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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:奈良・平安時代の城柵について)

奈良・平安時代の城柵について

fujic-1990の回答

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 えっとね、今、アルバムを見ながら書いていますが、多賀城、金沢柵、厨川柵、秋田城(出羽柵)、衣川柵、払田柵、城輪柵、徳丹城、志波城などへ実際に行ったことがあります。  衣川柵とか、このあたりのはずだが、と思ったものの住宅地で位置を確認できなかったところもありますが、この中で、いわゆる「お城」らしきところは金沢柵(行った当時はなにも建物が建っておらず山城の跡のようでした。建物の代わりに、納豆発祥の地というモニュメントがあった)だけでしたよ。  あと、志波城が、広大な面積を全部塀で囲んで所々に城門みたいなのを造ってありましたが、中には広くてまっすぐな道路が復元されていたりして、どう見ても「政庁」でした。  志波城が洪水にあって壊滅したので、資材をもって移動して作ったのが徳丹城。徳丹城も、想像図と復元されたごく一部の施設の配置をみると、規模壮大ですが、ただの政庁です。国道4号線かな、走っていると、道の脇が徳丹城跡だったりします。  お尋ねの「多賀城」も政庁(途方もない広さ!)で、「戦いのための城」の気配は全然ありません。古代には、国庁がおかれ、奈良時代は鎮守府などもありました。  秋田城は、秋田藩の殿様が住んでいたお城かと思ったりするととんでもありません。殿様が住んでいたのは「久保田城」で、秋田城は平安時代?の政庁です。  おおむね、古代の柵や城は、行ってみると、朱塗りの柱のある土塀で囲われていて、中には、建物の四角い土台・土台跡が整然と並んでいたりしています。  要するに、一部の史家が言うようなすごい武力で圧迫を加えて蝦夷を支配しようとしたのではなく、大規模建築、荘厳な財物などのご威光をもって自発的に頭を下げさせようとした、というのが本当なんじゃないか、と思わせる施設です。  厨川柵は、蝦夷「安倍氏」の館跡ですので、まあ、ミニミニの城館と言っていいかもしれません。

ya-snk
質問者

お礼

さすが実際に行かれただけあって、すごく説得力があります! ありがとうございました。 私の中のモヤモヤも解消されたように思います。

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