宗教の本質とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。
  • 宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれ、どのような原始社会においても存在しています。
  • 宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成され、心地良さの追求や人間社会の統治の道具として生まれました。しかし近代科学や近代文明の発達により、宗教の力と役割は失われつつあり、宗教の時代は終わりつつあります。今後は真理の探究や思想と哲学の時代が来ると考えられます。
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宗教の本質

宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

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回答No.28

続けて失礼いたします。 >>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。  認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持っている守備範囲を表すもので、どれもその核心を突いているわけではありません。 「未知の物に説明を与える」ということに関して言えば、宗教は説明以上に謎を呼びます。スーダンのザンデ人のあるお宅の屋根が崩れました。すると、ザンデ人たちはすぐに妖術師の仕業であると疑い、説明をつけ始めた。この時ザンデ人の宗教を研究していたエバンス・プリチャードは、屋根の所にはシロアリが食っているのだから屋根が落ちた原因は妖術師ではなくシロアリの仕業だと指摘します。しかし、ザンデ人はシロアリが原因であるや建物の老朽化などのことは百も承知であったが、シロアリに関心を寄せませんでした。彼らの関心事は「なぜ今その人が屋根の下にいる時に、屋根が落ちたか?」という理由でした。これが適切な「謎」であれば「宗教は未知の物に説明を与える」ということもいえるでしょうが、そうではありません。宗教自体が新たな謎を呼んでいるのです。一休禅師の歌の中にも「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんて歌を詠んでおられますが、このような点からも宗教はただ説明を与えるだけではないことが伺えます。 「宗教は安心を与える」というのは前述の通りそれだけではありませんし、「宗教は秩序を与える」というのも秩序を壊すのも宗教であったりします。また、「宗教は妄想である」というのも、私達は妄想と隣りあわせで生活しているわけで、「もし」や「シュミレーション」や「遠く離れた恋人の思い」であったり、その妄想から力を得ることもありますが、そういうことには言及されないことが多い。どの説明でも不十分なのです。 それを前提において考えますと、私としては一番それらしいかなと思っているのは、認知科学的な方面からの研究によれば宗教の本質は「人間の認知機能の表象」であると考えられています。分かりやすく言えば「人間は宗教的なものを感じるように出来ている」ということです。前々回の回答の中でも記したように、人間の行為者の過剰検出であったり、それを安定した形で定着させる機能だあったり、前回の中に記した推論機能であったり、数多くの人間の認知機能の表象として宗教と言うものがあるという説明です。 しかし、私はこの回答では宗教の本質というより「人間の本質」の問題であるように思います。では宗教の本質とは?「いろいろ」です。刹那的にみれば、一つの宗教から、多くの宗派が生まれたように見えます。ここから一つの宗教から多くの宗教が生まれたのだから「宗教の本質を答えることが出来る」と考えるのが自然なように見えます。しかし、文化人類学や進化心理学においては「多から少」、質問の中にも >>その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。 >>また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 とあるように、宗教は歴史的な多様化ではなく、数限りない宗教の絶え間ない自然淘汰による凝縮の結果と考えられています。私もこのように考えます。  つまり、「人間の認知機能」という共通ですが、その対象が違うのです。砂漠における砂の認識と、湿原における砂の認識は違っているわけですから、同じ砂を信仰対象としたとしても、共通点はあってもその本質は違っています。だからこそ日本には宗教全般を表わす「宗教」という言葉が存在しなかったのはそのためです。日本の分類は「仏道」「神道」「儒学」「キリシタン」という括りまでです。なぜなら、それぞれの「本質」が違うことを意識せずとも知っていたからでしょう。つまり、宗教の本質は「いろいろ」ということです。  しかし、この答えでは満足いかないでしょう?そうでしょう。書いている私が満足してません。説明としては不充分なのです。けれども、だからこそ学ぶのです。「宗教」について語られたものは、宗教学、神学はもとより、歴史学・文化人類学・認知科学・進化心理学等々多岐にわたります。今の時代、調べれば知ることが出来るのに、それをしないのは怠惰以外の何者でもないと私は学び続けています。 あなたのような熱い方とお話が出来て嬉しく思います。ありがとうございました。  ただ、お答えにはなっていませんね。申し訳ありません。 合掌 南無阿弥陀仏

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  • magga
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回答No.18

