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独我論と日常感覚

serpent-owlの回答

回答No.3

 「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。そのうちお見えになるでしょう。  「独我論がなぜ説得力をもつのか」から。それはやはり、デカルト的な「考える我」、「認識主体としての私」に立脚しているためでしょう。「確実に言えることは自分が知っていることしかない」、そうでないものは確実とは言えないということで。  「独我論」というと、どうしても否定的なニュアンスで用いられがちな言葉なんですが、なかなかどうして克服困難なものでもあります。また哲学史的に見ても、精緻に練り上げられた独我論には大変おもしろいものもあります。  そこらへんのことは後で「他我問題」に絡めて述べるとしまして、まずは素朴な、あんまり意味がなさそうな独我論から見ておきましょう。  「誰もいない森の中で木が倒れた、本当に倒れたのか」とか、そういう禅問答みたいな議論をなさったことはありませんか。私は中学生か高校生かの時に、友達とこのネタで議論したことがあります。いやぁ、悩みました。  これの答えは「倒れたとは言えない」となりましょう。独我論の勝利です。客観論サイドは「いや、木は確かに倒れた」と主張しようとしますが、その確実性を確保することはできません。これに対し、主観論サイドは「その出来事は認識されていない」ことを確実なものとして主張できます。  ただ問題はここから先です。勝った勢いでか(?)、独我論はこの先で論理の飛躍をやらかしがちです。今の「誰もいない森の中で…」の話で独我論が主張できるのは「木が倒れたことは認識されていない」ことだけです。このことは「現に木は倒れていない」ということと、必ずしも等価ではありません。「実は倒れているかもしれない」という留保を含みます。にもかかわらず素朴な独我論は「私が認識している限りでは」という但し書きをいつの間にか忘れて、「事実、木は倒れなかったのだ」という主張まで走ってしまうことがあります。  「意識内容のみ」に立脚する独我論の前提からして、これは越権行為です。言えるのは「木が倒れたとは認識していない」までが限界であって、「事実、木は倒れていない」という事実述定まで踏み込めば、それは越権なのです。また同時に、認識している限界外のことについて、それを客観的事実として言い立てているわけですから、自己矛盾でもあります。ですから、独我論に主張できるのは「木が倒れたことは認識されていないが、実際はどうだかわからない」というところまででしかありません。  要するに、素朴独我論の内実というのは「知ってることは知ってるけど、知らないことは知らないよ」という、実につまらないものでしかありません。しかも、この内実そのものの中から「知らないことは存在しない(事実として)」とか「知らないことは知りえない」とか、そういうような客観論の息の根を止めるような論点を演繹・導出することはできません。「オレが知らないんだから、存在しないんだ」なんて言ったって、「キミが無知なだけだよ」と言われてしまうかもしれません。そう言われないためには、独我論者は思考停止せずに歩きつづけるしかない。独我論者もつらいものです。  つまるところ、独我論は独我論単独の力では、対抗原理たる客観論を否定しきれないのです。したがって独我論は貫徹されえず、完結もされえません。「今この時の私」は「まだ知らない外側」を、常に意識しなければなりません。「客観的なもの」の存在を、です。     *  では「他我問題」との絡みを。  これに関して私が比較的まとまった形で言及しているところがあります。「社会」>「医療」のところにある「クローン人間はなぜいけないか」という質問のところです。回答No.23。「アンドロイドだって人権を認められるべきだ」なんて、みょーな話をしております。下にURLを貼っておきます。  そこでは「痛み」を例に挙げてますね、ちらっと。そうなんです。おっしゃるように、「他人の痛みの表現が、自分の痛みの内実と同じものをともなっていることの最終的な確認」は決して得られないのです。他人の苦しみを見て「心の痛み」を感じたとしても、その痛みは他人の痛みそのものではない。決して感じることはできません。このことは、「クローン…」でも書いたのですが、「隣人が人間であることの証明不可能」にも通じます。  ここでは別な例を挙げましょうか。例えばここ、インターネットにおける「ネット人格」です。  面倒ですから、舞台は「教えて!goo」にしときましょう。ここで、「A」というハンドル名で質問や回答をしている人がいるとします。この「A」さんが、ある日「B」という別のハンドル名で会員登録を行い、その名前で質問や回答をしはじめる…としましょう。  この場合、Aさん(Bさん)以外の人が、「AとBとは同一人物だ」と確実に証明することはできません。両者の書き込みにたとえ何らかの証拠があったとしても、苦しいでしょう。いくらでもごまかせますから。何の証拠もなければ、なおのこと証明不可能です。  逆に、Aさん自身が、「私はBさんとは別人だ」と証明することもできません。たとえ事実そうであったとしても、です。たとえ同時刻のタイムスタンプで両者が同時に書き込みをして「ほら、別人だ」と言っても、何のことはない、端末を2台用意して友人に操作してもらうなり何なりすれば簡単にできることです。何の証明にもなりません。  管理スタッフにはわかるのかもしれませんが、まず教えてくれないでしょう。つまり、われわれ一般ユーザーには証明不可能です。  要するに、客観的に観察できる行為や行動(上記の例では文字と言葉のやりとり)からでは、その人の「心の内実」を確実に把握することはできないということです。言い換えれば「私」と「他者」との間には克服不可能な不連続性が深い溝として横たわっている、ということでもあります。これが「他我問題」。  そうしますと、「心」を考えようとする際に確実な基盤となりうるのは「私の心」だけということになります。他者に心があるかどうかは証明不可能な、したがって不確実なものですから。すると、これは独我論となります。  この独我論は克服不可能だと思います。特に、「証明できる確実性」にこだわる限りは。が、それではにっちもさっちもいきません。ですから実際には「他者にも私と似たような精神がある」と「推定」してやっていくことになります。  例えばヘーゲル。ドイツ観念論を貫く最大のテーマは「自由」でしたが、ヘーゲルもカント以来の「自律としての自由」を軸に考えています。彼は「自由」を「絶対的な他者を持たないこと」と定義しています。「自律=自分が決めたルールに、自分がしたがう」ことが自由なのですから、たとえ他者であっても何らかの意味で「自分の一部として連続している」と考えないと、それは貫徹されないことになる。だから彼は自他の不連続性を超えて(つまり独我論を越えて)、「《われわれ》である《われ》、《われ》である《われわれ》」という形に連続化させています。  が、しかし、「自他の不連続性」を彼が本当に突き詰めて考えたかというと、少々あやしい。むしろ「てきとーに素通りしてしまった」と言える部分があります。彼が素通りした部分にはやはり問われなければならない問題がある。だからこそ、サルトルやバタイユやフーコーやレヴィナスといった人たちは「他者とは何か」を改めて問うているのです。またそうした言説から、「自と他の統合による自律的自由」という一歩間違えばファシズム転落の危険性を孕む自由観とは別の、「~からの自由、消極的自由の保護」という、決定保留や拒否、多様性の余地を認めた自由観も汲み出されてきます。  ですから、よく練り上げられた独我論というのは、決して捨てたものではありません。デカルトしかり、フッサールしかり、考えてみれば哲学史のターニングポイントには、ある意味で独我論ぽいインパクトが大きく作用しています。どのような知であっても、やはり「オレ自身に立ち帰る」ことが大切なのだと思います。(てなわけで、私も「実存主義者」を僭称しております。)     *  それと…「二元論的枠組み自体を解体する調停法」ですが、「言語ゲーム」とか「内部観測」とか、そんな話になります。これは機会を改めて。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=48422
kabalah
質問者

