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bragelonne

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
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Aみんなの回答(全66件)

質問者が選んだベストアンサー

  • 2011-10-08 20:57:13
  • 回答No.16
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。


 了解致しました。


> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
 
(1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。

  * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。

(2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
 
  * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
 
  そうすると 言えることは 次である。

 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?
 (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。

 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?

 (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。


 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。



> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。

  * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。

 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。



> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
 
 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。


 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・



> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
 
 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。


 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。


> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。

  * 独我論が いちばん当たっていると思う。


 仰られる通りかと存じます。



> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
 
 * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。


 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。



> ▲ (同上) ~~~

 (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。

  * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。

 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。

  * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。


 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。



> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。


 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。



> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。

  * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。


 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。



> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)

  * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
  
  《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。

 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。

 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? 
 そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。

 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。

 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~
 (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。

 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り
 方でしょうか。

  たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで
 なのだと思われます。
  もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい
 う可能性は 見ようとしている。

  あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か
 らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。

  とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と
 いう存在を基軸にして 理論をつくるか。

 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。

 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /
 すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら
 れるほどの推論が成されうるとは思えない。

  別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない
 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ
 って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が
 潜んでいるかも知れない。

  言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨
 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを
 示していることになるかも知れない。

  よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい
 ると解する。

 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。

 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。
  それはそれとして 次へすすむ。

 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)

 * さらに次へすすもう。別の段落だ。

 ▼ (同上) ~~~~
 (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。

 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど
 りつくはずだと言おうとしている。

 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)

 * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考
 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言
 うと それほど確かであるようには思えない。

  《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が
 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな
 いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし
 ていないか。

  仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や
 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。

  さらに次へすすみたい。

 ▼ (同上) ~~~~
 (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。

 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを
 起こそうという議論に見える。

  ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的
 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止
 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて
 いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。

 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)

 * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか
 れていることは 見て取れる。
  言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり
 着かない。
  方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ
 とすれば その応用編で勝負となるはずだ。

 ▼ (同上) ~~~
 (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?

 * これが 読者が初めから知りたかったことだ。

 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。

 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に
 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう
 としていることは 見て取れる。

  その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実
 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと
 しているようだ。

  それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな
 い。

 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)

 * 次へすすもう。

 ▼ (同上) ~~~
 (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。

 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世
 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。

 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。

 * パス。

 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。

 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。

 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。

 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう
 か?

 (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)

 * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには
 おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが
 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ
 うか?

  それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて
 いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。
  他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸
 であることに変わりはないと。
 ~~~
投稿日時 - 2011-10-09 06:43:31
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その他の回答 (全65件)

  • 2011-09-30 23:29:01
  • 回答No.7
まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思います。

ブラジュロンヌさんの感性ですと、現象学ではなくて、中世のいわゆる【普遍論争】に興味をひかれるでしょう。普遍は存在するかというあれです。一応詳しい内容を確かめるために哲学用語辞典をひらいてみました。そこには、発端はポルフュリオスの『アリストテレス範疇論入門』に提起されていると書いてあり、プラトン、アリストテレス、カトリック教会、三位一体、風としての声、概念実在論、へと話が延びていました。

それからまた、プラトンのイデアとアリストテレスのイデア、カントおよびヘーゲルのイデー(理念)とを学びわけることが、疑問の整理に必要だと思います。
ブラジュロンヌさんの感性はデカルトの時代に馴染んでいる思いますが、カントのイデー(理念)まで学習の駒をすすめるとよさそうです。カントにおいては、イデー(理念)は理性的推論(悟性的判断に対して)によって導き出されるものだからです。

カントは、イデー(理念)とは認識にとっての目標だといい、フッサールはそのようなイデー(理念)を「実現不可能な十全的明証」とし、数学の漸近線になぞらえます。

それから、現出の同一性とは、瞬間的時間を問題として、今しがたも今もこれからも、見えたものが時々刻々イコールで結びつくということです。このように結び付けられる働きただそれのみによって(同一化統合)、対象の知覚経験が成り立っているということです。

ブラジュロンヌさんの口から主観の共同性といった言葉が出てしまうのは、かなり視点がくいちがっているためです。まず、みんながリンゴをリンゴと分かるという話ではまったくなくて、1人の人間にとって、リンゴの物自体があるからリンゴを見る経験をするのではないという話です。今しがた黄緑の表皮に斑点のあって丸く、たった今へこんだ一方からは軸のようなヘタが突き出し、まさに今へこんだもう一方は尻の穴のような形であり、ああ「これは、、、何かな」と今しもこれから対象が結節するであろう、という話なのです。
この先には、記憶、想起、連合、類型にかかわる言語の諸問題があり、それゆえに現象学は、精神医学、認知心理学、認知科学、脳科学に吸収されている学問なのです。

「現象学の本質直観とはなにか」と検索する方々が今後いた場合にお役に立つと思い、投稿しました。
あとはひどっちさんとお楽しみください。
補足コメント
 ★ 普遍論争
 ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。
 つまり むろん 神の問題です。
 《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。
 
 ▲ (超越論的領域) ~~~~
 ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり

 ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。

 ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。

 ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
  (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』1976)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。

 2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。

 3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。
 
 4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。

 5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。

 6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。


 ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。
 ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。
投稿日時 - 2011-10-01 21:59:41
お礼コメント
 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 このたびは ひょんなところから この質問へのご投稿を 実質的に申せば 依頼することになってしまい お手数をおかけしました。お世話になりました。
 
 哲学カテの質疑応答という見方をしてみるならば もっとも傲慢になり心を鬼のようにして高ぶり尽くしてものを言うとすれば その哲学談義としての内容は ここのところ きわめてとぼしくなって来ております。
 これは 初歩の談義をけなしたり蔑んだりしているのではなく――なぜなら 何ごとにも萌芽には それがみづみづしい新鮮なちからを宿すというだけではなく 見方としてのような内容としてなら じゅうぶん高く飛んで伸びてゆく翼のちからを持っていると見られることが少なくないからですが―― それにしても 世界の最先端を行く談義もあってしかるべきというものです。
 (その意味では 学問のため ひいては日本の復興のためと――ついでにのようでしたが――申しました)。

 ▲ 厳密な学
 ☆ といった表現〔だけ〕をフッサールについて記憶していますが その観点から 次のように最後にですが(お答えを要請せずに) お尋ねしてみます。

 ★ まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。
 ☆ 問い返しになります。

 1. この命題について真であると判断なさったその根拠は どこにあって それは何なにか?

 2. 《類》あるいは《普遍》という言葉ないし概念の普遍性は どこにあってそれは何か?

 3. 形式論理学の 科学行為としての・そしてまた人間存在にとっての 有効性・明証性は どこにあって何であるか?



 ☆ これについて 答えは《ない》。言いかえると 相対性の世界においては 有限なる証明しか出来ないのだと思われます。
 斉一性の原理あるいは人間原理 これらに――経験的な真としての公理にもとづき――寄りかかってのように 科学行為はおこなわれるのだと。


 現象学について 初めからこのような批判的な見方をしていたわけではありません。また それゆえにも 中身がどうもあいまいであると分かって来たときには 怒りを押さえることができませんでした。



 だいたいこんなところでしょうか。
 具体的な主題や論点について さらに見直してみて必要だと思ったところは 補足欄にておぎなうこととします。


 図書館の本をきょう早いうちに返しに行きたいものですから ここまでをしたためます。ひどっちさんへも お応えはきょうおそくなりますが よろしくお願いします。





 * ご訪問になるみなさんのために:

 ○ 斉一性の原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7


 ○ 人間原理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86
 (この内容を わたしはひどっちさんとのやり取りにおいて かなり勝手に解釈して述べていたようです。そのゆえにもかかげます)。
投稿日時 - 2011-10-01 12:11:21
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  • 2011-10-15 01:55:24
  • 回答No.37
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。




> ★ 生活世界
 
 ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。


 概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っております。


> ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」

 ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか?
 炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。

 でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
 

 まず、温暖化問題を外させていただきますが、そもそも数式を用いたシミュレーションなるものが、嘘っぱちであったというものと考えております。つまり、温暖化が大前提のまま、それに合致するように作成されてしまった可能性があろうかと推察しております。実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。

 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼コメント
 つづくご回答をありがとうございます。

 ★ 実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 ☆ そういう問題でしたか。《誤差範囲を±5℃等にしてしまえば》 予測とは言わないということですね。

 ★ そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。
 ☆ あらためて留意してまいります。


 さてフッサールについてしばらく放ったらかしにしていました。
 原文を翻訳で読んでみたいと思います。

 ▼ (世界の構成) ~~~~
 1. (最も広い意味での しかし純粋に生活世界的な意味での)世界の意識と事物ないし客観の意識とは一面において不可分な統一をなしていながら しかも両者の意識の仕方には根本的な相違がある。

  ☆(ぶらじゅろんぬ) ふむふむ。世界と事物ないし客観との比較ですか。同じようなものに映ります。事物は事象としてその全体が 世界であるように見えますし それらについての客観ということになりましょうし。

 2. 諸事物ないし諸客観(常に純粋に生活世界的な意味に理解されたこれら)は われわれにとってそのつど(何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして《与えられている》のであり しかもそれらは原理的に 世界地平のうちにある諸事物 諸客観としてのみ意識されているのである。

  ☆ 特に何かが言われたという感覚が起きない。
  ▼ 《与えられている》
  ☆ これは 受動性を言うのだろうか? すなわち 能動性は その所与のものごと〔の意識〕にもとづき そのあとまさに生活として一歩を踏み出すというかたちなのだろうか?
  ▼ (何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして
  ☆ この表現がよく分からない。明証性があるものとして という意味だろうか?
  ▼ 世界地平
  ☆ これも分かるようで 必ずしもはっきりしない。《わが視野》といった意味だろうか? だがそれだと視覚に限られてしまう。心の・概念世界の視野もふくめればよいのだろうか?

 3. それぞれの事物は何ものかであり しかも常に地平としてわれわれに意識されている世界《に属する何ものか》なのである。

  ☆ そりゃあそうだろうと反応してはいけないのだろうと思われる。が・・・。

 4. 他方この地平もまた存在する諸客観に対する地平としてのみ意識されているのであり 従って特別に意識されている諸客観がなければ 地平もまた顕在的には存在しえない。(『危機』H.VI,146)

  ☆ 《事物の意識》は すでに早いうちから 《客観の意識・客観としての意識》であるのだろうか? つまりむろん この客観は 主観のうちにおさめられているのだと思われるのだが よく分からない。

 ▼ (同主題) ~~~~
 5. 意識は これを純粋に考察すれば それ自身に完結した存在関連 すなわち何ものの侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連であると見做さなければならない。(・・・)

  ☆ 必要がないと思うのだけれど。
  (あ) 《純粋》の度合いが 定まるとも思えない。
  (い) 《意識自身に完結した存在関連》・・・何とも奇妙なもののように感じる。
  (う) すなわち《何者の侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連》・・・同じく分からない。侵入や逸脱を許しても もし存在の核としての《わたし》――その意識――であるならば ほぼ絶対的な存在の動態であるように推し測られるというのに。

 6.他方 人間や人間としての自我を従属的な個別的実在者(レアリテーテン)として包含する空間‐時間的世界の全体は それ自身の意味からみて 単なる志向的存在であり 従って《意識に対しての存在》という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない。(『イデーン』H.III,117)

  ☆ 《世界》が 《〈意識に対しての存在〉という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない》とは どういうことか? 《それ自身の意味からみて》なら むしろ志向性なる意味関係として 一次も二次もないと思われるのだが。
 主観が 第一次ないし基本だというとしても だから世界は二次だというのだろうか? そんなことを言っても どうなるものでもないように思われるのだが。

 ▼ (〃) ~~~~
 7. しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり その固有の意味での客観的世界としての世界は 単に私に対してだけではなく 誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・〕

  ☆ こうなると 主観は その基本的要素としての《わたし》において 互いに共通である(あるいは 通底している)ということになる。のではないか?

 8. 構成的な経験としての世界の経験というのは ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく 共同体的経験 Gemeinschaftserfahrung のことであり 世界それ自身は意味的には 《原理的にわれわれの経験を〈交換〉することによって すなわちわれわれの経験を共同化することによって それについての相互理解を獲得できるような同一の世界》である。

  ☆ 主観の共同化 共同主観であるにほかならない。ではないか? これは 感性の次元における共通感覚を基礎とすると言ってよいと思われる。
 ただし 主観の共同化は なかなかむつかしいはず。ひとつには おそらく時代や地域による制約が まだまだ まだまだまだまだ 大きくのしかかる。
 ひとつには 共同化を果たす前に そもそも人びとの意思疎通が成り立つと言えるのかの問題がある。
 ひとつに 意志疎通が成ったとすれば 確かにそのあと細かいところまでを共通の認識および判断形式としなくてもよいかも知れない。
 ひとつに それにしても まだまだ いわゆるふるい共同観念ないし共同幻想が あたかも観念の共有として共同主観と同じであるかのごとく錯覚する壁がある。
 共同観念とは 地縁および血縁によって仲間となるそのかたちを言う。早く言えば ナショナリズムである。《何々人》あるいは《どこどこの人》を 言わば《生活世界の客観》と見做しそれを言わば人びとのきづなとするかたちである。この共同化に従うならば けっきょく一人ひとりの主観が生かされるのではなく 主観は 誰か一人(あるいは上層の人びと)の主観糾合とその空気によって どこかへみちびかれる。ことになる。

 9. 《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(『論理学』FTL.209)

  ☆ 共同観念の壁を突き破り 互いに主観を共同化してゆかねばならない。それは 一人ひとりの主観を大事にするという意味での民主制において つねにどこまでもつづく道のりだと考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
投稿日時 - 2011-10-15 17:29:34
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noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ★ 共同感覚
 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。
 ○ (共通感覚) ~~~
カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98
 ~~~~~~~~~~~~