<<”宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです”と述べています私はこの部分が宗教の本質を最も良く表しているとみます。ここで「生命の憂い苦しみ」を「絶望」と置き換えると、”宗教の価値の第一は生命の憂い苦しみからの逃避を支援することです”となります。これならmaggaさんも納得するのではありませんか。>> これなら納得する・・・って。 個人的にはあんまり反論してないと思うんですが・・・。 ただ、パーリ語仏典を読んだ私の感想とあなたの宗教の本質の項目で比較したら面白いかなと回答しただけです。 そもそも、最初に語ったように、パーリ語の仏典は現代で言うところの宗教のカテゴリーに入らないものと思ってますから反論しているものではありませんよ^^; ★ 「宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援すること」 もあるでしょうが、 「私が考えるゆえに、私は正しい、他は皆間違っている。というアホな思考の擁護をすること」 「自己の正当化」「他者を貶める口実」 もあるでしょうねw <<ここで「生命の憂い苦しみ」を「絶望」と置き換えると、”宗教の価値の第一は生命の憂い苦しみからの逃避を支援することです”となります。これならmaggaさんも納得するのではありませんか。>> パーリティピタカの場合、ここ(「生命の憂い苦しみ」を「絶望」)から理性的・論理的・道徳的・実証的に自己の持つ見解を範囲と根拠を大事にし、柔軟に構築・再構築し、御釈迦様や阿羅漢の方々の研究結果である言葉などを参考にさらに検証していくという態度でもって進んでいくのだと思います。自灯明法灯明です^^生命に対する、「生きる」ということに対する真理の探究の立場。心の科学者・研究者としての立場だと理解しています。信仰(決め付け)は勧めません、実証・納得を勧めます。納得するには、疑問を解消しなければなりませんから、疑問質問反論を言い合うことはアリです。 「無意味なものは意義があると思い、意義あるものは無意味だと観る。 誤った思考に促われた彼らは真理を獲得しない。 意義あるものは意義があると観、また無意味なものは無意味と観る。 正しい思考(正思惟)に基づく彼らは真理を獲得する」(ダンマパダ11・12) 思惟・言葉・身体の行為について 自分のためになるか、現世、来世において楽を得られるか、心が清らかになるか向上するか? 同じように、他人のためになる行為か? 自他ともにためになる行為か? 一切生命のためになるか? を 行為の前 途中 終わってから に思索してみたらどうだろうと。。。 多くの宗教といわれるものは、ここ(「生命の憂い苦しみ」を「絶望」)から何かしらの概念を生み出し、それを「正しい」と決め打ちし、物語をつむいでいくように感じられます。こちらは概念に対する信仰(決め付け)を勧めますね。実証・納得はあまり勧めていないように感じます(反証を喜んで受け入れない)。 何かしらの体験から概念付けしていくものもあるでしょうね。 他者を操るために作り出すことも。 後者三つは、僕は宗教と呼びます。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

       宗教の本質 十ヶ条 1.宗教の発生   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会、時代は皆無といってよい。 2.宗教の数   宗教は全世界に隈なく分布しています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教の創造者   もちろん宗教は全て人間が人間のために創ったものです。 4.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3概念を備えない宗教は存在しません。 5.絶望からの逃避手段としての宗教   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局は心地良さの追求です。   このため宗教は悩み、苦しみ、絶望からの逃避手段として用いられます。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の効果です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教の場合も同じです。 6.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されます。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 7.儀式としての宗教   宗教は人の死に際を整えるための一種の儀式として用いられます。 8.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根本の部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 9.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果として起こる自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 10.宗教の次に来るもの   それは「人の道」、つまり真理の探究であり、思想と哲学の時代です。

g3452sgp
質問者

補足

これまで御回答頂いた方々へのお礼として本質問:「宗教の本質」について以下に私の最終的なまとめを示すことにします。

回答No.17

 回答番号:No.12  観たくないものは、何もありませんよ。観たくないものがあれば、私にも意味があるのですが。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.16

