宗教の本質とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。
  • 宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれ、どのような原始社会においても存在しています。
  • 宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成され、心地良さの追求や人間社会の統治の道具として生まれました。しかし近代科学や近代文明の発達により、宗教の力と役割は失われつつあり、宗教の時代は終わりつつあります。今後は真理の探究や思想と哲学の時代が来ると考えられます。
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宗教の本質

宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.28

続けて失礼いたします。 >>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。  認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持っている守備範囲を表すもので、どれもその核心を突いているわけではありません。 「未知の物に説明を与える」ということに関して言えば、宗教は説明以上に謎を呼びます。スーダンのザンデ人のあるお宅の屋根が崩れました。すると、ザンデ人たちはすぐに妖術師の仕業であると疑い、説明をつけ始めた。この時ザンデ人の宗教を研究していたエバンス・プリチャードは、屋根の所にはシロアリが食っているのだから屋根が落ちた原因は妖術師ではなくシロアリの仕業だと指摘します。しかし、ザンデ人はシロアリが原因であるや建物の老朽化などのことは百も承知であったが、シロアリに関心を寄せませんでした。彼らの関心事は「なぜ今その人が屋根の下にいる時に、屋根が落ちたか?」という理由でした。これが適切な「謎」であれば「宗教は未知の物に説明を与える」ということもいえるでしょうが、そうではありません。宗教自体が新たな謎を呼んでいるのです。一休禅師の歌の中にも「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんて歌を詠んでおられますが、このような点からも宗教はただ説明を与えるだけではないことが伺えます。 「宗教は安心を与える」というのは前述の通りそれだけではありませんし、「宗教は秩序を与える」というのも秩序を壊すのも宗教であったりします。また、「宗教は妄想である」というのも、私達は妄想と隣りあわせで生活しているわけで、「もし」や「シュミレーション」や「遠く離れた恋人の思い」であったり、その妄想から力を得ることもありますが、そういうことには言及されないことが多い。どの説明でも不十分なのです。 それを前提において考えますと、私としては一番それらしいかなと思っているのは、認知科学的な方面からの研究によれば宗教の本質は「人間の認知機能の表象」であると考えられています。分かりやすく言えば「人間は宗教的なものを感じるように出来ている」ということです。前々回の回答の中でも記したように、人間の行為者の過剰検出であったり、それを安定した形で定着させる機能だあったり、前回の中に記した推論機能であったり、数多くの人間の認知機能の表象として宗教と言うものがあるという説明です。 しかし、私はこの回答では宗教の本質というより「人間の本質」の問題であるように思います。では宗教の本質とは?「いろいろ」です。刹那的にみれば、一つの宗教から、多くの宗派が生まれたように見えます。ここから一つの宗教から多くの宗教が生まれたのだから「宗教の本質を答えることが出来る」と考えるのが自然なように見えます。しかし、文化人類学や進化心理学においては「多から少」、質問の中にも >>その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。 >>また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 とあるように、宗教は歴史的な多様化ではなく、数限りない宗教の絶え間ない自然淘汰による凝縮の結果と考えられています。私もこのように考えます。  つまり、「人間の認知機能」という共通ですが、その対象が違うのです。砂漠における砂の認識と、湿原における砂の認識は違っているわけですから、同じ砂を信仰対象としたとしても、共通点はあってもその本質は違っています。だからこそ日本には宗教全般を表わす「宗教」という言葉が存在しなかったのはそのためです。日本の分類は「仏道」「神道」「儒学」「キリシタン」という括りまでです。なぜなら、それぞれの「本質」が違うことを意識せずとも知っていたからでしょう。つまり、宗教の本質は「いろいろ」ということです。  しかし、この答えでは満足いかないでしょう?そうでしょう。書いている私が満足してません。説明としては不充分なのです。けれども、だからこそ学ぶのです。「宗教」について語られたものは、宗教学、神学はもとより、歴史学・文化人類学・認知科学・進化心理学等々多岐にわたります。今の時代、調べれば知ることが出来るのに、それをしないのは怠惰以外の何者でもないと私は学び続けています。 あなたのような熱い方とお話が出来て嬉しく思います。ありがとうございました。  ただ、お答えにはなっていませんね。申し訳ありません。 合掌 南無阿弥陀仏

その他の回答 (28)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

>「真理の探究以外に人を救うものはありません」 そんなことを言っているから、世の女性達に   柔肌の熱き血潮に触れもせで 淋しからずや道を説く君 なんて言われて馬鹿にされてしまうのでしょうね。   鳴かぬなら 抱いてあげよう 時鳥 というのもありますよ。   まがりても杓子(しゃくし)は物をすくうなり すぐなようでも潰(つぶ)すすりこぎ なんて言うのもありますね。ま、まがっていても真理なんですかね。次は私の尊敬する南方熊楠の真理を突いた辞世の都々逸です。   見えぬ山路を越えゆくときにゃ 鳴かぬ烏の声もする さすが熊楠神、密教の境地ですね。   理屈とは 理屈でないと 理屈捏ね お後が宜しいようで。

g3452sgp
質問者

お礼

さようですか。 では哲学は脇に置いといて、芸術について一句。 「この地球上で最高の芸術作品とは、女性の体である」   --- 2010.06.24 g3452sgpの日記より ---   

