わりに想定されているということにしかならない。つまりは ヒラメキ(インスピレーション)をめぐるロゴスの階梯の仮説にもとづけば まったく同じ類型において 互いに別々の信仰形態を成している。こう見るなら 議論は終わっている。と考えます。


 ”仏性”は仰られる通りかと存じます。ですが、過去の諸賢人達の激論・分派を鑑みますと、やはり、彼ら大先輩達には、頭が下がる思いでございます。
 ただ、”空”につきましては、やはり、上座部からの批判は今でも見受けられるように思えました。

参考:アルボムッレ スマナサーラ著「般若心経は間違い?」宝島社
(但し、賛否両論が激しいようではあります。主に、空論 → 虚無主義 → 神秘主義 だとしているように見受けられました。ですが、愚生はこれを否定致します。)




> これらのわたしの物言いは 哲学史や研究史をおろそかにすることになるというお叱りを受けることかと思います。じっさい この当人であるわたしの状態をかんがみれば そのとおりです。

 いえいえ。愚生は別段、何とも思っておりません。 ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。



> ただし 誰もが研究者であるわけではありません。おろそかにしているのではないのです。素人の見解にも耳を傾けてもよいのではないかというのみです。茶の木畠に落ち入っているのではないかと たしかに素人が言うわけですから 聞きたくないかも知れませんが だとするといまでは余計にこちらの物言いは当たっているかに思われます。


 因に、愚生も哲学に関しましては、全くの素人でございます。これは歴史好きかどうかだけの問題かもしれません。


> 竹田青嗣の事例を出しておられたのではないですか? そのあと学者と同じ地位にのぼって同じような道を歩まなければ声はとどかないということでしょうか?


 確かに、その一面もあろうかとは考えられます。文系の場合はどうかははきりとは知らないのですが、理系には確実に存在します。
 ただ、竹田氏の場合は、”開かれた学問”を追求し、さらには、優しすぎるとしてカントやヘーゲル解説書もまた非難されることがございますが、現象学の普及をライフワークとして邁進しているのを鑑みますと、今までの研究者とは若干異なるように思われます。


> ドイツ語を読めない者が何を言うかという《褒め言葉》をももらっていますが 生活世界の共同体は 研究者たちをむしろその社会の安寧と発展のために使えばよいわけだと見ます。長年の努力のあとの研究の成果を いともかんたんに市民一般は それは これこれの点でおかしいぢゃないの? と言ったなら その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。


 そんなお褒めの言葉(?)をいただいていたのでしょうか。愚生も、一昔前まではバイルシュタインやアンゲヴァンテ等の情報源もドイツ語でしたので、少々かじりましたが、今は完全に忘れてしまっております。
 後段、つまり、「その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。」につきましては、もちろん、意見を等しくさせていただきます。




> このフッサールなる主題をめぐって もう少し開いています。

 どうもお疲れ様でございました。



 それでは、失礼させていただきます。
投稿日時 - 2011-10-30 14:54:23
この回答を支持する
(現在1人が支持しています)
お礼
 ご回答をありがとうございます。ひどっちさん こんにちは。

 ★ アルボムッレ スマナサーラ
 ☆ を取り上げます。

 ☆☆【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】 No.8補足欄 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html

 ☆ ここで スマナサーラは 無神論に立つということを確認しています。

 次のところでは その性愛観を扱っています。いづれも まっが( magga )さんという方とのやり取りです。

 ☆☆【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】No.6補足欄
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html

 ▲ (スマナサーラ:【47】 不邪淫戒/慈悲の冥想 )~~~~
 Q:私自身は現在独身なのですが、この場合、配偶者という相手がいない以上、戒を厳密に守ろうとすれば、性欲を満たすには結婚する以外ないということになりますが、それ以外は果たしてダメなのでしょうか? 例えば風俗にいって性欲を満たす場合はどうなのでしょうか? 或いは、相手が人妻である場合は不倫ですからダメだとしても、相手が未婚の女性で、真剣なお付き合いの過程で、お互いを良く知るために関係する場合には、日本の法律上は一応許されると思いますが、仏教的にはどうなのでしょうか?

 A:法律で許される行為の場合は「不邪淫戒」を犯したことにならないのです。仏教の倫理から考えると、性交は「責任」と「権利」の問題になります。完全に独立している二人が「責任」の問題も解決しているならば、性交は道徳的な行為になるでしょう。

 しかし、別の視点からいうと、女性の場合は「守られている」という概念があります。昔は女性は、結婚するまで、親に、親戚に守られたのです。いまも社会人になるまで女性を守っているのです。その女性に対する「権利」は守る側にあります。たとえ「守られている」女性の同意があったとしても、その人との性行為は戒律の違反です。

 (スマナサーラ:「ブッダの智慧で答えます」(Q&A))
  http://www.j-theravada.net/qa/gimon47.html
 ~~~~~~~~~~~



 ★ ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。



 ☆ ドイツ語の褒め言葉は 例のなな・・・です。

 
 ヒラメキはまだありません。もう少し待ちます。
投稿日時 - 2011-10-30 18:33:44
65件中 1~5件目を表示
この質問は役に立ちましたか?
3人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています
もっと聞いてみる

関連するQ&A

この他の関連するQ&Aをキーワードで探す

関連するガイド記事

    回答募集中

    同じカテゴリの人気Q&Aランキング

    カテゴリ
    哲学
    -PR-

    OKWaveのおすすめ情報

    特集

    このQ&Aの関連キーワード

    同じカテゴリの人気Q&Aランキング

    カテゴリ
    哲学
    -PR-

    ピックアップ

    おすすめリンク

    -PR-
    -PR-