<<物事が有意義か有意義でないかは一体誰の判断によるのでしょうか。本人が有意義であると考えるのであればそれは有意義なのではないでしょうか。>> 具体的に「生きる」ということの探求をなし終えた結果、生命の一番の問題は「憂い苦しみ」などであると発見され、憂い苦しみなどを避け、良き境遇を期待し動き回っている生命の有様から、何が有意義かということを語られているのだと僕は思っています。 たとえ本人が有意義だと思っていてもこの「憂い苦しみ」などの軽減・解決に結びつかないこと、更なる「憂い苦しみ」などを生み広げてしまうことは有意義だとはいいにくいと感じます。 「憂い苦しみ」などは生命にとって問題ではないと証明できるというなら話は別かもしれませんが・・・。 <<例えば1基何億円もするアンテナを何十基も建造し、これを宇宙に向け宇宙からの電波に耳を傾け何十年もかけて宇宙人と交信しようとする人達が現にいるわけです。これなど他の人間がどう考えようがやっている本人が有意義であると考えるのであればそんなもん有意義ではないとは言い切れないでしょう。>> もちろん個人個人が好き勝手に有意義だと言う自由はあるでしょう。 矛盾をはらむ論理・信仰・思想・哲学・真理の探究云々有意義であると好き勝手に言えます。 大量殺戮であろうがなんであろうが有意義だと言い張る世の中ですからね・・・ しかしながら、僕としては、生命の憂い苦しみ悲しみその他くらい感情などの減少・滅に役立たなければ有意義とは言い難いと感じます。 この例を見ても、その運用資金に見合う、生命の憂い苦しみなどの減少があるのか疑問を感じてしまいます。 論理的・道徳的でもない個人の好き勝手な有意義だという考えの下、限られた資源を好き勝手使ってもいいという考え方にはいささか賛同できかねます^^; 限られた資源は、生命の憂い苦しみの減少・滅に使ってこそ有意義という見解を私は持っています。 有意義に使わねば、多くの生命に苦しみがまっていますからね^^; <<もしお釈迦様が人のやることについて一々これは有意義、これは有意義でないなどと言うのであればお釈迦様も随分と狭い心の持ち主であるとは考えないのですか。>> 宇宙の探求を禁じたのは、あくまで瞑想中の弟子に対しての話だと記憶してますが。 御釈迦様自体は、質問されたら答えるというスタンスだったと思いますけど。 たとえば、上記のような生命の「憂い苦しみ」を本筋として、有意義・有意義でないと語ったとして、これにより「随分と狭い心の持ち主」といえるものでしょうか? 疑問も反論も受け入れるオープンチャレンジ宣言をしているのがお釈迦様だと思います。 随分と堂々と、心の広い方に私には感じられるのですが^^ <<お釈迦様は自分のすねに乾いた砂をさらさらとかけて、比丘たちにすねの上のこの砂とこの大地の砂のどちらが多いかお聞きになり、私が知る中で語るのはこのすねの上の砂ぐらいのものだと語られていたと記憶しています。>><<つまりお釈迦様もただの人であったということではないのですか。>> 砂のすべてを知っている。 その中で語るのは、今すねにかけた砂ぐらいのもの。 必要なのはそれぐらいなもの・・・・。 ただの人とは僕は思えません^^; 多くを知っているが、生命に必要なことしか語らないと「ただの人」となるのでしょうか? 多くの「ただの人」は、多くを知らず、必要なこともろくろく語れないような気もしますが^^ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

No.13においてMokuzo100nennさんは、”宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです”と述べています。 私はこの部分が宗教の本質を最も良く表しているとみます。 ここで「生命の憂い苦しみ」を「絶望」と置き換えると、”宗教の価値の第一は生命の憂い苦しみからの逃避を支援することです”となります。 これならmaggaさんも納得するのではありませんか。  