 コモン・センス哲学、いわゆる、社会のなかで人々が共通にもつ、正常な判断力という意味での”常識”と、アリストテレスにまで遡るもう一つの意味、つまり、五感を統合する第六感としての”共通感覚”(異なった種類の感覚を比較したり識別したりしつつ、感覚のすべての領野を統一的に捉える感覚能力のことです)があります。
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。


> ★ ~~~ 
 第二章 美的判断の演繹論
 ~~~~
 ☆ すなわちここで
 ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」
 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。
 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。
 この点 気になりました。
 
 すごい着眼点かと拝察致しました。もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。


> ★ 美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。)
 ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。

 まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 「快なるもの」につきましては、関心が存在してしまいますと、それへの欲求が刺激されてしまい、感覚・悟性が客観性を持つように仕向けられてしまうからだと考えております。この点で、趣味判断は、一切の関心を欠いている(あえて欠如させたとしている)と考えております。


> ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論)
 ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。
 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。
 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。
 
 そこで、カントの意見を述べさせていただきます。
 美に「概念」が伴うか否かの問題にはどう対処すべきなかをカントは考えました。以下は、「判断力批判」訳篠田英雄 p.310-317 からの要約でございます。
 一般に二つの判断の普遍的原理が対立し合うとき、そこに「弁証論」が生じます。美を例に挙げますと、趣味判断は「概念」に「基づかない」とする立場と、「概念」に「基づく」とする立場とが相対立します。カントは趣味のアンチノミーとして以下のものを挙げました。

趣味のアンチノミー
正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。” もしそうだとすると、趣味判断は証明によって決定されうることになるからです。
反対命題:”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。

 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。


> そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。

 共通感覚が及ぶ”範囲・程度”と致しましては、そもそも、”共通感覚”とは、(アプリオリに共通して備わっている)構想力と悟性[認識能力]の活動によって、共同体における共通性を作り上げる能力、だと解しますと、共同体内部の人間にコミュニティ能力と共通性を作り上げる個々の感性の二つに依存するものと考えております。


> 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。
 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。

 もちろん、主観内のことでござますし、そして、認識作用を担う悟性のみでの”認識・把握”ではございませんため、当然異なってきます。ですが、かような感ずる”感覚”といったものは、ほぼ共通にアプリオリに備わっているものと考えております(程度の差はあるかもしれまえせんが)。
 なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。


 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづ ものごとの把握として第一次は知覚のみという見方は 舌足らずというより まちがっていました。その第一次にも――つまりそこには知覚したものの知覚像(視像や聴像など)だけではなく――その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。

  現象の第一次把握:知覚とそれの認識(感性⇒記憶⇒知解)
  〃  第二次把握:認識一般として整理(知解行為)と判断(意志行為)

 すなわち 次のご見解について 上のように捉えたのですが どうでしょう?
 ★ ~~~
 もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。
 では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。
 ~~~~~

 ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。
 ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 
  【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。

 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。

 3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。

   * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます。

 4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。

 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。

 6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。

 7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。

  * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》

  ~~~~~~

 ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。
 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。

 さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、
 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか?
 つぎには
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し
 ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか?
 たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか?


 さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては:
 ★ ~~~~
 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。
 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。

 1. まづ厚かましくもですが 先に提出した次の考えにはまだ未練があります。

  ○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。

 2. この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか?

 3. これを《不定の概念》と見るかどうか? 

 4. 少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか?

 5. それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?

 6. わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。

  *

 ☆ 《快不快》を美をめぐって持ち出すという感覚が いまだによく分かりません。かかわっているとしても 何故この概念を用いて説明しようとするのか? これは 理解できても ピンと来ないというわたしの状態を言ったまでですが。
 ★ まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。


 ★ なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。
 ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか?
 だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。

 すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては
 ★ 「醜いものの中にも美が存在する」
 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。
 広義の美は 個別の美醜を包含すると。

 いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。
 ★ ~~~
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。
 と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。
 ~~~~~
 ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう? 
投稿日時 - 2011-10-15 12:34:28
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  • 2011-10-09 03:32:29
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思ったことを少し。

・直観=意志でどうにもできないほどの確信が訪れること
・個別直観=意志でどうにもできないほどに、ある物や概念の存在に対する確信が訪れること
・本質直観=意志でどうにもできないほどに、ある言葉が個別直観した存在を表現するのにぴったりであるという確信が訪れること

※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。

※現象学以外の哲学は思考によって本質(理論)を作り出そうとする。一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。

※イデアは思考の産物。一方、本質直観は直感の産物。東洋的。考えてはダメ。他者に配慮しつつ感じるもの。個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。

白熱する議論の中、突然書き込んでごめんなさい。気まぐれで書きこんでしまいました。
お礼コメント
 れあれるげんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 〔本質直観は〕 個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。
 ☆ このカントについて明るくないので はっきりしませんが 直感および直観としてのヒラメキ――あるいはつまり インスピレーションですね――のことを言っているとのご回答でしょうか?

 ただし
 ★ 一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。
 ☆ だとしますと 意志による意図的なそして意識的に既成概念やら先入見やらを中断させておこなうヒラメキ行為なのかなと思われて来ます。
 人為的なヒラメキ? これはないですよね。
 ということは インスピレーションの起こるためのお膳立てを 自分の作業としても おこなっておく。といったことでしょうか?

 すなわち
 ★ ※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。
 ☆ 人間の側の意図的な準備作業とそしてそのあとにおとづれる直観なる現象 でしょうか?

