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素朴実在論について教えて下さい。

こんにちは。先日哲学の講義で出された問題が理解できません。 「素朴実在論の立場に立つとこの世界はあなたの生まれる前も死後も存在することになる。例えば樹齢100年の大木があなたの生前も死後も存在すること」について、このことを信じられる根拠と疑える根拠を筋道を立てて証明せよ。」 というものなのですが、そもそも素朴実在論自体は理解できるのですが、肯定するにも否定するにも意識や感覚の問題が絡んできますよね。 これらは人によっても異なるものだし、筋道を立てて説明とはどうやってするべきでしょうか? 何かヒントを下さると嬉しいです。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • rainygoo
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.5

「この世界はあなたの生まれる前も死後も存在するかどうか」 という質問にしぼると、 自分の生前、死後の世界を前提にして自分が生きているかどうかが  信疑の根拠かな。 自分の趣味 物理学の宇宙論だったりしたら 当然 自分の生前も死後も 人類以前・以後も世界が存在してることを信じていないとやってられないですね。趣味 哲学だったら 懐疑論の起源と将来も気になる。 筋道立てた根拠ある懐疑って 方法的懐疑であるか 懐疑論を検証する社会・すなわちやはりその起源と将来を前提にしてますね。 自分の生前、死後の世界を前提にしない生き方って どんなんだろうか?ちょっと 想像がつかんなあ。知的な生活でもなく 社会的な生活でもなさそうですねえ。怖いですねえ。こういう人は 知的な懐疑もやんないと思いますよ。、筋道立てた根拠ある懐疑と無縁ですね。

回答No.4

再度、今度は簡潔に書きます。 人間の認識は有限である。 人間の認識の拡大で樹齢100年の大木の存在を知る。 認識しようがしまいが、樹齢100年の大木の存在を認めるしかない。 自然的存在は人間が認識する前に厳然とした物質的存在である。 このことを素直に認める。 そういう立場ですよね。

  • omoikane
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.3

この前日まで考え事してました。3行で「認識論哲学」消えました。 だって、「言葉がジッタなら空間にあるはずないから。」 存在論はそのあとのはずです。 でも、難しい言葉いっぱいですね。 「自分で必死に考える』、これが哲学だから、ここに、誰も気づいてないようなヒント書かせていただきました。 これいやみと思わないでほしいです。 「考える人極端に減ってるから」。 存在と時間、前に、15ページくらい読んでほったらかしましたが、充分でした。 頑張ってくださいね。いま「論理的思考ができる人」急激に減ってるので危機感感じてるんです。 自分はその逆の練習、つまり、間とは普通の人だ、mというtくぁ千葉から、「象徴的にいろんなことを一言でこちおばにするれんすうしました」。 成功。ものすごくつらかったです。じぶんがやってないことは、幸運な風にメッセージしませんので、ごりかいいいただければと思います。 ぼうは、哲学ではないですけど。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.2

素朴実在論は論理的には肯定するのが難しいと思います。ただ、言える事は、素朴実在論で考えた方が、はるかに「便利」なので、あえて、それを疑う必要はないということだと思います。 しかし、論理的に真面目に考えると、「樹齢100年の大木」は人類の消滅と共に消滅すると思います。何故かというと、「樹齢100年の大木」と我々が考えるものは、我々の意識の中にしか存在しないからです。もう少し、正確にいうと、「樹齢100年の大木」と我々が考えるものは、「何ものか」の、我々人類にとっての「樹齢100年の大木」的偏見だからです。この偏見は、人類が滅亡したとき、すなわち、人類の意識が消滅したときに、同時に消滅します。 人類が消滅すると、「樹齢100年の大木」も消滅し、残るのは、「何ものか」だけです。

回答No.1

そうですね、そもそもから考えてみましょう。 まず、あなたがどう思おうが、その大木は樹齢100年であり、それはあなたの検証や認識には関係なく、あるがままの事実というのが、おそらく自然に感じられることでしょう。それは大木を認識するあなたが死んでも問題なく存続するでしょう。 このことを認めること自体は人によって異ならないものとして説明すればいいと思います。自己の主観を相対化し、他者の主観をも認めたうえで他者の死によっても世界が存続しているということが一応の証明になるでしょう。 いっぽう、疑う根拠としては多くの要素があります。まず、第一に大木の存在自体をあなたが認識している事実自体が疑われます。 あなたの認識している外界の存在自体の客観的な存立が疑われます。あなたの認識にある外界と、実在する外界の同一性、類似性が疑われます。このことは人間の五感が外界を正確に認識しているかどうか(たとえばエックス線は見えないし、超音波は聞こえない)ということから問題にされます。 さらには、外界の存在自体が、人間の意識によるものであるという主観的観念論の立場も出てきます。 この立場によれば、主観の主体たる人間の死によって、その対象たる世界は存在を許されなくなるのでしょう。 素朴実在論だけではなく、客観的観念論の立場でも、大木は存続しますから、疑う根拠としては、主観的観念論をお調べください。

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