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.15

特に出展が無く、「思います」という話が多くて大変恐縮ですが、鳩の迷信行動からお話しを組み立ててみます。 http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/intro/intro_47/index.html http://d.hatena.ne.jp/pinno/20080218/p1 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100201 偶然により発生した報酬に対し、観察対象はその時行った自身の行動が起因したのだと感じてしまうようなのですが、鳩に限らず人間に対しても自分自身に起因を求める心理というのは変わらないと私は考えます。 そして更に言えば、人間の基本的部分では理性や合理的判断よりも、自身に現象発生の起因を求めるなど主観的立場からの理解から抜け出せない事に伴う超越性の認識を優先してしまう。ここから客観性を得る事によって理性的判断を下せる事になりますが、理性的判断を得られる手段が人間に無い場合には、「何がなんだか分からんが、宇宙のチカラのようなものが働いてこうなったんだ」といった超越性の認識にとどまる。 宗教発生のプロセスから理性的判断の獲得までを視野に入れれば、宗教発生(超越性の認識)が理性獲得の前段階に存在する為、人間は基本的には理性的判断よりも超越性の認識をする事が優先されると言ってしまっても良いように思われます(その後の教育の有無が人間の思考を左右すると)。 そしてその”迷信行動”は人によって偶然の利益を得られた際の行動が異なる為、その地域の風土や気候によってある種の傾向は見られるも、それは人によって千差万別な形式になる。これが宗教の発生主因となっているのではないかと。 宗教とは主観的立場から抜け出せない人間が必然的に生み出す思考体系なのだと私は考えます。 もし既にご覧になられているのであれば良いのですが、宗教と無神論的科学の対立に対する考え(そして人にとって宗教は無くてはならないものであるという帰結)は、ポーランドの哲学的テレビドラマ「デカローグ」の第一話が非常に参考になりますので、未見であれば是非見て頂く事をお勧めします。 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0-DVD-BOX-5%E6%9E%9A%E7%B5%84-%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD/dp/B0009OA5IE 話しを少し元に戻すと”迷信行動”によってどうして利益を得られたかという理由や背景を説明する所で、神や天国、地獄など人が共通して納得できる範囲の概念が登場するものであるのだと考えます。 私は人間から宗教が離れられるものとは思いません。 佐藤優「自壊する帝国」によると、共産時代のモスクワ大学で試験シーズンになると学生が教会に火のついたローソクを一本立てて合格を祈願するんだそうですが、哲学部無神論学科の生徒は二本立てるんだそうです。何故一本ではなく二本ローソクを立てるのかと言うと「神が存在しないという事を証明する学問をやっているからには神様が怒っていらっしゃるのではないか」という事で他の学生よりも一本余計にローソクを立てる、と。なんだそりゃ、と言いたくなるのですが、これが理想に対する現実のようです。 現実の世界は哲学や思想が世界を構成する樹形図の根幹である事は間違いありませんが、その枝葉末節まで追うとなると宗教などの非合理思想で動いている人達が多数いるので、これを除く事はできません。そしてその母数の巨大さから、宗教という要素も樹形図の根幹として考えなければならない事もままあります。

g3452sgp
質問者

お礼

No.13においてMokuzo100nennさんは、”宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです”と述べています。 要するに簡単に言うと、人は悩み苦しみに遭遇すると自然の営みとして神や仏を作り出しこれにすがるようになる、 つまり観念論に走るようになる、とこういうことでしょう。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.14

<<一つだけ述べておきます。仏教は宇宙については殆ど何も語ろうとせず、このような問題には自身の立場を明かさないというスタンスを取っています。つまりだんまりを決め込むというわけです。>> 御釈迦様(パーリ語仏典の)の立場は「有意義であること」「成長に役立つことであること」どうかですからね。 (↓個人的な解釈^^;) あなた方が考え、話し、行動するのはどうしてでしょうか、、、生きているからでしょう? 「生きる」とはどういうことなのか探求しないでどうします? 宇宙の働きや範囲は難解すぎてたとえ冥想の達人でも仕舞には寿命がきてしまう。時間が足りないんだ。 時間がもったいないから有意義なことを探求してはいかがでしょう? 今ある苦しみをどうにかしたらどうでしょう? なんていわれそうです。 お釈迦様は自分のすねに乾いた砂をさらさらとかけて、比丘たちにすねの上のこの砂とこの大地の砂のどちらが多いかお聞きになり、私が知る中で語るのはこのすねの上の砂ぐらいのものだと語られていたと記憶しています。 あなた方に必要・有意義なことしか語ってないと。 <<しかしよくよく注意して調べると、仏教とて例外ではなくやはり有限宇宙の世界に納まっていることが分かるのです。例えば須弥山 三千大千世界などはこれを物語っています。>> 仏教はいろいろな宗教のグループネームのようなものと感じます。 大乗仏教に関しては私は無知なのでよくわかりません^^; 私は主にパーリ語で記された三蔵・パーリティピタカについての思うところを僕なりに書いています。 パーリ語仏典にそのような「有限宇宙の世界に納まっている」といえる記述がありますでしょうか? もしあるのであれば教えてほしいです^^ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