 独我論の要素があると思ったのは すべての知覚や認識したものごとについて判断中止するというとき 他者のことをもすでに捨象してしまうというかたちでおのれの主観を打ち出して来るその姿勢に関してです。

 これは あとで 間主観性ないし相互主観性という概念を導入して そこに他者を持ち込むかたちを採用しているようです。しかも この他者〔の主観〕は あくまでおのれの主観がおのれの主観のうちに捉えた内容(つまりその相関関係ないし意味)であるようです。その点では 独我論の要素を引きずっているようにも見えるのですが どうでしょう?



 なお ヒラメキに関する次の見方は 参考にならないでしょうか?

 ○ (ロゴスの階層・・・No.8お礼欄) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~
 
投稿日時 - 2011-10-09 07:02:36
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  • 2011-10-06 20:15:56
  • 回答No.14
noname#143207

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ★  愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。

 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客観であると思われます。
  はじめに排去した客観が よみがえるように思われます。

 はい、 その内容に普遍性が伴われれば、客観とみなされてくるかと思われます。
 排去したはずの客観が戻ってくることも、もちろんありうるものと考えられます。
 なお、英訳名は、"Eidetic seeing" (Translator: F. Kersten)となっておりました。




> というよりも 排去したのは 世の中の既成概念や先入見としての《現象》観であって 普遍的な観点というものは 排除していなかった。(はじめにはまだ持っていなかった)。

 客観は 作業仮説として想定されているだけの概念かもしれません。だとすると 《 essence 本質》は――客観は別とすれば―― ふつうに類概念または普遍性のことだと思われますが どうでしょう?


 仰られますように、客観とは想定されているだけの概念かと考えております。
 本質とは、まだ主観内(内省)のできごとでございますので、普遍性をそのまま持つとまでは言い切れない、と考えてございます。



> ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。


 ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。



> そこで 主観と客観との一致だという見方を出すと どうなるか? 現象学的還元は はじめから主観のほかに客観をも想定していると見られてしまいます。言いかえると 《超越》とは 客観化のことだと。



 原則、客観なるものの存在は認めておりませんので、少々異なるかもしれません。


> ☆ 《純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法》は ひとつに エポケーなる操作をおこなって行けば 要らないもの(見方)は捨象されますし たしかに言わゆる本質にまで抽象されて行くと思われますが もうひとつに 現象学的反省を加えて行けば やがてその事象観としてはほかの人の主観と共同化を成せるまでになると見られます。