お礼

とてもわかりやすい回答をありがとうございます。哲学史的に、私の求める調停 が、「他我問題」の「推定」によらない克服を目指しているのだという事が分か り、とても参考になりました。アンドロイドの件、私も全く同感です。痛みを 「私」なら感じるべき状況で、アンドロイドが痛みの振る舞いをするとき、彼が 「私」と同じ痛みを感じていることを絶対に確認できないという点において、彼は 私にとって他の「他我」と同等であり、それゆえ、社会生活の上では、彼に人格を 認めるべきだと思います。 ただ、私の求める調停は、他人に「心」があるか、という問題と言うよりは、自分 の中に二つある世界観の、あまりにも両立しがたい、その不整合性をなんとかした いという気持ちなのです。おっしゃるとおり、私はデカルトの方法的懐疑のその確 実性から出発し、確実性を失わずに世界観を構築しようとして、その不連続性に突 き当たったのですが、その不連続性を「推定」で超えるしかないのであれば、現在 までの状況とそれほど変わらないのです。 serpent-owlさんがおっしゃるところの説明可能性、この部分を考えた方がいいのか もしれません。結局なにを説明しようとしているかという方向で私の二つの世界観 の不整合性を考えるなら、 独我論の立場からの世界観は「まだ知らない外側」も含めて、全て私の意識に立ち 現れる限りのもので構成されており、全てが私にとっての内実=「クオリア」「感 覚与件」(これらの用語の意味を私はまだ体得していないのでずれていたら申し訳 ありません)から構成されており、これら内実にリアリティーを与えることのでき る世界観といえます。しかし、「感覚与件」「まだ知らない外側」に関して何の説 明可能性も与えず、偶然、もしくは単なる事象の連続ということになり、それで、 「つまらない」ということになるのかもしれません。 客観論というか日常感覚的な世界観から行くと、この私の前に立ち現れる世界がど うやって立ち現れてきたかがある程度、整合性のある形で説明できます。「他我」 たちを想定することによって、私は自分が言語を習得する過程で、世界から無造作 に与えられる「感覚与件」の中から、分節化し、自分が共同体の中で利用していけ る意味を取りだしてきた、などという説明は非常に説得力があります。しかし、こ の世界観では、この私に生じている「クオリア」「感覚与件」も生理学的には脳神 経細胞間の伝達物質の移動、細胞内の電気的変化で構成されているはず、とされ、 発達心理学的には遺伝的形質、幼児期の体験、教育、により、私の自我は構成され ており、「コギト」や「クオリア」という概念との間に不連続性がある、もしくは 説明可能性がなくなるような気がします。 このように書き直してみたところで、最初の質問を言い直しているだけのような気 もするのですが、私の感覚としては、どちらの方向にも、「説明」の必要があり、 かつ、どちらの方向からでも必ず、不連続性に行き当たってしまう、という感じ で、それをなんとかしたい、ということなのです。だから、他我問題、つまり他者 に「心」はあるか、という問題は私の問題の中で重要なポイントとなっているかも しれませんが、ちょっと問題意識としてずれる気もするので言い直してみました。 ですから、二元論的枠組み自体を解体することには興味があります。「言語ゲー ム」という言葉は永井均のヴィトゲンシュタイン解説書でみた覚えがあります。あ まり、理解できてないと思うので、また、お時間があるときにでも解説お願いしま す。

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