  • temtem1
  • ベストアンサー率40% (106/260)
回答No.7

6までは異論はないですが、昔ほどではないとはいえ、まだまだ、宗教の現実的な力は侮れないと思いますよ。ヨーロッパとかアメリカのキリスト教はマジキチですな。怖い怖い。 日本でも新興宗教がぞくぞくと生み出されてるところをみると宗教の民衆洗脳システムは形を変えて今でも人類を支配してるんじゃないですかね。 そして、真理の探究とありますが、哲学こそすごい勢いで没落しているように思うのですが。 もはや言葉遊びにしかなってないように思えます。 そもそも真理の定義とはなんでしょう? それを追及するのが救いだと仰られるのかもしれませんが、真理を解き明かしたからといって幸せになれるという保証はあるんでしょうか? そして、動物はあっさり死ぬ、と言いますが、あなた本当に動物の死に際を見たことはありますか? 私は動物学の勉強でフィールドワークで野生動物の観察もしたことがありますが、野生動物の生への執着は凄まじいものがありますよ。血の泡を吹きながら、生にしがみつくその死にざまはとてもあっさりだとか潔いとか、そんなきれいごとは吹き飛びます。 テレビとかで映し出される動物の死にざまは綺麗に見えるかもしれませんが、そういうのは、文字通り力尽きたあとの様子ですからそこだけ見ればあっさり死んでるように見えるかもしれませんが。 机の上だけのオナニーは気持ちいいかもしれませんが、はたしてどれだけの力があることやら。

g3452sgp
質問者

お礼

宗教および宗教界の今後の展開の部分について異論ありということですか。 >日本でも新興宗教がぞくぞくと生み出されてるところをみると宗教の民衆洗脳システムは形を変えて今でも人類を支配してるんじゃないですかね。 確かに日本でも新興宗教がぞくぞくとまるで雨後のたけのこのように生まれていますが、からくり的にはおよそ似たり寄ったりのものばかりで、要はプレゼンの違いのみであり(つまり儀式の様式が違うとか、身につける衣装が違うとか、表現や言い回しを変えるとか、はたまた覚せい剤、麻薬などの薬物を取り入れるとか、そのような類のもの)、新たな思想や哲学を生み出すものは全く皆無です。 これらの共通点としては病気や不幸などいわゆる人の弱みを利用しようという発想がベースにあります。 つまりそんな考えに乗る者が利用されるという訳ですが、そんな単純なからくりがいつまでも通用する分はないでしょう。 日本に限らずアメリカでもヨーロッパでもおよそ仕組みは同じです。そのうち収束し、消えて無くなるはずです。 >哲学こそすごい勢いで没落しているように思うのですが。もはや言葉遊びにしかなってないように思えます。 確かに哲学の中に、認識やら存在やら自己のアイデンティティの問題やらを持ち出して何の価値も生み出さない議論を延々とやる輩が実に多くいます。これらは観念論の世界であり、御指摘の通り単なる言葉遊びにしかすぎないものであり、哲学の進むべき方向を大いに狂わせ、哲学を失墜させた実に罪深いものです。真理の探究とは程遠いものです。 >そもそも真理の定義とはなんでしょう? 真理とは、宇宙の根本原理、あるがままの宇宙の姿 「人の道」において、人が生きる目的とは真理の探究です. 真理を探究するために人は生きるのです. 即ち、かたちや権威に捕らわれることなく、万物は常に変化流転することを認識し、 これを基本理念として過去にも未来にも永遠無限なるこの宇宙が如何なるものであるかについて深く探求する、これが真理の探究です.  

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.6

質問していいですか? 結局は釈迦やキリストは人を救えなかったと結論づけますか? >8.宗教の次にくるもの それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 これで人を救えると思いますか? それともこれもいつかは廃れ別の何かに置き換わると思いますか?

g3452sgp
質問者

お礼

>質問していいですか? 全然かまいませんよ。 質問者が回答し、回答者は質問をする。 これ、哲学カテだから成り立つ流れでありまして私など最初からそうなるもんだと決めてました。 哲学カテでは世間の一般常識など通用せず、むしろそれを打ち破ることが哲学カテの住人としてあるべき姿であると心得ています。 さて回答ですが、 「真理の探究以外に人を救うものはありません」 となります。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.5

