宗教の本質とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。
  • 宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれ、どのような原始社会においても存在しています。
  • 宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成され、心地良さの追求や人間社会の統治の道具として生まれました。しかし近代科学や近代文明の発達により、宗教の力と役割は失われつつあり、宗教の時代は終わりつつあります。今後は真理の探究や思想と哲学の時代が来ると考えられます。
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宗教の本質

宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.28

続けて失礼いたします。 >>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。  認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持っている守備範囲を表すもので、どれもその核心を突いているわけではありません。 「未知の物に説明を与える」ということに関して言えば、宗教は説明以上に謎を呼びます。スーダンのザンデ人のあるお宅の屋根が崩れました。すると、ザンデ人たちはすぐに妖術師の仕業であると疑い、説明をつけ始めた。この時ザンデ人の宗教を研究していたエバンス・プリチャードは、屋根の所にはシロアリが食っているのだから屋根が落ちた原因は妖術師ではなくシロアリの仕業だと指摘します。しかし、ザンデ人はシロアリが原因であるや建物の老朽化などのことは百も承知であったが、シロアリに関心を寄せませんでした。彼らの関心事は「なぜ今その人が屋根の下にいる時に、屋根が落ちたか?」という理由でした。これが適切な「謎」であれば「宗教は未知の物に説明を与える」ということもいえるでしょうが、そうではありません。宗教自体が新たな謎を呼んでいるのです。一休禅師の歌の中にも「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんて歌を詠んでおられますが、このような点からも宗教はただ説明を与えるだけではないことが伺えます。 「宗教は安心を与える」というのは前述の通りそれだけではありませんし、「宗教は秩序を与える」というのも秩序を壊すのも宗教であったりします。また、「宗教は妄想である」というのも、私達は妄想と隣りあわせで生活しているわけで、「もし」や「シュミレーション」や「遠く離れた恋人の思い」であったり、その妄想から力を得ることもありますが、そういうことには言及されないことが多い。どの説明でも不十分なのです。 それを前提において考えますと、私としては一番それらしいかなと思っているのは、認知科学的な方面からの研究によれば宗教の本質は「人間の認知機能の表象」であると考えられています。分かりやすく言えば「人間は宗教的なものを感じるように出来ている」ということです。前々回の回答の中でも記したように、人間の行為者の過剰検出であったり、それを安定した形で定着させる機能だあったり、前回の中に記した推論機能であったり、数多くの人間の認知機能の表象として宗教と言うものがあるという説明です。 しかし、私はこの回答では宗教の本質というより「人間の本質」の問題であるように思います。では宗教の本質とは?「いろいろ」です。刹那的にみれば、一つの宗教から、多くの宗派が生まれたように見えます。ここから一つの宗教から多くの宗教が生まれたのだから「宗教の本質を答えることが出来る」と考えるのが自然なように見えます。しかし、文化人類学や進化心理学においては「多から少」、質問の中にも >>その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。 >>また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 とあるように、宗教は歴史的な多様化ではなく、数限りない宗教の絶え間ない自然淘汰による凝縮の結果と考えられています。私もこのように考えます。  つまり、「人間の認知機能」という共通ですが、その対象が違うのです。砂漠における砂の認識と、湿原における砂の認識は違っているわけですから、同じ砂を信仰対象としたとしても、共通点はあってもその本質は違っています。だからこそ日本には宗教全般を表わす「宗教」という言葉が存在しなかったのはそのためです。日本の分類は「仏道」「神道」「儒学」「キリシタン」という括りまでです。なぜなら、それぞれの「本質」が違うことを意識せずとも知っていたからでしょう。つまり、宗教の本質は「いろいろ」ということです。  しかし、この答えでは満足いかないでしょう?そうでしょう。書いている私が満足してません。説明としては不充分なのです。けれども、だからこそ学ぶのです。「宗教」について語られたものは、宗教学、神学はもとより、歴史学・文化人類学・認知科学・進化心理学等々多岐にわたります。今の時代、調べれば知ることが出来るのに、それをしないのは怠惰以外の何者でもないと私は学び続けています。 あなたのような熱い方とお話が出来て嬉しく思います。ありがとうございました。  ただ、お答えにはなっていませんね。申し訳ありません。 合掌 南無阿弥陀仏

