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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.58

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 《自我》もんだい: 従いまして 開かれて行って欲しいです。  はい、各分野間には派閥等による独特の閉塞状況が見られます。是非とも見直してを進めていただければと、そう思っております。 > 《間主観性がもともとそなわっている》問題: ☆ ええ 言語能力について触れ忘れていました。記憶・知解・意志の自然本性を 道具としてでしょうか 言語がつらぬいていると思われます。志向性のもとに 意味関係が得られているかたち。 > 生活世界の《いま・ここなること》:  ☆ このことの確認は 重要であるように思いました。  超越論的反省を加えなくても 自然的態度が すでにエポケーを経ているという場合だってあるのだと。  生活世界の根拠は? で 無根拠に行く着くことの確認がありました。  ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。 > 《自我》のほかに 《無意識》なる用語も どうもおかしいという問題:  ☆ 事由と例示は 言わば捨て身で書かれていますので 引用は二度も三度もしないほうがよいと見ました。  愚生も少し言い過ぎてしまったかと思っております。ですが、意見の一致が見られましたこと、とてもうれしく思ってございます。 > 自由意志:  ★ 《わが自由意志による選択と判断》、これは人類の営みの中での基本かと考えております。もし、これらがないがしろにされてしまいますと、人類の営み、歴史、諸賢人からの所産等、全てが消えうせてしまうものかと考えております。  ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。  後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。 > おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。  ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。  誠に、光栄に存じます。 > 直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。  了解致しました。 > いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。 ★(回答No.56) ~~~  (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。  ~~~~~ (水野和久:他者構成の問題) ~~~~   ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。  ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないという議論のようです。  そうでございましたか。とても勉強になりました。 > この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。 ☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はないという立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。  仰られますように、《わたし》が統覚していることは事実かと考えられます。と申しますよりも、当然のことを言っているに過ぎないと思われます。 > ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。 ☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいのではないか。  ブッディズムを想起させる表現でございますが(前半部分でございます)、愚生が考えますところは、後半部分のみでよろしいかと考えられます。五感を感ずるシステム(目、耳等でございます)、これらが、道具的手段では“ない”とは断定しかねるからでございます。 ・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。 つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。 > マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。 ☆ この原点および出発点として 先の《モナド》説が《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。《生活世界》というからには・またそう言っていても そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つと。  仰られますように、「わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つ」、つまり、「自然的相互主観性の日常性の重要性を主張することにある。」ぐらいでよろしいのではないか、と思っております。 > マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。 ☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相互主観性の契機を保証している。に通じるか?  断じかねますが、「言語の社会性への着目」につきましては、異論はございません。 > 自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。 ☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで分からない。のではないだろうか。  仰られますように、マーシュさんやカニンガムさんも、至極まともなことを言っている、とそう受けとめさせていただきました。 > マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。 ☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があるということらしい。次につづく。 > この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。 ☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重ねて到ったその本質直観に属する。単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないという反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まったというのであろう。この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根拠にもとづくと見るその本質直観があるということ これを見落としてはいまいか?  “前提そのものの素朴性に対する”超越論的反省、とのことでしたら、別段問題はないものと考えておりますが・・・  字数制限のため、次項に移らせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  メルロ-ポンティ問題:  ★ ~~~~    ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。  後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。  ~~~~~~  ☆ そうなんですか。確認するたのしみは のちに取っておくことにします。     *  キネステーゼ問題:  ★ ~~~~~  ・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。  つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。  ~~~~~~~  ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。    *  こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。  というわけで 気が向いたら・またはもう少し復習の過程を伸ばしておくのがよいと考えましたら 補足欄にて その作業をおこないたいと思います。

bragelonne
質問者

補足

 水野和久論文を取り上げ これまでのやり取りにおける探究をさらに検証します。No.57補足欄からの続きです。  ◆ (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~     ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26  ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。   ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに   なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ   ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。  ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。   ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見   解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに   総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力   によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い   分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。    されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――   は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に   有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。  ◆ 対話の中間追求だけでは暴力を制するメタ性をもつことはできない。かくして 人間学的な知〔*――モナドとしての主観および共同体といった思想――〕も対話的中間も 超越論的メタ言語を代行する資格はないといわなければならない。   ☆ 《超越論的メタ言語を代行する》ことがなくても 本質直   観はあり得ると見るのである。    《汝みづからをよく知れ》ということばに触れて そのまま   本質直観に到るという寸法である。    その《わたし》は 《超越論的主観性》と同じく 《相互主   観性》を持ち得ていると。    ただし そうは考えない場合 次のごとく課題を引きずると   いう議論である。  ◆ 残された道は フッサールのテクスト群のなかから 可能なかぎり一貫した形で超越論的志向を《読み出す》ことである。その典型をわれわれはいま ラントグレーベとヘルトに見いだすことができる。   ☆ 議論に就こう。  ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。   ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。  ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。   ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意   志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別   のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係の   ことか?     人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いに   それ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。    相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまで   の《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その   歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでない   と ほかの人が 交替するということは出来ない。  ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。   ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主   観性から要請される責任というものを考えているということだ   ろうか?     それは おかしなことだが。  ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。   ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回   しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。  ◆ フッサールにあっては この《自己責任》は 共時的には《超越論的相互主観性》として 通時的には《超越論的目的論》として遂行されるのである。   ☆ 《共時的には》 迂回しつつも やがて《相互主観性》を   持つことになると言うのだろうか?     《通時的には》 きわめて無責任な議論である。人間の究極   の《目的》が 究極においては 面倒を見ると言おうとしてい   るか?    ところが ただし:  ◆ 私の超越論的自我が他の超越論的自我とともに形成する超越論的共同世界の形成過程は 知の基礎づけの目的論的達成過程を意味するだけであって 現実世界の時代状況のなかで人類全体の究極価値が実現されてゆく歴史過程を意味するのではない。   ☆ 迂回という条件を除けば 無責任である。  ◆ それだけにかえって フッサールの《超越論的目的論》はラントグレーベの不満を解消しきることができなかったように思われる。   ☆ そりゃあそうだ。  ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。   ☆ そうすれば《通時的》にも 相互主観性の風が 即時にで   はなくても そのうちに個体の主観に吹き込まれるというのだ   ろうか?  ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。   ☆ よく分からないが そうだとしよう。  ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。   ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》   を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで   互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想を   うちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち   得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。    その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中   にいることはあるまい。  ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。   ☆ すでに冗語が目立つように見える。もう少し行こう。  ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。   ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?  ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。   ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。  ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。   ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味   があるのかも知れない。    けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし   言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。    《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。  ◆ ラントグレーベの解釈を正当化するためにも ヘルトの掘り下げが必要であったのである。   ☆ そうかも知れないが なかなか遠い迂回路であるかと   思われる。    このあと 次のようにつづけられている。追わないが。  ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・   ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?   ~~~~~~~~~~~~~

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    23歳女です。物事の本質を言い得ている本を探しています。 以前人間関係を見直そうと思い、 カーネギーの「人を動かす」を読みました。 なんというか…深さ、潔さを感じさせる内容で 言葉がスーッと心に染み入るような感覚がありました。 そして読後とても爽快な気分になりました。 以来実用書を選ぶ時には、 本質を突いているかどうか?という点を意識するようにしています。 ちなみに最近気になっている本は ・藤原 正彦 「国家の品格」 ・M・バフェット「億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 」 ・ボブ・ディラン「ボブ・ディラン自伝」 です。 ジャンルは問いません。 “ホンモノ”な本を教えてください。

  • 宗教の本質

    宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

  • 本質直観について

    こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。

  • 哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

    社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。 講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか?  いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)