質問者が『御意見ください』ということで 一つの意見を申しあげたら、その意見に反対するということで 『死に際のために宗教があるとなるとこれは寂しいかぎりですよ、ほんと。』の逆意見をもらいました。私は質問者の意見など求めていません。が おかげで 私とは意見が違うことはよくわかりました。    

g3452sgp
質問者

お礼

物事にはすべて限界点というものがあるのです。 そしてこのあたりが宗教の限界点ということなのです。 そのことが分かればよいのです。納得なのです。    

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.4

質問者は 宗教とは 人間にとっては有害ではないか と問われています。反論するには有益であることを示さないといけません。 例えば 死に際 信じている神に召されて平穏な状態で死ぬ という状況はよく聞く話です。その逆に生への執着がつよく もがき悩み苦しみながら死ぬという話も聞くところです。このような終末のケアーとしての宗教の役目は有益と思うのですがいかがでしょうか。死の間際 生体がいかに苦しもうが 過渡現象であって 構成要素の分子、原子に分解するだけの現象だとして 取り扱うのも一つの方法でしょうが、死はこの世から連続してあの世にいく入り口と考え あの世では 多くのご先祖様あるいは神様が出迎えてくれるとした方が 死の苦しみは軽減されるのではないでしょうか。もちろん宗教終末ケアーは必要ないという人に宗教を強要することは大きな間違いであります が必要な人には認めるべきではないか と思うのです。必要な人がいる限り 個人的宗教を認めたらどうでしょうか。  宗教の問題点は オーム真理教のような殺人を正当化する 集団が出てくるのです。日常の宗教団体の動きは注意しておかなければいけないということでしょう。殺人まではいかないものでも 質問者のご指摘の通り 害は害と指弾しないといけないとおもいます。 本質的ではないが宗教団体の大きな問題は 税の優遇措置をふくめ 膨大な金の使い方です。有益な金の使い方とはおもわれません。

g3452sgp
質問者

お礼

つまり宗教の役割は死に際にあるということですか。 確かに宗教者は人が死ぬときのこと、特に死に際のことを重要視するようだ。 しかし死に際というのはそれほど重要なことだろうか。 私自身は死に際など人の一生の中では大して重要なものではないと思っています。 動物たちを見てみるとよい。みんな死に際など気にせずあっさりと死んで行きます。これが一番よいのではありませんか。 ソクラテスは独房の中で自ら毒を仰いで死んでいったが、これなどは立派な死に際であったと思っていますよ。 この話はむしろ逆であり、死に際のために宗教があるとなるとこれは寂しいかぎりですよ、ほんと。  

g3452sgp
質問者

補足

9. 宗教とは死に際を整えるための一種の儀式である なるほど、これを項目の一つとして挙げておくべきでした。  

  • 19490914
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.3

私は宗教は信じないです。 宗教は公明党からの指示である。 これは、票集めにすげないですよ! そんな事を信じるのですか? 信じない事ですね! 以上

g3452sgp
質問者

お礼

>公明党からの指示 公明党、つまり創価学会のことですか。 巷で学会といえばこれのことを指すらしいが。 盗聴技術には長けていると聞いています。 人は言葉よりその行いにより分かるといいますね。  

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

<<8.宗教の次にくるものそれは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。>> 本当にくるでしょうかね? 2500年以上前御釈迦様が(僕の知っているのはパーリ語の仏典に説かれた初期仏教です)理性あるものとして、道徳的に・論理的に・実証的に対話・観察などで物事を調べ、見解を柔軟にし、新たな信頼に足るデータがあったらその見解を再構築するという理性的な方法や態度・実証方法から、自ら発見した実証結果まで示していますが・・・ いまだかなりの少数派です^^; 御釈迦様の教え自体は宗教とも哲学とも科学ともいえないようなブッダの教えとしか言いようのないものと感じています。 2500年以上あっても広がらなかった態度姿勢が多くの生命に広がるのを 今生で見れるといいなぁと・・・・ 僕も真理探究の時代が来るのを僕も心待ちにしています^^ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

g3452sgp
質問者

お礼

教会行って讃美歌うたうより、宗教の何たるかについて質問を投じ、このような回答読ませてもらう方がよほど「人の道」を歩んでいる感じがしますね。    

回答No.1

残念ながら、そうした「認識の発達」を軸にした、人類の 未来像は破綻しています。 現在の人類は、目先のお金や出世、あるいは短絡的快楽しか 見えておらず、教育も、本来の認識の深まりのためではなく、 点取り競争に勝ち抜くため、あるいは歯車として使役される ための百科事典的知識の詰め込みに堕しています。 人類の進化は、個体の発達ではなく規則や情報網、機械といった システムの側の複雑化に移行しつつあるのです(=人の歯車化)。 (おそらくあなたが目にしている私の知識が、人類の到達した 最高地点であり、これから人々はどんどん自己チュー化して、 深く考えずに他律的に生かされるようになるでしょう(既に かなり進行していますが))

g3452sgp
質問者

お礼

>おそらくあなたが目にしている私の知識が、人類の到達した 最高地点であり・・・・ psytexは既に神の領域に到達したと自覚したのだろうか。 量子論の世界を住み家とするpsytexにとって神や宗教のことなど次元の低い話題なのであろう  

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