その他の回答 (28)

noname#122986
noname#122986
回答No.29

宗教の本質は、貴方の結語の通り、真理を追究することと思います。 実に素晴らしいお考えと思います。

回答No.27

たびたび失礼いたします。 >>ネアンデルタール人が花の埋葬を行ったのは、天国、地獄など死後の世界をイメージするという観念的世界をこの時期において既に構築していたからでしょう。  私はこの意見には反対です。シャニダールの花の埋葬を宗教的行為の痕跡と見るのはラルフ・ソレッキが紹介し人々の共感を呼びました。しかし、他界観を持って花を備えたという考古学的証拠は見つかっていません。現場汚染の可能性や、薬草として使えるものが数多く発見されているので治療の跡、または死肉を狙う獣から隠すためであった可能性のほうが高いように考えています。  また宗教を持つ上で推論は必要不可欠ですが、推論は前頭葉と深い関わりがあります。しかしネアンデルタール人の前頭葉は新人の70パーセントほどに留まります。種そのものが違うのに、私達の物差しで計ることは間違いと言わざるをえません。認知動物学では低次で説明できるものに高次の説明をつけてはならない(モーガン公準)と言うのが前提です。  また百歩譲ってネアンデルタール人の花の埋葬が他界観をもった宗教行為だったとしても、新しいクロマニヨン人に花を供えた形跡がない以上、ネアンデルタール人の他界観が現在に受け継がれていないと考えます。それを現在の宗教と結びつけるのは無理があります。 >>仮にそのようなものがアフリカなどの一部にあったとしても極めて例外的なものでありさして問題にはしません。  それは誤解です。このような宗教形態はアフリカの一部だけではなく、多くの世界に分布しています。例えば、シベリアなどには意地の悪い霊を騙すために比喩で話すと言う宗教は、やはり他界や神などではなく問題は現世です。ハイチなどでは死体を妖術師から守るため糸と穴のない縫い針を埋葬しますが、これは死者ではなく死体を守るためのものです。また、アフリカでは、スーダンの例のような宗教は未だ各地で信仰されています。  興味深い例をもう一つ。神がいてもそれを気にしない宗教もあります。人類学者ロジャーキージング氏の研究ではソロモン諸島のクワイオ人の宗教には自然創造の神メベーケと文化創造の神ンザメという神が存在しますが、クワイオ人はこの神にはまったく関心ありませんでした。クワイオ人の関心事は、自分達を常に観察し何か間違いをやらかすとそこに付け込んで悪さをするアダロという現世をさまよう野生の霊を、捧げものや儀礼でどうにかすることでした。しかし、キリスト教の宣教師がやってきて、キリスト教の神とンザメを同一視させて、アダロ同様にンザメもアダロが知っているであろう事は皆知っていると伝えると、クワイオはンザメに対しても捧げものや儀礼をするようになったそうです。  神がいろいろ知っているとて「うちの冷蔵庫に肉がある」ことを知っていてもしょうがないわけで、こういうものは「ただの知識」です。もし「肉が盗まれたものだと知っている」としたら、それはただの知識ではなく付け込まれるかもしれない「戦略的知識」になります。つまり、関心を寄せるべきは神ではなく、「戦略的知識を持つ何か」なわけです。  このように、神、天国・地獄をもたない宗教も多く存在するし、神がいても信仰されない宗教もあります。そして、そういった宗教は例外とするなら、かなりの宗教が例外になります。 >>間違いなく宗教は心地良いものです。心地良いものだからこそ自然発生し、地球上の至る所に蔓延したのです。  私は宗教は「心地良い」ということを否定してはいません。禅やキリスト教の祈りなどが自律神経系に通じノルアドレナリンやエンドルフィンの分泌を促すことも分かっています。しかし、それは「そういった側面もある」ということであって、それ以上でもそれ以下でもないという事です。 宗教には前回述べたような「心地悪い」と言う側面もあるのです。駒沢大名誉教授田上太秀は「religion」と言う言葉の語源に関して、ラテン語の「religio」は「何か不思議なものに接した時に起こる畏怖や不安疑惑の感情」であると指摘し、後に「その感情を惹起する対象に対する儀礼」へと変化したと言います。つまり、言語学的にも宗教が根本的に持っているのは「心地よさ」ではなく、畏れや不安、疑惑等の「心地悪さ」です。それは、上述のような「戦略的知識」を持ったものに見張られているということにも繋がります。 ですから、「心地良い」から自然発生し地球上のいたるところに蔓延したのではなく、私は人間の認知機能が畏れや不安、疑惑を感じるように出来ているからであると考えます。 ちなみにレーニンの「宗教は阿片である」と述べていますが、マルクスが広めた「宗教は阿片だ」というのは詩人ハインリヒ・ハイネの言葉の引用であると考えられ、今回の解釈はレーニンのものではなく、マルクス主義的であると考えます。

