- ベストアンサー
奈良・平安時代の城柵について
- 奈良・平安時代には東北地方の蝦夷を支配するために城柵が築かれました。
- 『柵』とは、城柵の一部であり、万里の長城のような壁ではなく、小規模な防御施設でした。
- 平安時代には城柵に役所群や倉庫群が置かれ、政治的な性格を持っていました。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (2)
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
関連するQ&A
- 奈良時代には都が何度も変わったようですが ・・・
奈良時代なんですが、例えば恭仁京とか難波京とか、あるいは紫香楽宮とか、たくさんの都(?)がありますよね。 これがよく理解できないのですが、例えば平安京と言えば今の京都の場所やイメージを思い浮かべれば、近からず遠からずといった感じかなと思うのですが、奈良時代なんて何度も都があっちに行ったり、こっちに来たりしたようなイメージがあります。 質問 1. そう考えると、奈良時代という 「一括り」 で良いのかなと思うのですが ・・・ なぜ都の地名をとって、○○時代という風に分類しないのでしょうか? 例えば藤原時代とか紫香楽時代とか ・・・ 2. あの狭い地域で何度も都が移動しているのですが、例えば新しい都に移った場合、前の都の状態はどうなっていたのでしょうか? 例えば、誰も住んでいない 「廃墟の町」 になったのでしょうか? そうでないとすれば、新しい都と直前の都の関係はどうなっていたのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 円墳があってその後時代がくだって柵がつくられる
4世紀前半の円墳盗掘なしの円墳で 遺物は畿内方式です その同地域(円墳)から北へ車で30分と南に40分ほどに 6世紀に柵が作られるているということは 大和王権協力者その勢力があったが 後の時代に蝦夷からその地域は 奪い返されたと考えるのか 円墳名 城の山古墳 詳しくはweb検索 柵名 沼垂の柵岩船の柵
- 締切済み
- 歴史
- 卑弥呼や飛鳥・奈良時代の日本語
遠くは卑弥呼の時代、時は下って飛鳥奈良時代の話し言葉はどういうものだったのでしょうか? イメージとしては、貴族や豪族は我々が古典の授業で習うような言い方で「●●なりけり」、庶民は「おはよう」「これは本だ」のように、今と同じような言うまわしかな?と勝手に想像しています。 それとも、古代は今の日本語の単語とはまったく違う読み&話し方(文法、スピード)をしていたのでしょうか? 何かの本で、平安時代の貴族は非常にスローに話していたと読んだ覚えがあります。
- ベストアンサー
- 歴史
- 現代人が江戸時代以前の人と会話しても通じますか
仮に,ごく普通の現代人がタイムスリップして,昔の人と会い,普通に会話しても通じるものなのでしょうか? 江戸時代末期の人となら,何とか普通に会話できそうな気がするのですが,それより前の人は難しいのかなあ・・・と個人的には思っています(大正初期生まれの祖父母の話なんか聞いていると,明治時代や幕末期の人の口語は何となくイメージが湧きます。)。 戦国時代,鎌倉時代,平安時代,奈良時代,古墳時代・・・とさかのぼるにつれ,会話は困難にいっそう困難になるとは思いますが,実際のところは,どうなんでしょうか?
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
- 国津神、蝦夷、アイヌは同族であったのか否か
日本神話の天孫降臨は、天津神を信奉する外来の部族と、国津神を信奉する土着の部族との争いであると言われています。 国津神を信奉する土着部族は外来部族、後の大和朝廷に破れましたが、東北にまでは朝廷の勢力が及ばず、蝦夷と呼ばれることになりました。 その蝦夷も、平安時代になるとほぼ平定され、それでも勢力が及ばなかった北海道の蝦夷は、アイヌと名乗って現代にまで至ります。 と、歴史の教科書ではこのように説明されているのですが、以下の三者、 ●国津神を信奉する、日本土着の部族 ●蝦夷 ●アイヌ これらは果たして、本当に同一の部族だったのでしょうか。 同一部族であるならば、信奉する神に共通性があってもおかしくないのですが、蝦夷の神アラハバキは記紀神話に登場しませんし、アイヌのカムイは、どうも国津神のイメージとは重なりません。 (むしろキジムナーなんかに似ているため、琉球民族と同族と言われるのは納得できます) これらの部族は本当に同じ流れを組んでいるのか、違うならばなぜ同じ流れを組むという説が広まってしまったのか、ご説明いただけないでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 奈良、平安時代の犯罪には
みなさま初めて。 奈良、平安時代にはどのような犯罪が多かったでしょうか? 殺人? 強盗? 強姦? 想像での回答でも、構いません。 文献の資料があるようでしたら、その内容をかみ砕いてご教示願います。
- 締切済み
- 歴史
- 奈良~平安時代 『租』について
律令制度の始まりに伴い、古代日本では6年ごとに戸籍が作られ、6歳以上の人間には口分田が与えられました。 そして、誰しもが納めなければならない税である、租があります。。 国衙の財源(今でいうと県の財源と同じ)になるということらしいのですが、租というのは米を納めるんですよね。 ・ほぼ全ての人が米を作るとなると、米が余ってしまいませんか? ・私の認識ですと、この時代には貨幣があまり流通していないですし、 基本的に大勢の農民は自給自足だと思っていますが、間違いないでしょうか? ・貨幣が流通していないということは、一部の弓や剣を作ったりしている人々の報酬はお米なのでしょうか? ご回答お待ちしております。よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
なるほどっ! 多賀城などの城は、城といっても私が想像していた大坂城のようなものではないのですね(^^;) 国府のようなものだと理解しました。 そしてtechnatamaさんがおっしゃるように、 城=柵だとすると私としてもすべてが納得のいくものになります。 詳しい説明ありがとうございました。