>宇宙の働きや範囲は難解すぎてたとえ冥想の達人でも仕舞には寿命がきてしまう。時間が足りないんだ。 時間がもったいないから有意義なことを探求してはいかがでしょう? 物事が有意義か有意義でないかは一体誰の判断によるのでしょうか。 本人が有意義であると考えるのであればそれは有意義なのではないでしょうか。 例えば1基何億円もするアンテナを何十基も建造し、これを宇宙に向け宇宙からの電波に耳を傾け何十年もかけて宇宙人と交信しようとする人達が現にいるわけです。 これなど他の人間がどう考えようがやっている本人が有意義であると考えるのであればそんなもん有意義ではないとは言い切れないでしょう。 もしお釈迦様が人のやることについて一々これは有意義、これは有意義でないなどと言うのであればお釈迦様も随分と狭い心の持ち主であるとは考えないのですか。 >お釈迦様は自分のすねに乾いた砂をさらさらとかけて、比丘たちにすねの上のこの砂とこの大地の砂のどちらが多いかお聞きになり、私が知る中で語るのはこのすねの上の砂ぐらいのものだと語られていたと記憶しています。 つまりお釈迦様もただの人であったということではないのですか。

回答No.13

宗教の本質はおいといて宗教の価値に関して意見を申し述べます。 宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです。 人の世にはいろいろな絶望があり、人生とはその絶望と共に歩まねばならぬものです。しかし絶望と共に歩むには絶望の大きさに応じて強靭な精神力を持っていなければならない。つまり絶大は絶望とともに生きるためには強靭な精神力が必要だし、一般の絶望とともに生きるためには一般的な精神力が必要なわけです。其々の絶望に応じた強さを持たない場合、絶望に潰されてしまいます。絶望に潰されそうな時には絶望から一時的に逃避する必要があります。方便ですけどね。これが宗教の第一の価値です。 絶望からの逃避には、酒に溺れるとか、性愛に溺れるとか、物欲や名誉欲を満たして絶望を忘れるなど、各種の方法があります。これらを組み合わせて乗り切って行けばよいのですが、酒を買う金も無く、異性に相手にされず、かといって物欲や名誉欲を満たすほどに刻苦精励する気も無い人々など、誰でも頼れる逃避先として宗教の価値があります。とりあえず手持ち資金ゼロでも宗教に逃避することができるのです。 次に宗教の価値の第二は作法心得です。 人生の色々な局面で作法心得が必要です。特に最大の出来事である死に際しては特別に重要です。人の死を前にした時、もし、宗教なかりせば混乱してしまうでしょう。そこで人の死をなどの重要な出来事に対する形式・様式を提供してくれるのが宗教の二番目の価値です。お陰様で人が死んで弔いに参上するとき、今度の葬式は仏教だなとか、今度の葬式は神式だな、という情報に基づき弔いの形式・様式がきまるので混乱が最小化されます。 問題は三番目の価値で、これは本来の価値ではないのですが集金マシンとしての価値です。 宗教の本来の価値ではないと言うものの人類史上に残る名画・名曲・名建築の多くが宗教団体と関連しています。人類が生産・交易を通じて築いた富を集金マシンで集金し、潤沢な資金をもって画家、音楽家、建築家を食わせ、結果として人類の遺産ともいえる名曲・名画・名建築が残りました。 日本の木造建築は将軍たちの城以上に、二大宗教団体である仏教と神道の資金によって寺院建築、神社建築として高度に発展し、人類の遺産と言えるほどの建築になることができました。宗教が無ければ価値の高い建築物の施主は少なく、住宅だけだったとしたら粗製乱造を免れなかったでありましょう。 以上、質問者の結論とは関係がありませんが、宗教の価値に関して意見を述べました。

g3452sgp
質問者

お礼

>宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです。 この回答は宗教の最も本質的部分を述べていることは間違いありません。 ただし、 宗教は絶望からの逃避を支援するが、絶望を取り除くわけではない。 あくまでも逃避を支援するのみです。 しかし逃避というものは常に一時的なものです。 宗教によって絶望から逃避できたとしてもそれは一瞬の出来事ではないのでしょうか。 逃避できたと思った次の瞬間には実は更なる絶望が待ち受けていたということにはならんでしょうか。 酒を飲んで酔っているときは楽しいが酔いが醒めると余計に憂鬱になる、これと似たようなもので。 ではどうするかと言うと、やはり絶望は取り除くべきものであると考えます、そして戦い抜くべきものであると。 そしてどうにもならんときは諦めればよい、そしてどうにでもなればよいと、ケセラセラ。 なぜこんなこと言うのかというと、私も周囲にさんざん多くの人間を見てきたので。 つまり、宗教頼って逃避行動続けたのはよいが結局最後には泣きをみたという人達を。 だから苦難というものはどのように逃げようとしても逃げられるものではないということ、 また苦難をどのようにごまかそうとしたところで決してごまかしきれるものではないということ、 だから宗教など当てにせんほうがえーということ、なのです。 “宗教の価値の第一は絶望からの逃避を支援することです”と言ってますが、現実はそう甘いもんではないのです。   >次に宗教の価値の第二は作法心得です。 これについては作法心得など余計なお世話であるとだけ述べておきます。 >問題は三番目の価値で、これは本来の価値ではないのですが集金マシンとしての価値です。 この集金マシンは絶望したものを救済するためのマシンではなく、一部の有暇階級の見栄や道楽のために活用されたものと言って間違いないでしょう。