回答No.26

#25  【この世界にはどのようにごまかそうとしてもごまかせないものがあるのです。 私の眼にはそれがどんなものかは初めから見えています。】  krya1998⇒貴方にはそうしか見えないということが分りました。ですからむしろ【g3452sgp が思料するところによれば、】という付言をしておかないと、不遜となると思います。  【物事に行き詰まると宗教に逃げる人間】  krya1998⇒物事に行き詰るくらいに、物事の極致と極点に行きたいのですが、まだまだそこまでいっておりません。宗教は逃げる事を決して許しません。どうぞ、何があろうと真理を探究し続けてください。そういう質問者も私は宗教者だと存じております。真に。

回答No.25

 ANo.23   いくらもお話できますが、ご質問者さんであるg3452sgp さんの把捉仕方との食い違いがはなはだしいのですよ。  一つは宗教に対して甚だしく不勉強のままご自分の印象や観念だけでご発言です。  そして誤解があります。  これらに対してきちんとお話はしたいのですが、あまりにお構えが異質というか、妥当性と適切性を欠いていて、口を開きことばを発する事が空しいのですよ。  【このことはですね、・・・】というようのお話したいのですよ。  g3452sgp さんが宗教の話をされて、みなさんが議論を中断するのはそういうことだと存じますよ。  やはり人の話を引き出す、手練手管に長じられるずるさももっていてもいいと存じます。敢えて一言。  うぅん無益な側面での話しにならないようにしていただけるか、少し包容性が欲しいですね。  今のg3452sgp さんのご対応ですと、空しく荒野でひとり叫んでいるかの錯覚になります。  ものいえば くちびる寒し秋の風 以上ですよ。  いつか又お会いできる日がまいりますように。

g3452sgp
質問者

お礼

この世界にはどのようにごまかそうとしてもごまかせないものがあるのです。 私の眼にはそれがどんなものかは初めから見えています。 しかしどうやら答えは出たようである。 つまりこういう事です、人間には2種類いると。 第1は物事に行き詰まると宗教に逃げる人間と、 第2は何があろうと真理を探究し続ける人間 この2種類が地球上に同居しているということです。    

回答No.24

 失礼いたします。逐一書いていきますと、大変なので何点か思うところを書かせていただきます。 >>1.宗教の発生時期  この宗教発生の時期についてですが、ここに書かれている事に関してはおおむね賛成なのですが、現在の私達の宗教に通じる宗教はいつ発生したのか?と言うことを私は考えています。  よく、宗教発生の起源に関してシャニダールのネアンデルタール人の花の埋葬を引き合いに出す方がおいでになります。確かに人類史において、このネアンデルタール人の花の埋葬が宗教的行為痕跡としては最古のものと言う見方も出来ます。しかし、それが現在の私たちが信仰している宗教と呼ばれるくくりのものに直接繋がるかは別の問題です。  そのことについて、他のネアンデルタール人の遺跡にそのような行為を行なった痕跡がないことと、クロマニヨン人の埋葬でも、遺体と共に花を埋葬したと言う痕跡は見つかっていません。6万年前のネアンデルタール人が花の埋葬をしていたのに、それより新しいクロマニヨン人の埋葬に、なぜその痕跡が見出されないのかと言うことです。  つまり、ネアンデルタール人の花の埋葬が「宗教的行為」だった規定したとしても、それが現在の「宗教」の起源であるとは言えないのではないかと考えています。ですから、現在の宗教につながる宗教の発生をどことするかは未だ議論の的ですが、こういったことについての考察をもう少し載せていただきたいと感じます。(ちなみに私はネアンデルタール人の花の埋葬を宗教的行為とは見ていません) >>3.宗教を構成するもの >>宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。 >>この3つの概念を備えない宗教は存在しません。  ここで問題なのは、「三つの概念のどれか一つでも有していない宗教はない」と言うことではなく、「三つ全てを含んでいない宗教はない」という点です。神・天国・地獄この三つをもっていない宗教は存在します。  例えば、イギリスの人類学者エバンス・プリチャード氏はスーダンのザンデ人の宗教を研究した人物でですが、ザデン人が恐れているのは「妖術師」であり、天国や地獄は語られていません。現在の生活において人に害を与える妖術師を欺いたり、なぜ害を及ぼすかを考えるが、妖術師が活動するのはあくまで現世です。また、彼らは神とは違い妖術師を拝むようなことはしません。  私としては「2、宗教の種類と数」の内容に関しては賛成ですが、それが「3.宗教を構成するもの」の内容とは矛盾するものであると思います。宗教は数限りなく存在するのですから、ここでザデン人の宗教を例に挙げましたが、神や天国・地獄をもたない宗教も数多く存在すると考えるほうが妥当でしょう。 >>5.宗教を動かすもの >>宗教は心地良いものです。 >>修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。  果たして宗教は「心地良い」ものでしょうか?  現在の進化心理学の研究においては人間の宗教的な概念を構成する認知能力の一つは「行為者の過剰検出」ではないかと言われます。私達は捕食者や獲物にも対応しなければなりません。そうなった時に捕食者にも獲物にも過剰検出できた方が生き残る確率が高いわけです。逆に捕食者や獲物がいるのに気がつけないやつは生き残れないと言うことです。実際に心理学者クラーク・バレットは私達の「直観」の多くの側面が捕食に由来すると述べています。進化心理学ではなく、宗教学においても宗教には収穫祭や狩猟祭、またはシャマニズムなどでは魂を狩ったり、霊を追い払ったりと、狩りや捕食者などの概念が見られる事を指摘しています。  しかし、これは本当に「心地良い」事なのでしょうか??例えば、真っ暗な山小屋の一軒家で一人で一晩明かさなければならなかったとして、物音や影の動きなどから、何かいると直観します。これは「行為者の過剰検出」のなせる業です。そのとき「風の音であった」とか「木の動きであった」とか確かめると、行為者の過剰検出と言う直観は捨てられます。しかし、宗教的概念はそうではありません。この行為者の過剰検出と言う直観を安定した形で保ち続けるのです。そのときその山小屋に一人でいる人は「こちらからは見えないが、誰かに見られているかもしれない。」こんな「心地の悪い」ことはありません。  つまり、宗教を動かすものとして「心地良さ」を挙げていらっしゃいますが、宗教は必ずしも「心地良さ」与えるものではありません。  ここに書いてある事に関して、私は間違いではないと思います。しかし、これは宗教中でもごく一部の事を引き合いに出しているに過ぎず、「宗教」を語る説明としては不充分であると考えます。これが私の感想です。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