 これが ものごとをどう見るかについて その普遍性を問い求める姿だと思います。


 はい。普遍化、さらには、客観化を求める姿勢かと存じます。




> ☆☆(上述) ~~~

 ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。

 しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観ないし科学的真実だと見られて来ます。

 ~~~~~~~~~

 そうでないと 間主観性は そなわって来ないと思われます。


 はい。その本質が普遍性を持つという条件がクリアされたならば、もはやそれは誰もがそう見るであろうような客観になりうるものと考えております。
 また、仰られますように、(間主観性の十分条件は満たさないかもしれませんが)必要条件かと察せられます。



> でもそうではなさそうなので どういう知解のあり方なのかと考えます。つまり さらに考え続けます。

 ★ “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。

 ☆ 確信を抱かせるには 普遍性をともなって間主観性であることを条件とすると思われます。
そういう主観は 類概念や共同主観のほかに どういうかたちがあるか?



 ここではまだ初期フッサールの概念でございます故、間主観性はまだ出て来ていないかと考えております。従いまして、「確信」を抱かせるのは、主観内において、その現象学的還元を施した本人のみ(自分自身のみ)に限定されるものと考えております。しかし、それらが重なり合って、間主観性が生じるやもしれません。




> 足踏みしていると見られましょうが 必要なステップであるように思いましたので よろしくお願いいたします。

 いえいえ。こちらこそよろしくお願い申し上げます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼コメント
 今回は ドンキホーテ的質問は不発に終わったかも知れません。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 質問として考えついた内容が だいたい可能性として まちがった方向には行っていないという結果だったのではないかと思います。

 今回はふたたび 原文についてお聞きします。
 長い一文から成る文章ですが その文章の中へ 疑問をはさむ形を取ります。よろしくどうぞ。

 ▲ (現象学的還元) ~~~
 ( a )現象学的還元とは いっさいの超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効(ヌリテート)の符号をつけることである。

  *(ぶらじゅろんぬ評)(1) この超越者の規定は 変。《私にとって外部と
  して知覚したもの(事象)》といえばよいのに。

   (2) 要らない要素を捨象し要るものを抽象する(抽き出す)ことを《無
  効の符号をつける》と表わすのはよいとしても でもそこでは《本質》として
  捉えられるかも知れない要素については 抽き出す つまり私の内部に受け
  留めて行くのではなかったかと疑われる。

 ( b ) すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま措定しないで せいぜい妥当現象として措定することである。

  *(3) というのなら 《無効の符号をつける》と言っても 《妥当現象とし
  て措定する》ことの中には 要ると思われる要素の取り出しも含まれるという
  ことらしい。

 ( c ) たとえばいっさいの心理学や自然科学など あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず 従ってそれらを 私にとって〔認識批判学〕の手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては まだ前提としても 仮説としてさえも 利用してはならない。

  *(4) それは そうだ。知覚したものごとを資料として受け止めるに当たっ
  て 参考にならないものを捨て なるものを資料とする。当たり前だと思われる。

 ( d ) 要するにこの原理の本来の意味は この認識批判学で問題になっている事象から離れず ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。(『現象学の理念』H.II,6)

  *(5) 《原理》とは 現象学的還元のであると読む。全体として 当たり前
  だと思われる。

 ▲ (同上) ~~~
 ( e ) われわれは 経験の中で素朴に生活し 経験されたもの ないし超越的な自然を理論的に研究することを止め その代わりに《現象学的還元》を遂行する。

  *(6) こうなると 独自の行き方があると見られる。だとしても 《理論的
  に研究する》ことから離れるとは思われないのだが。
   《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見
  られるような自然》のことらしい。

 ( f ) 換言すれば 自然を構成する〔*諸作用で〕意識に属する諸作用(現実的な諸作用やあらかじめ示された潜在性の中で実現されうる諸作用)とそれらに付随する超越的な措定を素朴な態度で遂行し かつまたそれらの作用に伏在する種々の動機づけに誘発されて 次々に新しい超越的措定を続行する代わりに――われわれはそれらの措定のすべてを 顕在的な措定はもとより 潜在的な措定をもあらかじめ《作用の外》におき それらを行なわないことにする。

  *(7) 分からなくなった。たとえば そこから資料を取り出す与件について
   知覚および認識の《作用の外》に置くということか? もともとこれらの与件
   については 《私にとっては外部にある》ものではなかったか。わざわざまた
   外に置くのだろうか?