g3452sgp
質問者

補足

10.宗教の働き   悩み、苦しみ、絶望からの逃避として宗教は用いられる。 なるほど、これを項目の一つとして挙げておくべきでした。 「宗教の価値」ではなく、「宗教の働き」とします。 なぜなら価値は働きが機能して初めて生まれるものであるから。  

回答No.12

 ANo.10  少し単純すぎて粗く雑駁ですね。こういうところですから、双方とも多くの言葉を使えないのですが、観点が逸れていると存じます。  人間発生とともに、どこでも生じてきている、ということが精緻な理論や知識を必要としなく、それに立脚せず、それをないようとする必要がない、というフレーズ一つも独断以前の問題だと存じました。  それらのことはここでお話しするのは控えますが、どうぞ更なるご探求があることでしょう。

g3452sgp
質問者

お礼

krya1998さんへ 見たくないものからは目を背けたいでしょう、なぜなら見たくないものを見ても心地よくないので。 しかし真理を探究するためには見たくないものも見なければならないのです。    

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.11

手短に主だったところだけ書きます。 宗教が当地の目的ではなく、統治者が宗教を利用したり、人間の慾が統治しようとしているだけです。 現象をそのまま受け取っては分析は出来ません。 当地の道具としての宗教の影響はない? それは日本という誤った「政教分離」の解釈をしている世界でも稀な国での話ですね。 宗教の次にくるものが真理の探究?思想と哲学? 宗教も本来は真理の探究です。 どうも宗教という言葉の定義が狭すぎるようです。宗教と言ってもこれはキリスト教やイスラムだけ、死かも方便の世界観の中だけの話ですね。 がんばって勉強してください。

回答No.10

 少し冷ややかですが、所感を書きます。失礼の段、許してください。  1.宗教の発生時期 【仰せのことが、宗教とは何か「宗教の本質」を述べているという共感はもてませんでした。また自然発生というフレーズがもう少し、精密化して欲しいと存じました】 2.宗教の種類と数 【だから、これが宗教の本質だという意味ではなさそうに存じました。気に障るかも知れませんが、『だから動だって言うの』って思ってきてしまいます】 3.宗教を構成するもの 【願わくば、(1)宗教がどうしてこの挙げられた三概念ですか、(2)これで構成されているのかの敷衍をしてもらいたいと存じました。そして宗教の中にお入りになっておられないようですので、少し申し上げますと。宗教はそれぞれ一定の仕方で、みんなの生きている世界や関連する事の説明とその真理認識をその宗教としては行っていると存じます。更にここで神という多義的曖昧なタームを使用するのは危険なような気がします。中国の古代では天とかいうのがあって、鬼神などがいます。またこれを神ともいいます。日本にも八百万います。そしてヒンドゥです多にして一です。創造神といってもちょいと一緒にはなりません】 4.宗教の宇宙観 【そういうものだと存じます。そしてそれを出る、つまり人間意識界をでる手法でもあります。全部の宗教ではありませんが】 5.宗教を動かすもの & 6.宗教の目的 【5.と6.について共通に:そういう宗教もあると存じます。使用言語としては“宗教のあるものは、”とする方が安全かも知れません】 7.宗教の未来 & 8.宗教の次にくるもの 【7.と8.について:この予言はそのとおりとは、いえないかと存じます】