g3452sgp
質問者

お礼

>ネアンデルタール人の花の埋葬が「宗教的行為」だった規定したとしても、それが現在の「宗教」の起源であるとは言えないのではないかと考えています ネアンデルタール人が花の埋葬を行ったのは、天国、地獄など死後の世界をイメージするという観念的世界をこの時期において既に構築していたからでしょう。またこのような観念的世界観に必ず付随する神の概念を既に構築していたはずです。 とするならネアンデルタール人の花の埋葬は神、天国、地獄の3概念に基づくものであり、私の基準で言うと間違いなく宗教的行為となるのです。 >神・天国・地獄この三つをもっていない宗教は存在します。 仮にそのようなものがアフリカなどの一部にあったとしても極めて例外的なものでありさして問題にはしません。 そのような特殊なものは宗教でなくてよいのです。 なぜなら宗教と名のつく殆ど全てのものは神・天国・地獄の3概念をベースにしているからです。 >果たして宗教は「心地良い」ものでしょうか? 間違いなく宗教は心地良いものです。 心地良いものだからこそ自然発生し、地球上の至る所に蔓延したのです。 心地良いものでなければ自然発生したり、地球上の至る所に蔓延したりはしません。 No.18のお礼で述べた「宗教の本質 十ヶ条」で示したように、   1.宗教の発生にて、宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれ、   2.宗教の数にて、宗教は全世界に隈なく分布した これらは宗教が心地良いものであることを示す何よりの証拠です。 この事実を指し、レーニンは「宗教は阿片である」と言ったのです。 >ここに書いてある事に関して、私は間違いではないと思います。しかし、これは宗教中でもごく一部の事を引き合いに出しているに過ぎず、「宗教」を語る説明としては不充分であると考えます。 「宗教の本質 十ヶ条」が宗教の本質を示す上で不十分であると言われるのであればbaka-hageさんにお尋ねしたい、 baka-hageさんによると完全版としての「宗教の本質 十ヶ条」はどのようなものとなるのかここに提示して頂きたいものです。 私の提示したものに一々不十分であるとコメントするより、ご自身で完成したものをここに示してはどうでしょう。 その方が余程話が早いのではないでしょうか。 これは他の回答者の方についても皆同じなのですが、私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。もっともこれが宗教および宗教する者の本質なのでしょうが。 なのでbaka-hageさんに、「宗教の本質 十ヶ条」を完成させここに提示して頂きたいのです。