 ( g ) そうすることによってわれわれは われわれ自身の理論的研究の把握のまなざしを 純粋意識とその絶対的な固有の存在へ向けるのである。

  *(8) 独自の《理論的研究》が始まるということらしい。
    あらかじめながら《絶対的な固有の存在》という表現は 仰々しい。うたが
   い得ない《われ》の存在が見い出されたのならそう言えば済むと思われる。
    《純粋意識》と言っても たかが人間の意識ないし存在の基本要素といった
   ところではないのか。

 ( h ) しかしてこの純粋意識こそ われわれが求める《現象学的残留物 Residuum 》として残留しているものであり この純粋意識は たとえばわれわれが全世界を 従ってあらゆる事物と生物を そしてさらにはわれわれ自身をも含めたすべての人間をも《排去》したとしても あるいはもっと適切に言えば それらのすべてを括弧に入れたとしても それとは係わりなく残留しているのである。

  *(9) 《独自》と言っても ここまで来ると 特殊すぎやしないだろうか。
   いちいち《排去》などしなくても われなる存在の基本要素を取り出すのだ
   と言えば 済むのではないか。
    そのようにして それについての思索や把握は出来ようものを。わざわざ
   なんで《残留》させるという形にするのか。

 ( i ) 厳密に言えばわれわれは〔この還元によって〕何一つ失ったのではなく むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり しかもこの絶対的存在は 正しく理解されるならば すべての世界的超越を《理念的に実現され整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成している》のである。(『イデーン』H.III,118f.)

  *(10) 《何一つ失ったのではなく》――そりゃあそうだろう。もともと抽象
  という作業をしていただけ。
   《絶対的存在》――よくもこんな表現を使うと思う。人間存在の或る部分と言う
  に過ぎないと思われるのに。
   それを《獲得した》のならば それを見せて欲しい。それ自体は見せられない
  とすれば それを獲得した状態になれば 何ができるのか? 何が見えるのか?
  その世界観を示して欲しい。つまりは この文章をこの今表わした時点で その
  ことに留意をしてしかるべきなのだ。読む人をおちょくっている。もっとも
   ▲ ~~~~~~
    しかもこの絶対的存在は・・・すべての世界的超越を《理念的に実現され
   整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志
   向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成
   している》のである。
    ~~~~~~~
   ☆ ということらしい。そこまでは言っている。
   《私にとって外部であった与件が 参考資料として選り分けて行った末には 
   そのうちの基本要素らは 私の内部に整然と互いにその相関性が明らかに見
   て取れるように 位置づけられている》ということか。
    《われは わが心に世界を捉えた》ということだろうか?
    ところで その中身は?

 ▲ (同) ~~~
 ( j ) そのつどの諸客観を現象学的に排去する Ausschalten とか それらを働かせないようにするという表現(これは作用や関心を働かせないようにするという言い方と相関的な正当な表現である)を誤解しないよう 用心しなければならない。

  *(11) アウスシャルテンは スイッチを切りオフにすることでしょうか。
   ならば あとではオンにすることもあるということなのだろうか。
    《正当な表現》であるらしい。

 ( k ) 現象学的考察者としての私は 存在や価値や目的をもはや普通の意味では所有していないが しかしそれとは別の変様された意味では やはり依然としてそれらを所有しているのである。

  *(12) その違いを早くおしえて欲しい。

 ( l ) 私に対する妥当性とそのような妥当性に対する私の関心一般から排去されたものも そのために私の意識野から消え去ったわけではない。

  *(13) 早く言ってくれなきゃあ。オフとオンとがあると。

 ( m ) ただし《自然的な見方で考察し 認識し 評価し 職業に従事する者としての私とは対照的な》現象学者としての私にとって いまやそれは 私を現象学者に変えた〔還元の〕方法によって 通常とは本質的に異なる仕方で与えられているのである。

  *(14) だから それは何? どういう仕方なの?

 ( n ) 私はこの方法を 客観的なものに対しては括弧入れの方法と呼んでいる。

 ( o ) われわれは客観を いわばそれを排去する括弧に入れ 一つの符号をそれに付与するのである。

 ( p ) すなわち《私はここでは妥当性の承認や 存在や価値への関心などをすべて禁止したい。私はこの客観を これに妥当性を付与する自我の作用の志向的客観としてのみ妥当させ そしてその作用と その作用自身がそのように主題化された客観として措定しているものとに対してのみ関心をもつことにする》という私の意志を表わすための符号を付けるのである。

  *(15) 《与件についてその諸要素をわが判断に従って取捨選択する》と
   言うだけぢゃん。

 ( q ) 私はこのような操作を行なうことによって 現象学的に純粋な主観的なものを獲得し そしてその内部に その主観の作用の単なる志向的客観という 変様された妥当性の形態において 客観を所有するのである。(『第一哲学』H.VIII,110f.)
 
  *(16) ご自由にどうぞ。
 ~~~~~~
投稿日時 - 2011-10-07 04:58:37
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