g3452sgp
質問者

お礼

 >1.宗教の発生時期 【仰せのことが、宗教とは何か「宗教の本質」を述べているという共感はもてませんでした。また自然発生というフレーズがもう少し、精密化して欲しいと存じました】 宗教を生むのに何か高度な理論や思想、哲学は必要ないのです。 その証拠に宗教は太古の昔から地球上の至る所に発生しています。 およそ人の住むところで宗教の生まれなかった場所、時代はありません。 どのような原始社会であれ宗教は発生しました。 今この瞬間にも様々な新興宗教が地球上の至る所で雨後のたけのこの如く発生しているに違いありません。 宗教とはかくも簡単に生まれ、そして消えて行くものです。なので自然発生したと言った訳です。 >2.宗教の種類と数【だから、これが宗教の本質だという意味ではなさそうに存じました。 上に述べた通り、宗教は人のいるところ放っておけば必ず発生します。 これは人間社会の必然であり必ずそうなるのです。 これは宗教の本質的な部分、宗教の一面なのです。 >3.宗教を構成するもの 【願わくば、(1)宗教がどうしてこの挙げられた三概念ですか、(2)これで構成されているのかの敷衍をしてもらいたいと存じました。 どのようなものでよいのであなたが知っている宗教を一つ取ってきてみて下さい。ヒンズーでもよいです。 その中で神、天国、地獄の3概念を語っているはずです。 もし語っていないのであればそれは宗教ではありません。 なぜならばこの3つが揃わないと宗教は成り立たないからです。 >4.宗教の宇宙観 【そういうものだと存じます。・・・・・】 全ての宗教は例外なく有限宇宙の世界です。 なぜなら有限宇宙でなければ神は存在し得ないからです。 ヒンズーとて同じです。 >5.宗教を動かすもの & 6.宗教の目的 【5.と6.について共通に:そういう宗教もあると存じます。・・・・】 ヒンズーはカーストを維持するために生まれ、カーストと共に育ち現在に至ったのです。 宗教の目的とはそのようなものです。 >7.宗教の未来 & 8.宗教の次にくるもの 【7.と8.について:この予言はそのとおりとは、いえないかと存じます】 しかしヒンズーとて歴史の流れには逆らえず、変わらざるをえない運命にあります。    

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.9

試しに仏教を当てはめてみますね^^ <<1.発生時期>> ・約2500年前 <<2.種類と数>> ・大乗など入れると沢山分派していますね;;。 <<3.構成するもの>> ・「神」は単なる生命として ・「天国」も、神々の次元として ・「地獄」も・・・ ・「六道」は単なる生命の次元として説かれ、それぞれ寿命があると説きます。 ・仏教(パーリ語経典)のメインは ・今をいかに生きるか。 ・心の性質を利用し、悩み苦しみを滅する方法。 ・物事を理性的に論理的に考察・検証実証していくこと。 ・生きるとは何かという根本的な真理の探究 ・その際反論反証を認めるオープンチャレンジ宣言! ・よくある宗教は「生きるとは何かの探求」を無視し「よく生きるとは生きる~」をよくかたりますね^^ <<4.宇宙観>> ・宇宙の探求は禁ずる ・冥想による能力によってでも探求しきれない、時間の無駄という態度。 <<5.動かすもの>> ・苦しみの減少・滅 ・理性的に必要なこと仕事をこなす ・短期中期長期的に苦が少なくなる方法をなすことで、平安を目指す。 ・怠け多く短期的な楽を目指し、苦を多く得る道を勧めない ・真理の探究心 <<6.目的>> 5と同じ^^ <<7.未来>> ・今はまだ変容しきってはいないがいずれ ・天災・戦争、政治などなどによって教えが尽きるときがくるでしょう。 <<8.次にくるもの>> ・ブッダの教えの繁栄と消滅・・・;; ・出来るだけ多くの生命を幸福にするために広がるといいなぁ(個人的希望w) <<9. 死に際を整えるための一種の儀式である>> ・第一に今を幸福にするもの ・第二に未来を幸福にするもの ・第三に来世を幸福にするもの 儀式ではなく論理的な鍛錬・実践方法である^^ 一般的な宗教概念とは大分離れますね~。

g3452sgp
質問者

お礼

><<4.宇宙観>> ・宇宙の探求は禁ずる 一つだけ述べておきます。 仏教は宇宙については殆ど何も語ろうとせず、このような問題には自身の立場を明かさないというスタンスを取っています。つまりだんまりを決め込むというわけです。 これは極めてアジア的なものの考え方、アジア的な姿勢であり、この点がキリスト教、イスラムなどとは大きく違うところです。 しかしよくよく注意して調べると、仏教とて例外ではなくやはり有限宇宙の世界に納まっていることが分かるのです。 例えば須弥山 三千大千世界などはこれを物語っています。  

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