回答No.23

ANo.22 >>3)その課題に対する宗教の態度と方法は一般にどういうものでしょうか? >悩み苦しみ絶望から逃避するために宗教が取る方法とは、集団にて祈祷することであり、集団にて讃美歌を歌うことであり、座禅を組むことであり、薬物を用いてハイになることであり、自分の身体を痛めつけエクスタシーに浸ることであり、宗教組織に寄付しまくることであり、その他様々な方法をくっしするわけです。 ○krya1998:これも全く異なります。これも誤解もはなはだしい。そういういみでのこういう行作などはありません。馬鹿もいい加減に。冗談でからかっておられますか?本当にg3452sgpさんはこんなに何も知らないのですか? >>4)そういう宗教の使用のメディアは一般にどういうものでしょうか? 宗教が使用するメディアは寺であり、神社仏閣であり、教会であり、モスクであり、祭りであり、聖教新聞であり、 >スピーカー付街頭宣伝カーであり、駅前にパンフを持って立っている無表情な人々であり、家庭訪問客であり・・・・等々なわけです。 ○krya1998:これも全く異なります。これも誤解もはなはだしい。そういういみでのこういう行作などはありません。馬鹿もいい加減に。冗談でからかっておられますか?本当にg3452sgpさんはこんなに何も知らないのですか?まじめですか? >>5)どういう世界を宗教は対象としてきているのでしょうか? >神、天国、地獄を語る世界です。 ○krya1998:これも全く異なります。これも誤解もはなはだしい。そういういみでのこういう行作などはありません。馬鹿もいい加減に。冗談でからかっておられますか?本当にg3452sgpさんはこんなに何も知らないのですか?まじめですか? >>6)宗教のいうことや認識内容はg3452sgp さんのいう思想と哲学という真理探究のない時代の作業でしょうか?そう言い切るのですか? >真理を探究するにあたって、神、天国、地獄を語る必要はないのです。 悩み苦しみ絶望から逃避することは、「人の道」を歩むことではないのです。 ○krya1998:これも全く異なります。これも誤解もはなはだしい。そういう意味でのこういう行作などはありません。馬鹿もいい加減に。冗談でからかっておられますか?本当にg3452sgpさんはこんなに何も知らないのですか?まじめですか?【真理を探究するにあたって、神、天国、地獄を語る必要はないのです。悩み苦しみ絶望から逃避することは、「人の道」を歩むことではないのです。】こんなことは当たり前でしょう?ここで近代欧州世界の科学や知的学問に展開してきた手法や方法的基盤は述べませんし、宗教の手法や対象への足構えも述べる気も致しません。と付言します。 >>7)近代科学や文明が発達すると、統治の道具としての宗教の力はなくなるのでしょうか? >現代日本では既に宗教の力は失われています。 宗教が統治の道具として力を誇ったのは、比叡山の僧侶が権力闘争に明け暮れていた時代のことです。 今では神だの仏だの語ったところで聞く耳をもつ人などいません。 現代日本で宗教にすがることはもはや無力の証と見なされています。 宗教の時代は完全に終わりました。 信じることのみを説く宗教は科学と近代経済の前では例外なく無力なものとなりました。 ○krya1998:これも全く偏狭な認識です。ここで統治と宗教、聖と俗についての歴史的或いはその他の事情を述べる意欲もありません。宗教は俗権とはいろんな関係を持たされてきましたが、統治の用具でも道具でもない。 >>8)宗教は統治の道具としてだけ生まれたものでしょうか? >人の弱さが宗教を生み、国家など統治する側はその人の弱さを利用しようとする。 この2つの波長がうまく合ったところで宗教は統治の道具として極めて都合の良いものになったのです。 ○krya1998:これも全く偏狭な認識です。 以下もう対応する事を諦めます。

g3452sgp
質問者

お礼

この回答には宗教者の本性がよく現れていますね。 皆さんに言っておきます。 宗教について議論すると最後は常にこのような形をとって終了するのです。 宗教の場合、答えの出せないような都合の悪い部分に来るとこのように思考停止に陥り、議論は停止するというわけです。 思考を停止し説明できない部分、自分自身答えのないものに対しては単にケチをつけて納めようというわけです。 苦しいこと、辛いこと、分からないことに遭遇すると単に逃げようとする、これが宗教です。 これは宗教にすがる者を相手にいつどこでやっても必ずそうなる、常にそうなるのです。 つまりこれが逃避手段としての宗教なのです。 「宗教の本質 十ヶ条」に掲げた ”5.絶望からの逃避手段としての宗教”とはまさにこれを指しています。 「宗教の本質 十ヶ条」はやはり正しいことが、現実に証明された思いがしております。

