れあれるげんさん――まづは ご回答をありがとうございます―― だから 神の哲学も前提として必要になるとわたしは思っていました。
ここらあたりからは もろに質問者自身の見解が出てまいりますが
☆☆(No.23お礼欄の中ほど) 神は 《無い神》と同じです。
☆ と書いて――あとから この途中の段落に書き込んだのです―― そのあとおぎなうことは しませんでした。(補足欄を使うということまでは しませんでした)。
すなわち
○ 有神論と無神論とは 類型として同じである。それは 思考に非ずの次元において・つまり非思考として 信仰である。神は 有ると言っても 無いと言っても 〔神は〕痛くもかゆくもない。《絶対》とは そういうものだ。
つまり カントの《もの自体》についてフッサールが触れなくても――そしてそのことを 無神論だと捉えるならば―― それでも 両者は 《わが心に非思考の庭が成る》というひとつの類型において どちらも同等に信仰である。
こう言おうとしていました。
このことについても じつはいま 問うています。
【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6951345.html
趣旨説明だけでも お読みいただくとさいわいですし 分かりやすいと思います。神の定義を述べて みなさんに問うております。
★ 自由意志の根拠は?これについて西洋思想は答えているように見えて答えてないと思います。自由の深淵です。
☆ ずばり 答えは 無根拠です。絶対ないし無限ないし非経験の領域における《かみ》を――それとの関係としては 人間の心における非思考の庭なる動態において―― 《無根拠》と名づけます。
自由意志の根拠は 無根拠です。無神論でも有神論でも 同じくです。
これは ひどっちさんにおしえてもらったのですが 無根拠説を言いかえると 《人間原理》説になると思います。いくらか自分勝手な解釈が入っているかも知れませんが 《相対的で経験的で有限な存在としての人間 しかも類を成している人間 この不確かな存在を根拠とする》という意味になろうかと考えます。
もっと単純に言えば だれもが《わたし》と自称して生きているという事実 ここに自由意志の根拠があります。言葉でしゃべる そして生きる そのことが誰もが《わたしと自称する人間》であることにおいて成り立っているということ ここに根拠があります。
《わたし》の自称という事実のその根拠は 無根拠です。だれもが《かみ》と向き合っているという非思考の場のことです。雲をつかむような無根拠です。
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ですから この《わたし》の自称の普遍性 これは 案外 有効だと見ます。
この類型的な《話す人間》にすでに 相互主観性は宿っています。生活世界が すべてだと言ってもよいはずです。
その世界を抽象すれば 《わたし》に行き当たります。
これは 前回は《わたしがわたしである》という基礎を持ち出しましたが それはただ定義しただけと見られやすいので やはりアウグスティヌスの命題を持ってきたほうがよいと考えます。
○ われあやまつならば われあり。 Si fallor, sum.
これです。あやまちに気づくなら 気づく過程ですでに考えることをしていますし 気づいて《われに還る》瞬間をも持ちますから そこで《わたしがわたしである》を自覚します。この一連の過程における思考の部分を取り出したのが デカルトだと見るわけです。
このアウグスティヌスからデカルトへの移行については 次の回答No.6をごらんください。
【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html
《 fallor (われあやまつ;われあざむかれる)》の中に 《 cogito (われ考える)》が含まれるという寸法です。
ですから この絶えず《わたしがわたしする》というように自乗しつつ自己の冪をつくりながら生きる動態としての《わたし》であれば 生活世界においても根源的地盤においても 同じひとつの基軸としてあり そのもとに相互主観性が築かれているからには 独我論に落ち入るきづかいはない。こう思われます。根源から表層へ あるいは表層から根源へ これらどちらの向きであっても 自由自在です。
★ あらゆる存在を疑って疑い抜いた後に残る疑いえないものは「考えている我」ではなく、「考えている」という思考の「動き」だけです。自我なんて出てこない。存在確実なのは「自我」ではなくて「動き」だけ。常に「変化」があるだけ。
☆ つまり あやまちや だまされたといった《気づき》があるだけだとも確かに見られます。と同時に おそらく《言葉生活において自称するわたし》がいるからには 《気づくわたし》もいるはずなのです。《われに還るわれ》もいるはずなのです。と思います。
《動き》論のつてで こう述べておられます。
★ すべては「動き」「変化」「エネルギー」だというのが西洋近代思想の骨子なんだと思います。「我」じゃなくて。だから、あらゆる存在はエネルギーに変換できるのです。E=MC二乗というやつです。デカルトがアインシュタインを生んだんだと思います。私見ですけど…。
☆ これにつきましては わたしはいまは保留です。まだ めぼしい議論ができません。ひどっちさんは どう受け止められましょうか? よろしかったら おしえてください。
フッサールの晩年の思想ないし境地についても 留意してまいりますが しゃれた反応は いまは無理です。
★ 「認識の地盤」とか「大地」といった無意識に直観が訪れて開く「主観世界」の上に、意識的な直観、他者への配慮をしてはじめて訪れる直観(志向性)によって開く「間主観世界(生活世界)」がある。
☆ この構造を ぜひ《ヒラメキの構造》において取り扱ってくださいませ。理由は 一点。《わたし》を基軸として つながっているかたちになるからです。相互主観性が じつは 混沌とした場に起こると思われるイメージ直感にまで 《わたし》をとおして つながっている。
言いかえると――《自我》が面倒な用語であるのと同じように―― 《無意識》 これもまた扱うのに厄介です。
ですが 《ヒラメキ構造 または ロゴスの階梯》なるひとりの《わたし》の中におさめれば まったく問題ありません。イメージ直感の場は 意識も理性さえも及ばないところであるが ロゴスの階梯の中にちゃんとおさまっていると見れば すっきりします。
(その明証性は 《かみ》という無根拠に頼っています。言いかえると 人間原理という不確かな事実の上にさえも《ロゴスの階梯》が 見通された。こう思われます)。
こういった感じになりましょうか。
かなり出しゃばりで 自己顕示欲の強いおっさんぶりを やはりここでも発揮するようになってしまいました。
ただしこれも それも きちんと問い続けています。その過程です。