回答No.22

ANo.21 >>このことに関連して、少し不満を補足的に書かせていただきます。 >まづ一言述べておきます。宗教する人は不満など抱いてはいけないのです。そのために宗教するのですから。不満を抱かないように不満を抱かせるものからはまづ逃避する、これが宗教者の第一の心得なのですから。 ○krya1998: ここで私が不満と申しているのは、g3452sgpの質問文においての、【宗教の本質】ということが全く書かれていませんで羊頭狗肉にもなっていない、つまり狗の肉さえないですよということの指摘でして、私自身の望みが充足されていないので不満足だという糊塗ではないのですよ。 >>1)大した知性や知識がなくて宗教が生まれるのは何故でしょうか? >宗教とは信仰、つまり信じることが全てです。 従って知性や知識、論理的判断力などはむしろ邪魔ものなのであり、 信じることを阻害するようなものは積極的に排除されなければなりません。 そうでないと宗教などとてもやってられないでしょう。 宗教とはセレモニーすなわち儀式が全てなわけですから知性や知識、論理的判断力など無用の世界です。 だから一休さんのような満5歳の子供でも立派に宗教者になれる分けです。 ○krya1998:宗教の認識が根本から間違っています。私たちは人間に委託されている全ての能力を駆使するを排除しませんし、むしろそういう能力を自己と世界の精進のための家来として十全に正統・正当に駆使することが大事です。こういう能力を無視黙らせたり、或いは無理な事をさせたりはいけません。合理的を超えた合理です。盲目信仰はいけません。叡智と行、そして信仰、日常生活です。儀式も合理的意味を理解して行うものです。一休さんや多くの天才はおります。年齢だけの問題ではないことがらです。一休さんも直感的に本能的に持って生まれてきている叡智能力があったのでしょう。 >>2)そういう宗教の課題と対象は一般に何なのでしょうか? >宗教が扱う対象とは神、天国、地獄の3概念です。 これらを活用して悩み苦しみ絶望から逃避しようというわけです。 ○krya1998:全く異なります。誤解もはなはだしい。そういう三概念で脅すことは無意味です。悩みや苦しみ、絶望の根源は何ですか。逃げたら解決するのですか? まったくばかばかしい。

回答No.21

 ANo.17  一応ANo.17に補足:(私のちょいと不満ということですが)  【人類の誕生から、そしてどこにでも人間存在とともに宗教が生まれている。  それには大した知性も、知識も不要であるからだ】という内容のお話でしょうか?  このことに関連して、少し不満を補足的に書かせていただきます。   1)大した知性や知識がなくて宗教が生まれるのは何故でしょうか?   2)そういう宗教の課題と対象は一般に何なのでしょうか?   3)その課題に対する宗教の態度と方法は一般にどういうものでしょうか?   4)そういう宗教の使用のメディアは一般にどういうものでしょうか?   5)どういう世界を宗教は対象としてきているのでしょうか?   6)宗教のいうことや認識内容はg3452sgp さんのいう思想と哲学という真理探究のない時代の作業でしょうか?そう言い切るのですか?   7)近代科学や文明が発達すると、統治の道具としての宗教の力はなくなるのでしょうか?    宗教の統治の力と科学の発達との関係は例外もなく、一義的でしょうか?   8)宗教は統治の道具としてだけ生まれたものでしょうか?   9)古代から統治とはどういうものでしたろうか?   10)宗教と人間、そして統治というものの関係はg3452sgp さんはどのように捉えているのでしょう?  やはりg3452sgp さんの、このご質問でご論断は本質といいながら、本質に触れているところが全くないのですよ。  意見をどうぞ、ということなのでご立腹されるかもしれませんが、一応、思うことの一部を書かせて頂きました。浅見浅学からの不十分な、指摘です。   

g3452sgp
質問者

お礼

>このことに関連して、少し不満を補足的に書かせていただきます。 まづ一言述べておきます。 宗教する人は不満など抱いてはいけないのです。そのために宗教するのですから。 不満を抱かないように不満を抱かせるものからはまづ逃避する、これが宗教者の第一の心得なのですから。 それでは順番に回答しましょう。 >1)大した知性や知識がなくて宗教が生まれるのは何故でしょうか? 宗教とは信仰、つまり信じることが全てです。 従って知性や知識、論理的判断力などはむしろ邪魔ものなのであり、 信じることを阻害するようなものは積極的に排除されなければなりません。 そうでないと宗教などとてもやってられないでしょう。 宗教とはセレモニーすなわち儀式が全てなわけですから知性や知識、論理的判断力など無用の世界です。 だから一休さんのような満5歳の子供でも立派に宗教者になれる分けです。 2)そういう宗教の課題と対象は一般に何なのでしょうか? 宗教が扱う対象とは神、天国、地獄の3概念です。 これらを活用して悩み苦しみ絶望から逃避しようというわけです。 3)その課題に対する宗教の態度と方法は一般にどういうものでしょうか? 悩み苦しみ絶望から逃避するために宗教が取る方法とは、集団にて祈祷することであり、集団にて讃美歌を歌うことであり、座禅を組むことであり、薬物を用いてハイになることであり、自分の身体を痛めつけエクスタシーに浸ることであり、宗教組織に寄付しまくることであり、その他様々な方法をくっしするわけです。 4)そういう宗教の使用のメディアは一般にどういうものでしょうか? 宗教が使用するメディアは寺であり、神社仏閣であり、教会であり、モスクであり、祭りであり、聖教新聞であり、 スピーカー付街頭宣伝カーであり、駅前にパンフを持って立っている無表情な人々であり、家庭訪問客であり・・・・等々なわけです。 5)どういう世界を宗教は対象としてきているのでしょうか? 神、天国、地獄を語る世界です。 6)宗教のいうことや認識内容はg3452sgp さんのいう思想と哲学という真理探究のない時代の作業でしょうか?そう言い切るのですか? 真理を探究するにあたって、神、天国、地獄を語る必要はないのです。 悩み苦しみ絶望から逃避することは、「人の道」を歩むことではないのです。 7)近代科学や文明が発達すると、統治の道具としての宗教の力はなくなるのでしょうか? 現代日本では既に宗教の力は失われています。 宗教が統治の道具として力を誇ったのは、比叡山の僧侶が権力闘争に明け暮れていた時代のことです。 今では神だの仏だの語ったところで聞く耳をもつ人などいません。 現代日本で宗教にすがることはもはや無力の証と見なされています。 宗教の時代は完全に終わりました。 信じることのみを説く宗教は科学と近代経済の前では例外なく無力なものとなりました。 8)宗教は統治の道具としてだけ生まれたものでしょうか? 人の弱さが宗教を生み、国家など統治する側はその人の弱さを利用しようとする。 この2つの波長がうまく合ったところで宗教は統治の道具として極めて都合の良いものになったのです。 9)古代から統治とはどういうものでしたろうか? 国家が生まれる遙か以前から、人は部落や集落、村などの集団社会を形成した。 このような原始的で小規模な集団社会においても集団を社会として維持するために何らかの統治が必要とされました。 そして自然発生的に生まれる宗教は自然な成り行きとして統治の道具に利用されたのです。 10)宗教と人間、そして統治というものの関係はg3452sgp さんはどのように捉えているのでしょう? 人がいるところ宗教は自然に生まれるのです。 そして宗教は神、天国、地獄を語る世界であり、現実逃避の世界であり、儀式指向の世界なので、統治の道具としては極めて都合のよいものなのです。 このため日本においてもそうなのですが、宗教が政治の世界にいとも簡単に入り込みそこに居座るようになったのです。 実にバカバカしいことが現実に起こり得るということなのです。

  • sotom
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回答No.20

(6)( ゜Д゜)_σ異議あり!! 宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。とするならば、ありと あらゆる宗教より、なんらかの統治国家、それに類する団体があったという事です。 貴方も(1)で述べていますが、人類の発生と共に、何らかの統治国家があったと 証明できますか? まあ、貴方の周囲が貴方自身にどういう影響を与えたかが想像できますが、点数を つければ、20点ぐらいですか。得た情報が偏りすぎていて、世界的に見ても、一部の 日本人にしか受容できないものです。近代哲学と仏教も視野に入れて、もう一度 やり直しましょう。落第です。Dマイナーというところですな。

回答No.19

1、発生時期  猿の未熟児として人類が発生誕生したときが宗教の芽生え。 2、宗教の種類は、本来ひとつ。宗教の意味は「宗=本質 の教え」。俗には、多神教と一神教。無神教。 3、構成要素、自分の存在認識、自分以外全ての存在認識、命現象の認識。(否定出来ない絶対感覚) 4、3に順ずると考えます。 5、絶対観を得られればそうでしょう。 6、宗教の発生は、原初は、人間の外界と自分との対立意識によって自然発生したと考えます。すぐ後聡い者が、不安要素の部分を拡大させ、人身コントロールに使うようになり、俗に言う「宗教もどき」に発展してきたのでしょう。宗教の本質とはギャップがありますが、無関係ではないでしょう。 7、近未来に宗教のまじめな定義が単純に理解される瞬間が来ます。今ここです。 8、宗教の次は哲学という気持ちもわからないことではアリマセンが、厳密に言葉を使い分けると、それぞれに機能があるように思いますので、役割分担で、存続するでしょう。 9、提案:宗教とは、限りなく万民が納得するための、宇宙、生命、人生の真理のうち、証明しなくてよい、統一的有難い教え。因みに、哲学は、仮説でも、体験でも、再現実験げもあらゆることを駆使して「論証」しようとやり続ける行為。価値観に偏りの無いものを本旨、目標とする(ヨガ=世我哲学が一番近い)。科学は、光・電磁現象の関わらない現象については照明できないので、真理探究には使えない致命的欠陥商品である(真っ暗な腸の中の現象を科学では証明できない)。生命現象の元は電磁気以前の原理が作用していると考えられるようになってきている。 古き良き時代の科学情報の乏しき時代には、直感、主観の宗教的認識しかできないので、そのような認識レベルの文化~宗教~哲学で甘んじなければなりません。宿命です。しかし、時は流れています。科学の進歩と哲学の洗練によって、人間の認識スケールは宇宙大になりつつあります。小宇宙の人間と大宇宙とがシンクロする瞬間が近いのです。科学が直感認識も合理と認めた瞬間に、宗教と科学はシンクロします。そこで思考停止すると、人類は進化アセンションして「完成猿」になり一巻の終りになりますが、哲学を捨てなければ、永遠の人間性を失わず、悩み多き、個性尊重の芸術人間を継続するでしょう。

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質問者

お礼

>1、発生時期  猿の未熟児として人類が発生誕生したときが宗教の芽生え。     猿の未熟児とは面白い。全くその通りです。 >2、宗教の種類は、本来ひとつ。宗教の意味は「宗=本質 の教え」。俗には、多神教と一神教。無神教。    その通り、多神教と一神教の違いなど大したものではなく、本来ひとつ    ただし、無神教は宗教ではありません。    なぜなら宗教の構成要件には神が含まれるので。 3、構成要素、自分の存在認識、自分以外全ての存在認識、命現象の認識。(否定出来ない絶対感覚)    自分の存在認識は宗教する、しないに関わらず誰でも保有するものです。    自分以外全ての存在認識(つまり宇宙)についても同様。    宗教の構成要素は神、天国、地獄の3概念です。 >4、3に順ずると考えます。    宗教の宇宙観については大いに論じなければならない重要な点であることが認識できていないようです。    宗教は有限宇宙をベースにしなければならない理由があるのです。    つまり宇宙観により宗教か否かはおよそ判定可能なのです。 >5、絶対観を得られればそうでしょう。         宗教を動かすものは人の弱さであり、真理の探究からの果てしのない逃避です。    宗教している瞬間は心地良いのです。    ただしそれは一時的なもので、絶対的なものではありません。    宗教から醒めれば無が待っているだけです。    宗教によって絶対観が得られるほどこの宇宙は単純なものではないということです。    真理の探究以外に絶対観を得ることなどできません。 >6、宗教の発生は、原初は、人間の外界と自分との対立意識によって自然発生したと考えます。すぐ後聡い者が、不安要素の部分を拡大させ、人身コントロールに使うようになり、俗に言う「宗教もどき」に発展してきたのでしょう。宗教の本質とはギャップがありますが、無関係ではないでしょう。    宗教とはもともとそのような道をたどる運命にあるものなのです。これは宗教の本質から必ずそうなるのです。 >7、近未来に宗教のまじめな定義が単純に理解される瞬間が来ます。今ここです。    「宗教の本質 十ヶ条」の完成により近々その時が来ます >8、宗教の次は哲学という気持ちもわからないことではアリマセンが、厳密に言葉を使い分けると、それぞれに機能があるように思いますので、役割分担で、存続するでしょう。    宗教の次は間違いなく、真理の探究であり思想と哲学の時代がやって来るのです。 >9、提案:宗教とは、限りなく万民が納得するための、宇宙、生命、人生の真理のうち、証明しなくてよい、統一的有難い教え。因みに、哲学は、仮説でも、体験でも、再現実験げもあらゆることを駆使して「論証」しようとやり続ける行為。価値観に偏りの無いものを本旨、目標とする(ヨガ=世我哲学が一番近い)。科学は、光・電磁現象の関わらない現象については照明できないので、真理探究には使えない致命的欠陥商品である(真っ暗な腸の中の現象を科学では証明できない)。生命現象の元は電磁気以前の原理が作用していると考えられるようになってきている。・・・・・    ヨガは座禅とストレッチ体操を組み合わせたものです。    真理の探究を行うための準備運動といってよいでしょう。

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